境界例と自己愛の障害からの回復



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タイトルはここから貰いました。このサイトを読んで考えたことなどを書きます。
ああしかし、最近このページでやたら自己分析をやっておりますが、自覚してないだけかもしれないですが、自分がそんなに社会的に問題のある人間だとは思ってないです。ただまあ、この先台本書きを続けるにあたって、やっぱり自分というのははっきりとさせておかないといけないと思って。

いや、ちょっと違うかな。
台本書きというのは、いろんな人の心の状態を想像し、また、ある状況での心の動きシミュレートし、表現していくわけですが、元となるのは自分の心しかないわけです。自分の心が、他人とそんなに違わないという前提に立つしかない。
そういったことをふまえて、自分の心を信用するための作業とでも言いましょうか。人間は様々な行動をとりますよね。とても自分には出来ない行動というのもある。でも、行動は出来ないけど、その心理なら分かる。そう思う自分を、文章に表現できるぐらいまで、信頼するためには、自己愛と言われようとも、文章を書くにあたって、たった1つしか与えられてない自分というココロの構造を、何にも代え難いモノとして受け入れるしかない。そういう事実を受け入れるということ。

僕のココロが、大人として一点の曇りも歪みもなく、正常に発達したとはやっぱり思えない。むしろ、かなり問題のある代物になっていると思う。いきなり自己愛だけれど、僕としては、そういう自分を受け入れているし、まあ、それでいいんだと思っている。
その上で、それを知りたい。

恋人のことは何でも知りたい。
愛する人は選べるけど、自分は選べない。否応なしに愛するしかない自分を、愛することが出来たとき、次に、その愛する自分をもっと知りたいと思う。
少なくともそういうプロセスを経て、愛する自分に関するレポートとして、台本を書いている。僕は実は中学校ぐらいから、結婚はしないと公言しているわけだけれども、「自分を愛する事もできないのに、他人なんか愛せるか」みたいな感覚は、あったろうと思う。

この先、台本を書いたりしていく中で、この過程の先には、いずれは他人(出来れば異性)を愛することが出来るようになるという結末も用意されてるのかもしれないけど、それを目指しているわけではない。がしかし、とりあえず24にして到達したこの場所のことを、もう少し分析して、もういくつかのレポート(台本)を書く必要があると思う。先のことは、誰にも分からない。

という風に書くと、また誤解を受けるわけだ。何度も書くけど、ぼくは自分自身をそんなに一般からはずれた状態ではないと思っている。
思春期にはちゃんと誰々が好きとか嫌いとか、まあ未だに誰々が好きとか嫌いとか(もちろん異性)そういうやるべき事(?)はやってるし、なかなか事に至らないのは、自分に自信がないとか、勇気がないとか、他にもっとやりたいことがあるとかそういう理由もしっかり存在しているわけで、さらに書くと、潔癖というか、完璧主義というか、そういう中途半端な自分に、他人を巻き込むのはイヤだとか思っているわけで、逃げてるのかもしらんけど、本人がまだ時期じゃないと思うんだったら、それはそうなんだろうから、もうほっといて下さい。(誰も何も言ってないって!)
ただまあ、普通だ普通だと騒いでも、こうして書くことは、かなり一般からはずれている。それは自覚している。普通書かない。それはしかし、そういうことを「選んだ」のだからしょうがない。自分をモルモットとして、書いてゆく他ないし、また、そのことが自身の歪みを矯正するとか癒しになるならば、なおいい。

ただまあナニです、二人で一つになるというのは、お互いに足りない部分を補ったりしているわけで、つまり、必ずしも自分一人で完結してないと、パートナーに迷惑をかけるとか、そういうことを考える必要はあるのかという気分はするのですが、まあしかし、そういうことは自分一人で一個体として完結したと思ってから考えます。

相変わらず長い前フリだ。



境界例

さて、ここからが本論です。
まずはここ

 ・ 自分の生き方がわからない。
 ・ 現実を理解する能力が貧弱。
 ・ いつも場違いな所にいるように感ずる。
 ・ 自分のすべてを受け入れてもらいたいと望んでいる。
 ・ 感情の移り変わりが早く人間関係が不安定。
 ・ 愛し方が不十分であるという理由で相手を責めたてる。
2 ・ 仕事に不満を持ちやすく転職を繰り返す。
2 ・ 一見、周囲にうまく適応して見えることもある。
2 ・ 自分と他人との境界があいまい。
 ・ 他人への評価が極端から極端へと揺れ動く。
2 ・ 人生の価値観や目標が突然変わったりする。
 ・ キレやすい。
2 ・ 二者関係にしがみつく。
1 ・ 自殺未遂を繰り返す。
1 ・ アル中、浪費癖、過食、淫乱、ギャンブル狂、暴走行為、薬物中毒

いきなりですが、これが境界例の人の特長だそうです。で、ちょっとリストを拝借して、5段階評価してみました。
5は当てはまる、1は当てはまらない(と自分で思っている)。

どうなんでしょう。まあ、ちょっとそのケがあるという程度だと思いますけど。

さて、その次の段「原因とそのメカニズム」において母親の存在をあげていますので、まあ流れとして自分の母親の考察をしなきゃならないですね。
んーー、ちょっとムズカシイなあ。

過去はふりかえらないというか、忘れたがるというか、記憶がないんですよねぇ。幼少期の。いざ精神疾患ということになると、その原因となる幼少期の体験というのが、とても特定しにくいだろうと思います(笑)覚えていることといえば、「怪物君(藤子藤夫)」を見ていたんだけど、母親が帰るよというので泣いて抵抗したけど、バイクの後ろに乗せられたことぐらいでしょうか。氷がどうのこうのという冷蔵庫の怪物だったような記憶が。
保母さんだった母親にどういう教育をされたのか、具体的に言えないですね。母親の働いている保育園に通い続けたわけですが。贔屓されたという感覚もないんですが、無頓着だったからなあ。
母親が「境界」だったどうか、まあ、僕にそのケがあるということは、そうなのかもしれないけど、香川にいた頃は、家族も含めて、他人という存在に無頓着でしたから、そういう視点で観察したことがないんですよねぇ。
そうしむけたのかどうかは別にして、かなり母親には「依存」していたし、まあ、愛されていたというか、暖かく包まれていたというか、そういう感覚はありましたけど、でも、結果として僕は静岡に来て一人暮らしを始めたわけで、母親の願望より、僕のリセット願望が勝ったといってもいいけど、自立をじゃまされたというほどでもないですね。
あとは、健康食品フェチで、家の中にやたらと健康に良さそうなものが散らかっているのは、まあ、それでも度か過ぎるというほどではなかったかな。共働きで、ジジババっ子の僕に、祖母の愚痴をこぼすのも、どうすればいいというのだと困ったりはしても、まあそれほど深刻なものでもなかったし。

小学校の時は、たぶん周囲より「センセイ」に依存していたと思います。先生に合わせて自分を作っていったというか。まあその辺は「自分にとっての教育効果」あたりでも書いてますが。
友達の長所と短所を書きましょうというのがあって、当時まったく自覚してなかったんだけど、みんなから一斉に、「頑固だ」と指摘されたのを覚えています。何いってるんだこいつらはと思いつつ、まず一番に欠点を指摘されたことがショックでした。言いつけを良く守り、「良い子」である自信があったわけで、まずは長所をいくつも書いてもらうのがスジであると思っていたわけです。記憶があやふやですが、たぶん長所の欄は空白だったと思います。
小学校の頃の自分は、まあ塾に行ってましたから当たり前ですが、成績も良く、アクティブに(良く空回りしながら)行事にも参加し、ちゃんとやってるんだという自信と共に、それが周囲に認められない理由を究明せず、つまり周囲のせいにしたり、そういうことを聞かなかったことにしたり、プロフィールを見れば分かりますが、付属中学校に行くことで、リセットボタンを押すようなことをしていました。アクティブな普段の行動とは裏腹に、心理的には防戦一方という感じですね。そういう余裕のないところが、友達が少なくなったり、あるいは友達を作ろうとしなくなったりという行動になったのだと思います。

実は、小学校から高校まで一緒だったという友人が1人いるんですが、「僕がなかなか死なない理由」にも書いてるような、「試す」ような行動をしたり、それでも結局離れられなくて、まあつまり、小学校からの僕を知っている、リセットできない存在として僕の中で大きかったわけですが、つかず離れず、距離感に悩んだりしていました。
リセットすることが解決にはならないというのは、今の価値観で、当時の僕としては、リセットをじゃまする存在でもあり、数少ない友人でもあり、というわけです。

さっきから盛んにリセットリセットと書いているところを見ると、引きこもり型なのかもしれませんねえ。

こういうことを書くのはどうかとも思いますが、例えば最近の例だと、喫茶PALリンクOh!PCリンクを作るなどの行動は依存強化型の「世話焼き女房タイプ」でしょう。軽微な異常行動であるという漠然とした感覚は確かにありましたし、異常行動ではない正当な理由を持つものだと思うための理由を(自分では見つけられないために)誰か他者に求めるような言動も強かったように思います。(自分で理由を見つけられないことが、どうして他人に理由付けできよう)
あるいは、喫茶PAL解体後の行動は自分を見捨てようとする親や、自分の不安感をもてあそぶ親への憤りが、いい子の仮面を剥いで、突然暴れ出したりする 攻撃型とすれば、説明が付くように思います。まあ、これはあくまで僕自身の話としてですが。
もう少し引用すると


ということらしいです。

まあ、だから何だといわれれば困りますが、ここからは結論が出せないです。僕自身、「ふーんそうなのか」以上の発言は出来ません。次に同じ状況になったときに、今度は回避するのかといえば、それもどうかと思うし、結局、学問というのは、分類したらそれで終わりなんですね。それを使うか使わないか、どう使っていくのかは、そのときになってみないと分からない。ただ、今まで漠然としていたことに光が当たる。輪郭がはっきりして、名前が付いて、体系的に整理される。それだけのことです。
僕としても、このテキストを書くことに、それ以上の意味は求めていません。

えーーと、異常行動と書きましたし、自覚もありますが、じゃあ、厳格な正常以外の一切の行動を排除したら、人間らしく豊かに生きれるのか。今んとこ否だと思います。最初の段にも書きましたけど、異常行動を取る自分を僕はけっこう気に入っているというのがあるんですね。
だいたい、正常な人間が台本を書いたって、普通の話しか書けない。それではおもしろくない。ただ、以前の僕は、自分の何が異常なのか分からずに、さらにたちの悪いことに、漠然とした感覚はあったので、不安とか、自信が持てないといった悪影響があったんです。
いうなれば、自信満々に異常行動がとれるようになったというか。ヤな奴度に磨きがかかってますかね。



自己愛性人格障害

何か別項目であるので、これもついでに考察しておきます。
まあ、当時は「受容」とか「良いところを伸ばしてやる(悪いところには目をつむる)」といったスローガンが叫ばれていたように思います。母親が保母さんであったり、センセイに依存した幼年期を過ごしたこともあって、その手のモノに、かなり強い影響を受けたと感じています。

実際「ご都合主義的な白昼夢に耽る」というのは、かなり長い間続きました。高校生になってもちょっと残ってたんではないかと思います。まあ、ありきたりですが「ドラゴンボール」なら、「悟空」になって「カメハメ波」を使ったりしつつ「敵」を右へ左へバッタバッタと………というようなものですね。
ゲームなら、RPGにだけ興味を示しているのも、「苦労なしに」勇者になれるという点は大きいです。

「自分自身にしか関心がない」というのも、前に書いたとおり、他人が自分と同じように考える存在であるということに長い間気が付かなかったぐらいですから、無関心にもほどがあります。

「批判に対して過剰反応」というのも、防戦一方だった当時、ちょっとした批判でも「ラクダの針一本」状態だったのでしょう。
※ ラクダの針一本
荷物をめいっぱい積んだラクダの荷に、針を一本追加したら、その重さでラクダが潰れてしまったという状態。似たような例えには、表面張力で何とかこぼれてないコップの水に、あと一滴入れると一気にあふれてしまうとか。

まあしかし

すべてに言えることは、ありのままの自分が愛せないのです。自分は優越的な存在でなければならず、素晴らしい特別な存在であり、偉大な輝きに満ちた存在でなければならないのです。愛すべき自分とは、とにかく輝いていなければならないのです。しかし、これはありのままの自分ではないので、現実的な裏付けを欠くことになります。

実はそう言われてもちょっとぴんとこない。
ありのままの自分ってのが、具体的にどういう自分なのか、ちゃんと理解できない。例えば、タバコを吸っているけど、吸いたくて吸っているのか、カッコつけのために吸っているのか、はっきりしない。この文章を、台本書きのために書いているのか、エビスイのために書いているのか、はっきりしない。誰のために生きているのか、何のために生きているのかも、まだはっきりしない。現時点で突き詰めれば、死なないから生きている。

ただまあ、優越感を捨てるというか、隠すというか、仕舞うようにすると、楽になった。これは実感できる。

何故そうしたのか。

静岡に来て、世界が広がった。
単純に、香川と静岡で、世界が二倍になった。
世の中に「ヒト」が多すぎると思った。
1000人の中で優越感を維持する努力は出来た。
でも、一万人に対して、今まで通り優越感を維持する努力をするのは無謀に思えた。
だからやめた。

いや、的を絞ることを覚えた。
優越感を持つ分野と、持たない分野。
芝居をやることに関して、明らかに優越感を持っている。だから、芝居をするとイライラする。何かにつけ、満たされない。いつも、今回で終わりにしようと思う。でも、やらないならやらないで、満たされない。だからまたやる。
悪くはないと思う。
つらいだの苦しいだの言ってるけど、現時点では、改善しようとは思わない。

今の自分に満足できなくて、闇雲に自分を更新したがるのは、次々と車を乗り換えたりするようなものだけど、あまりにその種の向上心に淡泊なのも、まあ、精神は安定するのだろうけど、それで幸せな人生なのかと思う。
僕と一緒にやった人は分かると思うけど、病的なまでに固執し、1ミリでもよりよいモノにしようとしている。まあ、そういうキモチでやっている。自分でも、ある程度以上は周りが引いていくのが分かる。でも、それを受けて自分も引くことが出来ない。
あるいは、病的なので効率が良くない。
だいたい、スケジュールが上手く組めない。自分の能力を過信しているので、三時間かかることを一時間で出来ると思っていたりする。その調子で、公演日までぎっしり予定を入れたりする。スケジュールが空くと不安になるから。アレもできるコレもやりたいと、病的なまでにあれこれ欲張る。
はっきりいって、上手くいかない。いろんな人に迷惑をかけてるし、納得のいく仕上がりになったことはない。治療が必要なのかもしれない。ちょっと前までは闇雲に、手当たり次第に、何とかしようと空回りしていた。今は、「治療」という単語がある。だから何となく落ち着いている。何とかなりそうな気分になっている。
でも一方で、治療してしまって良いのかという考えがある。
この構造が、作品を作るエネルギーを生み出していると思っているからだ。

うーーん、ここに至って、まだカッコつけようとしているなあ。
まあ、例えば上に書いたようなことは、ある側面ではあると思う。でも、コレが全てではない。まあ、今日のところはこれで勘弁しといてください
「事実」なのは、僕の芝居のやり方が上手くいかないということ。何かを為すとき、それがなかなか上手くいかない理由が、まあ、この周辺にありそうだというだけでも、まずまずの進歩です。(こういう一文を防衛本能というんだろうなあ)




さいごに

ちゅうかね。これだけ長々と書いて別に反省してないんだ。変えようとも思ってない。
自分の中に、どろどろと醜い潜在意識、隠しておきたい自分というのがあるわけだけど、台本書きになるってのは、それを切り売りしながら、これから生きていこうということなんだよね。
高校の時かな、何かの時に将来なりたいモノというのを聞かれて、席順に前から発表していったわけだけど、僕の前の人が、サラリーマンって言った。僕は、サラリーマンにだけはなれないって言った。
別に対抗したわけじゃなくて、サラリーマンってのは、人間関係で仕事をするわけじゃないですか。すると、僕の壊滅的なコミュニケーション能力では、サラリーマンとして活躍できるだけの人間関係を築けないと思う。まあ、当時そこまで分かってて言ったわけじゃないけど。
壊滅的だからいろいろ考える。
出来ないから何とかしようと考える。
そしていろいろ考えたことを、こんな風な文章や、台本なんかで発表する。

出来る人ってのは、もう自然に出来るわけだから、普段こんな風には考えてないと思う。いつの間にか、周りには人が集まっている。過程を意識しないから、油断して落とし穴にはまったりもすると思う。そんなとき、僕の文章を読んで、何かを感じるということもあるのかもしれない。

いまさら、サラリーマンとして通用するコミュニケーション能力を身につけることは大変だし、身につけようとも思わない。むしろ、自分にないからこそ考えることが出来る、そういう社会に対する役割として、僕は台本書きを選んだわけだ。と思う。
まあ、無理矢理意味を考えればそうなる。


僕の中の醜い部分というのを、受け入れたわけでもないし、直視しているわけでも無視しているわけでもない。書くことによって、客観視し、切り離している。どんどん切り離して、安全なようにコーティングして、ラベルを付けて、引き出しにしまっている。
そして、たまに取り出して、台本を書くのに利用している。

まあ、知っている人は知っていると思うけど、クトゥルフ神話というのがある。名前忘れちゃったけど、読むと発狂する禁断の書が出てくる。深層心理というのはそういうもの。クトゥルフは、それぞれのココロの奥深くに住み着いている。僕は、「書く」という命綱を付けて、深層心理に降りてゆき、ちょっとだけクトゥルフの知識のかけらを持ち帰る。
弱い自分、受け入れられない自分(クトゥルフ)を、「書く」ことによって、受け入れるのではなく、強くなるのでもなく、安全なモノに変えていく。まあ、そういうのを受け入れているというのかもしれないけど、決して直視しているわけでも、取り込んでいるわけでもない。化け物はあくまで化け物で、とても近くにおきたくもないし、触りたくもない。
だから、客観視し、カテゴライズすることで、安全なモノに変えている。

深層化して何なのかが分からないから不安なのだ。
分かれば、醜くてとても受け入れられなくても、不安ではない。切り離して、安全なところに仕舞っておける。

もういい加減長いので、とりあえずこの辺で。


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感想など


エビスイからの返事希望


  
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