異界その壱





伝説、民話そして昔話

昔話と聞けば、誰でも「ああ、あれか」と「ももたろう」とか「きんたろう」とか、また「夕鶴」などを思い浮べるでしょう。子供の頃、父母に聞かされたり、本で読んだりしているはずです。最近では「白雪姫」「美女と野獣」「シンデレラ」といった昔話がディズニーの映画となって世界中の子供たちに親しまれています。ところで、伝説と昔話、民話はどう違うのか、と訊かれると困ってしまいます。この中で伝説だけは直感的に異なったものであることは多くの人が感じているでしょう。伝説は「偉人伝説」という言葉があるように、実在した人物をモデルとしてその人にまつわる出来事がお話として伝わったものが多いようです。専門書には次のように解説されています。
「伝説は具体的な事物に直接結びついて語られるところに特徴がある。特定の山・沼淵・木石・旧家などが登場し、語り手自身そのいい伝えが真実であるのを信じ、またきき手にもそれを要求する。そこに語り手自体が話に責任をもたない語り口を示す昔話とは明確な相違がある」(「民俗の事典」岩崎美術社)民俗学では「伝説」と「昔話」は以上のように区別されています。では、民話とは何でしょう。この言葉が何時ごろからあったか、私は知りませんが、戦後の児童文学作家たちが昔話を積極的に童話に取り入れた文芸運動の時期に「民話ブーム」として広く知れ渡ったと考えてよいようです。「民話」は「昔話」より広い概念があってその分あいまいで、民俗学ではあまり使われていません。(「民話と伝承」朝日新聞社) このように考えると、「きんたろう」には坂田金時というモデルがいるのに対して 「ももたろう」にはそれがないことが分ります。ご存知のように「ももたろう」は山から流れてきた桃から生まれました。山は人が住む里にとって「異界」であり、ももたろうはその異界から来た「神童」なのです。また、桃は「古事記」の中でイザナギノミコトが黄泉の国から脱出する際、追跡する妖怪に投げつけた爆弾のごとく描写されてされていて、まさに邪霊を祓う呪物とみなされてきました。昔話を詳しく読んでみると、私たちの祖先が培ってきた日本的心性、霊、信仰、そして異界をどのようにイメージしてきたかが見えてくるのです。昔話を童話の素材とすることはそれなりに文学的意義があります。けれども、不用意に作り替えると、大切なものがたくさん抜け落ちてしまうことも事実です。それぞれの視点で大切と思えることをすくいとっていくのが童話作家や民俗学者の義務であり、またこれを読む者の心得であると考えています。
私は、このホームページで、対象としては区別せず、しかし基本的な視点だけは忘れないように、私の知り得た「お話」としてとらえ、その中に日本的心性を見つけ るための努力をしていこうと思っています。お読み頂いた皆様にも「お話」から感じるところがたくさんあると思いますので、どうぞ遠慮なくご意見を寄せて下さい。

                1998年1月 吉村史彦

註:民話は「民間説話」を短く省略したものだという人がいるが、私は少し違うと考える。柳田國男は「昔話覚書」の冒頭で「これまで自分等が民間説話と謂ひ、又はそれを略して民譚と謂っていたものと・・・」と語っており、少なくとも柳田氏の時代、民話とは言わなかった。

目 次

第一頁

(01)天道さんの金の綱<1998/1>

(02)妖怪キジムナ<1998/1>

(03)察度王のこと<1998/1>

(04)蛇の婿入り<1998/1>

(05)橋にまつわる伝説<1998/5>

(06)伯母が峰の一本足<1998/5>

第二頁 (07)「岩見沢の民話」<1998/8>

第三頁 (08)「八王子の昔話について」<1999/1>

第四頁 (09)「今昔物語集(巻11,12)から」<1999/5>

第五頁 (10)「アイヌの伝説と昔話」<2000/5>

第六頁 (11)「本所七不思議」<2000/5>

第七頁 (12)「沖縄の昔話について」<2001/1>

第八頁 (13)「山姥伝説」<2002/1>

第九頁 (14)「八丈島のシマンシー」<2003/8>

第十頁 (15)「新解釈・竹取物語」<2004/1>

第拾壱頁 (16)「たまぐすくの民話」<2019/8>

第拾弐頁 

(令和元年8月上梓)

江戸俯瞰図(付録)




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