まずはじめは、モスクワ・バレエアカデミーから。
「ボリショイバレエ学校」の通称で日本では知られているし、その名で公演もしているけれど、実際はボリショイ劇場とは独立した学校。
過去には「ボリショイ劇場付属」の時代があったり、40年間校長としてこの学校に君臨したソフィヤ・ガロフキナが退いたあと、ボリショイのバレエ監督であるボリス・アキーモフが校長を兼ねたり(今の校長はレオーノヴァ)、
ボリショイバレエ団員のほとんどがここの出身ということで、ここも「舞台裏」の一つ、ということで。
1995年には10歳入学18歳卒業の「モスクワ・バレエ学校」と、劇場の現場で働きながら振付法やバレエ教育法を教える「モスクワ・バレエ大学」がひとつになって、「モスクワ・バレエ・アカデミー」となった。
モスクワに着いた翌日の朝、モスクワ・バレエ・アカデミーのボンダレンコ教授に電話をすると、これからレッスンがあるので見に来ない?というありがたいお誘いをいただき、さっそく訪問。
場所は地下鉄フルンゼンスカヤを降りて、コンソモーリスキー大通りをモスクワ大学方面(中央と反対側)へいって、ひとつめの道を左へ曲がって3分くらいのところ。
レッスンは10時50分からとのことで、10時半に待ち合わせをした。入り口は建物の向かって右横。通行証を見せないと通れないので入り口付近で待つが、先生は待てども待てども現れない。待つこと10〜15分。
あいさつもそこそこ、ようやく先生登場。「やばい、遅れる。ヒロシ、早く上着を脱げ!お前も大学の講義に遅れて行くことあるか?」とかなんとかいいながら、走ってレッスン室へ。
着くとピアニストにあわせて、生徒たちが自ら稽古をはじめていた。見学用のいすに腰掛けると、先生はさっそくアドヴァイスをとばす。
クラスはバレエ学校最上級学年の高等部3年生。1クラスは8〜9人で、来年春には卒業し、プロとして劇場にはいっていく。年末の発表会があるということで、1時間も過ぎると二人の生徒がパ・ド・ドゥの練習のために部屋を後にした。
ボンダレンコ先生は普段とても明るく朗らかで優しく、とてもこどもっぽい方なんだけど、レッスン室に入ると人がかわる。
「背中が曲がっている。そのポーズの決め方はもう4年前から教えてるはずじゃないか!4年も同じことをいわれてもわからないようじゃ、この世界ではやっていけない。他の道を考えた方がいいな。」
「こんな覚えの悪いクラスをもったのははじめてだ!」
こんな暖かくも辛らつな言葉がバンバンでてくる。
しかし、生徒たちの目は真剣そのもの。私の目から見ると、先生のアドヴァイスによってみるみる踊りが変わってくるのがわかった。
もちろん助言をもらっても、何度やってもうまくできない人もいる。
アンドレイ・ウヴァーロフ、ドミトリー・ベロガロフツエフ、コンスタンティン・イヴァノフ、岩田守弘など、
現在のボリショイ劇場のプリンシパルダンサー、ソリストの中の3〜4割はボンダレンコ先生のクラス出身であるから、彼のクラスに入り、しかも終学年まで残るということだけでも大変なことである。
多い年には彼のクラスの半分がボリショイ劇場に入団するという。それでも全員がソリストになれるわけではないし、主役を踊れるようになるのはほんの一握り。実際、ボリショイ劇場に入団すらできない者の方が多いのである。
そうした高いレベルの仲間と8年間一緒にバレエを学んで、脱落する人は、「上には上がいるからな」と納得してやめるのではないか。
あれだけ授業中は厳しかったボンダレンコ先生も、終わるととたんにみんなにやさしくなる。私がレッスンの感想を述べると 「そうなんだ、今年はかなりいいクラスなんだ。でもつい最近になってようやくだね、みんなのやる気が本当にでてきたのは。」とのこと。
レッスンが終わると、先生はバレエ学校の中を案内して下さった。興味深かったのは、教授陣の過去の教え子写真集のコーナー。
さすがにガロフキナのところは広く、たくさんの有名なバレリーナの写真で壁がいっぱいになっていた。
ボンダレンコ先生のコーナーはその隣にあり、イヴァノフらの卒業式の日の写真はじめ、世界の舞台で活躍している教え子の若き姿があって面白い。ロシアではこうして教え子を誇ることが美徳となっているわけだが、逆に言えば優秀な教え子を輩出しているかどうかで、その先生の評価が一目瞭然となる厳しい世界である。
バレエという特殊部門であり、私の専門とは全く異なるけれど、同じく教育に携わる者として世界最高峰の学校の授業とはこういうものかとたいへんためになった。
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ボリショイ劇場の舞台裏 その2
2002年のボリショイ劇場は こちら
2003年のボリショイ劇場は こちら
2004年のボリショイ劇場は こちら
2005年のボリショイ劇場は こちら