峠を後にしたヴォイス、サガ、ナツキの三人は、ナザルガザル村へと続く渓谷の道を上流へと歩いた。道幅は荷馬車一台が通れるほどしかない。眼下には深碧の川面が心地よい水音を響かせている。前方を見ると、谷が大きく左に切れていく。
「あれは……凧?」
ナツキが谷を埋めるように浮かぶ幾つもの大きな影を指さした。ヴォイスが頷くと、サガが代わりに説明した。
「飛竜除けだな。谷を下る風を利用しているんだろう」
「飛竜除け?」
「風の多い地方によくある備えだ。大型の飛竜ほど頭上を飛ばれることを嫌って、そういう場所には降りてこない。その習性を利用したものさ」
「詳しいんだな」
肩を貸しながら、ヴォイスはふっと笑った。
「いろんな地方を旅してきたからな。知識も貯まるさ」
湾曲する対岸に、堆積で出来た階段状の僅かな平地が見えてきた。ナザルガザル村だ。村へと続く古く大きな橋が見える。橋のたもとでは篝火が焚かれ、橋守と村の子供達が集まっている。
「こら、お前ら! ガキは家に隠れてろ。雷神が来たらどうすんだ!」
「平気だい! 雷神なんかヴォイスがやっつけちまうさ!」
「あ! ヴォイスだ!」
子供達が駆け寄ってくる。大型モンスターと対峙できるヴォイスは子供達のヒーローだ。ヴォイスは橋守に声を掛けた。
「雷神は逃げていった。もう火を消していいぞ」
子供達がはしゃぎ回る。橋を渡ると、村の入り口を示す大きな櫓門が出迎えた。モンスターの襲撃を防ぐ古く頑丈な櫓門。その分厚い扉には、サガの上着と全く同じクロスの紋章が、白い石を填め込んで描かれていた。肩越しに、微かにサガの反応が伝わってくる。その横では、ナツキまでもが目を見開いて紋章を見ていた。サガはヴォイスに尋ねた。
「ヴォイス。君はこの紋章が何なのか知ってるかい?」
「昔からあるものだが……」
サガは大きな白い紋章をジッと見つめながら、そのまま遠くを見るように告げた。
「昔か……。そう、遙かな昔、ほんの僅かな昔、この紋章は世界中に溢れていたんだ」
サガはヴォイスの介助を離すと門の中へと入っていった。ナツキはそんなサガの様子をじっと見つめ、後に続いた。
村の広場では大勢の村人がサガ達を暖かく出迎えた。ヴォイスはふたりを自分の家へと案内した。村長と共にリビングに入る。
「へ〜。結構広い家じゃないか」
ナツキは辺りを見回した。予備の甲冑や武器が並ぶ。壁にはモンスターの素材を納めた大きな戸棚が並んでいる。行商人だった両親が、交易品の保管に使っていた物だ。
「くつろいでくれ」
ヴォイスはサガを椅子に腰掛けさせながら告げた。ナツキは愛用のライトボウガンと背嚢を降ろし、上半身の甲冑を脱いだ。シャツに包まれた豊かな胸が現れる。
「ほほ〜、これはまた、たわわな乳じゃな」
「……どういたしまして、おばあさん」
村長が楽しそうに笑っている。奥からリリルが勢いよく飛び出してきた。
「ボイス、おかぇりなさい!」
安堵にべそをかいたリリルがヴォイスに抱き付く。
「ただいま、リリル」
「リリル!?」
サガの体が硬直する。リリルが振り向くと、サガは思わず顔を逸らした。
「……あんたの妹かい?」
ナツキがヴォイスに尋ねた。
「みなし子だ。一週間ほど前、南の樹海で拾った。母親が飛竜に食われたらしい」
ヴォイスはささやかな祭壇に置かれた氷室箱を指さした。ナツキは氷室箱に近付くと、眠る母親の腕を見つめ手を合わせた。
『アラ? この指輪』
氷室箱の白い指に大きな指輪が光っている。プラチナの座金には、金を流して描かれたクロスの紋章が輝いている。
『また、この紋章!』
ナツキは自分のローズレッドのベルトをそっと指でなぞった。オカワリがお茶を運んでくる。リリルはたどたどしい足取りでお茶を氷室箱に供えた。
「ハイ、ママ」
村長とヴォイスは、リリルを悲しげに見つめた。
「まったく、痛ましいことじゃ」
「一口で噛み切られている。これほど鋭い牙の痕は見たことが無い。どんな奴か……相当凶暴な竜に襲われたんだろう」
リリルはヴォイスの隣にチョコンと座ると、果汁のジュースを美味しそうに飲んだ。
「よく、助かったわね……」
ナツキはリリルを悲しそうに見つめた。サガはそんなやり取りに加わることなく、終始無言のまま傷の手当をしていた。
サガはヴォイスの家に、ナツキは村長の家に逗留することとなった。渓谷の夜は暗い。川の音だけが心地よく響いている。人々が寝静まった頃、ヴォイスはいつも見るあの夢にうなされていた。
真昼の砂漠が突然真っ暗闇になる。黒い空に、総ての光を飲み込んだ白く輝く巨大な龍が舞っている。火花を散らす光球が辺り一面に降り注ぐ。ヴォイスの両親は必死に荷馬車を走らせた。
「くそう、駄目だ! とても逃げ切れん。荷馬車を捨てよう!」
「あなた!」
両親は荷馬車を大岩に叩き付けるように横付けすると、馬車を引く草食獣の轡を切った。恐怖に駆られた草食獣が砂漠を逃げ走る。光球が襲い、草食獣が一撃で黒こげになった。父は斬馬刀を抜き、母は弓を手に取った。
「おとうさん、おかあさん!」
幼いヴォイスが母の手を取る。母親はヴォイスを大岩と荷馬車の隙間に押し込むと、荷物を被せ彼を隠した。父が決死の形相でヴォイスに告げた。
「お前はここにじっと隠れていろ! 明るくなるまで絶対に音を立てるな!」
「生きるのよ、ヴォイス! 愛してるわ!」
「おとうさん! おかあさん!」
両親はヴォイスを素早く厳重に隠すと、囮となって走り出した。光球の地響きが荷馬車を揺らす。戦う両親の叫び声が微かに聞こえる。幼いヴォイスは両手で必死に口を塞いだ。見開かれた瞳から止めどなく涙が流れる。
おそらく、それはほんの僅かの時間だったに違いない。気が付くと巨龍の咆吼は消え、辺りは静寂に包まれていた。荷物の隙間から光が射し込んでくる。ヴォイスは恐る恐る外に這い出した。力強い日差し。微かな風。砂漠は元へ戻っていた。ヴォイスは両親を捜した。波打つ砂に、戦いの跡が残る。へし折れた斬馬刀。砕けた弓。焼け残った父の体。優しかった母の長い髪。ヴォイスは腕をへし折るほど強く抱きしめ、絶叫をあげて泣いた。
全身を強張らせヴォイスは目覚めた。体中脂汗をかいている。額の汗を拭き、大きく息をする。
「また、あの夢か……」
鞭のような長く太い尾。背中に生えた巨大な翼。蛇のように体をくねらせ、白く輝く巨大な龍。ヴォイスはその龍が祖龍ミラボレアスと呼ばれる事をまだ知らない。深い悲しみと怒りが、体中を駆け巡っている。ヴォイスはベッドから降りると斬馬刀を掴み、静かにリビングへと出ていった。
暖炉の前に腰掛け、斬馬刀の手入れを始める。復讐心を練り混むように愛刀を磨く。冷えた刀身にたぎりが沈み、ヴォイスの精神が研ぎ澄まされていく。川音だけが静かな夜に響いている。
突然、断末魔の叫びが静寂を切り裂いた。ヴォイスは声の方へ振り返った。
「ママ──! ママ──!」
毛布を握りしめ、リリルが泣きじゃくりながら歩いてくる。
「大丈夫ニャ。ここは安全ニャ」
眠い目を擦り、オカワリが慰めながらついてくる。ヴォイスはリリルを優しく抱いてやった。毛布で体を温めてやる。ヴォイスは穏やかな声でオカワリに告げた。
「ここはいい。お前は休め」
「……そうさせてもらうニャ」
オカワリが自分の寝床に戻ろうとすると、客間の入り口にサガが立っていた。
「驚かせてすまなかったニャ。お客人も休むといいニャ」
オカワリは、リリルと寝ていた部屋に戻った。
腕の中で、泣き声が静かな寝息へと変わる。ヴォイスはリリルを傍らに寝かせ、そっと毛皮を掛けてやった。この小さな命もまた、ヴォイスと同じ悲しみを背負ったのだ。ヴォイスは、涙に濡れるリリルの頬を優しく拭いてやった。
「必ず……仇を取ってやる」
ナザルガザル村に穏やかな朝が訪れた。村人は仕事に汗を流し、子供達は川辺で遊んでいる。用心棒のナツキは、することもなく村の光景を眺めていた。甲冑の音に振り返ると、ヴォイスが装備を調え狩りに出ようとしていた。血の気の多い性分のナツキは、ヴォイスに同行を申し出た。子供達に見送られ村を発つ。サガは二人を戸口から見送ると、ひとり村長の家へ向かった。
屋敷の前にござを敷き、村長がウチケシの実を剥いている。村長には竜人族がなる事が多い。竜人族は人間より数倍も長命であり、その豊富な経験から自然と村の中心になるからだ。だが、このナザルガザル村においては、代々村長は竜人族ではなく人間だった。女村長は近付くサガに気付いたが、そのまま作業を続けた。サガは一礼すると彼女の前に腰を下ろそうとした。村長は新しい実に手を伸ばしながら静かに切り出した。
「塔に登るつもりなら止めておけ」
サガは一瞬体を硬直させ、そのまま胡座を組んで座った。
「門に描かれた白一色の紋章。やはりここは近衛の村ですか?」
村長はチラリとサガを見ると、再び実を剥き始めた。
「赤の紋章は飾りではないか。その名を知る者は、もはやこの村にはおらぬ。今は只の貧しい村じゃ」
サガは手を付き身を乗り出して尋ねた。
「教えて下さい。帝都はここにあるのですか?」
「去る事じゃ。お前さんもその呪われた赤の紋章を継ぐ者なら知っておろう。都はそれを望まぬ」
村長は実を剥く手を止め、ジッとサガを見た。
「わしももはや多くを知らぬ。お前さんが用心棒に連れているあのお嬢ちゃん。あの者も、ただ金目当てで付いてきたわけでは無さそうじゃな。知る者も少なくなったとはいえ、これ見よがしにその様な不吉な紋章を曝すものではない」
サガはフッと自分を笑い、答えた。
「少ないからこそ、こうして曝す意味があるんです。彼女が何者かは知りませんが、紋章に所縁があるのは確かなようだ。そして、こうしてあなたにも出会う事が出来た。真実を知るためなら、少々の危険は覚悟の上です」
サガは腕の傷を庇うように立ち上がった。村長は溜息を吐いた。
「命を粗末にするでない。今更、滅びた帝国を知って何になる。塔には古龍も巣くっておるぞ」
「古龍……理と共にある者、ですか。わたしはこれまで四つの塔を調べ、生き延びてきました。帝都を見つけるまでは、死ぬつもりはありませんよ」
サガは礼をすると、ヴォイスの家へと戻っていった。
ヴォイスとナツキは、村の南にある密林の奥にいた。ランポスやジャギィなど群がる小型モンスターを退け、村で役立つ虫や植物を集める。ナツキの同行で、採取は殊の外捗った。
「今日の収穫としては、これで十分だ。給金は出せんが許してくれ」
「タダで飲み食いさせてもらってるんだ。宿代だと思って。それにこの程度じゃ、狩りの内に入らないよ」
ヴォイスはナツキのボウガン術に感心していた。自身も走り回りながら、無駄な矢を撃つことなく確実に動く標的を仕留めていく。相棒としては申し分ない。
「だったら、もう少し付き合うか? これからもっと手応えのある場所に行くつもりだが」
ヴォイスがフッと笑みを浮かべる。ナツキは二つ返事で同意した。
密林を抜け、更に鬱蒼とした樹海に入る。モンスターや大型昆虫の数が更に増した。
「隠れろ!」
ヴォイスはナツキの腕を掴み、巨樹の影に隠れた。樹海の上を巨大な飛竜の影が横切っていく。
「あれはリオレイア? あんな金色の奴は始めて見るわ」
ナツキは悠然と滑空する雌火竜の偉容に唖然とした。
「この辺りじゃ珍しくない。他にもいろんな色の奴がいる。聞こえないか?」
耳を澄ますと、鳥の声に混じり火竜の声が聞こえる。
「二頭……いや三頭。魚竜の声もするね」
「南西にある湖からだな。あそこはガノトトスの溜まり場だ」
「やれやれ、とんでもない所だね」
ナツキは無意識にボウガンの残弾をチェックした。
「で、どいつを狩るんだい? さっきの金の奴?」
ナツキは少し緊張した面もちで笑っている。ヴォイスは集めた素材を持つと、ゆっくりと歩き始めた。
「いや。奴らの相手はしない。それより手伝って欲しい事がある」
二人は辺りを警戒しながら再び歩き出した。
「この辺りだ」
突然ヴォイスが立ち止まった。
「一週間前、ここで俺はリリルを拾った」
辺りにはヴォイスが倒したランポスの骨がいくつか残っている。おそらく獣や他のモンスターが骸を食ったのだろう。ヴォイスはナツキの方に向き直ると、樹海に来た目的を告げた。
「リリルと母親が襲われた痕跡を探している。あの腕に残された恐ろしく鋭い噛み傷。そいつの正体を突き止めたい」
ナツキも昨日見た腕を思い出し、自分の記憶と照らし合わせた。普通、噛み傷には肉と骨の境で傷に違いが出る。いくら女性の細い腕であっても、硬い骨の部分では噛み付いた牙が引っかかるからだ。だが残された腕の傷口は、まるで肉の柔らかさも骨の硬さも無視するかのように、見事に滑らかに切断されていた。勿論この時代、そんな鋭利な刃物も存在しない。
「あんな噛み傷を残せる奴がいるとすれば、リオレイアなんかより遙かに厄介な相手に違いないね」
二人はリリルが歩いてきた方角に向かい、辺りを注意深く観察しながらゆっくりと進んだ。一週間も過ぎると、森の中の痕跡はほとんど消失してしまう。捜索するにも、そろそろ限界だろう。収穫もないまま、二人は小さな丘を登って行った。右手に、ひときわ巨大な樹木が見えた。幹の周囲だけで軽く数百メートルはある。だが、その巨樹は既に死んでいた。焼け落ちたのか、幹の上部は丸ごと失われている。枝葉を付けていた頃は、天辺は雲まで届いたに違いない。だが今は幹だけが残り、塔のようにそびえている。ナツキは足を止め巨樹を見た。
「へ〜。ここにもでかい樹の跡があるんだね。あたしの生まれ故郷でも、一番深い森の奥に、あれとよく似た物があるよ」
ナツキの言葉に、ヴォイスも振り返った。
「ユグドラシルか。あそこの根元は巨大な洞になっていて、よく飛竜どもが休んでいる。気をつけろよ」
ヴォイスがフッと笑った。それ位分かっている。ナツキはそう言い返そうとしたが、ふとヴォイスの言葉が引っかかった。ユグドラシル。ナツキの父親も確かそう呼んでいた。ナツキはその言葉を尋ねようとヴォイスの方へ振り返った。その時、ヴォイスの背後に黒雲が見えた。そしてその黒雲を突き刺すように、巨大な石の塔がそびえていた。
「あれは!」
ナツキは走り、丘の頂上に立った。巨大な太古の石の塔。あれもまた、ナツキの故郷にも存在する。ヴォイスも頂上に立った。
「大昔の塔だ。あの辺りは、それこそ飛竜の巣窟だ。ここから先は、とてもリリル独りでは逃げられない。やはり手がかりは見つからないようだな。残念だが、村に戻るとしよう」
陽も傾き始めている。ヴォイスは捜索を断念した。丘を降りる時、ナツキは再び巨樹と塔を見た。クロスの紋章、ユグドラシル、そして古代の塔。奇妙な符合に、ナツキは胸騒ぎを覚えた。
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