薬物乱用の身体への影響



1. はじめに

ヘロインは夢の薬として世の中に迎えられ、覚せい剤は徹夜で仕事や勉強をしてもねむくならないし、腹も空かない元気印の薬ともてはやされ、コカインは消化不良からモルヒネ中毒の治療に至る広範囲な万能薬であると一時考えられた。現在乱用されている薬物のほとんどが依存性のない魅力的な薬として登場したが、次第にその習慣性、耽溺性、依存性が顕わになり、法で規制しなければ社会に害をもたらすと判断されるようになった。各国の法規制にもかかわらず、体験者や乱用者は世界的に増えている。その理由は、初体験者にとっても、麻薬は神秘的な響きを持った薬物であり、ことに若者にとっては好奇心を満たす魔力を秘めているからであろう。麻薬の乱用を防止するには麻薬の恐ろしさと乱用の悲惨さを教えることは重要である。しかし、薬物乱用がもたらす心身への影響を正確に伝え、理解させることはまだ十分に行われていない。 薬物乱用がもたらす悪影響は乱用者の身体に限らず、様々な弊害をもたらす。たとえば、犯罪、暴力、勉学からの逃避、私生児の誕生、エイズの伝播、労働力の低下、家庭の崩壊などなど列記したらきりがな い。本稿では、身体や精神への影響を取り上げるが、薬物乱用は医学・薬学的な問題が社会と結びついた人間の心の問題であることを忘れてはならない。

2. 乱用される薬物(依存性薬物)

 中枢神経系に直接働く依存性薬物は3つに大別される(表 1)。すなわち、覚せい剤やコカインのような中枢神経興奮性薬物、モルヒネやヘロインのような中枢神経抑制薬物、そしてLSDやメスカリンのような幻覚剤である。いずれも連用すると止められなくなり(依存状態)、また連用を繰り返し(乱用状態)、自己の正常な生活が続けられなくなる。

3. 乱用形態

 薬物乱用形態の原点は1883年皮下注射針の発明であろう。以後ヘロイン乱用に代表される薬物乱用は注射針で行うことが典型的な姿としてイメージされるようになった。しかしその後、色々の種類の乱用薬物が登場し、乱用形態も変化している。
 1:経口(LSD、アンフェタミン、睡眠薬、精神安定剤)
 錠剤、カプセル、ドリンク剤の薬物は経口により乱用される。合法的に製造された医薬品の乱用に比較的多く見られるが、LSDや一部睡眠剤は経口で乱用される密造薬物として知られている。LSDは微量で有効なため、0.1r以下の量を紙や角砂糖に浸み込ませた物を飲み物に浸して経口摂取される。
 2:吸引(コカイン、覚せい剤
 吸引とは鼻から薬物の粉を吸引して、鼻孔粘膜から吸収する方法であるが、コカインの代表的な乱用方法としても知られている。覚せい剤もコカインと同様に吸引乱用する事がある。シンナーなどで代表される各種有機溶剤はその揮発性を利用して、口や鼻から吸引乱用される。
 3:喫煙(マリファナ、クラック、ヘロイン、PCP、アイス)
 喫煙又は吸煙はマリファナの乱用形態として知られているが、最近では他の薬物も加熱吸煙可能な形に加工して、喫煙乱用する事が流行している。薬物をタバコに混ぜて喫煙乱用したり、ガラスパイプに入れて、火をあぶりながら気化した薬物を吸煙する方法はクラックやアイスの登場で乱用形態の主要な方法となりつつある。米国における最近の調査によれば、覚せい剤の乱用形態の74% が吸煙であり、第2位(22% )が注射であった。薬物乱用における注射器の共有がエイズウイルスの伝搬の原因となることを知った薬物乱用者は、注射から吸煙へと乱用方法を変えている。
 4:注射(ヘロイン、覚せい剤、合成麻薬)
 注射による乱用は慢性乱用者にはもっとも好まれる乱用方法である。注射の刺激は、薬物の作用以上の快感をもたらすとさえ言われている。エイズの伝搬防止を優先する米国では、乱用者に無料で注射セットを配布する政策を採っており、現在でも薬物乱用の典型的なスタイルは注射である。
 5:その他
 コカ葉やカート葉を乱用する方法にチューイングがあり、原住民が好んで用いる方法である。

4. 依存性薬物の身体への影響
 シンナー・トルエン 
 シンナーを吸引すると、心拍や呼吸速度が低下し、判断力を損なう。急性作用としては吐き気、くしゃみ、咳、鼻血、疲労、体のバランス欠如、食欲不振などを招く。蒸気を深く吸い込むとか、短時間に大量使用した場合は意識障害、凶暴性、意識不明となり、最後には死に至ることもある。シンナーを大量に吸うと、肺で酸素と入れ替わるか、呼吸を停止するところまで中枢神経系を抑制し、窒息状態を引き起こす。車の中や密室でのシンナー中毒死は窒息による死亡が多い。 長期にシンナーの吸入を続けると、肝炎や脳内出血なども引き起こし、神経系に障害を与える。極度の乱用は時として脳萎縮を引き起こし、重度の脳障害をもたらす。(表 2
 覚せい剤 
 覚せい剤は心拍及び呼吸速度を速め、血圧を上げ、瞳孔を広げ、発汗、頭痛、食欲減退をもたらすとともに、不眠状態を招く。大量使用すると、速くて不規則な心拍、震え、体のバランス欠如、体の虚脱を招く。覚せい剤を注射すると、脳卒中の危険、高熱、心臓障害を招き、急激な血圧上昇をもたらす。注射針による病気感染は肝臓障害やエイズを招く危険がある。
 肉体的症状に加えて、落ちつかない感じ、不安、不機嫌になる。長期にかけて多量に覚せい剤を使用する中毒者は幻覚、妄想、偏執的挙動などを生じる。これがいわゆる「覚せい剤精神病」である。
 覚せい剤を摂取すると、意気盛んで自信過剰な気持ちを持った極度のラッシュ状態で始まり、訳の分からない話を始める。貯蔵しておいたエネルギーを放出し続けるような気持ちの高まりを感じる。肉体的にも精神的にも、元気もりもりとなり、スーパーマンのような離れ業が出来ると思えてくる。人生は漫画的で、自分はいつも走り続けている感覚となる。しかし、トリップの終わりにきたとき、精神分裂状態となり、疲労・鬱状態に変わる。快感は終わり、頭痛、動悸、目眩、アジテーション、不安、混乱へと変わる。薬物の使用中止してもそれらが執拗に続き、猜疑心が広がる。遅かれ、速かれ、覚せい剤中毒者は迫害されている様な感じの妄想を体験する。それらの不安を取り除き、もう一度快感を味わうために、また覚せい剤をほしがり、乱用を繰り返す。 (表 3
 コカイン 
 コカインは通常、鼻から吸引乱用されるが、クラック(コカインを含む重曹の塊)の場合は吸煙乱用される。 コカインは中枢神経系を刺激し、散瞳、血圧上昇、心拍増加、呼吸頻度上昇、体温の上昇、不眠症、食欲減退、精神分裂、発作、ひきつけ、痙攣などをもたらす。コカインを使用し始めると、急速に耐性(薬理効果が減少すること)が生じ、乱用者は同様の作用を得るために量を増やしていき、精神的依存(薬物なしでは生きていけない気持ち)をもたらす。大量使用により、急性覚せい剤中毒に似た症状を示す。落ちつきがなく、アジリだし、非常に不安状態となり、肉体的には過敏反応が現れ、震え、運動失調、筋肉硬直などが起きる。
 長期連用すると、多幸感が徐々に過敏、興奮、不眠症、疑念症に変わり、幻覚や妄想も伴う。この状態は、錯乱性精神分裂病と酷似している。使用を中止しても、食欲不振、体重減少、便秘、排尿困難などの後遺症が現れ、男性では性的不能に陥ることもある。 コカインは心臓と呼吸の中枢コントロールを妨げて、死をもたらすことがある。また、妊婦のコカイン使用は死産や未熟児を発生させるばかりでなく、生まれた赤ん坊(コカインベイビー)は肉体的欠陥を持っていたり、精神異常の症状を呈する。 また、最近流行しているクラック吸煙は非常に依存性が強く、使用後、10秒以内に作用が発現する。作用発現も早いが作用が終わるのも早く、ハイな気分でいられるのは通常30〜40分しかないので、すぐに2度、3度と吸煙し、短時間に大量のコカインが体に入ることになってしまう。この結果、中毒状態に陥るのが早く、止められなくなってしまう。 (表 4
 大 麻 
 大麻の肉体に及ぼす作用は、心拍の増加、目の充血、口・喉の渇き等が知られている。大麻を使用すると、短期的な記憶や理解の障害をきたし、時間の感覚を変え、集中力や注意力を必要とする仕事、例えば、車の運転などの能力を低下させる。 使用者はしばしばフィルターなしで煙を吸い、肺に出来る限り長く留まらせるため、肺やその機能系に障害を与える。マリファナ(乾燥した大麻の葉を刻んで、シガレット状にしたもの)の煙はタバコより多くの発癌性物質を含むことも知っておかなければならない。
 大麻の長期使用者は、精神的依存に陥り、同じ作用を求めて、使用頻度・量を増して行き、大麻が自分の生活の中心になる。大麻の主成分(THC)は体内に入ると、体脂肪中や脳組織に1ヶ月以上も留まる。マリファナはタバコより1.5倍以上のタールを含んでおり、静脈洞炎、気管支炎、肺気腫をもたらしやすい。 長期間毎日使用したとき、病気に対する免疫力も落ちる。個性や性格の変化が起き、マリファナ中毒者は偏執的な思考に陥り、作業の生産性低下、学業低下、運転能力の低下などをきたす。マリファナはまた生殖機能に影響し、遺伝的障害や突然変異などをもたらす。男性では、男性ホルモンの低下をきたし、女性では、生殖細胞に障害を与える。胎盤を通過するので、薬物は胎児に達し、その影響で、遅産、流産、早産などをもたらす。 (表 5
 麻 薬 
 麻薬は最初に快感をもたらし、その後朦朧とした状態を招くが、使用者は吐き気、嘔吐、縮瞳、かゆみを経験する。過量の使用は呼吸を抑制し、じっとりした肌、痙攣、昏睡、そして死に至らしめることもある。 麻薬(特にヘロイン)に対する耐性は急速に現れ、依存状態になりやすい。注射器の汚染によりエイズ、心臓炎、肝炎のような病気になる危険もある。妊婦の乱用は未熟児の誕生を招き、禁断症状も見られる新生児の誕生も見られる。 麻薬は中枢の副交感神経系に働き、体の緊張を緩め、痛みの感覚をやわらげ、睡眠を誘発する効果的な薬で、医療上なくてはならないものであるが、大量使用は呼吸疾患を引き起こし、肉体的依存、耽溺をもたらす。麻薬の禁断症状を避けたいために、常に体に薬物を入れて置かなければならなくなる。麻薬中毒者はオーバードーズでの死亡例がしばしば報告されている。 (表 6
 幻覚剤 
 幻覚剤は幼視・幼聴などの幻覚作用をもたらす薬物である。これらは通常、多幸感を伴う気分の変化を招く(グッドトリップ)が、時には恐怖感(バッドトリップ)をもたらすこともある。幻覚剤の作用の下では瞳孔は開き、体温や血圧は上昇する。方向、距離、時間の感覚は失われる。使用者は音を見て、色を聞く世界を味わう。大量摂取すると、妄想状態と幻覚をもたらす。時には、離人感や鬱状態となり、自殺することもあるが、最も起こりやすい危険は判断力が失われて事故に巻き込まれてしまうことである。幻覚状態の人は、それゆえ、自分や他人に危害を加えないように監視されていなければならない。急性の不安状態、落ちつかない状態、不眠状態が薬物が切れるまで続く。 幻覚剤が体から除かれてかなりの日時を経た後、断片的なサイケデリックな幻覚を再発する事がある。これをフラッシュバック現象という。長期の中断後、再度使用すると耐性が早く現れ、増量していく場合が多い。肉体的依存性はないとされているが、精神的依存性はあり、精神作用は使用した時や環境により変わり、時には予想できない状態がもたらされる。
 LSD、メスカリン、サイロシビン、PCPは幻視剤の代表的薬物で、散瞳、体温上昇、心拍と血圧を上昇させ、食欲を抑え、不眠、振るえをもたらす。感覚は目まぐるしく変化し、パニック、精神混乱、懐疑、不安、自己のコントロールの不能をもたらす。PCPは幻覚剤であるが、強力な麻酔作用があるため、痛みを感じなくなり、乱用者は自虐的な傷害を自己に与えることが知られている。PCPの作用は変わりやすく、乱用者はしばしば離人感や疎外を感じるなど感覚が鈍る。また、筋肉の調和が悪くなり、話づらくなり、支離滅裂となる。 (表 7
 向精神薬 (主に催眠剤)
 向精神薬には興奮剤と鎮静催眠剤とがあるが、ここでは乱用が問題となった催眠剤系薬物について説明する。かって、非常によく用いられた催眠剤として、バルビタールがある。バルビタール中毒者は共通して、不安定な足取りと不明瞭な言葉、判断力の低下などがみられる。バルビタール依存の特徴は、中断すると、激しい禁断症状が現れる。
 鎮静催眠剤の中で広く乱用された歴史を持つ薬物にハイミタール(メタカロン)がある。この薬を服用すると、酒に酔ったような状態となり、歩行が困難になる。中毒になると、幻覚、せん妄、手指の震えなどの症状を示し、放火、窃盗、傷害、交通事故などを引き起こす結果となる。 
 催眠剤として最近よく用いられる薬物に、ハルシオンという睡眠導入剤があるが、連用すると薬理作用中についての記憶を喪失する事があると報告されている。催眠剤はそれ自体では大量使用でも致死的に至ることは希だが、アルコールや他の鎮静剤と併用すると死に至ることがある。アラン・ラッドやジュディ・ガーランドの死亡原因はアルコールと催眠剤の相乗効果であるといわれている。 (表 8

 5. 胎児への影響
 妊婦とコカイン乱用は1980年代後半から現在まで米国で大きな問題となっている。薬物による胎児への影響はサリドマイドを始め、以前から危惧されているが、実際コカイン乱用の母親から誕生した乳幼児(コカインベイビー)に様々な弊害が見られている。震えの止まらない子、何時間も泣きやまない子、奇形児、脳萎縮、情緒不安定児も見られ、そして早産死産の発生率は以上に高いことが明らかにされている。
 覚せい剤の妊婦の乱用はまだ表面化していないが、著者の研究では既に数件の覚せい剤ベイビーを確認している。 覚せい剤乱用者の母親から産まれた新生児は、早産で産まれ、誕生翌日より嘔吐、四肢の振るえ、吸啼反射が強く、脳内出血が懸念され、泣き止むことが無く、38℃ 以上の発熱があった。新しい生命が妊婦の薬物乱用により汚されて誕生するとは、悲しいことである。 (表 9

 資  料   国立衛生試験所  薬品部麻薬室長  中原 雄二