ナザルガザル。その小さな村は、切り立った渓谷の狭い川辺にひっそりと息づいていた。耕せる土地は狭く、日差しにも恵まれない。だがそれでも、自然の要害は溢れるモンスターから村人を守り、ささやかな営みを支えてくれた。
日差しはまだ断崖の影に隠れていない。村に続く道を、若き狩人ヴォイスが歩いている。皮や鉄片を用いた防具は十二分に使い込まれ、飴色の光沢を帯びている。肩にははち切れんばかりに獲物を詰めた背嚢を掛け、両手にも縄でくくったモンスターの素材を下げていた。
「おーい! ヴォイスが戻ったぞー!」
村の門をくぐると、知らせを聞きつけた村人達が集まってきた。
「おお、ヴォイス。首尾はどうだった?」
竜人族の鍛冶屋が笑顔で近付いてくる。ヴォイスは背嚢を降ろすと、青白く輝く大きな固まりを差し出した。
「ほう。これは見事な氷結晶じゃな」
女村長は老眼鏡をつまみ、しげしげと眺めた。
「やれやれ。蒼の洞窟に入りおったな?」
「蒼の洞窟だって!?」
「あそこは雪トカゲの巣じゃないか!」
取り巻く村人達が騒然となる。モンスターに対抗する充分な武器も装備も無いこの時代、人間はモンスターの餌に過ぎなかった。いにしえには世界は人間で溢れていたと言うが、今では肥沃な土地はモンスターに明け渡し、痩せた土地でひっそりと生きるしか術は無かった。
ヴォイスはスッと笑みを浮かべると、白い鳥竜ギアノスの皮や鱗の束を村長の前に積んだ。
「大猟だ」
モンスターの素材は村の重要な交易品だ。生肉の塊や鉱石、薬草。ヴォイスは今日の収穫を背嚢から取り出した。まだ二十歳になったばかりのヴォイスは、モンスターに対峙できる村唯一の狩人だった。子供達が牙や骨を手にはしゃぎ回る。鍛冶屋は受け取った氷結晶を、つぶさに観察した。
「これなら最高の氷室箱が出来るぞ」
「氷室箱って……まさかリリルの母親の腕を入れるための?」
「まだ墓を作ってないのか?!」
どよめきが広がる。あれから一週間。ヴォイスが樹海で拾った少女リリルは、未だに母親の腕から離れられない。幼い彼女には、死というものが分からないのだ。ヴォイスはリリルのために氷室箱を作り、母親の腕を彼女の見える場所に安置していた。
「ごめんよ、ヴォイス。出来ればうちで引き取ってやりたいが……」
「腕と一緒じゃね〜」
「あんな幼子を抱えて、大変だろう」
「それは聞き捨てならないニャ!」
同情する村人の背後から声が響いた。ネコ型獣人族のオカワリだ。リリルと同じ背丈のオカワリは、黒猫姿のメラルー種で、今はヴォイスの家に居候し家事一切を切り盛りしている。
「ボクがいる限り、ふたりに不自由はさせないニャ!」
オカワリも、飛竜に襲われているところをヴォイスに救われたのだった。尻尾は食われてピンポン玉大になってしまったが、村に着くなりガツガツとご飯を食べるその姿にオカワリと名付けられ、そのままヴォイスの家に居着いているのだ。本来メラルー種は泥棒ネコとして嫌われているが、オカワリ曰く、メラルー種は義理堅いのだという。
オカワリはヴォイスの前に来ると、当然という顔をして手のひらを指し出した。ヴォイスはフッと笑うと、背嚢からマタタビを渡した。
「ニャ──!」
オカワリはマタタビを受け取ると、嬉しそうに小躍りした。
ヴォイスは顔を上げ、自分の家を見た。扉に隠れるようにリリルがこっちを覗いている。
「リリル」
ヴォイスが声を掛けると、リリルが小走りに近付いてきた。彼女が心を許すのは、まだヴォイスとオカワリだけだった。リリルはそっとヴォイスの腕に掴まった。
「ボイス。おかぇりなさい」
ヴォイスは背嚢から小さな白い花束を取り出した。
「綺麗な雪山草じゃな〜。よかったのう、リリル」
村長が優しく頭を撫でてやる。リリルは微笑むと、花束を握り小さな足でタタタタと走り出した。母にあげるのだ。村長達は、彼女の後ろ姿を悲しげに見送った。
「まったく、痛ましいことじゃ……」
「それにしても、いったいどこから来たのかねえ。この辺りの村じゃないようだけど……」
「可愛いべべ着て。どっか大きな街じゃないのか?」
「ヴォイス。リリルは何か言ってなかったか?」
鍛冶屋の問いに、ヴォイスは首を横に振った。
「母親とふたり、ずっと旅して来たそうだ」
「こんな辺境にか? 何だってまた……」
村人達は、心からリリルの身を案じていた。村長はみんなを代表するように告げた。
「事情などどうでもよいさ。あの子には未来がある。時が経てば心の傷も癒えよう。このナザルガザルで静かに暮らして行けばよいのじゃ」
村人達は皆、笑顔で頷くのだった。
ヴォイスの収穫を運び、村人がそれぞれの仕事へと戻っていく。その時、一人の村人が門から飛び込んできた。
「大変だ! 西の峠に雷神が出た!」
「何じゃと!?」
村が騒然となる。西の峠には女達が薬草を摘みに出かけている。
「それでみんなは?!」
「襲われたのか!?」
息を切らす村人を全員が取り囲む。
「い、いや。何とか襲われずに済んだ。急いでこっちに向かってる」
安堵のため息が広がる。
「よく見つからずに済んだな」
「あの飛竜は獲物と見ると容赦がないからな〜!」
村人は差し出された水を一気に飲み干すと、話を続けた。
「峠を越えようとした旅人がいたみたいだ。あいつはそっちに気を取られたらしい」
「見捨てたのか!」
鍛冶屋の怒鳴り声より早く、ヴォイスは家に駆け込み、急ぎ装備を直した。
「無茶言うなよ! 雷神だぜ!? 襲われたら助かりゃしない!」
鍛冶屋もまた、自分の工房へと駆け込んだ。村長が村人に号令する。
「急ぎ女衆を村へ! 火を焚き、飛竜除けを増やすんじゃ! 村に近づけてはならぬ!」
村人が四方へと走り出す。十数年前、ヴォイスの両親も、峠の向こうで飛竜に襲われ命を落とした。行商人だった両親は幼いヴォイスを荷物に隠し、囮となって死んだのだ。
「ヴォイス!」
装備を調えたヴォイスに向かい、鍛冶屋が避雷針の束を投げる。ヴォイスはそれを掴むと、疾風となって西の峠へ向かった。
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