それより数日前のこと――。
《主》は、ここよりももう少し山頂に近い場所で、娘の呼びかけに応じていた。
『主様!』
娘が必死の面持ちで呼びかける。娘の姿は血と泥にまみれていた。
が、よくよく観察してみると意外と整った顔立ちに、華奢な肢体をしており、腰まで伸ばされた黒髪は今もって艶を保っていた。
涙で潤みがちな瞳は深い緑色で、《主》に対してまっすぐな視線を投げかけている。
汚れを落とし、少し上品に着飾れば、おそらくは国内でも十指に数えられるほどの美しさを
持ち合わせているのだろうに……。《主》はふと、そんな思いに捕らわれていた。
『主様、どうか! ――どうかこの方をお救け下さい!』
娘の傍らには青年が一人横たわっている。
こちらには、これといって目に付くような傷は見当たらなかったが……果たして眠っている
のか、それとも……。
娘は自身の傷のために身体のバランスを崩しながら、なおも懇願している。
(何故ダ?)
《主》の胸の内に、ふつふつと疑問が湧きあがった。
『砂蛇の毒に蝕まれて――……。
医師にも見捨てられたのです……あと幾日も保たぬ、と――!!』
砂蛇の毒――それは遅効性だが、確実に人の命を奪う猛毒として恐れられていた。
砂蛇に噛まれたり、あるいは抽出された毒物を何らかの方法で摂取した場合、はじめの
うちは目に見えての変化は現れない。
だが半年を過ぎた頃から、徐々に身体を蝕みはじめ、一年後には激痛を伴って死に
至らしめる効果を持つのだ。
原因を突き止めた頃には既に毒が身体中に浸透しており、治療も叶わぬため、苦痛から
逃れるために自ら命を絶つ者もいるという……。
『わたくしの命など差し上げます!!』――娘の声に力がこもる。
(己レガ傷ヲ負ッテイルトイウノニ……)
まだ新しい傷口からはじんわりと血が滲み出している。
だが娘は、そんな己れのことをかえり見ようともしない……。
『差し上げますからどうか!!』
最後の方は悲鳴にも似た、痛ましい声だった――。
(何故、他人ノタメニ ソコマデデキル!?)
《主》にとっての疑問、それは娘の行動全てであった。
◆
(――妾ニハ理解デキナカッタ……)
ポツリ…と《主》が言葉を継いだ。
(妾ハモトモト、コノ山ニ棲マウ雑多ナ精霊タチノ集マリデアッタ…。
ソレガ、イツシカ《個》トシテノ姿ヲ成シ――マタ、妾ノ意識ヲ形造ッタモノ)
様々な精霊達のイメージが、エマの頭をよぎる。
(ソウシテ妾ガ気ヅイタ時ニハ……周リニハ何モ居ナカッタノダ。――何モ)
この暗い森の中に、ひとりたたずむ《主》の姿が脳裡に浮かんだ。
(故ニ――理解シ難カッタ…コノ娘ノ行動ガ――……。
シカシ…反面、羨マシクモアッタ…ソレホド コダワル相手ガ居ル トイウノガ……)
淡々と続く《主》の言葉に、エマは何故か心を乱されている。
ここに、この暗澹たる場所に、目醒めた時にたった一人で、しかも同族の気配すらも
感じられないとしたら、一体どんな気持ちだろうか……。
エマは我知らず、ラドクリフの腕にギュッ…としがみついていた。
「じゃあ、救けてあげたの? その相手は」
(――イヤ。妾ハ人ヲ癒ス術ナド知ラヌ……。タダ――時ヲ封ジル場ヘト 案内シタダケ……)
「『時を封じる場』?」
エマとラドクリフが声を揃えて聞き返した。
(コノ山ノ頂キニハ、時ノ流レガ他所トハ異ナル場所ガアル。ソコヘ男ノ身ヲ移シ…)
娘には、山を降りて男を助けられる者を探すように伝えた、という。
《主》は、そう告げた時の娘の表情を思い出していた。
一瞬のためらいと、それを打ち消すかのような決意、そして安堵。
《主》への返答には、それらの想いがすべて含まれていた。
『はい! 必ず――!!』
心持ち弾んだ娘の声が、《主》の脳裡に蘇えった。
必ず――……。
...to be continued → 宵闇綺譚・5