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『皇帝』 作品について

 マリコさん(麻路さき)最後の大劇場作品となった『皇帝』

 私はもともと植田先生の作品は好みでないことが多く「次回は植田作品」と聞いた時にいやな予感〜(^^;)と警戒を強めていたのですが、いざ観てみるとこれが思ったよりずっと良かったのでほっとしました。

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 ローマ皇帝ネロはローマに火をかけた暴虐誹謗の暴君である。

 …という話を聞いた事がある方は多いと思います。
 歴史で習ったのか、本で読んだのか、忘れてしまいましたが、私もそう聞いた覚えがあります。
 ところが、まだ次の星組公演は皇帝ネロを題材にしているとしか分からない頃に近年ネロとその時代について研究している人の本を何冊か読んでみると、ネロは必ずしも暴君とはいえない、ネロは暴君になるべくしてなったわけではない、…というような書き方をされていました。どれにも共通しているのが現存しているネロの事を書いた史書の多くはその後の時代に書き写しされたものであること。書かれた内容には矛盾が多く、またそれを書いたのがネロが優遇しなかったキリスト教の布教者でありネロをよく書く訳がないということです。ネロがローマ市内に火をかけたというのも根拠のない噂のようです。
 公演プログラムの中で「麻路さきの美学」というタイトルで作・演出の植田先生が文章をよせていますが、その中で紹介されてる本もそういう近年のネロの研究者の著書です。
 それらを読んでいると確かに「ネロは本当は暴君ではなかったのではないのか?」と思えてきて、では何故暴君と呼ばれるようになったのか想像を掻き立てられます。私は当時のローマ宮廷の陰謀渦巻く様子から考えると、ネロがしたことというのは誰もがやりかねないことだったのでは…という気がしてきました。
 植田先生は「ネロが暴君と呼ばれるようになったのには理由があるのではないか。ネロの行った悪行は善のために行ったものではないのか。」という視点で『皇帝』を描かれたようです。

 アグリッピナのセリフに「権謀術策渦巻く宮殿の中でそなたを守りたかった。」というのがありますが、当時のローマ宮廷では陰謀や暗殺が日常茶飯事で、毒殺を恐れて毒に体を慣らしておくこともあったようです。ローマ市民達は奴隷を殺すような見世物が大好きでそういう血なまぐさい世界でネロを皇帝の座につかせるためにアグリッピナは手段を選ばなかったのです。そうしてアグリッピナの手によりローマ皇帝となった若いネロは、むしろ国家民衆のことを考える良い治世を行っており、物語はその頃から始まります。

 それまでは歴史に残る英邁な皇帝を目指していたネロが何故悪逆非道の暴君と呼ばれるようになったのか。この作品では「非道の限りをつくしてきた誇り高い母を自らの判断で手にかけたネロが、実は母の行いのすべては息子の名声をあげるためだったことをしったとき、ネロはそのまま母に汚名を被せたままにする事が出来なかった。」ということにしています。
 ネロはそれまで知性にあふれ正義感が強い若い皇帝でした。日頃何かと評判の悪い母のことには頭を悩ませていましたが、母は母。自分を皇帝にするまでの母の苦難を思うと、何も言えなくなってしまう優しい息子だったのです。セネカの説得を受けて母を討つことに同意したときも、母を他人の手にかけるくらいならば自分の手でと思いつめます。そして、実際に討つ際にも間際まで悩みに悩み、母の挑発をうけてようやくです。そんなネロだからこそ、母の汚名を被る決心をするのです。
 セネカが「(汚名を)受け継ぐ必要はない。真実を明らかにすればいいことだ。」と進言するのですが誇り高い母を恐れながらも愛していたネロはその母をただの愚かな母親として世に知らしめたくはなく、かといってそのまま母に汚名を被せたままにも出来ない。そうした結果母のしたことなど問題にならないくらい自分が悪行を重ねるという選択をしたのです。母の心を汲み取れずに自ら手にかけてしまった償いもあったと思います。
 その当時の世の中の空気や、置かれた境遇も違いますので、私にはネロと同じ選択がそのときに出きるかは分かりません。そもそも、私の母がアグリッピナとは違う性格の人ですから、そういう事態は起こりそうにありません。しかし、自分とは立場の違いすぎるネロが、母の罪を自らの悪行で隠す道を選択をしたとき、共感はできないまでも痛いほどに気持ちが伝わってきて、ネロが哀れに思えてなりませんでした。



 物語の主軸はいいと思いますし、主役の麻路さきの魅力を存分に見せる作りになっていて、ファンとしては満足しているのですが、作品全体を見たときに気になる点がいくつかあります。

 まず、トップ娘役の役としてオクタヴィアをもってきたこと。
 ネロには初恋の女性”アクテ”という解放奴隷がいました。この人がネロの死後彼の墓を作ったともされていて、まさにトップ娘役にピッタリだと思っていたのです。 オクタヴィアと似た設定で、ネロに愛されながらもその恋が叶うことはなく、ネロが暴君としてそれこそ放蕩を繰り返す時も一途に思いつづけ、最後に後を追うよりもいっそ殺されてネロの悪行の輝きの一つになりたいと願い出るというので良かったのではないかと。オクタヴィアよりもアクテにした方が、より自然な話の流れになったと思うのです。

 オクタヴィアがなくてアクテになると、シーラヌスがなくなります。しかし、実際のシーラヌスはオクタヴィアとの婚約を無理やり解消された後、アグリッピナとオクタヴィアの父・皇帝との結婚式の日に自殺しているそうなので、シーラヌスもまたオクタヴィアを思いつづけているのはやはり無理があったかもしれません。同じく、似たような設定でアクテのことを思いもっと積極的にアグリッピナやネロを討つことを図る男の役を作ったらよかったのではと思います。

 一番気になるのは「ネロの悪行」の表現です。
 いわゆる”黒い衣装のネロ”の場面だけでは弱いと思うのです。シーラヌスにネロ排斥の旗頭になるように頼みにきた親衛隊達が口々に言っている「キリスト教の迫害」ネロが口で言っている「長老コルプロの罷免」を芝居としてみせて欲しかった。たとえば重税に市民が苦しんでいたり、親衛隊を酷いやり方で遠ざけたり…など他にも見せ方はいろいろあったと思うのです。ところが「隠微淫乱な」という場面だけを見せて後はセリフだけだったのが非常に残念です。
 私はお芝居の始めに見せたアグリッピナが奴隷に怒りを露にしている理由が馬車を横切ったから…という場面は別にいいと思うのですが、それに時間をやたらと裂き過ぎだと思うので、ここをもっと削って先に書いた「悪行の数々」を見せてくれてたらなぁと本当に今更ながらなのですが思います。

 たくさんの出演者に出番を与えるために、少しずつでもセリフを与える。こういう脚本がこれからも通用するとは思えないのです。作品を見ごたえのあるものにしようと思うのなら、もっと違うやり方を考えるか、もしくは割りきるかしかないのでは…。
 


 上記の点が気になるとはいえ、最初に書いた母とのエピソードのほか、プロローグの群舞、ネロの登場場面、サビナとのエピソード、剣の舞、黒い衣装のネロ、そして何よりもネロの最後。見せ場を心得た演出は好きなところが多く、オペラチェックに忙しい作品となっています。

 ネロの死ぬ場面なんて、あそこのこの表情が…とか、このセリフの言い方が…とか、あの不敵な笑みが…とか、柱の倒れ方が…とか、幕が落ちてきて…とか、冠の落ち方が…とか、手ののばし方が…とか、、オペラで細かい表情を見ようか、裸眼で全体の中のネロを見ようか悩んでしまってもう大変。とにかく集中してみているので最後は疲れて涙をためながら放心状態ですが、それだけに満足感に浸れます。

 ★Nifty-serveより転載★

   
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