History of GO-GO

 80年代後半はかなり話題になったGO-GOですが、今となっては一部の黒人音楽マニアしか覚えていないマニアックな音楽になってしまいました。しかし、GO-GOを知れば現在のクラブ系グルーヴの核心が見えてくるのです。



CONTENTS

ワシントンDC=チョコレイト・シティ?
GO-GOの誕生
ヒップホップとの関係
マックス・キッドとT.T.E.D.
アイランド・レコードによるプロモーション
本国アメリカでのE.U.の健闘
GO-GOはなぜメジャーになれなかったか?
GO-GOの影響力
参考文献


ワシントンDC=チョコレイト・シティ?

 アメリカ合衆国の連邦政府所在地、すなわち首都であるワシントンDC。音楽的な街というイメージは一般的にはあまりありません。ホワイトハウスやリンカーン像に代表されるような白人的な綺麗な街という感じがしますが、実際は黒人人口が7割を超えるらしい。白人達は郊外に住み、街の中心部は黒人が大部分を占めているが、黒人的な部分が表面に現れることはあまりない。
 P.Funk のパーラメントは1975年に“Chocolate City”というアルバムで、ワシントンDCの隠された黒人パワーを表現しました。GO-GOもそんな水面下で脈動する黒人コミュニティから生まれてきたのです。


GO-GOの誕生

 GO-GOいつ頃、誰が創り出したものか?
 “The Go Go Page”によれば、1978年にトラブル・ファンクが結成されたのが始まり、ということです。実際トラブル・ファンクは88年の来日時のインタビューで「77年頃に俺達がGO-GOを始めた」と自信たっぷりに語っています。実際、最近復刻された79年のライブ盤“Straight Up Funk GO-GO Style”では完全なGO-GOスタイルの演奏が聴けます。
 しかし、チャック・ブラウンの1992年のインタビューによると「66年(!)に最初のGO-GOバンドを組んだ。DCでは70年代始めにはGO-GOシーンがあり、78年の“Bustin' Loose”のヒットがきっかけで世間に知られるようになった。」とのこと。“Bustin' Loose”自体は完全なGO-GOビートとは言えませんが、GO-GOの要素がかなり感じられる曲です。ま、66年というのは言い過ぎでしょうが。
 結局、誰がGO-GOを考案したかははっきりとはしていませんが、チャックが「ゴッドファーザー・オブ・ゴーゴー」としてDCではリスペクトされていること、また結成当初のトラブル・ファンクはチャック・ブラウンの前座だったことを考えると、70年代後半チャック・ブラウンを中心にGO-GOスタイルのライブが行われるようになった、というのが自然ではないでしょうか。


ヒップホップとの関係

 GO-GOがワシントンDC以外でも知られるきっかけとなったのが、82年にSugar Hillからリリースされたトラブル・ファンクの12インチ“Pump Me Up”です。ヒップホップDJが2枚使いするネタとして、オールドスクール期の定番となったようです。Sugar Hillからはトラブル・ファンクのアルバム“Drop The Bomb”もリリースされており、彼らは最初はヒップホップとかなり近い関係があったようです。確かにトラブル・ファンクのボーカル・スタイルはオールドスクール・ラップに似ています。
 また、同時期にカーティス・ブロウ(オールドスクールの最重要ラッパーの一人)はExperience Unlimited (E.U.) を演奏に起用して“Party Time”という曲をリリースしています。


マックス・キッドとT.T.E.D.

 トラブル・ファンクがどういう経緯でSugar Hillと契約したのかは不明ですが、彼らは自分達でD.E.T.T.というレーベルを運営しており、HOT COLD SWEATなど他のグループの12インチもリリースしていました。
 そんなワシントンでのGO-GOムーブメントに目を付けたのがマックス・キッドという男です。彼はD.E.T.T.を基にT.T.E.D.というレーベルを興し、トラブル・ファンクやチャック・ブラウンのリリースを行うと同時に、E.U. のような新しいバンドを育て、GO-GOシーンの中核となっていきます。
 84年になると、まずイギリスの音楽メディアがGO-GOを取り上げます。そしてT.T.E.D.からリリースされたChuck Brown & The Soul Searchers の“(We Need Some) Money”が全米R&Bチャートで最高26位のヒットとなり、世界進出への道が始まります。


アイランド・レコードによるプロモーション

 アイランド・レコード社長のクリス・ブラックウェルがGO-GOを気に入り、1985年にマックス・キッドのT.T.E.D. と契約したことにより、他のメジャー・レーベルもGO-GOバンドとの契約に乗り出します。(この頃の雰囲気は映画“GOOD TO GO”で描かれています。)
 アイランドと言えば、レゲエのボブ・マーリー、ジュジュのキング・サニー・アデを世界に紹介したレコード会社であり、黒人音楽の良質な部分を商売に乗せるのが得意技。そのおかげでGO-GOの名は世界に広まります。特にイギリスではGO-GOブームが起こりました。
 初のメジャー配給によるコンピレーション“GO GO CRANKIN'”のリリースをきっかけに、日本でもGO-GOの人気は高まります。1987年のChuck Brown & The Soul Searchers の初来日公演は日本盤のリリースが無いにも関わらず、大変な熱気だったといいます。当時はバブルガム・ブラザーズや久保田利伸などのメジャー・アーティストもGO-GOビートの曲を発表していました。

 しかし、当時のGO-GOブームはアイランド・レコードによる人為的な売り出し作戦でした。

 このような経緯を経て、結局IslandレコードはGO-GOから撤退してしまい、イギリスでのGO-GO人気は下火となります。GO-GOの音楽自体は以前と変わらないのに、それを無理にブームとして販売戦略にのせようとしたことが敗因ではないかと思います。
 日本では88年にトラブル・ファンク、91年にE.U. が来日するなど、90年代に入ってもGO-GOはそれなりに注目されており、ジムコというレコード会社が日本盤のリリースを続けて孤軍奮闘していました。リスペクト!


本国アメリカでのE.U.の健闘

 トラブル・ファンクが敗退し、世界的にGO-GOへの注目が薄れつつある中、E.U. (Experience Unlimited)は 1988年にGO-GO界最大のヒットを放ちます。あのスパイク・リーの映画“School Daze”の主題歌として“Da Butt”がフィーチャーされ、R&Bチャート1位を記録したのです。また、SALT-N-'PEPAとの共演“Shake Your Thang”もヒット。しかし、これ以降GO-GOがヒットチャートに顔を出すことは無くなり、GO-GOは再びワシントンDCのローカル・ミュージックへと戻っていきました。


GO-GOはなぜメジャーになれなかったか?

 最大の要因は、GO-GOはライブでこそ本領を発揮できる音楽であることです。「1曲3分で、10曲入りのアルバムをスタジオで録音する」という通常の形態ではその本質は表現不可能と言えます。また、ワシントンDCとの地域的な結び付きが強く、閉鎖的な面があることも確か。バンドと客が延々とコール&レスポンスで盛り上がる様子は、外の社会に開かれているとは言いがたい。
 世界に音楽を流通させる上では、レコード(CD)という形で販売せざるを得ないわけで、GO-GOの魅力を世界に伝えることは元々無理な話だったのかもしれません。
 また、アイランドをはじめとするメジャー・レーベルがGO-GOの本質を捉えていたかも疑問です。トラブル・ファンクもE.U.もレコード会社の方針で失敗作を作ってしまったと言えるでしょう。


GO-GOの影響力

 今やマイナーな存在となってしまったGO-GOですが、黒人音楽史上に大きな影響を残しました。「グラウンド・ビート」と「ニュー・ジャック・スウィング」という90年代のグルーヴ感の方向を決定づけた2つのリズムの基礎はGO-GOだったことは見逃せません。
 89年にSOUL2SOULが創り出した「グラウンド・ビート」がなければ、その後のアシッド・ジャズ、トリップ・ホップ、ドラムンベースの興隆はなかったはず。まさに革命的なグルーヴでした。その元ネタと言われているのが、The Soul Searchers の“Ashley's Roachclip ”(1974年のアルバム“SALT OF THE EARTH ”に収録。Thanks to DJ TOK) という曲なのです。
 そして、87年にテディ・ライリーが創り出した「ニュー・ジャック・スウィング」。アメリカのR&B業界のリズムを一新させたリズムですが、テディは「GO-GOのリズムから影響を受けた」ことを公言しています。
 このように90年代のリズムを語る上でGO-GOは非常に重要な音楽なのです。



参考文献

 このサイトの作成にあたっては、以下の文書を参考とさせて頂きました。
 また、*印の4冊は神田 尚氏より提供して頂きました。貴重な資料をありがとうございました。

ミュージック・マガジン
*1985年8月号「ワシントンDCのゴーゴー・ブーム by 鷲巣功」
*1988年1月号「黒いダンス・ミュージック1988 by 高橋道彦」
*1988年4月号「トラブル・ファンク インタビュー by 高橋健太郎」
*1988年5月号「いま、アメリカの黒人音楽をどう捉えるか by 高橋健太郎ほか」
 1990年12月号「90年代のグルーヴはどこからやって来たのか by 佐藤有紀」
 1992年9月号「Chuck Brown & The Soul Searchersインタビュー by 椿正雄」
「R&B、ソウルの世界」鈴木啓志著 ミュージック・マガジン増刊
GROOVE 1996年8月号「Back To The Movement GO GO by 小林径」
Trouble Funk / TROUBLE (1987) ライナーノーツ by 高橋健太郎
Trouble Funk / TROUBLE TIME (1992) ライナーノーツ by 鈴木智彦
Trouble Funk / DOUBLE TROUBLE TO GO GO (1994) ライナーノーツ by 鈴木智彦
Chuck Brown & The Soul Searchers / GROOVIN' TO A GO-GO (1992) ライナーノーツ by 小林径&荏開津広
Chuck Brown / HAH MAN (1995) ライナーノーツ by 内本順一



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