東宝星組公演
『誠の群像』
<作品>(2/2)
第九場A 別れ
土方とお小夜はそれから何回か逢っていた事が分かる追加の場面。土方はお小夜の手紙を読みながら表情がどんどんつらそうになっていきます。そして、その想いを抱えたまま池田屋騒動へ。つらい気持ちをぶつけるかの如くの立ち回りは、一層迫力を増していました。
特に、浪士(湖月わたる)を刺したまま階段をかけあがり、「バサッ」と引き抜く時のド迫力に参ってしまいました。
池田屋騒動の最後に山南の脱走を告げられた時、土方は(信じられない。)といった表情が浮かびます。ここがあるから、次の山南の銀橋の唄の始まりがスムーズに流れていて良いと思いました。
その山南なんですが、大劇場公演の時に山南の「誠」が何なのかが気になって東宝でも注目していたのですが、東宝になって「美しく死ぬこと」が強調されているような印象があるのですが、本来は「血を流す事なく尊皇佐幕を実現させたかったが、夢破れた。かくなる上は…」だから、死ぬことを覚悟して脱走したのでは?と思っているのですがその点は東宝でも今一つ明確ではないように思いました。私の解釈が間違っているのかもしれませんが。
第十場B 山南敬介脱走
山南の処遇をどうするかを新選組幹部が話し合う場面。土方の表情が大劇場とはガラリと替わっていました。他の隊士達が意見を述べている間の土方は、大劇場では表面上はひたすら冷たい「鬼」の表情だったのですが、東宝では山南が脱走したことに胸を痛めている表情がほんの少し見られます。土方は山南を信頼していて、山南の脱走には信じられない気持ちが隠しきれない。しかし、一方で局中法度を曲げる事は断じて出来ないという強い意志も感じられてその後沖田に「私や近藤さんが脱走したら!」と問いかけられて「斬る!局中法度の適用に幹部と平隊士との区別はない。しかし、その時は私の命もない。」というセリフの重みを増しています。私は今回、東宝ではこの場面が一番好きでした。
第十一場 鬼
着物を被って出てきた土方が着物を捨てると大劇場と同じ踊りの場面につながります。ここ、すごく好きです。場面全体のメリハリが増して、スピード感が高まっていると思います。東宝で観た5回の内、最初と最後は土方をオペラでアップで追って、残る3回はオペラをはずして全体を観ていましたが、全体を観たときは照明と群舞と、その真ん中で踊る土方が美しくて酔いしれました。
第十二場A 洛陽
京都で隆盛を誇っていた新選組が、敗走していくことを説明するこの場面。そういう場面が欲しいとは思いますが、説明セリフだけで終わってしまい、石田先生らしくない演出だと思いました。他にもっと見せ方があるのでは?
4人が袖に入る時に、永倉(久城彬)が少し残るのは新選組の生き残りであった事を象徴しているのでしょうか。印象的でした。
第十三場 紫陽花
土方がお小夜の家に逃げ込んでくるのが夜に替わりました。この方が情緒があって好きです。大劇場ではカットされたらしいセリフの数々、おそらく東宝が始まるにあたりセリフの復活だけでなく流れの変更もされていると思いますが、多少土方とお小夜の動きにも変更があってより自然になっていたと思います。
土方がお小夜を幸せに出来ないのは「江戸に向かうから」だけではなく、「私は鬼だから」というようになったのがすごくいいです。「人を斬る度に、鬼になっていくのが分かる。」という土方は、逆に仏の部分が見えてきます。
人を斬る事がなんともなくなっていく事を恐ろしく感じる感覚というのが、人を斬った事のない私にも伝わってきて、見ている私がつらく思えてきます。
お小夜との二夜は、敗走していく土方のつかの間の幸せだったのですが、常にその後にやってくる別れを感じさせて、せつなさが増しているようでした。幸せなひとときは幻のように消え、後にはお小夜が一人残されて終わるこの場面。東宝版でようやく完成されたように思いました。
第十四場 死と解放
土方が銀橋で泣いているのです。近藤(千秋慎)や沖田の声に反応して。近藤の清々しい声と、沖田のつらそうな声には本当に泣かされますし、マリコさんにも本当に土方が乗り移っているかのようでした。
第十五場 五稜郭
土方が榎本(稔)に「連れてきてくれてありがとう。少しは夢の続きが見られたよ。」というのはいいセリフだと思います。土方が歩き去った後、榎本が死にゆく土方を惜しんで「土方ぁぁぁ。」とうなだれるのですが、少し大劇場とは演技が変わっていると思いました。東宝の方が押さえ目で静かな演技のようですが、こちらの方が却って悲しみが伝わってきてよいと思います。
第十六場 最後の武士
土方が死ぬ場面、沖田・山南・近藤の呼びかけに応える土方の演出変更は、哀しみが増していていいとは思いますが、バックの盛り上げよう盛り上げようの音楽はちょっと悩むところです。
最後の一言「小夜〜俺は誠に生きた」というのが「俺は誠に生きた」と誰にでもなしにつぶやくようになりましたが、この変更はよいと思います。
もともと、唐突に「小夜」と言い出すような雰囲気ではありましたが、東宝版での数々の変更によって『誠の群像』は更に土方の生き様を描く事に話が集約されているので、最後は「俺は誠に生きた。」この一言がベストだと思います。
第十七場 誠の群像
お小夜の「死に場所を探していたのかもしれません。」と、勝の「土方歳三誠を貫き通した男だったな。」というセリフが、前場の土方の死に方の変更との相乗効果でぐっと締まってきたように思いました。お小夜を見守る勝には包容力が溢れていて、暖かな空気が流れます。お小夜は土方と紫陽花を見に行った頃と比べたら落ち着きがぐっと出ていて歳月の流れを感じます。
プロローグの二人のセリフがきっかけで振り返ってきた土方歳三とそれぞれの誠に生きてきた男たちの物語が終わろうとしているのだなぁ〜と思ってじわじわと泣けてくるのですが、お小夜が可憐に踊る後ろから土方がセリ上がってきて、バッとポーズを決めるところで涙も最高潮です。
土方の表情は何かこう俗世間を超越したものがあって、なんとも言えないのです。もはや言うことは何もないと言った表情に思えます。
対するお小夜は、そんな土方の周りをくるくると踊っていて愛らしい。途中で土方とお小夜がかけよるところがあるのですが、何だかその後のお小夜の振り付けが大きな華の周りを飛ぶ白い蝶々のように可愛らしいのです。お小夜はたとえ二夜だけであっても土方に愛されて幸せだったのだなぁと思えます。
そして、土方は誠に生きた悔いのない表情を見せて、お小夜はそんな土方に寄り添って幕が降りるのでした。
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大劇場公演時、私はこの『誠の群像』は良い作品であるとは思っていましたが、多少の物足りなさも感じていました。
土方の役作りについてはおおむね気に入っていましたが、冷たい鬼の部分は良いとして仏の部分が土方ではなく麻路さきのように思えてしまう時がありましたし、土方とお小夜の恋については唐突な展開、セリフに思えて気になっていました。また、場面場面につながりがすくなく、話がとぎれるように思えた事もありました。
それらの全てが東宝では改善されていました。舞台上にいるのは麻路さきではなく麻路さき演じるところの「土方歳三」その人でしたし、土方とお小夜は紫陽花で結ばれるだけの事があるのが伝わってきたし、全ての場面が一つの芝居としてつながりがるように思えました。
嬉しいやら悔しいやら非常に複雑な思いでした。出来ればこの東宝版『誠の群像』(ただし、第三場への転換の音楽はなしで。)を大劇場で通いたかった。東宝は大劇場よりも完成度の高い作品になる事が多いでしょうが、こんなにも東宝版をうらやましく思った事はありませんでした。
東宝星組公演は中日をすぎ、これから千秋楽に向けて盛り上がるばかりだと思います。チケットも完売でこれから観ていただく事は難しいかもしれませんが、出来るだけたくさんの皆様にこの作品をご覧いただきたいと思います。 星組は今、本当に充実しています。それを実感して感動した幸せな3日間でした。
見終わった時、観客一人一人の胸に、今観た幕末をかけぬけた人々の事が次々とよみがえり余韻に浸る素敵な作品です。
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