2003年10月5日(日)
指揮:パーヴェル・クリニチェフ
演出:ヴラディーミル・ヴァシーリエフ。 コラッリ・ペッロ・プティパ・ゴールスキー版を利用
舞台装置:セルゲイ・バルヒン
衣装:ユーベル・ドゥ・ジヴァンシー
他にアルベルトはツィスカリッゼ、ミルタはアレクサンドロヴァ、ハンスはスパルタクスでクラッススを好演したことで馴染み深いルィフロフなので期待しないわけにはいかない。
久々にみるヴァシーリエフ版はジヴァンシーの衣装の効果もあって舞台が明るい。
幕があがると程なくアルベルト登場。ジゼルの家にちょっかいを出そうとして家来に止められるはじめから、ツィスカリッゼはアルベルトを「遊び人」として描いている。
ジゼルと二人での掛け合いではマイムがたくさん。マリインスキーは「バレエに徹している」のに対しボリショイは「バレエも演技も」という傾向がある。
そうした中で移ってきたばかりのザハーロヴァは浮いてしまわないかとの思いもあったが、セメニャーカ、ツィスカリッゼとの稽古で鍛えられたからか足などさほど高く上げず、静的な決めのポーズにもあまりこだわらない。
1に演技、2にバレエという感じ。彼女の形のきれいさはむしろ動きの中での型にあった。
とはいえ、1幕終わりのアルベルトの正体を知り狂う場面はうーん。
倒れ、正面中央で客席を向いて起き上がる時、どきっとさせる表情を浮かべ「いよいよ始まるか!?」と思ったが、
さほど盛り上がらずに死に倒れる。ルィフロフも「お母さんはあそこ」と指し示すタイミングが音楽より早くなるし、ツィスカリッゼもルニキナとの競演でみせた「ギョッ」と肩をふるわせることもない。
2幕はミルタの独壇場。しんとした静けさのなかに、きりっと毅然と鋭い手の動き。それだけで気の嵐がふきあれる。
もちろん縦横に移動する際の細かい足の動きはそれこそ人間技ではなく、時折みせる回転ジャンプはヴィリーの女王の貫禄が十分。
ジゼルは新入りヴィリーとして先輩たちに遠慮しているのかというほど、ぎこちなくふるえながら足を上げるし、ジャンプは悪くはないがとびきりきれいでもない。
その上トウシューズが舞台に合わないのか、コツコツとうるさいことこの上ない。アントニチェヴァ以上。一人で群舞全員分くらいの音を出していた。
マリインスキー時代にみせた良い意味でのあのゴムのような柔らかさはどこにいったのか。
ヒラリオンのルィフロフはぎこちないジゼルにあわせるかのような舞台。というか、彼はこの役に似合わない。
この役には王子と異なった田舎の素朴で野人的なタイプが欲しいのに、彼の顔は王子まではいかないがかなりのハンサム。
でも身体はかなり太く、動きが重さからくるゆっくりさ。2幕でヴィリーに踊り殺されるところはどてどてで、腕の動きなどは「振りで決められているので前から後ろへ回転させる」という感じで、踊り疲れた苦しさなど微塵もない。
ツィスカリッゼはさすがに「見せる」舞踊家。
ミルタになぶられた苦しさからくる踊りの乱れの表現が秀逸。
朝になりジゼルがお墓の下に帰っていったあとの力強さはどうだろう。舞台をきっちりと締めていた。
2幕でジゼルが左幕の上の方に現れるところで失敗したり、アルベルトのソロの前におばさんが「オィ(おやまあ)」と変な声を出したりの事故はあったが、
全体としてはザハーロヴァの「無難な」デビュー公演。ボリショイのプリマとしては標準以上の出来だけど、わざわざマリインスキーからスカウトするほどでもない。
また、解釈には疑問がある。はじめからアルベルトはジゼルを遊びの対象としかみていないのに、どうしてジゼルはヒラリオンを見捨ててアルベルトを助けるのか。
そんなアルベルトはジゼルが死んでどうして悲しむのか。それが全然わからない踊り。
このバレエの歴史的な意味や解釈を顧慮しない、演技と表面的な見栄えにのみ力を注いだ舞台であった。
ボリショイには演技的側面があり、それがこの劇場を「熱い」ものにしているが、単に「演技1番、バレエ2番」と順序をつけた雰囲気でこれから踊っていくと
ザハーロヴァはマリインスキーで身につけたものをみすみす失うことにならないかと心配する。
ボリショイに同化しようとして、場合によってはマリインスキーのよさをかなぐりすてようという意欲はもちろん買うけれど、「バレエも演技も」ということを忘れないで欲しい。
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