■母
「…これが…何だっていうのよ」
シンジが病室に飛び込んできてからというもの、アスカの態度は、明らかにぎこちなかった。そして、それがおそらく自分のせいである事も、シンジには分かっていた。だが今は、そんな事を気にしている場合ではない。
確かにこれまで、シンジは度々初号機の中で母のイメージを感じてきた。
だが、例えどれほどリアルなイメージであっても、それは初号機の操縦によって引き起こされる記憶の混濁の一種で、現実事象を伴うものではないと思っていたし、また、赤木博士からもそう説明を受けてきた。そして、だからこそ、シンジにとって初号機は心の拠り所としての偶像となりえたのだ。
だが、そうではなかった。
トウジとトウジの妹の体験は、明らかに、エヴァの中にいるもう一人の存在を示していた。
『間違い無い。初号機には、母さんの魂が今も残っているんだ』
碇ユイの事故。第14使徒撃滅時の初号機との融合。そして、数々の危機を救ってくれた動けないはずのエヴァ初号機。
トウジの体験を得た今、もはや疑う余地は無かった。
「アスカは今まで、…弐号機の中で、母さんとか感じた事は無かった?」
「あるわけ無いでしょ! そんなの記憶が混乱してそう感じただけよ」
「僕も今まではそう思ってた。…でも、僕もトウジも、トウジの妹までもそう感じてるんだ。あれは、確かに母さんだったって」
「だからって、何で私までそう感じなきゃなんないの! ファーストもそんなこと言ってるっていうの?」
「いや………、綾波は…そういうのは無いと思う…」
シンジはまだ、アスカに、綾波レイの秘密については話せずにいた。
「ほら見なさい。そんなのただの幻覚よ」
「だいたい、なんで鈴原の妹が出てくるのよ。パイロットでもないのに…」
そこまで口にして、アスカは一瞬、なんとなく嫌なものを感じた。
洞木ヒカリは、興奮してきたアスカの手を握り、アスカの気持ちを落ち着かせた。
一呼吸おいて、アスカは、読み終わったトウジの手紙をシンジの方に軽く放った。
「…それでも、僕は母さんに会ったと思う」
シンジは、これまでの体験をアスカたちに聞かせた。
ディラックの海へと取り込まれた時…。初号機と物理融合してしまった時…。そして、エネルギーが切れて戦えなくなったときに初号機が自ら動きシンジを助けてくれた事も。
「…僕が初号機に乗るためにここに呼ばれた時にも、まだ乗ってさえいなかったのに、初号機は僕を守ってくれたんだ」
「なんでそんな事が起きたのか、僕にはわからなかった…。でも、エヴァの中に母さんがいるなら、納得がいくと思わないか?」
「じゃあ、エヴァのどこにいるって言うのよ?」
「それはわからないけど………。アスカは、僕の母さんの事は知ってる?」
「初号機の接触実験で、亡くなったって聞いたけど?」
「僕の母さんは、エヴァの中で消えてしまったんだ。…このあいだの僕みたいに」
■碇ユイ
西暦2004年、シンジの母、碇ユイは、ここの地下実験場で亡くなった。
エヴァ初号機接触実験。ゲヒルン本部第2実験場で行われたその実験で、碇ユイは被験者として初号機に乗り込んだ。人類存続のための唯一の希望たるエヴァ。ユイは、その希望への道への始まりであるこの実験を見せるために、シンジを実験場へ連れてきた。
「…この子には、明るい未来を見せておきたいんです」
実験が開始され、スタッフの神経は、計器類に集中した。
「そう…、僕は確かにあの場所にいた…。あまりよくは覚えていないけど、とても広い実験場だった。照明がまぶしくて、多くの人たちが作業をしていたのを覚えてる」
「僕は、実験場を見下ろすガラス窓の向こうに、母さんを見つけた…。母さんが、笑ってたのを覚えてる…。僕も、母さんに手を振って答えたんだ」
「しばらくして、大人たちの様子がおかしくなっていった。ざわめきが、段々叫び声に変わっていった。…僕は怖くなって、父さんの側に近づいていくと、父さんが大声で母さんの名前を叫んだんだ。僕は思わず泣き出してしまい、誰かに抱えられて部屋の外に連れ出された…」
今のシンジには、その記憶の意味する事がよくわかっていた。シンジの目には、涙が潤んでいた。アスカとヒカリは、沈痛な面持ちで静かにシンジの話を聞いていた。
「その後しばらく、父さんも姿が見えなくなって、次に父さんと母さんの顔を見たのは、テレビでだった。事故の事がニュースになってたんだ。でも、あの頃の僕には、なんで二人がテレビに映っているのかさえ全然わからなくて、自分だけ置いてきぼりをくった気がしてた」
「外に出ようとすると、すぐに大勢の大人たちが押しかけて来て、とても怖かったのを覚えてる。僕は父さんに、ここは嫌だと何度も頼んだんだ…。周囲の様子にいたたまれなくなって、ここから早く逃げたかった…」
『シンジ…。逃げてはいかん』
「でも、3つやそこらの僕に、それは無理だった」
「…そして結局、僕は、先生のところに一人で預けられることになったんだ」
「…つい最近まで、あの時僕は父さんに捨てられたんだと思ってた。…でも、母さんの事を思い出してわかったよ」
「…逃げたのは僕だったんだ」
「最近知ったんだけど、あの後、父さんたちは、母さんを助け出そうとしたんだって…。このあいだの僕みたいに…」
「でも、結局失敗して、母さんは助け出せなかったんだ…」
「だから、初号機の中には、きっとまだ母さんがいるんだと思う。そして僕を助けてくれたんだ。トウジと同じように」
■惣流・キョウコ・ツェッペリン
アスカは考えていた。
以前のアスカなら、こんなシンジの考えなど、相手にもしなかっただろう。しかし、エヴァの呪縛から解かれた今、皮肉にも、アスカの内部に、過去に向かい合うゆとりが生まれていた。
『そっか…。ママの事故の時の事なんて、今まで考えた事も無かったな…』
* * * * *
アスカの母、惣流・キョウコ・ツェッペリンのエヴァ弐号機との接触実験は、碇ユイの事故の翌年2005年に行われた。
実験では、初号機のときの資料を元に、取りうる限りの安全策が講じられたが、それでも誰も完璧だと言える自信は無かった。しかし、タイムスケジュールからも、これ以上の計画遅延は許されなかった。
「やれる事はすべてやったわ。実験を開始しましょう。去年の初号機の実験では、被験者は消滅したけど、接触実験としては一応成功と呼べるだけの成果は出ているし、私の理論が正しければ、もう提供者の肉体が消滅するような事態は起きないはずよ。それに日本では、データサンプリング用の零号機の改修投入まで決定したというじゃない。プロダクションモデル1番機であるこのエヴァ弐号機ばかりが、手をこまねいているわけにはいかないのよ。私たち人類に残された時間は、わずかなのだから」
被験者当人である惣流・キョウコ・ツェッペリンの言葉により、弐号機の実験開始が決定された。
実験の前日、キョウコもまた、娘のアスカを実験施設へと連れてきていた。ジンクスを信じるわけではないが、初号機の実験結果を考えると、さすがに実験当日アスカを連れてくる気にはなれなかった。
幼いアスカの見上げたそれは、現在の弐号機とは似ても似つかぬものだった。形状維持のための巨大な物々しい装置に囲まれたそれは、辛うじて人型の形状をしてはいたが、全身を包むべき拘束具も、まだ半分近くが未完成で、装甲板の無い部分では、内部組織が今にも弾けんばかりに大きく膨らんでいた。現在の弐号機の面影があるとすれば、頭部ぐらいのものだった。
アスカは、その包帯に包まれた巨人を見て怖くなり、母にギュッとしがみついてきた。
「大丈夫よ、アスカ。これはあなたの味方なのよ」
「ママ…。ママがこれに乗るの?」
「いいえ。完成したら、これにはアスカが乗るのよ」
キョウコは、アスカの前にしゃがみ、愛娘の顔を覗き込んだ。
「アスカは、これに乗って、世界中の人たちを守る世界一のパイロットになるのよ。明日ママは、このエヴァ弐号機がアスカの言う事をよーく聞くように、これに魂を吹き込むの」
* * * * *
アスカは、愕然とした。
『…まさか…それじゃ、あの接触実験っていうのは………』
アスカは、これまでに自分が関わってきた実験の記憶を必死に手繰り始めた。
「アスカ…?」
ヒカリとシンジは、険しい表情で必死に何か考えているアスカを、心配そうに見つめていた。
■セカンドチルドレン
接触実験の後、エヴァに人が搭乗しての実験は、ただの一度も行われてはいなかった。
2010年。突然、人類補完委員会の命令により、調査機関ゲヒルンは、特務機関ネルフへと組織変更された。その突然の事態に、ドイツ第3支部員の多くは動揺したが、すぐにその理由も明らかとなった。
マルドゥックの報告書、その第1号、第2号が提出され、ついにエヴァのパイロットが決定したのである。
2006年、人類補完委員会は、エヴァンゲリオン・パイロット選出の為の直属の諮問機関として、マルドゥック機関を設立した。マルドゥック機関は、まったくの非公開組織であったため、その実態は掴めなかったが、アスカのデータもまた、EVA適格者候補の一人として、提出され続けていた。
『世界一のパイロットになる』
キョウコの遺言とも言うべき言葉を胸に、アスカはあらゆる訓練に耐え、克服していった。そして、母の死から5年。マルドゥック第2号報告書により、アスカはついに念願のエヴァ弐号機専属パイロットとなったのである。
「おめでとう、アスカちゃん」
その少し太った中年の女性研究員が、アスカにパイロット決定を告げた。
「あなたは、EVA適格者のセカンドチルドレンとして、認められたわ。これであなたは、正真正銘のエヴァ弐号機専属パイロットよ。あなたのママが命をかけて作った弐号機を、大事にするのよ」
「…私が、一番(ファースト)じゃないの?」
「ファーストチルドレンは………日本のネルフ本部にいる綾波レイという子ね。零号機のパイロットよ」
「数字を気にする事はないわ。たぶん、アスカちゃんは弐号機のパイロットだからセカンドなだけよ。パイロットとしては、アスカちゃんこそ、一番よ」
そんないい訳をされても、アスカには嬉しくはなかった。
「私が一番のパイロットになるのよ」
アスカの決意は堅かった。
数年後。アスカの訓練も順調に進んでいた。
「ねえ。まだ、エヴァには乗れないの?」
「事はそう単純ではないのよ、アスカちゃん。でも、弐号機の生体部品の定着状態もだいぶよくなってきたし、弐号機最初のシンクロテストもそう遠くはないわね」
「あら? 2回目じゃないの?」
「何言ってるの。シンクロテストは、弐号機はもちろん、零号機、初号機ともに、まだ一度も行われていないわよ。でも、この調子なら、アスカちゃんが1番になれるかもしれないわね」
* * * * *
『そっか…。それじゃ、やっぱり、ママの接触実験と私のシンクロテストとは、全然別の物だったんだ…』
アスカは毛布をギュッと握った。
* * * * *
ついに、シンクロテスト開始の決定が出た。そして、その第1回目は、弐号機が行う事となったのである。この決定には、ドイツ第3支部のE計画スタッフも歓喜の声をあげた。
「俺達だって、本部の連中に負けちゃいないさ」
「零号機は、未だに実験段階までに仕上がっていないというじゃないか」
「機体の仕上がり具合は、初号機が一番のようだが、マルドゥック機関の連中、未だにサードチルドレンを選出できずにいるしな」
エヴァと人間とのシンクロテストでは、人間が精神汚染を受ける危険も確かにある。だが、かつての接触実験の頃とは技術力も格段に進歩している。当時とは違い、スタッフにはかなりの自信があった。
「アスカちゃん。落ち着いていきましょう」
初めてのシンクロテストは、失敗に終わった。ただ、わずかだがエヴァにも反応が出ている事は確認された。
2ヶ月後、弐号機の実験データを元に、ようやく零号機のシンクロテストも開始された。だが、零号機もまた、なかなかシンクロ出来ずにいた。そしてさらに7ヶ月後。ついに零号機がシンクロに成功した。
「シンクロとは言っても、まだ0.02だけよ。気にする事はないわ、アスカちゃん」
「別に気になんてしていないわ。エヴァが動かせるレベルにならなけりゃ、意味無いんだから」
アスカが、初めて弐号機とシンクロしたのは、それから1ヶ月ほど後の事だった。そして、2014年暮れには、どちらのシンクロ率も65%を越えており、ついに起動実験の開始が決定された。
起動実験は、零号機、弐号機とも、同時期に行う事が決まったが、準備の若干の遅れから、弐号機の方が1週間遅れる結果となった。
「…零号機の起動実験、失敗したそうだな」
「ああ。起動した途端、制御不能となり暴走したそうだ」
「何でも、パイロットも重傷を負ったというじゃない…」
接触実験と同じなのか…? スタッフの間に動揺が走ったが、アスカはまったく意に介さなかった。
零号機に比べ、弐号機の起動実験は、実にあっけない物だった。ほとんど動かなかったのだ。
「駆動系には確かに反応が出ているわ。わずかとはいえ、手足も反応したんだし…。あせらず行きましょ、アスカちゃん」
「ケガでリタイアするよりマシよ。シンクロ率と同じで、すぐに自由に動けるようになるわよ」
だが、もはやそんな余裕が無い事は、誰もがよく知っていた。
* * * * *
『ダメね…。その後も、わたしが経験したのは、シンクロテストぐらいだし、後は実戦経験しか……』
『実戦? …そうだ』
アスカは急にシンジに問いかけた。
■人格移植OS
「ねえ、シンジ。あんた、私と始めて会ったとき、いっしょに弐号機に乗ったわよね」
不意の問いかけに、シンジは一瞬躊躇した。
「え? あ。ええと…、ああ。海で戦ったときの事?」
「そうよ。あの時あんたが、私と弐号機のシンクロ率に影響したみたいだけど、あんたは私のママを感じとれた?」
「わからなかったと思う…たぶん…。そう言えば、第4使徒が攻めてきた時も、初号機にトウジとケンスケが乗ったんだけと、あの後二人とも、何かを感じたなんてこと一言も言ってなかった…」
「そう…」
『空振りか…』
アスカはため息をついた。
「…エヴァって、誰でも乗れるものなの?」
洞木ヒカリは、ふとアスカに尋ねた。
「まあ、乗るだけならね。まともに動かすには、パイロットに合わせてコアの変換が必要らしいけど……」
「コア!?!」
アスカとシンジは、同時に声をあげた。
「私が弐号機から降ろされたら、弐号機のコアは、新しいパイロット用のものに書き換えられるって言ってたわ」
「僕も聞いた。カヲル君がコアの変換無しに弐号機とシンクロして…、そんなことは理論上有り得ないって伊吹さんが言ってた。それにカヲル君も…」
『…この弐号機の魂は、今自ら閉じこもっているから』
「それじゃ、コアの変換っていうのは、パイロットの母親の魂を入れ換えるってこと…?」
「そんなこと出来るの?」
ヒカリは思わず聞いてみた。
「不可能な話じゃないわ。ここには、マギシステムっていうコンピュータがあるんだけど、それには人間の人格が入れられているの。人格移植OSって言って、エヴァにも応用されて………」
アスカの脳裏に、突然一つの記憶が浮かびあがった。
* * * * *
2012年、ネルフドイツ第3支部にもマギシステムが導入された。
「これで、弐号機の開発も随分楽になるわね」
「そんなに凄いの?」
テストを終えたアスカは、研究員に聞いてみた。
「そりゃあもう。今までも、ここの計算の半分は、松代のマギ2号に肩代わりしてもらってたんだもの」
「ふ〜ん」
「あなたのママは、二つの人格をつなぐ研究をしてたけど、このマギには、人格移植OSっていう、生体コンピュータに人格をコピーする技術が使われているのよ」
「へ〜。じゃあこれは、人格のあるコンピューターってわけ」
* * * * *
「そんな……。マギの完成は2010年。接触実験は2005年…。コアを書き換える技術が、マギの人格移植技術の応用なら、接触実験は…」
「魂の無いエヴァに魂を与えるのが接触実験の目的で、その理論的究明が人格移植技術を産み出したんだとしたら…」
アスカは急に震えだした。目には涙があふれている。
「それじゃママは、初めから無謀な実験である事を承知で、接触実験を行ったっていうの?」
「エヴァに自分の魂を与え…」
「魂を与えられたエヴァを操縦するための方法を、自ら研究して…!」
「その操縦を、娘に托したっていうの!?!」
「……ウ…ウェッ!!」
「アスカ!!」
アスカは、激しく嘔吐した。惣流・キョウコ・ツェッペリンが、あの実験に、エヴァ弐号機に、アスカに、どれほどの思いを込めていたことか。
ヒカリはとっさに近くのタオルと洗面器を取り、アスカを介護した。
「………ねえシンジ。あんたさっき、接触実験でお母さんに手を振ったって言ってたわね…」
「え?」
「でも、実験中はあんたのお母さんは、エントリープラグの中のはずだし、どうして窓から見えたの?」
「僕は、確かに母さんを見て……」
シンジは、もう一度記憶を手繰ってみた。記憶が鮮明になるにつれ、母の像が歪んだ巨大な物体へと変化していった。
「うわぁ!!」
それは、建造中の初号機の姿そのものだった。弐号機同様、包帯だらけの醜い巨人の姿であった。
「確かに母さんに手を振ったんだ。母さんを見たんだ。母さんが笑ってて…」
「落ち着きなさいよ!」
アスカは、シンジの顔に枕を投げつけた。
「どうやら鈴原の手紙は、間違ってないみたいね」
アスカは、ベッドから降りた。よろけるアスカに、ヒカリは慌てて肩を貸した。
「行くわよ!」
「行くって、どこへ?」
アスカは、呆れた顔でシンジを見た。
「あんたバカァ!? 弐号機のところに決まってるでしょ!」
アスカは、二人の手を借りながら、弐号機のところへ向かった。
アスカもまた、以前のペースを取り戻していた。
|