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前頁 第3話 エデンの受難 目次
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■シナリオ
 冴子は、旅の疲れを落とし、ゆっくりと心地よい朝を迎えた。昨日は、取材初日としては上々の滑り出しだった。今はまだ、作品の青写真が固まっている訳ではないが、そのうちいいアイデアが浮かぶだろう。鼻歌混じりに熱いシャワーを浴びる。久しぶりのお湯のシャワーだ。ウォッシュビーズのシャワーも嫌いではないが、地球育ちの冴子にとっては、やはりお湯の感触は捨てがたい。
「これで、でっかい湯船があれば」
 冴子はタメ息混じりに笑った。世界中を旅していると、肩までゆったり浸かれる風呂には、滅多にありつけない。ましてや宇宙でならなおさらだ。
 濡れた体をダウンエアーで乾かし、ホテルの白いバスローブに袖を通す。ベッドの脇に、朝食の乗ったワゴンが届いていた。カワウニに命じておいた物だ。代わりに洗濯物が無くなっているところを見ると、どうやら、ちゃんと仕事をしているらしい。
 冴子は、窓辺の小さなテーブルに朝食を置いた。外の日差しは、既に十分強くなっている。窓にレースのカーテンを掛けると、バッグから愛用のカメラを取り出し、再生モードにしてベッドへ置いた。カメラから1メートルほど離れた空間にフォログラム・スクリーンが浮かび上がる。冴子は、昨日の成果を早送りで投影しながら、少し遅めの朝食を取った。
 朝食を平らげ映像の確認を済ませると、バッグからノート端末を取り出しネットワークにつないだ。メールをチェックし、昨夜寝る前に仕掛けておいたネットエージェントを確認する。取材途中気になった言葉や人物、事件などを調べるために、昨夜の内に十匹ほど放っておいた物だ。簡単な捜索しか命じなかった事もあり、総てのエージェントが仕事を終えて戻っていた。
 
 * * *
 
 二十世紀後半、アーパネットより始まった情報通信網は、百年以上を経て予想も付かぬほど膨大な規模になっていた。特に二十一世紀前半から始まった情報家電などの非コンピュータ接続によるネットワークの拡大により、ネットワーク上の情報は、質・量共に指数的に増大し、人手で扱いきれる範疇を完全に逸脱してしまった。
 この情報の爆発的増加に伴い、ネットワーク上の情報の扱い方は、手作業中心の検索から、高度な分析機能を有するネットワーク・オブジェクトを介する形に変化していった。これらのネットワーク・オブジェクトは、ネットエージェントと呼ばれ、世界中のネットワークを主体的に巡回しながら、与えられた命令を独自の判断で処理し、命令者の意向に添った情報収集・整理を実行している。いわばそれはネットワーク内を移動する人工知能ロボットといった代物で、今日のネット社会を支える基本機能の一つである。
 夏霧冴子のように情報収集・調査を生業とする者達は、自分専用にチューニングした高性能のネットエージェントを使用するケースが一般的である。彼らのエージェントには、地位や人脈,取引など、様々な手段や年月を掛けて蓄積された独自の情報ルートやロジックが組み込まれており、一般の物より遙かに濃密で洗練された情報入手が可能となっている。
 
 * * *
 
 冴子は、ネットエージェントの集めた情報にザッと目を通しながら、使えそうなソースを選別していった。
「ん〜、昔の映像も当たる必要があるわね。工科高のライブラリ、許可もらわなきゃ」
 あらかた情報を整理したところで、冴子は三杯目の紅茶をカップに注ぎ、最後に残されたエージェントのアウトプットを開いた。それは、ロアン・ブレイドとレノア・リー・ルージュに関する調査結果だった。二人の名前が気になり、ついでに調べておいたものだ。
 集められた情報は報道記録など簡単に入手出来る物だけだったが、一介の高校生としては異常に量が多かった。
 情報は、大きく二つに分かれていた。一つは、彼らのEVU操縦技術に関わる物だ。校長自ら推薦する生徒だけあり、この結果は十分予測出来た。冴子の注意は、当然の如く、もう片方の情報群へと向けられた。データを開くと、彼女の手が止まった。
「どっかで聞いた名前だと思ったら……」
 冴子は、ティーカップを手にしたまま、じっとその調査結果を見つめた。そこには、冴子がまだ学生だった頃、何度も見たニュース映像が映っていた。
 
 西暦2101年7月7日。月の裏側最大の鉱工業都市ツィオルコフスキー。その宇宙港到着ロビーで、市民や警備員、報道陣に幾重にも取り囲まれる中、幼いロアンとレノアが立っていた。レノアは、ロアンの背中に隠れる様に顔を埋め、止むことなく大声で泣き続けている。ロアンは、止まらぬ涙も拭わず、吹き出す嗚咽を必死に噛み殺しながら、両手を一杯に広げてカメラの放列からレノアをかばっていた。
 
 冴子は改めて、昨日の二人を思い出した。ロアンが見せた一瞬の緊張と、しっかりと寄り添うレノアの姿が、二人の十年の歳月を想像させる。
 冴子は、端末の電源を落とし、ゆっくり紅茶を飲み干すと、目を閉じフーッと息を吐いた。幼い頃の二人と今の二人。そのイメージに、集めた情報がゆっくりと吸い寄せられていく。彼女の中で、フィルムのアウトラインが、見る見る固まっていった。
「……平和だった最後のフロンティア9。宇宙社会を支えてきた人々と、彼らを育て送り続けてきた学舎。エスコート役は、そこで学ぶ英雄の忘れ形見。宇宙(そら)を守る想いは、次代へと着実に受け継がれている……。OK、これで行こ。……くれぐれも私情は禁物っと」
 冴子は、威勢良くバスローブを脱ぐと、取材支度を始めた。

 
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