地元の方にご案内していただいた様子は、すでに書いたので、墓前行進を中心に書いていきます。
 そもそもなんで地元の方のご案内という企画があるのかというと、墓前行進では献花だけで久保山愛吉さんのお墓へはお参りすることができないときいていたからです。せっかくなので、お墓に手を合わせたいというのと、いろいろな町をみてみたいというのもあって、朝は少し早くてたいへんだったけど、行ってきました。こちらのほうの報告は、すでに別稿で書いているので、墓前行進について書くことにします。

 JR焼津駅を出発して、久保山さんのお墓のある弘徳院まで行進して献花をするのが「墓前行進」の主な内容です。JR焼津駅では、バラの花をもった人がたくさん立っていて、その人からお花を買って、そのお花を献花することにあんっています。1本300円だったかな。
 
 久保山愛吉さんの墓前行進は、3.1ビキニデー静岡県実行委員会、日本宗教者平和協議会の共催でした。
日本宗教者平和協議会というのは、大原クロニカによると下記のように説明がありました。

「世界宗教者平和会議の〈京都宣言〉に基づき,宗教平和運動の連合組織として東京で結成,12日まで第1回日本宗教者平和会議を開催した.同会には,仏教,キリスト教,神道の各団体と京都・大阪・岡山等の地域組織および宗教青年平和協議会が参加し,理事長に大西良慶を選出した.〈結成宣言〉では,平和のための宗教者の団結,宗教の戦争政策利用反対,平和憲法改悪反対,軍備全廃,原水爆禁止等を訴えた.〔参〕日本宗教者平和協議会編《現代に生きる宗教者の証言》1968.」
(大原クロニカは、法政大学大原社会問題研究所編『新版社会労働運動大年表』(労働旬報社、1995年)に基づいたウェブ歴史事典です。日本の社会運動・労働運動を中心に解説しています。)

 よくわかりませんが、墓前の前でもらった日本宗教者平和協議会のリーフレットには、原水爆禁止運動の分裂に対する政治的な言葉が詰まっていました。よくわからないけど、政治抜きに平和は語れないとしても、でも、自分の行動が「分裂」のどちらかに加担しているものでなければいいと思っています。

 焼津駅で花を買って、行進のどこかに並ばなければならないのですが、わたしたちはとくに旗や幟をもっているわけではないので、どこへ行っていいかわからなかったけど、どうせ行進するなら前のほうでということで、前のほうの生協から参加の人たちのところの列に入りました。
 こういう行進は、毎年の京都でのピースリレーで慣れてはいるものの、知らない土地での行進はどうなるものかワクワクとしました。行進をリードしてくれるアナウンスは、車からで、第五福竜丸事件の概要や事件を題材にした歌などでした。わたしたちがいつもやっているピースリレーのようにこちらのほうは、あまり盛り上がりがなかったのは残念でした。50周年ということで、なんとなくマスコミ取材が多いなということもあったと思います。
 だいたいわたしは、ふつうは歩かないやろうという距離を歩いたり、走ったりするので、こういう行進は、まったく平気で、去年の京都でのピースリレーのときは、事務局の人に「あんたが前におったら、早く進みすぎる」と言われたくらいです。1時間や2時間、歩くのが平気なわたしでも、この「墓前行進」は、なんか長くてしんどいものがありました。
 ひとつは、アナウンスが単調だったこと、まぁ、もうひとつはまわりに知っている人があまりいなかったからだと思います。でも、やっていることは「行進」という社会的なアピールなんですが、でも、もうちょっと歩いている人が元気になれるような行進の仕方はないものかなぁ。体力に自信のあるわたしでも、すっかり疲れてしまいました。 
 弘徳院に着いたら、買ってきたバラを献花しましたが、カメラが多くてやたら写真を撮られていたような気がします。何か肩書きのある人だけというのでなく、なんかずーっとシャッターの音がシャカシャカと鳴っていました。これも50周年という節目ゆえなんでしょうか、これもよくわかりません。

 献花が終わったら、バスのところまでまっすぐ進んでください、という指示だったので、先へ先へと行ったのですが、その距離の長いこと、、、、迷子になったのかと思いました。たまたま、まわりに人がいてついていったからいいようなものの、これも、もうちょっと親切な説明があってもいいんではと思うくらい、弘徳院からバスまでの距離は長かったように思います。
 ここから午後の会場である焼津文化センターへは、バスで移動です。

 焼津文化センターに着いたのは、11時頃でしょうか。午後の予定までの時間はたっぷりありました。この午後の開始時刻が、事前の資料では13時30分だったのに、実際に始まったのは13時でした。これなぁ、ちょっと不満。会場にいてたのだから、空気読めといわれればそれまでだけど。
 11時に会場に入って、頼んでおいたお弁当を同行している人から受け取って、さて、食べようとしても食べる場所がない、、、。ロビーの椅子のところで食べる人、どっかに部屋をとってあるようでそちらへ移動する人など、みなそれぞれ工夫をしています。
 わたしたち4人は、ホールの横のテーブルに3つの椅子をみつけて、その3つを使ってと準備をしていたら、そこに座っていた20歳くらいの男の子が、お弁当をさっさと食べて、場所を譲ってくれました。別に無理矢理のかしたわけではないけど、まぁ、のかざるを得なかったのでしょう、、、。でも、丁重にお礼を言ったからいいことのしましょう。
 お弁当を食べて、自販機のコーヒーを飲んで、資料やら平和グッズやらを売っているところをまわって、時間を過ごしていました。さっき書いたように次の会の始まりの時間を間違えていた以外は、うまくいきました。

焼津めぐり〜墓前行進

焼津レポート その1

被災50年 2004年3・1ビキニデー集会

 焼津文化センターで、開催。主催は、原水爆禁止世界大会実行委員会と被災50年2004年3・1ビキニデー静岡県実行委員会となっています。
 ざっとどういうプログラムだったのかを、紹介します。

1部
 主催者挨拶:静岡県原水爆被害者の会会長、3.1ビキニデー実行委員会代表委員
 来賓挨拶:焼津市長
        見崎隆雄(元漁労長)
 メッセージ紹介:静岡大教授
 海外代表の紹介(代表はマーシャル在住の方2人、韓国の参与連帯の方2人、アメリカの平和の活             動家と思われる人。)
 主催者報告:世界大会運営会代表

2部
 平和のうたごえ
 海外代表の発言
 「いま、核兵器の廃絶の共同を」:日本被団協、日本青年団体協議会、宗教者、日本生協連、
                      日本原水協
 「ビキニ水爆実験被害を告発する」:神奈川、高知、静岡、大石又七(元乗組員)
 リレートーク:静岡、各地の青年
 集会アピール
 全員合唱:ウィシャル・オーバーカム

 ということで、ぎっりしのプログラムで、一人の発言がだいたい5分くらい。その5分にいろいろな話が詰まっていることはわかるのですが、次々と話を聞かされても、聞いて理解してということをする余裕がなくて、未消化のまままた次の人の話を聞くということの繰り返しで、頭が痛くなってきました。
 また、参加者の多くは午前中の墓前行進に出ているので、それなりに疲れていて、熟睡する人もまわりにはたくさんいました。わたしも、頭が痛くなってときどき睡魔も襲ってきていました。
 それにもまして、まず気に入らないことは、司会者の1人が「普段着」ということです。プログラムによれば大阪の原水協の男性で、あとの2部の「各地の青年」のところでも出ていた方なので、お若いかたなのでしょう。その「各地の青年」の人たちも普段着っぽかったのですが、でも、こんな大きな大会の司会をするのに、なんでGパンで普通の服なんだろう? 
 わたしだって普段はとっても汚い格好をしているけど、何かの司会をするときは、普段はかないスカートだってはくし、最低、ブレザーは着ている。それが人前に立つときの礼儀ではないかだろうか。逆に「普段着の活動」を強調するために、わざとそういう服装を選んでいるのかもしれない。でも、わたしは、そういう普段着をよしというする体質は好きではありません。

 プログラムのように何人もの人から中身のある話をきいたはずなんですが、あまり記憶にありません。大石さんのお話は、昨日に続いてで、また、資料も読んでいたので、すっと入ってきましたが。
 それからマーシャルのロンゲラップ島からの代表は、その島の住民も被爆されていて、島への帰還ができなくて、被爆者として辛い生活を余儀なくされている人がたくさんいるからです。
 まぁ、それにしても次から次へといろんな団体があるものです。わたしが所属している団体がさらに所属している大きな団体も取り組み発表があったけれども、まぁそこはよくわかりましたが。日本青年団体協議会? そういえば、ここの人ってうちでやっているピースリレーのときに必ず挨拶をされるけど、でも、そもそも何をしている人たちなんだろう? 
 そしてリレートークは「各地の青年」? 人を紹介するときに「青年」なんて、紹介の仕方ないだろう?
この「青年」たちは、報告のなかで、自分たちのことを「若者です」と言っていたけど、「若者です」と自分を紹介するなんてありえるんでしょうか。わたしだったら「中年おばさんです」と自己紹介しているようなものです。でも、個人で参加しているのならそういうあいまいな自己紹介の仕方もあるでしょうけど、こういう主義・主張のはっきりした集会に参加しているのだから、なんらかの「団体名」があってもいいものの、なんで「若者」なんて自称するんだろう。ほんとうによくわかりません。
 そして最後の「集会アピール」を読む人の所属が「民青同盟」となっていて、ようやくどういう人たちの集まりなのかがわかってきました。ここまでこないとわからないのか、と言われそうですが、あまりそういうことを考えずに、「勉強させてもらいますぅ」という感じの参加ですから、別にそういうことを積極的に知ろうとも思っていませんでした。
 わたしもよく知らなかったので、調べてみました。「民青同盟」というのは、民主青年同盟の略で、その活動をHPではこんなふうに説明しています。
「民青同盟は、今年で創立80周年(1923年4月5日創立)。全国で2万人以上の仲間が、大学や高校、会社や地域に班をつくって活動をしています。
平和、環境、自分の夢や進路、学びがい、働きがい、学校の勉強や校則、人間関係など、身近な問題から大きな問題まで多彩にとりあげ、みんなの願いを実現し、政治や社会をかえるためにがんばっています。日本共産党を相談相手に、いまどんな問題がおきているのか、どうすればかえられるのかを学び、成長することをめざしています。」
 ふーん、そうなんだ。こんなこと常識と言われそうだし、自分でもなんとなくわかっていたつもりだったけど、ちゃんと書いてあるものを見たのは初めてだったので、自分なりに感動している。
 でも、やっぱりこういうふうに政党の名前がしっかり書いてあると、違和感がある。それには、わたしなりの理由もあって、この間、「食の安全」や「鳥インフルエンザ」問題で、自民、民主、共産と、政党を越えて議員さんと懇談しているなかで、この政党の体質はイヤだと感じざるを得ないということが何度かあった。とくに最近の鳥インフルエンザの件では、「わたしたちが話しをするより、今日はみなさんの話がききたい」と参加者の発言を優先した政党がある一方で、参加者が3分話せば、議員さんが10分しゃべるという政党もあったから。「懇談」といっても、結局、相手の実績を聞かせているだけじゃないかと思えたから。
 それですべてを判断してはいけないけど、でも、この「被災50年2004年3・1ビキニデー集会」に出ていてもたいして感動することがなかったのは、こういう閉鎖性ゆえではと思っています。
 内弁慶はいけないし、こういう平和の活動こそ外に向って発信していかなければならないのだろうけど、わたしは、申し訳ないけど、「生協」の内輪の活動にしておくほうが、わたしの精神のレベルではいいようです。

 こんなふうにあまり感動もせず、集会は終わって帰路につくことになりました。
 このあと、わたしは、短い時間ですが同行の3人をおいて「先にいきます」と「焼津お買い物ツアー」を敢行してしまうのです。同行の方には失礼なことをしてしまったのですが、でも、どうしても買いたいものがあったから、強引に先に言ってしまいました。
 このあとのお買い物記もいずれ書きたいところですが、とりあえずここで終了とします。

焼津レポート
花子のノート