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 act.11 涙
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「ハーッ!」
 ゼロは、自ら放った火球を追うように突っ込んでいった。右腕に生えた剣を構える。火球が命中し炎が砕け散る。その中心目掛け、ゼロは剣を振るった。
「やったか!?」
 手応えがあった。炎の壁を突き破りすり抜けると、ゼロは背中の翼をひねり急旋回した。だがその瞬間、全身に炎の弾幕が浴びせられた。撃墜されたゼロは、そのまま勢いよく床を転がった。ゼロが斬り裂いたのは、盾代わりに出された石板だった。
「アチチチチ!」
 闘技場の床でのたうつゼロに人影がかかる。水流が浴びせられ、炎がいっぺんに消された。
「ゴージェットは速度が出る分、軌道が読まれやすい。聖霊相手では通用せぬぞ」
 サジバはゼロをたしなめると、憑魔陣を解除した。
「だが、今の攻撃は良い連携であった。次からはわたしも縛装を使う必要がありそうだ。ミントの方はまだ実戦には使えぬが、焦らぬことだ」
 憑魔陣を解除したゼロを、ミントが助け起こす。ゼロは訓練をつけてもらったサジバに礼をすると、大きくため息を吐いた。
「有り難うございました。でも、これじゃあ、聖魔を8体全部使えるようになるのは、まだまだ先だな〜」
 ゼロのぼやきを聞いてサジバが笑った。
「8体総て使うことなど出来はせぬ。憑着する基本体に、上半身、下半身、左右の腕と武器が2つ。7体が限度だ」
「え? じゃあ、8体目は?」
 ゼロは憑魔甲のターレットホルダーを見た。
「予備の聖魔だと思えばよい。憑魔陣は組み合わせ方によっては無意味な場合もある。状況に合わせ、聖魔を使い分けるのだ」
 サジバは自分の憑魔甲をセットしながらゼロたちから離れ、闘技場の中央に立った。
「ゼロ、お前は筋が良い。見せ物ではないが、憑魔陣の最終形態を知りおくのもためになろう。よく見ておけ」
 テュテュリスを正面に、自分の聖魔を7体、周囲に一斉に出現させる。憑魔陣を一気に発動させ、総ての聖魔を憑着する。光が爆発し、中から超重装備のサジバが現れた。両手に持った武器を繋ぎ、巨大な剣に変える。周囲で見ていた魔攻衆たちは、おもわずその威容に後ずさった。サジバは大剣をゆっくり構えると、演武を始めた。身の丈を越える大剣を、まるで小枝のように自在に振り回している。刃がうなりを上げて空を切り裂き、剣圧がビリビリと闘技場に響く。見上げるほどの重装備でありながら、その動きは目で追えぬほど鋭い。手合わせなどせずとも、その圧倒的な力は十二分にわかる。居合わせた者は皆、その迫力に言葉を失った。演武が終わり大剣を納めると、サジバはゼロの方を向いた。
「我とて、この姿ではそう長くは戦えぬ。この姿となるのは、聖霊にとどめを刺すときとなろう」
 憑魔陣が解除され、聖魔の武装が光を発し吹き飛ぶ。さすがにサジバの顔にも、汗が流れていた。ゼロは興奮しながらサジバに駆け寄った。
「スゴイ! スゴイよ、サジバ! サジバも一緒に戦ってくれれば、メガカルマなんて目じゃないよ」
 だがその言葉に、サジバの表情が曇った。
「それは出来ぬ。我が動くは、シ様の命あってのこと」
「なぜ? 一緒にエルリムを倒せばいいじゃないか」
 戸惑うゼロから目をそらし、サジバは淡々と語った。
「ナギは長きにわたり、俗世より忌み嫌われ虐げられてきた。繭使いと共に戦ったは、偉大なる予言者ギ様の戒律あればこそ。だが300年前、聖魔の森を時空の狭間へと追いやった後、人は何をしたか! お前たちの祖先は、安息の地であるナギの里を襲ったのだ! 我らはシ様によって救われ、長き眠りについた。エルリムを倒すは、ただただナギ復活のため。ゲヘナの末裔などと迎合するためではない!」
「ナギの里を襲っただなんて、そんなバカな!」
 ゼロが食い下がろうとしたとき、闘技場に血相を変えた魔攻衆が転がり込んできた。
「来てくれ、サジバ! ラダが、ラダの奴がぁ!!」

 玉座の間は、黒山の人だかりだった。サジバ、ゼロ、ミントの3人は、人混みを押し分け、その中心に出た。人の輪の中心には、二人の魔攻衆に付き添われながら、若い魔攻衆の戦士ラダが苦悶の表情を浮かべて横たわっていた。彼の腰から右足にかけて、シューシューと白い煙が上がっている。破れたズボンの下から、青い鱗が見えていた。サジバは駆け寄ると、ズボンの生地を裂いた。ラダの右足は、聖魔の皮膚でビッシリと覆われていた。
「これは! 無謀な憑着は禁止したはずだぞ!」
「すまない……サジバ……」
 ラダは苦しみながら謝った。だがそれを遮るように、付き添ったふたりの魔攻衆が、両手をついて謝った。
「違うんだ、サジバ! ラダは、俺たちを助けようとして」
「俺たちが功を焦って深追いしたばっかりに……サジバ、ラダを助けてくれ! お願いだ!!」
 ふたりは泣きながら、石畳に額をこすりつけて頼み込んだ。
 ラダはゼロと同じ、最初の憑魔陣適応者の一人だった。憑魔陣適応者は、言うまでもなく対メガカルマ戦の中核をなす。現在魔攻衆は、カフー隊、ミント隊、バニラ隊の3隊から編成されており、ラダはバニラ隊に所属していた。主力のカフー隊、ミント隊が戦果を上げるのに対し、バニラ隊は神殿首座であるバニラが容易に出撃できないため、あまり戦果を上げられずにいた。そしてその分、バニラ隊に所属するもう一人の適応者であるラダに、負担がかかっていたのだ。
「ラダ!」
 知らせを聞いて、首座のバニラも駆けつけた。
「首座殿、カラバス草はあるか? 煎じた湯を布に含み、癒着した皮膚を覆うのだ。急がれよ!」
 バニラは早速部下たちに指示した。
「痛むが、我慢しろ」
 サジバは細身のナイフを取り出すと、切っ先を鱗のついた足にゆっくりと突き刺し、こそぐように抜いた。傷口から紫色の血が流れた。ナイフの先端も、完全に紫の血で濡れている。
「ラダの傷は? 直るのか?」
 バニラの問いかけに、サジバは目を伏せ、首を横に振った。
「痛みは止められるが、右足はもはや、完全に聖魔と癒着している。もはや出来ることは、進行を止めることのみだ」
 その時、ラダがサジバの腕を取った。
「サジバ……俺はまだ戦えるか?」
「馬鹿を言うな! これ以上憑魔陣を使えば、癒着が進行してしまうぞ!」
 ラダは腕を更に強く握り、悔し涙を浮かべて頼み込んだ。
「戦わせてくれ! ホワイトヴァイスで、シナモン隊長は、俺たちを逃がすために死んだんだ。仇を討つためなら、俺はどうなってもいい!」
 サジバはラダを落ち着かせると、無言で癒着した右足を見ていた。しばらくすると、カラバス草の湯と布が到着した。サジバは手際よくラダの右足を治療した。
「……絶対に無茶はするな。我も出来る限り手を尽くそう」
 それはこの若い戦士の死期を早めることを意味する。だがサジバには、それを止めることは出来なかった。
 ゼロとミントは、ラダの悲壮な覚悟を目の当たりにして、言葉を失っていた。
 死んだ十傑衆のシナモンは、ミントの実の姉である。姉の死を受け、ミントも勿論、ラダに劣らぬ覚悟で、自分の隊を率いている。そんな彼女にとって、憑魔陣は喉から手が出るほど欲しい能力である。自分も憑魔陣を使えるようになり、仮にラダと同じ運命をたどったとしても、その事に後悔はしない。ラダの決意は、ミントにも痛いほどよく分かる。
 だが、ゼロがそうなったらどうだろう。ミント隊で唯一憑魔陣を扱える戦士。最近ではその実力は完全にミントをしのぎ、もはや隊のエースとなっている。その彼が、聖魔に取り込まれてしまったら。厳しい表情のゼロを見て、ミントは心臓を捕まれるような息苦しさを覚えた。
 ゼロは、ジッと見つめるミントに気付くとその心配を察し、ニッコリ笑って囁いた。
「大丈夫。どーってことないさ」
 ミントはゼロの腕を、すがるようにギュッと掴んだ。

 * * *

 空は虹色に揺らめいている。巨木が生い茂る広大な沼地の中、深い碧を写す水面から、幾つもの大きな根がうねるように顔を出している。その根のあちらこちらに、純白に輝く7人の聖霊が集まっていた。中央の根の上には、審判の聖霊マテイが、白いローブを羽織り立っている。マテイの傍らには、生命と豊穣の聖霊マハノンが腰掛け、静かに竪琴を爪弾いている。七聖霊が一堂に会するのは、重要な決定を下すときに限られる。今日のこの集まりは、審判の聖霊マテイに対する事実上の弾劾に等しかった。
 マテイから少し離れた根の上に、知の聖霊ゼブルが窪みに体を預けるように腰掛けていた。ゼブルは木の根で作った杖をかざし、中央の水面に聖魔の森の立体地図を出した。百を優に超える島々が、ヒメカズラの径によって、巨大な繭を形作っていた。その複雑な網の目の一部に、赤く色づいた部分があった。それは、ケムエル神殿に近い島々であった。ゼブルはそれらを杖で指し示した。
「ここに来て魔攻衆どもが、再び勢力を盛り返してきよった。九つの島は彼の者の手に落ち、繋がる十四の島もまた、小競り合いが続いておる。賢明にもリオーブには手を触れぬようだが、少数とはいえ、これ以上侵入を放置するわけにもいくまい」
 巨木の根元の少し高い場所には、エルリムに直接仕える聖霊アラボスが立っていた。アラボスはマテイを見下ろしながら、ゆっくりと口を開いた。
「先のホワイト・ヴァイス、どうやら手ぬるかったようだな」
 森の神エルリムは、これまで四度、知恵ある獣である人類を導いてきた。人類が堕落し、世界が荒廃する度に、エルリムは滅びの蟲オニブブを使い、歴史をやり直させてきた。そしてその長い道のりにおいて、エルリムは聖霊たちに、知恵ある獣の無益な殺生を禁じていた。
 だが四度目の歴史であるゲヘナパレの時代、人類はエルリムに反旗を翻し、下僕である聖霊を滅ぼした。オニブブによってゲヘナパレ帝国も滅んだが、エルリムもまた聖霊の揺りかごを破壊され、下僕である聖霊を生み出せなくなってしまった。そしてついには時空の狭間へと封印され、四度目の歴史に終止符を打ち、五度目の新たな歴史へと人類を導くことを妨げられてきたのである。
 ようやく新たな聖霊を生みだし、パレルの地への帰還が果たされようとする今、その障害となる魔攻衆は、充分排除に値する存在である。人類に荷担した裏切り者の聖霊アモスとマモン、即ち鳥人キキナクと森人ヤムも同罪と言える。
 マテイは、殺生への戒めとエルリム復活という使命の狭間で、少ない打撃による最大効果を狙い、一撃で魔攻衆を半数まで叩くホワイト・ヴァイスを立案し、実行した。だが結果として、森の帰還を果たすより早く、魔攻衆は息を吹き返してしまった。マテイは、目算の甘さを認めざるを得なかった。
 ゼブルは、そんな議論には興味がないというように手を振り、話を進めた。
「過ぎたことは致し方あるまい。所詮は獣のやること。読み切れぬのも無理はない。肝心なのは次の手をどうするかじゃ」
 知の聖霊ゼブルは、あくまでも中立の立場をとっていた。ゼブルの言葉を聞き、片膝をつき下座に控えていた女の聖霊が顔を上げた。第二軍の軍団長ラキアである。
「やはり魔攻衆どもを根絶やしにするしかありますまい。今こそ我らにお命じ下さい。我が第二軍をもってすれば、魔攻衆など一瞬にして葬ってご覧に入れます」
 ラキアは自信に満ちた笑みを浮かべ、四天使に進言した。隣の根の上では、第3軍軍団長のサグンが表情ひとつ変えず、会話の成り行きを見守っていた。ラキアの進言を聞いて、マハノンは竪琴の手を止め反論した。
「いにしえより、知恵ある獣を無益に殺生することは禁じられておる。お前やサグンを使わなかったマテイの心が分からぬか」
「されどマハノン様。今はエルリム様の復活こそが大事なとき。たかだか残り100名にも満たぬ魔攻衆を葬ったところで、無益な殺生とは思えませぬ。先のホワイト・ヴァイスでも、気弱なシャマインなどお使いになるから、魔攻衆どもがつけあがったのです。我らが出陣しておれば、このような事態には」
 別の根の上に控えていたシャマインが、憤りキッとラキアをにらんだ。だが、シャマインが反論するより早く、マテイがラキアを制した。
「シャマインを侮辱することは許さん。お前たちの軍では加減が効かぬ故、第一軍を用いたまでのこと。あの一撃で魔攻衆の心を折れると踏み臨んだが、量りきれなかった。総てはわたしの誤算によるものだ」
 マテイは毅然として自らの過ちを認めた。マテイの視線を受け、ラキアは思わず下を向いた。ゼブルは、そんなやり取りに関心を示さず、事実のみを淡々と告げた。
「オニブブさえ使えれば、無益な殺生などせずとも知恵ある獣に終末を与えることが出来る。だが、僅かに使えたオニブブは、先のホワイト・ヴァイスのおり、エルリム様の御座所のために使い果たした。重要なことは、エルリム様に一日も早くパレルの地にご帰還戴き、お力を取り戻して戴くこと。さすればあのオニブブとて我らの自由となり、総てに決着が付く。いたずらに殺生が長引けば、知恵ある獣にも憎しみが増し宿されるのみじゃ」
 全軍に総攻撃を命じるのは容易い。だがそれでは、あまりに愚作に思える。厳しい表情をすると、マテイは話し始めた。
「蛇を殺すには頭を潰せばよい。今一度、策を講じる。シャマイン、軍団を整えておけ。第一軍を押し出す。ラキア、サグン。お前たちは控えておれ。効果が無ければ、その時こそお前たちを使うと約束しよう」
 ホワイト・ヴァイス以降、聖霊軍の前線を任されてきた第一軍は、既に少なからず消耗している。新たな命を受け、シャマインは身命を賭すことを誓った。
『またシャマインか!』
 ラキアはうつむいたまま、悔しさに歯ぎしりした。
 方針が決まったことを受け、アラボスは全員に告げた。
「エルリム様の瞑想は、今少しかかる。そして瞑想があけたときこそ、森の帰還の時となろう。それまでの猶予、くれぐれも手抜かり無きように。これにて散会とする」

 聖霊たちが、それぞれの持ち場へと帰っていく。マテイはひとりその場に立ちつくしていた。マハノンはいったんはその場を去ろうとしたが、思い悩むマテイを振り返ると、そっと彼のそばに戻ってきた。沼には、マテイとマハノンのふたりだけが残った。
「マテイ……」
「さっきはすまなかった。ラキアの言い分はもっともだ。それはわたしも理解している」
 マテイは微動だにせず、ただジッと虚空を見つめている。
「魔攻衆は知恵ある獣の尖兵に過ぎぬ。彼らを倒したとて、次なる者たちが現れよう。それでは、いたずらに死者を増やすだけだ。抗う意志を挫く事こそ、最善の策となろう。だからこそ、わたしはホワイト・ヴァイスを発動した。……だが、本当にそうだったのか」
 マテイは手のひらを見ると、それを握りしめた。
「確かに、知恵ある獣を殺すことは、いにしえより禁じられている。だが、エルリム様復活の大儀を前に、それを守る価値など本当にあるのか。笑ってくれ、マハノン。審判を司るわたしが、自らの判断に迷いを覚えているのだ。これは本当に正しい判断なのか。何故かは分からぬが、あのときわたしは、古き掟に臆したのではないのか」
 マハノンは、マテイの隣りに並び立つと、優しく答えた。
「マテイ……私は、あなたを信じまする。ラキアは生来血気にはやる性分。気に病むことはありませぬ」
 かつてウバン沼と呼ばれた巨木の沼に、静かに風が流れている。沼の水面に、大きな魚が揺らめくように現れては消える。マハノンは次の戦いに思いをはせ、表情を曇らせた。
「次の戦い……魔攻衆の幹部を狙うのですね」
 知恵ある獣の損害を最小限にとどめるには、当然の策と言える。だがマハノンには、ひとつ気掛かりがあった。そしてマテイは、既にその事に気付いていた。
「カフーのことならば案ずるな。魔攻衆といえど、一度はエルリム様の使徒として力を尽くした者。無傷というわけにはいかぬが、命までは取るまい。だが、ヘブンズバードの卵まで与えるとは、少々やっかいな事をしたな」
 マハノンは、マテイの指摘に驚き、思わず下を向いた。彼女は、先にカフーと会見したおり、気取られぬようそっと純白に輝くヘブンズバードの卵をカフーのそばに残したのである。
「安心しろ、マハノン。別にその事を責めたりはしない。だいたい、カフーにあれが扱える保証も無いのだからな」
 マテイはフッと笑みを浮かべた。だが、如何に聖霊といえど、ヘブンズバードが、カフーではなくメロディーの手に渡り、しかも何事もなく飼い馴らされていることまでは、知る由もない。マテイは、マハノンに竪琴を奏でてくれるよう頼んだ。
「マハノン、またあの曲を聴かせてくれぬか」
 それは、ホワイト・ヴァイスのときに浮かんだ曲だった。仲間を助け、必死に抵抗しながら死んでいく魔攻衆たちを見続ける内に、マハノンの心の奥底からこみ上げるように現れたのだ。彼女は近くのコブに腰掛けると、そっと竪琴をつま弾き始めた。それは、静かで、優しく、どこかもの悲しいメロディーだった。
 湖面に竪琴の音色が流れていく。マハノンは、その曲に特別な思い入れを持っていた。記憶に存在しない、自分の奥底に眠っていたメロディー。それが、エルリムから与えられた物なのかは分からない。だが、自分の総てが、そこから始まっている。そんな思いを抱かせるメロディーだった。マハノンは、繰り返しその曲を弾き続けた。
「何だ……これは……?」
 マテイが低く呟いた。マハノンは顔を上げ、マテイを見て驚いた。マテイの両目から、涙が止めどなく流れていた。
「これは……涙か? わたしはなぜ泣いているのだ?!」
 マテイには理由が全く分からなかった。審判の聖霊であるマテイは、一度も涙を流したことなど無い。涙が出ることすら知らなかった。その彼が、頬を濡らすものに驚き、狼狽しているのだ。
「いったい、何が起こっているのだ」
 マテイの涙は、その曲がやむまで、止まることはなかった。

 * * *

 皇帝カズラの中で、ゼロは四体目の聖魔を出現させた。
「縛装!」
 聖魔が日本刀のような細身の剣になって、彼の右手に収まった。ゼロの全身に痛みが走り、骨が軋む。
「ウオ――ッ!!」
 二体のメガカルマの攻撃を、滑るようにかわしながら突っ込んでいく。二体の間に割って入り、攻撃できなくなった一瞬の隙を突いて、右のメガカルマを下段から一気に斬り上げ、返す刀で左のメガカルマを袈裟斬りにした。二体のメガカルマは、絶叫をあげ、閃光と共に爆発した。輝きが縮むように消えると、そこには戦いを終えたゼロが、刀を杖のように突き立てて肩で息をしながら立っていた。皇帝カズラの中には、ゼロとミントだけが残った。
「やれやれ……まあ、こんなとこか」
 憑魔陣を解除すると、ミントが近づいてきた。ゼロは背筋を伸ばすと、彼女の方を向いた。
 パチ――ン!
 ミントの平手が、ゼロの頬を叩いた。
「どうしてそんなに無茶をするの!? そんなにわたしは足手まとい!?」
 ミントはポロポロと大粒の涙を流していた。何故こんなに頑張ってしまうのか、ゼロは自分の気持ちに気がついた。
「……ミントにケガをして欲しくないんだ。ぼくは、ミントが好きだから」
 ミントは、ゼロの告白に驚いた。思わず胸が熱くなる。だが同時に、心に刻まれた復讐心が、ミントの心を覆い始めた。彼女は後ずさりすると、ゼロから目を逸らした。
「わたしは……ケガなんて恐れていないわ」
 突然ミントは左半身を守る甲冑を外し、ゼロに構わず上半身の服を脱いだ。露わになった肌を見て、ゼロは驚いた。美しい右の乳房とは対照的に、左の乳房は醜く焼け落ち、緑色に変色している。それはホワイト・ヴァイスでケムエル神殿を守ろうとした時に受けた傷であった。ミントの体が復讐心に震えていた。
「わたしは、死んだシナモン姉さんや仲間たち、そしてこの傷に誓ったの! たとえこの身がどうなろうと、必ず聖霊を倒し、仇をとるって!」
 ミントは白い肩を震わせながら、苦悶に美しい顔を歪め涙を流し続けた。そんな傷ついたか細い体を、ゼロは優しくしっかりと抱きしめた。
「それでもボクは、君を守る!」
 力が抜け、体の震えが止まった。ミントは総てをゼロにゆだねながら、静かに涙を流し続けた。

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