異界 その壱 

第十頁



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 「新解釈・竹取物語」


1 昔話に見るリハビリテーション

精神科医師・村田信男氏は昔話を援用して精神障害者のリハビリテーションの在り方や実相を興味深く説いている。

(1)浦島太郎
 ある日、浦島太郎は海に出るが、一日釣糸をたれても魚一匹かからなかった。亀がかかるが、太郎は三度これを逃がした。陽が沈む頃、大きな舟が現れて太郎を龍宮城に誘った。彼はそこでお姫さまに歓待され、三年ほど遊んでから玉手箱を土産にもらって故郷に帰ってくる‐‐‐以上が「浦島太郎」の代表的なストーリーで、このあと、玉手箱を開いた太郎は煙を浴びて老人になってしまう。

 村田氏はこの昔話を精神保健のリハビリテーション過程として「浦島太郎と玉手箱」―精神障害者のリハビリテーション過程―の中で次のように解説する。
「浦島太郎は成人したある時期から発病し、幻覚妄想の世界に入って行く。『陸から海底へ』ということは、現実の世界から非現実の世界に入って行くことを示唆している。幸い、被害妄想ではなく、乙姫によるもてなし妄想であったようだが、『飲めや歌えの舞い踊り・・・』という表現に示されるように興奮状態だったようだ。しかし、やがて寛解状態になり、妄想の世界から現実の世界へ(海から陸へ)戻ってくる。すなわちリハビリテーション過程である」

 統合失調症の陽性症状は幻覚・妄想に代表される。あるはずのない物・人が見え、誰もいない部屋でも人の声が聞こえる。非現実的な関係妄想が固定化し、客観的な事態が認識できなくなる。そして龍宮城なる妄想世界に没入してしまう。

 統合失調症の治療・リハビリテーション過程はこの妄想世界から彼等を生還させ、現実世界を再構成させて、適応を取り戻すことにある。それには数か月、数年あるいはもっと長い時間がかかるのだが、現実世界の時間と当人の主観的時間の流れに差が生じる。龍宮城の宴会は3年であったのに、もとの世界では数百年がたっているのである。このような主観的時間意識の違いは村田氏が以前から指摘していることである。つまり、リハビリテーションが進むと玉手箱が開き、現実の時間に戻った瞬間、自分が年齢相応の姿になっていることに気付かされる。浦島太郎の物語はこの事情をよく語っているのである。

 
(2)花咲か爺さん
 この昔話も日本人ならたいていの人が知っている。川で拾ってきた犬が爺さまを山に連れだし、大判小判を掘り当てる。欲深な隣の爺が真似をするが、うまくいかず犬を殺してしまう。犬が埋められた場所に柳が育ったので、爺さまが柳で轢き臼を作ったら、またまた大判小判があふれ出た。これを聞いた欲深爺と婆が臼を借りるが馬の糞しか出てこない。燃やされてしまった臼の灰を爺さまがもらって、これを木の枝に撒くと、桜や梅が見事に咲いた。通り掛かった立派な侍(殿様)はたいそう褒めて大金を下された。

―――灰を撒いて花が咲くなどあり得ない、だから昔話なのだ。

誰もがそう考える。けれど、現代においても、痴呆症のお年寄りなら同様の行為をするかもしれない。隣家の庭に咲く梅の木を指して「あれは本当は俺が育てたものだ」と言い出すかもしれない。もしあなたがそのような老人を見掛けても、「ぼけてしまったな」と行過ぎるだけだろう。しかし、昔話の中の殿様はそのまま行過ぎるようなことはしなかった。村田氏の文章から。

「この殿様は(中略)ぼけた老人に対して適切なケアをした名君だったといえないだろうか。彼は花咲か爺さんの振る舞いの中に生き甲斐に通じるものを感じて受入れ、文字どおり、”花を持たせた”のではないだろうか」

認知症老人の逸脱行動や失敗をいちいち指摘することは処遇として正しいとは言い難い。彼の気持ちを理解して価値観を受入れて上げる、あっぱれと褒めることで年寄りの満足感を導き、危険な木から地上へ下ろしてあげるのである。

物語の続きでは欲深爺がこれを真似て殿様の怒りを買ってしまう。失敗を咎められ、彼は意気沮喪してしまう。痴呆老人への誤った処遇例である。

(3)天照大神と天の岩戸
 古事記のなかでアマテラスはスサノオと争いを起こす。スサノオが山川をとよめかせて天上に向かう様を見たアマテラスは「『我が那勢の命の上り来る由は、必ず善き心ならじ。我が国を奪はむと欲ふにこそあれ』とのりたまひて、即ち御髪を解きて・・・」戦いの支度をする。二人は宇気比(うけひ)を行い、これに勝ったスサノオは調子にのって乱暴のし放題。アマテラスはついに天の岩戸に自ら閉じこもってしまう。

 現代で言えば対人関係に失敗して自室に引きこもってしまう若者たちと似ている。このような事態を「彼の気持ちだから」といって放置するのは正しくない。かといって無理やり部屋から引き摺り出して解決するものでもない。村田氏は精神障害者のリハビリテーションを成立させる条件に、@主体条件として「動機の熟成」、Aタイムリーな働きかけ、B適切な場の設定を挙げ、次のように解説している。

「まず、適切な場として、彼女が閉じこもっている天の岩戸の前に働きかけの場を設けた。神楽を奏で、アメノウズメという美女が踊り出した。周りの人々は手拍子ではやしたて、長鳴き鳥を一斉に鳴かせた。天照大神は、自閉状況のなかで、笑いさざめき音楽が奏でられている楽しそうな雰囲気を厚い岩戸を通して感じて、次第に好奇心にかられて覗いてみたくなってきた。動機が徐々に熟してきたのである。そして、岩の扉をほんの少し自分で開けようとした頃合を見計らって、タジカラオという力持ちの男がさっと開けた。タイムリーな働きかけであった」

 伝統的な精神科デイケアというリハビリテーションでは、居心地の好い場を設定し、焦らず急がせず、穏やかな刺激(音楽・おしゃべり・軽い作業・手工芸・スポーツ等)を準備して動機が高まるのを待つ。心の傷が癒えて彼が動き始めた時、適切なテーマを提供するのである。

(4)三年寝太郎もしくは物くさ太郎
 「三年寝太郎」はタイトルのごとく長い間働こうともせず、あばら家にごろりと寝て暮らしていた。食い物は人の恵を乞い、縦のものを横にもしない。岩波文庫版「三年寝太郎」では母親にちはやと烏帽子を買ってもらい、金持ちの家に忍び込んで「俺は所の氏神だ。お前の娘と〇〇の家の息子(自分のこと)を結婚させろ」と宣託し、まんまと逆玉の輿に成功する。

 これが「御伽草子」の「物くさ太郎」でも「ただ竹を四本立てて、薦をかけてぞ居たりける」とまったく働きもせず、もらったもちが道に転がっても面倒だからと取りにも行かないありさまはまったく同じ。たまたま通り掛かった地頭が「土地を与えよう」というのに「耕すのが面倒」と答え、「商売の支度金を与えよう」との提案も「商いの知識・経験がない」とこれも断ってしまう。あきれ返った地頭は生活保護を保障した。三年たって、国司から長夫(ながぶ:課税の一種で無料の労働奉仕)の命令があり、村人たちは体よく物くさ太郎を長夫に出す。7ヵ月の長夫が終わり、太郎は帰郷に際して妻を連れ帰ろうと図り、清水で若く美しい女にしがみつく。このときの太郎と女のやりとりはまるで歌問答のように見事な台詞が出てくる。太郎は「からたちばなの紫の門」という言葉から娘の宿を見抜き、ついにこれを娶ることができた。

 縦のものを横にもしないこの「物くさ」は統合失調症の慢性期における典型的な陰性症状である。感情の平板化、意欲の欠如、自閉、そして無為好褥が程度の差こそあれ生活を特徴付ける。周囲から見ればまったくだらしない生活で、ただただ怠けているとしか思えない。仕事は三日と続かず、気働きというものができず、人と接触することが厭わしい。そして無理をすると、たちまち病気が再発してしまうのである。だから生活保護を受けている人も多い。

 そういう病気の人達であってもときにすぐれた知識や能力を持っていることがある。元全日本スポーツの代表だったり、和歌や百人一首に精通していたり、また株や国債で儲けてしまうことがある。しかしその能力すべてが「金もうけ」に役立つわけではない。生きるために自分の能力を使う、その結果どれくらいお金を稼げたかという尺度だけで計ってしまうと、心を病む人々はこの社会から弾き出されてしまうだろう。多様な価値観、病気から回復し、どれだけ「自分らしい生き方」ができたか・・・十年寝た後でもいい、生きるための力が回復し発揮されればよいのである。

 以上の他に「因幡の白(素)兎と大国主命」(総合リハ23-10)「一寸法師と打出の小槌」(総合リハ24-9)もあり、村田氏の発想の豊さが表れていて面白いが、ここでは割愛させて頂く。

2 「竹取物語」の新解釈

 かぐや姫がどのような人物であるか、精神保健の知見から読み解いてみよう。テキストに朝日古典全書「竹取物語・伊勢物語」を使った。文中の引用もすべて同書からのものである。

(1)「かぐや」の意味
「・・・この子の名を、三室のあきたをよびてつけさす。あきた、なよたけのかぐや姫とつけつ」
 なよたけは竹のようにしなやかというほどの意味。「かぐ」は「赫々たる」の「かく」で、みごとな、すばらしいの意味。「や」は様子を示す。全体で「竹のようになよなよとした美しい容姿の娘」となる。親が自分の娘に美しく育って欲しいと願うのは今も昔も変らない。現代でも、美子・久美子といった名前が使われている。

(2)かぐや姫の出生
「その竹の中に、もとひかる竹、一筋あり。あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いと美しうて居たり」
 この物語の最後部に、なぜ彼女が地上に生まれたかの解説がされており、かぐや姫は月の民の一族で、前生の罪によりこの汚れた地上に罰として生まれたことが判る。月の民は身も心も美しく煩悩に無縁と表現されるが、彼女は親に捨てられ、生まれながらにして罪を背負っていた。これは本伝説の重要なモチーフである。

(3)かぐや姫の好きな遊び
「この子、一日うちあげうちあげあそぶ。よろずの遊びをしける。をとこは、上下えらばず、呼びつどへて、いと、かしこく遊ぶ。」
 この文章からかぐや姫はそうとうに遊び好きで、養父の竹取りの爺がお金を湯水のように使って甘やかし育てたとしか思えない。飲めや歌えの宴会が毎日のように開かれた。しかしながら、こうした贅沢な生活を姫は本当に楽しんでいたか。真実は終章になって判る仕掛けになっている。

(4)求婚
 かぐや姫の評判がいよいよ広まり、日本中の男どもが一目見ようと集まってくる。しかし目的の女は家の奥にしっかり守られ、多くの男は諦めて帰った。その中で五人の求婚者が残った。養父もいずれはどこかに嫁がせねばと考えるが、「をのが生さぬ子なれば、心にもしたがわず」と我が侭に育てたことを愚痴る始末。なぜ結婚しないのかと迫られ、姫は次のように答えた。
「よくもあらぬかたちを、深き心ざしを知らず、あだ心つきなば、のち悔しき事もあるべきをと思うばかりなり・・・」(私はたいして美人ではありません。求婚される方の真の思いを知らずに軽々しく応じてしまったら、後々後悔することになりましょう)
 と語り、さらに奇妙な条件を出す。

「五人の人の中に、ゆかしき物を見せ給はんに、御心ざしまさりたりとて、つこうまつらむと、そのおはすらむ人に申し給へ」(五人の中でもっとも素敵なプレゼントをいただける方こそが愛情ももっとも深いとおもいます。それならば結婚いたしましょうとお伝えください)
 もちろん姫は初めから結婚に応じるつもりはないのである。難題を出して断ろうという意図が見え見えである。単純な男たちはこうして、姫の罠にはまっていく。

(5)求婚者(モデルとされた実在の人物)たちと愛情の値段
 求婚者たちとかぐや姫が要求したプレゼント・結末の一覧である。

@石作の御子(右大臣丹比真人島)―佛の御石の鉢―諦めきれずストーカーとなる
A車持皇子(藤原不比等)―――――蓬來の玉の枝―恥じて世捨て人となる
B右大臣阿倍のみあらし(阿倍朝臣御主人)―火鼠の皮衣―世の笑い者、さらし者
C大納言大伴御行(大伴宿禰御行)――龍の首の珠―妻子を捨て、笑いものとなる
D中納言いその神のまろたふ――――燕の子安貝―木から落ちて腰を折り、死ぬ
    (石上朝臣麻呂)

さて、一番目の石作りの御子は大和中を三年ほど探し回り、ある寺ですすに汚れた鉢を見つけ出すが、かぐや姫によって簡単に見破られてしまう。御子は諦めきれずに文を送るが、無視されてしまった。

二番目の車持皇子は筑紫の国へ向かう振りをして、六人の細工師に密かに蓬來の玉を作らせた。皇子が完成した玉の枝を持参した時、さすがの姫も「してやられたか」と思ったが、六人の細工師が「まだ代金をいただいておりません」と訴え出たので、ことが露見してしまった。

三番目、右大臣阿倍みあらしが高い金を出して購入した火ねずみの皮衣は姫が火を点けて燃やしてしまう。その時の言いぐさがふるっている。「あらまあ。燃えると知ってましたら、ただ眺めるだけにおきましたものを・・・」である。

四人目、大納言は妻子を捨て船で海に漕ぎ出すが、嵐でさんざんな目にあい、「かぐや姫といふ大盗人の奴が、人を殺さむとするなりけり。いゑのあたりをだに、今はとをらじ。おのこどもも、なありきそ」(あのかぐや姫の大嘘つきめ。たばかって私を殺そうとしたに違いない。もう二度と家の近くを通るまい。お前たちも行くでないぞ)と言い、これを伝え聞いた元の妻に笑われた。

五人目の中納言は米倉の近くに燕の巣があると聞きつけ、子安貝を取ろうと篭の上に乗ったところ、転落して腰骨を折ってしまった。中納言が病床から「あなたのために大怪我をしました。少しは気の毒にと思って下さい」と手紙を出すが、日も経ずして死んでしまった。

かくして五人の求婚者は世の中の笑い者にされ、あるいは惨めに命を落としたのだった。

(6)かぐや姫への宮廷招命
 こうした事件が姫の美しさを一段と世に広めた。噂は帝の耳にも届き、
「多くの人の身を、いたづらになして、あはざなるかぐや姫・・・」(多くの男を狂わせ、それでも結婚しないかぐや姫とはどんな女か)と内侍の女官を使わし宮廷に招くが、姫はこれに応じない。
「くちおしく、このをさなき者は、こはく侍る者にて、對面すまじ」(この小癪な娘はがんこ者ですからお会いにならないでしょう)と養父。強情なかぐや姫の態度を聴いて、帝は「多くの人殺してける心ぞかし」(多くの男の心を惑わしたくせに)と怒る。
 宮廷出仕命令を「死んでも嫌だ」となお拒むかぐや姫に、帝は「変化の物にて、さいふにこそ」と語り、御狩と称してかぐや姫の家にのりこむ。そこには「光満ちて、けうらに居たる人あり」「逃げいる袖をとらへ給へければ、面をふたぎて、逃げあへで、面に袖をおいて」姫は<私はこの世の人間ではない>と返事した。
 ぬらりくらりと相手を拒むかぐや姫。さしもの帝も手玉に取られてしまった。二人は歌を送って別れる。

(7)心の動き
 諦めきれない帝は「方々にもわたり給はず、かぐや姫の御もとに、文をかきて通はせ給ふ。御かへり、さすがに憎からず聞こえかはし給ひて・・・」(帝は御后たちの部屋にも行かなくなり、ひたすらかぐや姫にラブレターを送った。姫からの返信も心とろかすものだった)とすっかり虜になっている。かぐや姫の本心がいかほどであったかは定かでない。帝に心惹かれていたように解釈できるが、にも拘らず男の愛情を素直に受入れることができずにいたようだ。
「かやうにて、御心をたがひになぐさめ給ふほどに、三年ばかり」すぎ、「春のはじめより、かぐや姫、月のおもしろうゐでたるを見て、つねよりも、物おもひたるさまなり」
 心配した養父がどうしたことかと問い詰めれば、姫は
「をのが身は・・・月の宮こ人なり。それをなお昔のちぎりありけるによりてなん、この世界にはもうで来たりける」
 と答え、
「この(九月)十五日にかの本の国より、迎へに人々まうで來んとす。・・・」
 なに不自由なく育てられ、たくさんの男たちから求愛されながら、彼女はこれに満足することができない。帝とは心を通じ合わせているかのように見受けられるが、共寝をすることはなく、ついにその愛情に応えることはなかった。一見幸福であればあるほど、彼女の心は苛立ち、情は波立ち、情緒不安定となって行く。他人の愛情や信頼に応えられないところに彼女の真の病が潜んでいることを誰も見抜けなかった。

(8)かぐや姫の昇天
 かぐや姫の説明によれば「かの宮この人は、いとけうらに、おはせず、思ふことなく、めでたく侍る也」(月の都の人々は身も心も清らかで、歳を取ることなく、心に悩みのない素晴らしい方たちです)とあり、物語の始めに竹の本が光っていたのはそのせいである。迎えの人は「かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賎しきをのれ(竹取の翁)がもとに、しばしをはしつるなり。罪のかぎり果てぬれば・・・」(かぐや姫は以前罪を犯したので、罰としてお前のような卑しい人間の家に置かれることになったのだ。しかし、その罪もすでに償われた・・・)と告げる。心清らで煩悩のない月の人であるべき姫が前生でどのような罪を犯したかは明らかでない。

 注目すべきは次の一節である。
「天の羽衣を着せたてまつりつれば、翁をいとをしとおぼしつる心も失せぬ」(天の羽衣をお召しになると、あれほどまでに養父を慕っていた心がたちどころに失せた)
「この衣着つる人は、物思ひなくなりぬれば、車に乗りて、百人ばかりの天人に具して昇りぬ。」(この衣を着た人は誰でも思い煩うことがなくなるので、姫は迎えの車に乗りこみ、百人ほどの天人を引き連れて昇天した)
 羽衣を着た瞬間にかぐや姫はまったく別人になったようである。別れの哀しみや養父・養母への愛情、住み慣れた我が家への愛着、そして悔恨の情もことごとく悟りを得たかのごとく消え去った。否、消え去ったのではなく、心を押し潰しかねない様々な感情(心の病)を心の隅に押込め、姫は解離症状を起こしたのである。

3 まとめ
(1)「その竹の中に、もとひかる竹、一筋あり」
 この一文の表すところは自己顕示性である。姫は自分を実際よりよくみせたいという欲求に呪われている。彼女が犯した罪は前生のものではない。親に捨てられた子供が愛情を求めて精一杯自分を輝かせているのである。しかし、歯車は狂ってしまった。愛情は求める時に与えられず、享楽の日々も彼女の心を楽しませてはくれなかった。かぐや姫の心はまさに「竹」のごとく中身がからっぽであり、その寂しさと自信の欠如を満たそうとしても得られない。

(2)「五人の人の中に、ゆかしき物を見せ給はんに、御心ざしまさりたり」
 一見他人を振り回す行動に見えるが、支配的に振る舞うことで安定を保とうという心のメカニズムが働いている。真実の姿は気が小さく、不安に満ちている。形のない言葉だけの愛情では不安なのである。その絶対的な保証としてこの世の中では在り得ない「奇跡」を要求する。男たちはある時点でそれが「幻想」であることに気付く。だからどんなに誠実であっても(五人の求婚者は皆一生懸命だった)彼等の愛情には「幻想」という偽りがまとわりつき、かぐや姫を失望させてしまうのである。
 姫は男たちの愛情を正面から受け止めることができない。愛を求めながら、その愛に向い合うことができない人は不幸というより、絶望でしかない。

(3)「この稚児(姫)のかたちの、けうらなる事、世になく・・・光満ちたり」
 宿命的に備った魅惑性。わざとらしく挑発的な態度。背後には罪悪感が潜む。かぐや姫は生まれながらにして罪を背負っていたのか。子供にこのような罪悪感を抱かせる家庭(親)とは典型的なアルコール依存症を患う家族である。彼女は今で言うところのアダルトチルドレンに育ってしまった。

(4)「なお、そら事かと仕うまつらせて、死なずやはあると心みたまへ」
 私の言うことが嘘だとお思いなら、宮廷に出仕させて見て下さい。そのくらいのことで死ぬはずがないと思われるのなら・・・と、親に向かってここまで言ってのけるかぐや姫も相当なものである。「そんなことしたら、あたしは死んでやる」と嚇かしているのである。姫自ら「この世の人にあらず」と語り、帝に「変化のものにて」と思わせるほど彼女の行動は奇妙で人の理解を越えるものだった。帝が自宅に押し掛けて捉えようとしたとき、体が影のような奇妙なものになった・・・という表現は摂食障害による極端な「痩せ」かもしれず、リストカットも度々あったかもしれない。

(5)精神的に苛酷な状況に育つと、子供は「こんな自分は本当の自分ではない」と思い込むようになるらしい。そう思わなければ辛くて生きていけないのである。その典型がシンデレラ姫である。この姫も自分の境遇の辛さに耐えきれず、その辛さを心理的に圧殺して、ある時美しく着飾りカボチャの馬車に乗ってお城のパーティに出かける。解離性障害の発症である。この症状は、しかし、真夜中の鐘とともにおさまっていった。一方、かぐや姫はどうか。残念ながら我等のかぐや姫は解離性障害を発症したまま、月の人になってしまった。現実の自分にはついに戻らなかった。

4 心の発達

「家族の機能」という言葉がある。難しく考える必要はない。親が子供に対してあたりまえの事をする。子供を愛し、可愛がり、じっと育ちを見守る。乳児は母親と初めての人間関係を築く。それが安心と愛情に満ちていれば、以降の対人関係も安心と愛情を信じて築くことができるようになる。子供が自分を律して行動する時、親はただ見守ればよい。高く積み木を積み上げて振り返ったら褒めてあげればよい。親の言葉で、子供は自ら自信を高めて行くのである。
 親に見捨てられたり家庭に不和が多いと、子供は罪悪感を抱いてしまうことがある。自分が悪い子だから父と母が喧嘩ばかりするのだ、そう思い込んでしまう。自分は愛される価値のない人間で、どんなに頑張っても幸せにはなれないとはじめから諦めている。

 大人になって自立する時期になるとそれは突然やってくる。幼稚園から小中学校、高校まで親の指示で将来が決められ、自ら選択(決定)する機会を持たなかった子供は社会にでて自分では何も決められないという危機に直面する。自分の中にものごとを選択する基準がないのである。実は中身のない人間であることに気付いた時、彼は激しい憂鬱感と不全感に満たされることだろう。

 子供は愛情を注がれ、そして放任されなければならない。乳幼児期はとても大切にされるが、少し大きくなるともう親はかまっていられなくなる。貧しかった時代なら当たり前だ。まして弟や妹が生まれればなおさらである。現在は一人っ子が多い。教育費が高いこと、親の遊ぶ時間が削られること、理由はいろいろである。しかし、その一人っ子に三人分(生まなかった子の分)の期待をかけるのは、子供にとっていい迷惑だ。

 大人になれない大人が増えている。対人関係が未成熟で子供のままなのである。大人の女性と対等な関係を結ぶことができない。そういう大人(男)は力のない幼児に牙を向ける。子供が相手なら支配が容易だからである。
 そんな大人でも結婚して親にはなる。問題は子供ができた時、「親」の役割を果たせるかどうかである。人と対等で尊重し合える関係を学んでこなかった人は、残念ながら、自分の子供とまともな親子関係を築くことさえ難しい。思うようにいかない子供に対して暴力が発生する。虐待は親子間に伝わる。虐待を受けて育った子供が親になった時、彼の虐待行為が再生産されてしまうのである。我々はどこかでこの不幸な連鎖を断ち切らなければならない。

 最後にもう一度。子供は愛情を注がれ、そして放任されなければならない。それは子供の成長する力を信じることである。


(本論考は「竹取物語」の文学的解釈ではありません。日本の昔話・伝説・神話を利用して心の健康や精神保健のありかたを考察したものです。館主)

参考文献

「浦島太郎と玉手箱」―精神障害者のリハビリテーション過程― 村田信男 総合リハ 20-10,1992
「花咲か爺さん」―ぼけ老人へのケアとリハビリテーション― 村田信男 総合リハ 21ー8,1993
「天照大神と天の岩戸」―精神障害者のリハビリテーション過程を成立させる条件― 村田信男 総合リハ 21-11,1993
「三年寝太郎」と「世捨て人」―精神障害者へのコミュニティケアとリハビリテーション― 村田信男 総合リハ 23-3,1995

「浦島太郎」  日本の昔話(3) 関敬吾編 岩波文庫 1957年
「花さか爺」  日本の昔話(2) 関敬吾編 岩波文庫 1956年
「三年寝太郎」 日本の昔話(2) 関敬吾編 岩波文庫 1956年
「物くさ太郎」 御伽草子(上)  市古貞次校注 岩波文庫 1985年
「天の岩屋戸」 古事記 日本古典文学大系1 岩波書店 昭和33年
日本古典全書「竹取物語・伊勢物語」南波浩校註 朝日新聞社 昭和35年

「人格障害」福島・町沢・大野 編 金剛出版 1995年
「新版 精神医学ハンドブック」 山下格 日本評論社 1996


「竹取物語論」
こちらも勉強になっています。




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