藤田スタイルの重要性に注目 山野博大
藤田佳代舞踊研究所総出演による「創作実験劇場」では、六つの作品が発表された。まずこの研究所の主宰者である藤田佳代の「時の変容」は、サブタイトルに「一道化師が書いた年代記」とあるように時の経過そのものを舞踊にしたものだった。前の舞台で道化師(菊本千永)とGirl(金沢景子)によるひとつの物語が進行しているのとまったく同じウエイトで、紗幕をへだてた後の舞台では群舞が隊列を組んで移動する時の踊りがたえまなく続けられていた。そして音楽にはジャズを使っていたのだが、古いニューオルリンズの頃のものから、デキシーランド、スイング、モダンと年代を踏んで順次聞こえて来て、ここでもひとつの歴史が進行していた。時の経過を、このように重層的なものとして視覚化したところがこの作品のいちばんの見どころであり、前の舞台での道化師の悲恋物語はむしろその流れに浮かぶ点景にすぎないことが見えて来る。最後は客席の中央通路からバラを捧げた男を登場させ、それまで群舞の横の移動で観客に時間を意識させていたものを、縦の構図で見せることにより、未来へと時間が続いて行くものであることを印象づけて作品を終えている。最大のポイントとなる後の群舞の動きには、藤田佳代の作る動きの特徴である、動くようで止まり、止まるようで動く微妙なテクニックが多用されており、それが時間というものの表現に効果的に作用していたと思う。もっと多くの人数をここに動員できたら、その効果はさらに大きなものになったはずである。
他の5本については上演順に印象を記す。かじのり子作舞による「フライング」は、パステルカラーのとりどりの衣裳の4人のダンサーが踊るもので、それぞれに別の走る形を与えて作品としている。幕開きにふさわしい華やかな軽めの一本というところ。
次の菊本千永作舞の「鼓動再開」は、白と黒の衣裳の二人のダンサーを使って、一時停止していた心臓が再び鼓動しはじめる状況を描いたもの。シリアスな人間のドラマとしても描くこともできる題材を、あえて動きそのものに焦点を絞って作舞したところがこの作品の見どころだと思う。動くことよりも、むしろ止まることに力点が置かれているのではないかとさえ思われる藤田佳代の舞踊のスタイルが、鼓動が再開されるまでの動き出さない段階でうまく生かされていた。
共同で作舞した「Yumiko Hana 」はバッハの「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ」により、板垣祐三子の4つのソロパートを中心に組曲風に構成した抽象作品だ。彼女のソロの部分を寺井美津子、菊本千永、金沢景子、かじのり子の4人が作っており、その間を藤田佳代の作ったソロ、カルテッテ、クインテット、群舞が埋める形になっている。ダンサーはすべて白い典雅な衣裳で、宮廷の華やいだ雰囲気が漂っていた。4人の振付者がそれぞれに動きを作り分け、それに板垣がみごとに対応したところが見どころだった。こういう共同で作品をこしらえるということで、藤田の静止の多い舞踊のスタイルを細かいところまでダンサーに浸透させる効果は大きかったと思う。そちらの方が作品の仕上がりよりも大事だったのではないかという気もしないではないのだが……。
金沢景子作舞の「大地の彩り」、寺井美津子作舞の「暗い森」の2本は、いずれもエコロジカルな発想のもの。自然の輝きに対する素直な尊敬の念にあふれた好ましい作品だった。動き以外のところにも工夫がこらされていて、観客に作品として見せるという意識が強く感じられた。やはりそれぞれに個人リサイタルをなとしげたという経験がそうさせているのだろうと思う。舞踊作家が着実に育っていることを実感させられた2作品だった。
藤田佳代の舞踊のスタイルが、より鮮明になって来たと思う。今、動きをつきつめて行く舞踊は極限まで行き着いたかの感がある。その一方の旗頭だったキリアンは、すでにその路線を変更して、緩やかな動きをも多用する総合的な舞踊構築に動き出しているかに見える。どの道、動きの極限を求める舞踊はどこかで壁に突き当たるはずである。そういう中で、藤田の進めている「静止の舞踊」路線が、重要性を着実に増しているのではないかと思う。これからも注目して行きたい。
山野博大(舞踊批評家) 1950年代より舞踊批評を書きはじめ、現在は週刊オン★ステージ新聞、音楽之友社発行のバレエ、新書館発行のダンスマガジン、季刊ダンサート、インターネットの東京ダンス・スクエア等に執筆している。藤田佳代先生とは古くからの友人であり、良き理解者のひとり。
山野先生から過去にいただいた舞台批評
*1999.7.31.寺井美津子ダンスリサイタル1(神戸朝日ホール)
*1998.5.30.かじのり子モダンダンスリサイタルvol.1(兵庫県民小劇場)
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