境界の広場ではクロとグリンが実戦さながらのトレーニングを続けていた。地面を蹴る音。舞い上がる下草。超高速で交錯する黒と緑ふたつの影。知らぬ者が出くわしたなら、何が起きているのか分からないに違いない。
クロが若さに物を言わせスピードで圧す。グリンの着地が僅かに乱れた。チャンス到来。クロはツイストターンを繰り出しグリンの死角へ飛び込んだ。
『やられたか』
グリンがそう判断した瞬間、突然クロが追撃をやめた。立ち止まり山の方を振り返る。クロはしきりに何かの気配を探っている。グリンも足を止め、山を仰いだ。気配は何も感じない。
「ギャウ──!」
突然クロは悲鳴を上げると山道の入り口目掛け稲妻のように疾駆した。グリンも周囲を警戒しながら後を追う。魚を食べていたクルペッコも二頭の異常に気付いた。山道の茂みから、ずぶ濡れになったナツキが足を引きずりながら現れた。広場へ出るなり崩れるように倒れる。
「ギャウギャウギャウ──!!」
クロはナツキの元へ着くと周囲を跳ね必死に声を掛けた。誰の目にも分かるほど激しく動揺している。グリンも側まで来るとナツキを観察した。気を失ってはいるが命に別状は無さそうだ。噛み傷など目立った外傷は無い。火傷の跡も見られない。全身ずぶ濡れだが、水球の類にやられた訳でもないようだ。
「ギャウ!」
グリンはクロに声を掛け落ち着かせると樹海の方へ首を振った。クロは平静を取り戻すとナツキをそっと大切に咥え、収納籠が置いてある木陰へと慎重に運んだ。グリンはクロを守るように山道の前に立ちはだかり追跡者の気配を探った。クルペッコも空高く舞い上がり接近する敵を探した。今のところ気配は無い。グリンは地面を見た。ナツキが抱えていた革袋が落ちている。縛られた口から大きな雷光虫が顔を出し放電を放っている。グリンは放電に触れぬよう慎重に咥えるとナツキの所へ運んだ。草の上に横たわるナツキを、クロが不安げに見つめている。グリンは収納籠の側に革袋を置くと改めてナツキを見た。火でも水でもないダメージ。革袋に詰まった特大の雷光虫。グリンの表情が険しくなる。低く唸り声を上げると眼光鋭く山を仰いだ。失われた左目の古傷が疼き始めた。
あの時、雷光虫弾を喰らったナツキは無理に動かず、一か八かの賭に出た。ゆっくり堂々と接近するジンオウガをじっと待ちながら体力の回復を図る。予想通り奴は目の前までやってきた。右足をゆっくりと振り上げナツキを踏み潰そうとする。その瞬間を狙い、ナツキはポーチから取りだした閃光玉を真上に放り上げた。ジンオウガの鼻先で閃光玉が炸裂し視界を奪った。ナツキは横転して起き上がると雷光虫を詰めた革袋を掴み、近くの小川目指して足を引きずりながら走った。両手で革袋をしっかりと抱き締め、水面に身を踊らせる。ナツキは革袋を浮き輪に渓流の流れを利用してジンオウガの追撃を振り切ったのだった。
「ウッ、イタタタ……」
ナツキが目を覚ました。苦しそうに体を起こす。
「ギャウギャウクゥゥゥ」
クロが心配して顔を寄せてきた。ナツキは大きな嘴に手を掛けた。
「やあ、クロ。心配かけちまったね」
グリンもナツキの方へと振り返る。
「あたしを守ってくれたのかい。世話になったね、グリン」
グリンはクロを見ると、嘴を振り去るように告げた。クロは地面にへばり付くように頭を下げ、ナツキに乗るように勧めた。ナツキが体を引きずりクロのうなじによじ登る。クロは静かに立ち上がると、ナツキを落とさぬよう慎重に巨樹の宿へと運んでいった。
上空からクルペッコが舞い降りてきた。少なくとも今は接近する脅威は無いようだ。グリンはクルペッコに声を掛けると再び山を仰いだ。風に木々が微かに揺れている。グリンにはナツキを襲った敵が分かっていた。左目の疼きが止まらない。グリンの右目が抑えようもなく真っ赤に燃え輝いていた。
次の朝、ナツキが巨樹の上で目を覚ますとクロの姿が無かった。ナツキの体にはツタや大きな葉が掛けられていた。彼女を隠すためクロがやったのだろう。
「クロったら。あたしを他のモンスターから守ろうとしたんだね」
ナツキの体はマリーベルの秘薬ですっかり回復した。装備を確認し寝床から飛び降りると境界の広場に向かい歩き始めた。
ナツキは昨日のジンオウガ戦を思い出していた。奴が境界の広場へ降りて来るなら自分が相手をしなければならない。リベンジという意味もあるが、ジンオウガの相手はクロにもグリンにも厳しいと考えたからだ。ナルガクルガは火と共に雷属性攻撃も苦手とする。ナツキはクロと出会った頃、クロが雷撃弾の試射を怖がった事でそれを知った。そしてその弱点は、特長において大きな違いの無い亜種のグリンも同じだろう。ジンオウガは全身に帯電し、雷撃攻撃を仕掛けてくる。スピードに勝る分、後れを取る事は無いだろうが、全身帯電した相手では飛び道具以外に打つ手も無い。奴の相手はアウトレンジから攻撃する軽弩使いの役目だ。雷神弩はお世辞にも相性が良いボウガンとは言えないが、スナイパーにとっては属性弾が使えない事など大した問題では無い。ナツキは昨日の記憶をたぐりながら、対ジンオウガ戦の戦術を練った。
境界の広場へ着いた。さんさんと陽の降り注ぐ広場にクロの姿は無かった。
「おや? あの子、どこ行ったんだろ?」
グリンやクルペッコの姿も無い。広場にはアプトノスやランポスなど小型モンスターが数頭見られるのみだ。ナツキは辺りを見回した。まだ新しいアプトノスの死骸がひとつある。クロが食べた物のようだ。
「食べたのは一頭だけか。どこかに遊びに行ったのかね……おや? この足跡は」
ナツキは真新しい足跡の多さに気が付いた。クロだけではない。グリンもクルペッコもここにいたようだ。ナツキは足跡を辿ってみた。広場の中央にいた三頭は並んで山道の方へと進み、そこで足跡が途切れている。ナツキの背筋が凍り付いた。
「まさかそんな! みんなで山に向かったの?!」
ナツキはおののき山を仰ぎ見ると、慌てて収納籠へと走った。背嚢を狩りの装備へと詰め替える。ジンオウガが相手なら雷撃弾は役に立たない。参式徹甲榴弾のグレネードバレルを雷神弩に装着する。ナツキの準備が整うと、山の方から聞き慣れた声が響いた。
「ギャ――ゥ!」
ナツキは双眼鏡を取り出すと声の出所を探した。方角の見当は付くが、森の中にいるナルガクルガはそう簡単に見つかるものではない。
「クロの声とはちょっと違ったけど……まさか!」
その時、山の一角からクルペッコが舞い上がった。先の声はあのクルペッコが出したものだ。あそこはナツキが雷光虫を採りに行った渓流がある辺りだ。あそこにクロとグリンが駆けつける。そして十中八九、奴が、ジンオウガがそこにいる。
「クロばかりかグリンまで! いったい何の真似だい! あたしゃ仇討ちなんて頼んだ覚えは無いよ! ジンオウガはあたしの獲物だ!」
ナツキはクルペッコが飛び立った場所を目指し山道を駆け上がった。モンスターに仇討ちなど、ましてやナツキのために戦うなどという感情があるかどうかは分からない。言葉でも通じない限り、ナツキには永久に知る事は出来ない。唯一はっきりしているのは、あそこにはナルガクルガが戦うには不利な相手、雷狼竜ジンオウガが待っているという事だ。
「まさか、グリンがクロを誘ったっての? でも何故?」
グリンは境界の広場を守ってはいても、山へと縄張りを広げる事はしていなかった。そのグリンが何故クロと共に山へと足を踏み入れたのか。ナツキには幾ら考えても分からない。
「ええい! ふたりとも、あたしが着くまで無事でいとくれ!」
ナツキは渓流への道をひた走った。
クルペッコが飛び立った渓流。そこではクロとジンオウガが対峙していた。
クロとグリンは二手に分かれ渓流に潜む敵を探していた。クルペッコはクロに付き添い、ジンオウガの発見と共にグリンを呼んだのだ。クロがジンオウガに向かい唸り声を上げる。
「ナツキママを襲ったのはお前だな!」
人の言葉を話すなら、きっとそう叫んだに違いない。クロは激昂し瞳を真っ赤に燃やしている。一方ジンオウガは戦闘態勢のクロを意に介さず悠然と構えている。ジンオウガの全長は二十メートルほど。グリンと同程度だ。先に戦ったドボルベルクやイビルジョーに比べれば体格の優劣はほとんど無い。クロは怒りに震える四肢を抑え、直ぐに仕掛けず我慢した。クロはグリンから、ひとりで戦うなと言われていた。ジンオウガの背中に群がる超電雷光虫が青白い放電を放っている。あれに触れればダメージは必至だ。自分だけで仕掛けるには確かにリスクが高い。だが噴き上がる怒りをこらえるには、クロはあまりに若すぎた。我慢は限界に達し、ついにクロはグリンの到着を待たずに戦端を開いてしまった。ジグザグにジャンプしてジンオウガに迫る。大きくジャンプしジンオウガの横っ面目掛け黒爪を振るった。ジンオウガは難なくクロの動きを見切り、逞しい前脚でクロの黒爪を叩き落とした。躱されたクロは素早くステップして間合いを取った。戦いが始まった。クルペッコは慌てて飛び立つと、急いでグリンを探しに行った。
ジンオウガはクルペッコを一瞥すると、見下すようにクロを睨んだ。低く唸り声を上げ、まるで準備運動でもするかのようにゆっくり首を回す。次の瞬間、ジンオウガはクロの虚を突き猛ダッシュした。ジンオウガのぶちかましが一瞬にしてクロの眼前に迫った。慌ててサイドステップで躱す。クロが背後へと向き直った瞬間、頭上にジンオウガの右前脚が振り上げられていた。ジンオウガは躱される事を計算に入れ、足を滑らせながら方向転換したのだ。ジンオウガの右前脚が唸りを上げて振り下ろされた。強烈なストンピングから逃げるため、クロは慌ててバックステップを取った。奴の前脚外側に生えた長い鉤爪が掠め、クロの頬を切り裂いた。
ジンオウガの脚は外側の爪が上向きに鉤爪のように伸びている。体が小さいハンターにはあまり意味を持たないが、大型モンスター同士の戦いでは、特に接近戦においてこの鉤爪が想像以上に意味を持つ。脚への攻撃を防ぐことは勿論だが、乱闘状態になり相手を組み伏す際には、鉤爪が相手の皮膚を少しずつ抉るように切り裂いていく。ナルガクルガの刃翼を太刀に例えるなら、差し詰めこのジンオウガの鉤爪はナイフといったところだろう。
クロは大きく身を翻し間合いを取った。頬の傷から血が滴る。クロはジンオウガを睨みながら舌を出し、口元へと流れる自分の血をペロリと舐めた。ジンオウガがクロとの間合いを維持しながら弧を描くように歩き始める。爆発的な脚力を持つジンオウガの間合いはナルガクルガ同様に広い。ダッシュやジャンプで間合いを一気に詰める事が出来るからだ。クロは身をもってそれを理解した。だが自分に比べれば遅い。始めて対峙するジンオウガ相手に、クロの闘気は微塵も揺らぎはしなかった。
ジンオウガが自ら後方へ身を翻し、ジャンプの届かぬ距離まで間合いを広げた。体をひねり、背中から雷光虫弾を放つ。二メートル以上ある大きな青白い光球が放電を放ちながら発射された。大した初速は無い。方向もクロの左脚を掠める程度の甘い照準だ。クロは念のため右斜め前方にジャンプした。間合いが元の距離に戻る。クロが次の手に出ようとしたその時、放たれた雷光虫弾が加速しながら弧を描きクロを襲った。慌てて更にジャンプする。雷光虫弾が青白い曳光を引きながらクロの後方をすり抜ける。クロが着地するその位置に、ジャンプしたジンオウガが噛み付き攻撃を仕掛けてきた。狼のような鋭い牙がクロを襲う。直撃したかに思えた刹那、クロは着地と共に真横にショートステップし紙一重で躱した。クロは雷光虫弾の弾道を見切りながらジンオウガの動きを完璧に把握していた。以前のクロならそんな芸当は到底不可能だ。クロはナツキと行ったウィングターンの練習により、状況判断能力が格段に進歩していた。
連続攻撃を躱され、ジンオウガの体勢が前のめりに崩れた。反撃のチャンスだ。だが、がら空きの背中を前にしながらクロは手が出せなかった。放電を撒き散らす体には、黒爪も刃翼も使えない。尻尾で奴の脚を払おうにも、外側に突き出た鉤爪で逆に自分の尻尾を痛める。クロは唯一残された攻撃ポイントであるジンオウガの尻尾に八つ当たりするように刃翼を一太刀浴びせ、身を翻し間合いを取った。攻撃できない自分に歯ぎしりする。だがそれはジンオウガも同じだった。雷光虫弾で敵の背後を脅かし必殺の間合いに誘い込む。喉なり腕なり食らい付き、そのまま相手を押さえ込んでとどめを刺す。山岳の狩王が誇る連続技を破られたのだ。ジンオウガは口でえぐり取った地面を吐き捨てると、牙を剥き出して唸り声を上げた。
先ほど放たれた雷光虫弾が四散して消える。超電雷光虫が次々とジンオウガの背中へ帰って行く。雷狼竜ジンオウガは、雷光虫と共生する事で電撃能力を獲得する珍しいタイプのモンスターだ。近年のハンターズギルド調査では、ジンオウガの背中から分泌される皮脂が雷光虫にとって麻薬のような効果を持ち、そこに巣くい異常生育する事で超電雷光虫になると分析されている。超電雷光虫の塊である雷光虫弾が誘導弾のような動きをするのも、雷光虫たちがジンオウガの殺気に乗り、宿主に加勢するからと言われている。当たるまで追尾できないのは、所詮は昆虫のやる事だからだろう。
「ガルルルル……」
ジンオウガはいよいよ本気になった。牙を剥きクロを睨む。ナルガクルガのスピードは確かに厄介だが、帯電していれば体を攻撃される事は無い。噛み付き、押さえ付け、肉をむしる。このすばしこい小僧を追い立て捕まえる。ジンオウガの対大型モンスター戦はまさにドッグファイトそのものだ。片やナルガクルガは一撃離脱戦法。絶対に捕まる訳にはいかない。スピードで圧倒できれば必ず勝機はあるはずだ。クロはジンオウガの周囲をジグザグに飛び回った。改めて攻撃ポイントを探す。奴の放電は背中を中心に拡がっており、顔や四肢、尻尾までは包んでいない。最も攻撃しやすいのは先の広い尻尾だが、先端部分の縁には硬いトゲが並んでいて、攻撃が有効そうな場所は少し細い中間部分に限られる。いずれにせよ、攻撃しやすい弱点部位は皆無だ。
クロは素早く背後を取ると黒爪で尻尾を狙った。だがジンオウガはそれを待っていた。前脚で思い切り地面を蹴って上体を跳ね上げ、そのまま体を捻り背後のクロに強烈なストンピングを浴びせてきた。クロは攻撃を加えることもできずバックステップで回避した。ジンオウガは地面を叩き付けた反動を利用し、クロに覆い被さるようにジャンプした。クロはギリギリまで引きつけ、残像が残るほど素早くサイドへ跳び、更にジンオウガの背後へショートジャンプした。クロを捕まえそこなったジンオウガの体が泳ぐ。クロはジンオウガの尻尾へと向き直り、旋回の勢いも乗せ細い中間部分に黒爪を浴びせた。手応えがあった。碧の鱗が砕け散る。深追いせず、連続ジャンプで十分な間合いを確保する。クロは苦々しく歯ぎしりした。圧してはいても奴の尻尾しか攻撃できない。トゲ飛ばしなら有効だが、クロの命中精度では、それほど効果は望めない。機動力で優位にあってなお、劣勢である事を覆せない。
ジンオウガの怒りが頂点に達する。一度ならず二度までも躱された。背中の放電が激しさを増す。ジンオウガはゆっくりクロへと向き直った。だが間合いは詰めてこない。その場で左右に体を捻りジャンプする。雷光虫弾が左右二発ずつ発射された。それぞれ大きく弧を描き、クロ目掛け加速していく。クロはクロスファイヤーポイントに立たされた。左へ回避すれば右の雷光虫弾が、右に回避すれば左が来る。正面ではジンオウガが助走を始めた。前に出ればジンオウガの間合いだ。二度躱せる保証は無い。クロは雷光虫弾を引きつけ、バックステップで回避した。目標を失った四つの雷光虫弾がクロのいた場所で激突した。四つの光球が一つとなって炸裂し、クロの目の前に青白い光の壁が出来る。
『前が見えない!』
気付いた時には遅かった。光の壁を突き破り碧の巨体が躍り出た。鋭いアギトがクロの頭上に迫る。『やられた!』と思った瞬間、クロの体が強烈なタックルで真横に吹き飛ばされた。ジンオウガの攻撃ではない。地面を転がったクロが慌てて振り向く。クロの目の前にグリンの逞しい体がそびえていた。
『気を抜くな!』
グリンがクロを一喝する。クロは気合いを入れ直し立ち上がるとグリンに並んだ。二頭のナルガクルガが瞳を真っ赤に輝かせ山岳の王者を睨んだ。
ジンオウガはゆっくり向きを変えると乱入者の顔を見た。左目を潰し斜めに走る大きな傷。ジンオウガはグリンの顔を見ると牙を剥いて笑った。
『その顔、見覚えがあるぞ。今度は右目をやられたいか?』
冷笑するように唸り声を上げる。
かつてグリンがまだ樹海デビュー間もない頃、才覚溢れる彼は大樹海北辺に自分の縄張りを確保すると、ケルビのより多い土地を求めて山へと進出していった。そしてそこでグリンはこのジンオウガと出会ったのだ。死闘を繰り広げるも雷属性を持つジンオウガの優位は圧倒的で、グリンは左目を失い敗走を余儀なくされたのだった。
グリンはクロを置いてジグザグにジャンプしジンオウガの正面に躍り出た。ジンオウガが一歩踏み込み、右前脚でグリンを薙ぎ払おうとする。グリンはジンオウガの爪の下を滑るように躱し、鋭く右側面へ回り込んだ。ジンオウガは上体を跳ね上げ左前脚でストンピングを浴びせた。爪がグリンの頬を掠め地面にめり込む。グリンが更に右側面に回り込む。地面にめり込む左前脚を跳ね上げ、向きを変えながら右前脚を振り下ろす。グリンを追撃するには明らかに窮屈な体勢となり攻撃がまるで当たらない。体幹が前後に伸びる大型モンスターには、真横への攻撃手段を持たぬものが多い。右へ右へと回り込まれ、ジンオウガが業を煮やす。そして側面を取られる事を嫌った大型モンスターは、大抵ひとつの行動に出る。ジンオウガは逆方向へ体を回し、尻尾で周囲を薙ぎ払いながら宙返りした。グリンはそれを待っていた。放電撒き散らすサマーソルト攻撃をバックステップで躱し、ジンオウガの頭の方へと回り込む。地響きを立てジンオウガが着地した。連続攻撃に息が上がり動きが固まる。
『ここだ!』
グリンはジンオウガの頭の側面に踏み込むと、鋭く後方宙返りした。前に突き出されたジンオウガの喉めがけ、長い尻尾で思い切りアッパーカットを喰らわせた。曝したのど笛を鞭打たれたのでは堪った物ではない。ジンオウガは悲鳴を上げて大きく仰け反るように怯んだ。
クロはグリンの戦い方に目を見開き、そして自分を恥じた。戦いを挑む以上リスクがあるのは当たり前だ。ましてや相手は自分より圧倒的に有利なのだ。リスクを恐れて勝てる相手では無い。自分は牙と放電を恐れ尻尾を攻める事だけを考えていた。自分はまだまだ修行が足りない。戦力としてはグリンが上だ。自分が勝てるのは唯一スピードだけ。ならば自分の役目はひとつだけだ。
「ギャ――――ゥ!!」
クロは大きく雄叫びを上げるとジンオウガ目掛け連続ジャンプで突進した。グリンとジンオウガが振り返る。
『何をする気だ?』
クロは側面からジンオウガを飛び越えるように大ジャンプした。体を捻って左腕を思い切り伸ばし、放電に包まれたジンオウガの背中を力一杯攻撃した。黒爪が背中の鱗を切り裂き、一部の超電雷光虫がバラバラに砕け散った。ジンオウガの反対側に激突するように着地し転がった。左の翼膜が放電をまともに喰らい裂けるように痛い。クロは歯を食いしばり再び構えた。無警戒の背中への攻撃。ジンオウガはダメージ以上の衝撃を受けた。反撃せず、慌てて大きく身を翻しクロとの間合いを取る。ジンオウガにとって背中は優位確保の根幹だ。そこに相打ち覚悟で特攻された。
『この命知らずが!』
ジンオウガは標的をクロに絞った。突進しクロに襲い掛かる。クロはあえて間合いを開かず、ステップでジンオウガの周囲を飛び回った。ジンオウガ相手にドッグファイトを挑んだのだ。筋肉の鎧を纏ったジンオウガのパワーは伊達ではない。鋭い爪が唸りを上げてクロの体を掠めていく。黒い体毛が削がれ、少しずつ傷が増えていく。黒爪や刃翼で防ぐが明らかにパワー負けしている。
『何てことを!』
グリンはクロの意図を読み取った。
クロは滑るようにジンオウガの背後に回り込んだ。ジンオウガは上体を捻りながら前脚を思い切り跳ね上げ、背後のクロに真上からストンピングを喰らわせようとした。ジンオウガが立ち上がり後ろを向いた正にその瞬間、クロの後ろからグリンが突き上げるように飛び出した。グリンの緑爪がジンオウガの頭にカウンターで決まった。右角の先端が砕け散りジンオウガが怯む。クロは仰け反るジンオウガの胸を刃翼で切り裂き、そのまま背後に身を翻し間合いを取った。クロは気配だけでグリンの位置を把握していた。自ら囮となってジンオウガを引きつけ、死角から接近するグリンをサポートしたのだ。
クロはジンオウガが体勢を立て直す前に一旦下がると、再びジグザグに連続ジャンプして急接近した。ジンオウガが大技を出す余裕は無い。ジンオウガは飛び掛かるクロを黒爪ごと力一杯叩き伏せた。クロの体がジンオウガの前に撃墜される。だがクロを叩き伏せた瞬間、ジンオウガの目の前にグリンの姿が現れた。グリンはクロの動きに同調し背後に隠れていたのだ。グリンはがら空きになったジンオウガの横っ面を思い切り刃翼で切り裂いた。頬が裂け、たまらずジンオウガがよろけるように膝を折った。巧手のグリンには、クロの動きに合わせる事はそれほど難しい事ではない。数百戦も組み手を繰り返してきたのだ。クロもグリンもお互いの呼吸を熟知している。二頭の連係は、一体のモンスターと錯覚するほど一糸乱れぬ切れ味だった。
ジンオウガは焦った。並のナルガクルガなら何頭いようが問題ではない。だがこの二頭だけは、こちらの攻撃の上を行く。急いで二頭を分断しなければならない。ジンオウガはクロとグリンの実力を認め覚悟を決めた。
再びクロがインファイトを挑んでくる。ジンオウガは前脚を振り応戦した。クロが自らジンオウガの正面に滑り込んだ。ジンオウガが右前脚を振り上げる。その瞬間、ジンオウガの背中にグリンのトゲ飛ばしが命中した。クロが反対側の側面へとステップする。グリンのトゲに合わせジンオウガの体を盾にしたのだ。ジンオウガが牙を剥き歯ぎしりする。クロがジンオウガに黒爪を浴びせた。だがジンオウガはまったく防御せずにクロの攻撃を受け切り、全身に力を込め始めた。背中の放電が勢いを増す。
「ギャウ──ッ!」
ジンオウガの様子に慌ててグリンが叫ぶ。黒爪を振るクロは頭上の光景に息を呑んだ。ジンオウガの背中から青い放電が落雷となって周囲に降り注いだ。
「ウォ――ン!」
落雷の範囲はグリンの近くにまで及んだ。クロは慌てて連続ジャンプで退避する。だが如何にスピードに特化したナルガクルガと言えど、雷撃を上回る事など出来ない。
「ウォ――――ン!」
必死に逃げるクロの頭上に、ついに特大のいかづちが直撃した。撃墜されたクロは白目を剥き、勢いそのままにボロ切れのように地面を転がった。即死こそ免れたが完全に気を失っている。ジンオウガはやっと仕留めた事を確認すると、大きく肩で息をした。とどめを刺す。ジンオウガはクロ目掛けダッシュした。だがそれをグリンが体当たりで阻止した。ジンオウガはグリンを前脚で牽制しながらジリジリとクロに近付いていく。グリンはジンオウガの前に立ちはだかり、必死に応戦しながらクロを守る。グリンの体が見る見る傷付いていく。クロの意識はまだ戻らない。ジンオウガがジャンプひとつで楽々届く位置まで迫る。グリンは尻尾を振り、先端でクロの顔を叩いた。ジンオウガのパンチがグリンの頭にヒットする。ぐらついたグリンを薙ぎ払うと、ジンオウガはクロ目掛けジャンプした。
間一髪、意識を取り戻したクロは、転がるようにジンオウガを回避した。急いで体勢を立て直す。グリンが再びジンオウガを牽制する隙に充分な間合いへと退避する。肘を突き大きく喘ぐ。ダメージは想像以上に深刻だった。
ジンオウガは歯ぎしりした。だがこれで連係攻撃は不可能なはずだ。このままグリンを倒すか、それともクロを襲うか、ジンオウガの判断に迷いが生じた。一瞬の膠着状態が訪れる。
クロの体が考えよりも先に動いた。このダメージでは勝負を掛けられるのはあと一回。総てをグリンに託すのみだ。連続ジャンプからツイストターンを繰り出す。後ろ足に溜まった力を爆発させ、ジンオウガの背中目掛け弾丸となってジャンプした。頭から放電に突っ込み、刃翼を折る覚悟でジンオウガの背中を切り裂いた。鋭利な刃が鱗を肉ごと切り裂き脊髄を掠めた。インパクトの瞬間、突起の生えたジンオウガの背中が木っ端微塵に粉砕された。巣くっていた超電雷光虫が光を放ち四散する。
「グォ――ン!!」
衝撃と痛みにジンオウガが大きく怯む。クロは地面を滑走するように着地した。思ったほどダメージを受けていない。ジンオウガの背中が吹き飛んだおかげで、放電の影響が少なかったのだ。
形勢は一気に逆転した。ジンオウガが背中に受けたダメージは深刻だった。組織は徐々に再生するが、再び蓄電するには時間が掛かる。そして何より、ジンオウガの持つ最大の弱点が露呈しようとしていた。雷狼竜ジンオウガは分厚い筋肉によってスピードを獲得したモンスターだが、その代償として過剰なスタミナ消費を余儀なくされる。ドッグファイトという狩猟スタイルは、まさに短期決戦を前提とした狩猟スタイルなのだ。背中組織の再生も、意志に関わりなくスタミナを奪っていく。ジンオウガの動きが露骨に精彩を欠き始めた。そしてその事を見抜けぬグリンではない。
グリンが一気にラッシュする。防戦一方のジンオウガの体が見る見る切り刻まれていく。鉤爪が折れ、左の角も砕かれる。もはや帯電する隙も無い。呼吸を整えたクロも加勢する。ジンオウガの勝機は完全に絶たれた。
クロ渾身の刃翼がジンオウガの尻尾を切断した。血塗られた碧の巨体が衝撃で地面を激しく転がる。勝敗は決した。クロとグリンは追撃せず並んでジンオウガを睨み付けた。ジンオウガがゆっくりと起き上がる。
「グルルルル」
効いてなどいないと言わんばかりに低く唸り声を上げる。その時、渓流を怒濤の殺気が貫いた。
「ジンオウガァ! あたしが相手だ――!!」
広場の外れにようやくナツキが飛び込んで来た。ラディアンレッドの長い髪を炎のように逆立て、夜叉の形相でジンオウガを睨む。雷神弩を抜くと、疾風のごとく突進した。ジンオウガは無視するようにゆっくり向きを変えると、足を引きずりながら一目散に山奥目指し逃げ始めた。
「待て、この犬野郎!!」
「キャンキャンキャン!」
ジンオウガの逃げ足は群を抜いている。ナツキはまるで追いつけない。クロとグリンは負け犬のような逃げっぷりを呆然と見送った。
「ちきしょう! 今度会ったら只じゃおかないからね!」
ナツキは鼻息荒く逃げるジンオウガを悔しそうに見送った。
「ギャウ」
クロがナツキに近付いてきた。ナツキは改めて辺りを見回し、クロとグリンの姿を見た。全身傷だらけだが、ふたりとも晴れ晴れとした顔をしている。
「あんたたち……ジンオウガに勝っちまったのかい!」
クロがナツキに頬を寄せる。ナツキは傷に触れぬよう大きな頭を抱きしめてやった。隠れていたクルペッコも木陰から出てきた。渓流に柔らかい日差しが降り注ぐ。おそらくあのジンオウガは、これに懲りて山奥から降りてこないだろう。
突然、外れにある大木が音を立てて倒れた。大木の向こうから、先日のドボルベルクが現れた。背中の傷も尻尾も、まだ完治していない。ドボルベルクは大木を食べようと口を開けると、クロたちに気付きあからさまに怯んだ。ナツキはクスッと笑うとドボルベルクに叫んだ。
「もう物騒な連中はいないよ。ここはアンタの縄張りにしな!」
クロがナツキにうなじを下げてきた。ナツキはそっと跨り手綱を握った。グリンとクルペッコの顔を見る。
「それじゃ、樹海へ帰ろう!」
クロが、グリンが、クルペッコが飛び立つ。ドボルベルクに見送られ、一行は悠然と境界の広場へ帰って行った。
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