スタートから20キロまで


Gブロックということで、たぶん、申告タイムは5時間くらいのランナーが集まっていたのかもしれないです。
これくらいのタイムのランナーとういのは、わたしも含めて、あまりガツガツするようなことはなく、なんとなく平和な空気で、安心します。
30分くらい待ったでしょうか。
あまり覚えていないのですが、あまり寒くもなく、緊張することもなく、穏やかに待つことができました。

そして、スタート時刻の9時になったのですが、号砲が聞こえなかったので、ストップウォッチを押すことができませんでした。
スタートラインを超えたときに押せばいいや、と軽く思ったのですが、このことで、後々、大変な目にあうなど、想像していませんでした。

少しずつ前に進みながら、聞こえてくるのは、太平サブローさんと高橋尚子さんの声。
サブローさんは、サロマを走られるような方だから、やはりそういう方に見送ってもらえるというのは、安心するものがあります。
10分くらい経って、サブローさんと高橋尚子さんの姿を発見。
ようやくスタートラインを超えました。

スタートしてすぐ、ゆるい下り坂でした。
若干の混雑はあるものの、同じくらいの申告タイムのランナーばかりだからでしょうか。ほとんどストレスなしに走ることができました。
わたしは、ゆっくり走りたいので、スタート直後の混雑というのは、むしろ歓迎なのです。

ちょうど近鉄奈良から歩いてきた道を逆に走っていきます。
途中、奈良女子大学の横を通って、しばらく行くと右にコースをとって(大宮通り)、まっすぐ行きます。

少し行くと、ブラスバンドで「ラララ ラブソング」の演奏をしていました。
懐かしいなぁー、ラララ ラブソングって、ピアノ演奏のCD持ってるよなとか、えっ、あのドラマは何年前?とか考えて走っていました。
ブラスバンド演奏って、太鼓と同じくらい好きで、とっても元気になります。
まだ、スタートしてすぐだけれども、そういう演奏をしてもらえるのが、とっても嬉しかったです。

そしてしばらく行くと、平城宮跡の復元された朱雀門が見えました。
ということは、西大寺の近くまできたのかなぁ、どれくらい走ったのかなぁなどと考えていました。
(コースマップで確認したところ5キロくらいでした。)
そのコースで折り返しがあって、トップランナーを見ることができました。
そのときは、トップが王子ランナーズの方で、2位が奈良産業大学の方で、ずっとその順でしか目撃していませんでしたが、あとでニュースをみると、奈良産業大学の方が優勝されていたので、どこかで逆転されたようです。

折り返しのランナーをずぅーっと見ていると、カメラ片手に見たことのあるウェア、そしてナンバーカードに「ぬまっち」の文字。
わぁ、来てられたんだ!と、そのとき声をかけて手を振って。
あのナンバーカードへの名前入れは、いいですね。
来年は、わたしも書こうっと。

最初の折り返しまで、なんか辛いものもありましたが、まだそんなに走ってなかったので、少しは余裕をもって折り返し。
そして、ずっと行って、またあのブラスバンドの前に。
今度は、さらに懐かしい歌謡曲の演奏でした。
その曲がどうしても思い出せないのですが、わたしが懐かしいというくらいの曲なので、かなり懐かしい曲になります。
石野真子とか柏原芳恵、だいたいそういう感じの曲だったと思います。
そういう曲をわざわざセレクトして演奏してくださっているのかもしれないです。

でも、そのブラスバンドを過ぎてから、どういうわけか、次々とランナーに抜かされていきました。
これまでそんなに速く走っていたわけでもないのに、どんどんと抜かれていきます。
抜かれていくというより、わたしが遅くなっていってるのは明らかでした。

自分の身体になにか異変を感じたわけでもなく、もともと速くないのに、さらに失速しているのがよくわかりました。
まだ10キロもいっていないのに、こんなことで大丈夫だろうか、いや大丈夫なはずはない。
このあとの30キロ以上を、この状態で走らなければならないと思うと、とても心配になりました。
こんなに早い時間に、すでに心が折れそうになっていました。

通ってきた道を過ぎて、いわゆる奈良の観光名所のほうへ走っていくのですが、ここが結構な登りになっていました。
登りは嫌いではないのですが、失速状態の身体には堪えます。
泣きそうになりながら、ようやく10キロ。
そしたら、「あと32キロ」という看板をもった人がいました。
42引く10は32よねと、当たり前の計算ですが、なんかその32というのは、疲れた身体にはずしっときます。
完走証によれば、10キロ地点は1時間18分47秒で、わたしの時計では1時間10分14秒でした。
ということで、いきなりキロ7分で走っていたのでした。

でも、10キロというのは、節目の距離のようで、そこからは泣きそうというほどでもなく、なんとなく前に進んでいました。
コースマップを確認すると、平地あるいは下りだったようです。
くねくねとこまめに曲がりつつ進んでいたのですが、たぶん、このあたりで、RCサクセションの音楽が聞こえたような気がします。(場所がまちがっているかもしれないです。)
そして忌野清志郎さん風のお兄さんがいました。
なんという曲か忘れたのですが、その曲に後押しされながらも、この辛さでまだまだ走らないといけないと思うと、嬉しさと辛さで、また、うっと涙が出てきました。

走路員の人たちからの応援、そして地元のみなさんの応援が、ずっと続いていて、それがとっても温かくて、その応援がなかったら、わたしは、今回、走れていなかったと思います。
「応援されるし、しゃあないし、走らな」みたいな心境です。

そして15キロを過ぎたくらいでしょうか。
だんだんとのどかになっていた風景が、さらにのどかになっているようでした。
たぶん、「高樋町」というところだったと思います。
そこからコースがぐっと登るのですが、地域の方が、切った竹を叩いて応援してくださる「応援ゾーン」になっていました。
ほんとうだったら、登りでとっても辛いはずなのですが、応援があることで、弱音を吐いているわけにはいかないということで、なんとか登ることができました。
そして、登ったあとは下り。
登りも下りも、しっかりきつくなっていました。

コースマップによれば、20キロあたりの白川大橋のところ。
かなり、きついなか走っていました。
それでも、ゆっくりでも歩かずに走っていれば、また復活するかもしれないという思いで、なんとか走り続けていました。

20キロの通過は2時間38分25秒で、この10キロは1時間20分もかかってしまいました。
わたしの計測では、2時間29分51秒。1時間19分37秒でした。
10キロから20キロで、こんなになってしまったけれど、でも、走るしかない、前に進むしかないという思いでした。

8キロくらいでとっても辛くなったときは、「頑張って」の声援が負担だったけれども、20キロくらいきたところでは、素直に「頑張ろう」と思えたので、少しは体調は回復していたのかもしれません。
でも、すでにキロ8分になっていて、後半はさらに落ちることを考えれば、楽観できないのではないかと、そろそろそんなことを考え始めていました。

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