異界 その壱 |
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第七頁 |
おうおうおう。 |
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あかずの間に跳ぶ |
沖縄の昔話について |
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1 神話・創生伝承 金城唯仁は「琉球王統歴史物語」の中において袋中という人が書いた「琉球神道記」を引用し、次のような話を紹介している。 「昔、此の国の初め未だ人が居なかった時、天から男と女が二人降りてきた。男をシネリキヨと云い、女をアマミキユと云った。此の時の此の島は未だ小さくて波にただようていた。そこでダシカと云う木を探して植えて山の形にした。次にシキユと云う草を植え又アダンを植えてそこでやっと国らしくなった」。こうしてまず国土を整え、三人の子を産む。一人は国の始め(王家)、二人目は祝女(ノロ)の始め、三人目が百姓の始めであるという。この神話の冒頭は二神が国と人を生むと言う大和神話によく似ている。 「沖縄県の歴史」(山川出版社)は沖縄の洪水伝説を次のように紹介している。 「むかし多良間島に伊地按司という人があった。その妹はボナサラといった。二人が仲筋底原というところで畑仕事をしていると大津波がやってきたので、おどろいて高嶺山へはせ登り難を逃れた。(中略)二人は島内に人もいないところから夫婦の縁を結び、子孫が繁栄して村を建てた」。 同書は同じような洪水伝説が来間島、宮古島、古宇利島、石垣島などにも伝わっており、兄と妹あるいは母と息子というバリエーションはあるが、その創生神話がイザナギ・イザナミ神話の、さらに台湾・フィリピン・セレベスなど周辺諸国の神話伝承の系統を引くものだろうと指摘している。 |
守礼門(首里城) |
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「おもろさうし」にも国造りを寿ぐ歌がある。 昔初まりや てだこ大主や 清らや 照りよわれ せのみ 初まりに てだ一郎子が てだ八郎子が おさん為ちへ 見居れば さよこ為ちへ 見居れば あまみきよは寄せわちへ しねりきよは寄せわちへ 島 造れてて わちへ 国 造れてて わちへ ここらきの島々 ここらきの国々 島 造るぎやめも 国 造るぎやめも てだこ 心(うら)切れて せのみ 心(うら)切れて あまみや衆生(すじゃ)生すな しねりや衆生(すじゃ)生すな 然りば 衆生(すじゃ)生しよわれ (おもろさうし 第十巻512番) |
(むかしむかしの始まり) (太陽の大神よ) (美しく照り給え) (天地の始まりに) (太陽の一郎子が) (太陽の八郎子が) (高い所から見ておられて) (鎮座ましまし見ておられて) (アマミキヨを招き寄せ) (シネリキヨを招き寄せ) (島を造れとのたまいて) (国を造れとのたまいて) (たくさんの島々) (たくさんの国々) (島を造るまでも) (国を造るまでも) (太陽神は待ちかねて) (大日神は待ちかねて) (初めの人を生みなさい) (立派な人を生みなさい) (そうしたら、人間を生みなさい) |
識名宮(那覇) |
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この歌の筋は「琉球神道記」の神話とほぼ同じである。 |
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次に「沖縄民話集」から国造り神話を抜粋してみる。 「古宇利島の話」むかし男と女がいた。食べ物は天から餅が落ちてきた。ある日浜辺でジュゴンの雄と雌が交合しているのを見て男女が交わることを知った。また、餅を蓄えることを憶えると天から餅が降ってこなくなったので、困った二人は貝や魚や海藻を食べるようになった。 「アーマンチュ−メの足型」むかし世の初めにアーマンチュ−メがおられた。この頃はまだ天地の間がくっつくほど狭くて立って歩けないので、アーマンチュ−メは天を高く押し上げたという。巨人伝説の型である。 「与那国島のはじめ」大昔、南から男が海に浮かぶ小島を見つけて、大勢の人を連れてきた。神様にお願いして木や草をもらい人が住めるようになった(以下略)。こうした伝承は「島建て神話」と呼ばれ、八重山の各島に伝えられている。 「波照間島の話」島に油の雨が降り人々が死に絶えるが、幼い兄妹が生き残った。二人は大人になって夫婦となり子供を産むが、初めの二人は魚やハブに似た奇妙な子。住処を良い場所に移すとようやく元気な子どもが生まれた。この話はイザナギ・イザナミ神話のヒルコとそっくりである。 人間は土(卵)から作られたという話もある。 「カジマヤ−の始まり」(沖縄の民話 りゅうぎん国際化振興財団)むかし天に届くほどの木を伝わって神様が地上に降り、土をこねて六体の人間を作った。ところが次の日に行ってみると皆壊されていたので、誰が壊したのか見張っていると、地の神様が現れたので何故壊すのかと争いになった。そこで天の神様は「100年この土を貸して欲しい」と頼み、地の神様もこれを了承した。おかげで人間はどんどん増えていったが、97年目に地の神様が戻ってきて土を返せと言った。困った天の神様は「97歳になった人間にはカジマヤ−(風車)を持たせ子どもの真似をさせよう」と提案した(名護市)。 「天の子」(沖縄の民話 りゅうぎん)ある村の美しい娘が天から降ってくる朝露を飲むと懐妊し、男の子を産んだ。子どもが大きくなって「自分の父親は誰か」と訊くので、母親は太陽の半分と月の半分がくっついた神様の印を見せた。子どもはそれを持って天の神様に会いに行くが、天の神様の后から「本当に神の子なら悪い鬼を退治して来い」と言われ、神の印を使って鬼退治をする。後に子どもは地上に戻って按司(あじ)となり、妹はノロ(祝女)の初めとなった(粟国島)。 これは日光感精説話の型である。 「卵で生まれた英雄」(沖縄の民話 りゅうぎん)按司の娘が朝日を浴びて懐妊したが、三年経って卵を三つ産んだ。この三人の子は大飯食らいで按司も困ってしまい、来間島の千人原なら十分な食物があると聞き、来間島に住むよう言い渡す。来間島では一人の老婆に会うが、自分以外は赤い牛に食われてしまったと言うので、三人でこれを退治に行く。囚われていた娘を連れ帰り島には人が増えた。この話は卵生説話の型である。朝鮮半島の始祖伝説にもあり、日光感精説話と共に古い時代から大陸を中心に伝えられてきたと考えられる。 朝鮮半島に似た伝説が存在するはずだ。 宮良當壮は「八重山を思ふ」(沖縄文化叢説 中央公論社)の中で、太平洋戦争前までの宮古(八重山)はマラリアの猖獗地であったことを述べている。 石垣島のオモト岳に近い野底(のそこ)村ではマラリアで全滅、たった一人53歳の老婆だけが生き残った。この村は1732(享保17)年黒島から400人の人寄せ(強制移住)があったという。あるいは赤い牛の正体はマラリアであったかもしれない。 洪水伝説にせよ卵生・感精説話にせよ、沖縄にはかなり古い時代に、大陸及び南方諸島から神話的伝承が持ち込まれ、王統・ノロ・按司・百姓などの始祖伝説に脚色され、又島建て神話として構成されていったと想像される。 2 蛇神を巡る話 吉野裕子はその著書「蛇−日本の蛇信仰」の中で「宮古史伝」の中の島建て神話を次のように紹介している。 「神霊大蛇と住屋の娘」昔、宮古島下里南宗根の住屋に玉のごとく美しい娘がいた。14,5歳のころ故なく懐妊したので、父母これをあやしみ夫もないのにどうして懐妊したのだと責めると、娘は顔を赤らめてうるはしい男子の名も知れないのが夜な夜な偲び来たって・・・と語った。そこで糸をつけた針を男の髪にさしておくと、これが漲水御嶽(はりみずうたき)のイビの内の洞穴につらなっており、その中に大蛇がいた。大蛇は夢の中で「我はこの宮古の島建ての神で、この島守護の神を生もうと思い、汝の処に忍び寄ったのである」と告げる。娘が生んだ三人の子どもは島守り神になったという。 おなじ話が「沖縄民話集」に載っている。この伝承は大和の三輪山神話と同系である。 吉野は同書の中で日本の原始的信仰に蛇があり、それは縄文時代から連綿と続いて、今日まで鏡餅(カカは蛇の古称)、銅鏡、蛇神と交わる巫女の三画紋様(鱗の表象)のたすき・帯・裳、沖縄のクバ(茎が蛇身の表象)とそのクバを象った七襞のカカム(ノロの衣装)などに残されているという。 大和神話に見られる通り神はかつて蛇の形をしていたが、時代が下るにつれて忌み嫌われるようになり、沼などに住む邪神と化していった。 では、昔話の中で蛇はどのように語られているだろうか。 「三月三日浜下りの話」(沖縄民話集)昔、美しい娘のもとに若い男が忍んで来た。隣の婆さんが 怪しんでのぞくと男の正体はアカマタ−(蛇)だった。懐妊した娘を助けるため三月三日にヨモギ餅を 食べさせ、浜に下りて波を三度蹴ることを教えたという。 「沖縄の民話」(未来社)にある「大蛇の精」もほぼ同じストーリーで三月三日の浜下りの起源譚になっている。 「日本の民話」第12巻(ぎょうせい)にも「蛇の婿入り」があり、これは五月五日のちまきをモチーフにしている。 「岩かげのアカマター」(沖縄民話集)昔、乙女が畑で仕事をしていた。岩陰から赤い鉢巻をした美男子が現れたので、乙女はこれに魅せられてしまった。これを見ていた百姓たちはアカマターの仕業と知って急いで乙女を連れ戻した。もともとアカマターは島建て神話の守護神として祭られてきたが、多くの話で「蛇の婿入り」話に習合され、邪神としての性格が与えられている。 NTT西日本のホームページにはハブの話がいくつか載っている。 「アールパンナー」(八重山)石垣島で日照りが続き病人が出た。アールパンナーという巨人が月の神様の許へ不老不死の薬をもらいに行くが、この薬をハブが飲んだのでハブは長生きになった。 蛇は脱皮することで長生きの動物と信じられているが、その起源譚である。 「千年蛇」(南部)アカマターは竜になって昇天するところを人間に見られてしまった。自分のことを黙っているように約束させるが、人間がしゃべってしまったのでアカマターは蛇に戻って天から落ちてしまった。長く生きた蛇が昇竜と化すのはその神性の一つだが、人間に見られて失敗する弱点も特徴の一つである。 「ハブの恩返し」(不明)アダンの森の中で火に囲まれていたハブを女が発見しこれを助けた。女はお礼に「ハブに噛まれない咒い」を教えてもらった。沖縄では猛毒を持つハブはもっとも恐れられており、こうした話はたくさんあるという。 「ありとハブと虫」(南部)ハブが人間に噛み付こうと狙っていたが、これを止めようと蟻がハブのうろこに入り込み噛み付いた。虫がこれを見て「水に入ればいい」教えたので、ハブは水に飛び込んだ。 ここでは猛毒のハブも情けない姿に描かれている。 3 北谷(チャタン)王子と黒金座主(クルガニザシュ) 「沖縄の民話」(未来社)に次の二つの話が載っている。 「魔法使いの坊さん」那覇に黒金座主という坊主がいた。座主は魔法使いで参詣人から金を巻き上げたり首里城に忍び込んで宝物を盗んだりしたので、勇者北谷王子は宝剣治金丸を腰に差し、住処の護道院にのりこんで座主を討ち取った。座主は幽霊となってなお祟り、北谷王子の大村御殿内で生まれる男の子をとり殺した。悪霊の祟りから逃れるため、沖縄では今でも男の子が生まれると「大きな女の子が生まれた」と触れ回ると言う。 「宝剣治金丸」ある村で正月に男が豚肉を切っていた。五歳の子どもが肉をねだるので、持っていた包丁で脅かすと子どもの首がころりと落ちた。これを聞いた阿波権親方(あはごんうえーかた)が包丁を鍛えなおして治金丸(じかねまる)を作った。後、冶金丸を京都の研ぎ師に出したところ偽物とすりかえられたが、親方が苦労して取り返した。同じ話が「沖縄民話集」に載っており、尚真王時代、豊見城村での話としている。 |
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ところで、宝剣治金丸は実在する刀らしい。「おもろさうし」に次の歌がある。 |
治金丸(じかねまる) |
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「おもろ音揚がり」とは「おもろさうし」の中心的作者で15世紀の人。アカインコ(赤犬子)と呼ばれ、彼の出生譚が「沖縄民話集」に「赤犬子」として載っている。これはまた後で。 宝剣治金丸については「おもろさうし」の註に「中曽根豊見親が首里王府に献じた。応永頃の信国の作か。千代金丸・北谷菜切と共に琉球王の宝刀として伝わり、三振りとも尚家に現存する」とある。宝剣千代金丸は「琉球歴史王統物語」に次のような話が載っている。 応永23年(西暦1416年)中山王は息子の尚巴志を遣わして山北(沖縄北部)のハンアンチを討った。北山城は現在の今帰仁、大変険阻な地にあって攻め難かったが、内通するものがあり、ついに陥落した。その際、ハンアンチ自らの首をはねたのが千代金丸であったという。「北谷菜切」については調べたが判らなかった。 北谷王子に関しても先の昔話以外に伝承があるのかどうか判らない。治金丸と同時代ならば、献上が応永年間だから第一尚氏から第二尚氏に移り変わるあたりの王族で、現在の北谷村に育ったか北谷村から迎えた夫人(妻)の子どもという可能性が高い。また、治金丸と北谷菜切を混同したかもしれない。「菜切」の方が昔話の内容にぴったりという感じがする。 他方、黒金座主の昔話は二つ見つけた。 「黒金座主と髪の毛」(沖縄民話集)座主は中国で幻術を修得し、帰国して婦女子をたぶらかす乱行が続いた。ある娘の髪の毛を一本欲しいと頼むと、娘は髪の毛をざるの目に通してから与えた。座主が呪文を唱えると娘の替わりにざるが飛んできてしまった。 「黒金座主のお化け退治」(NTT西日本・北部)那覇の奥武山に化け物が出るというので座主が退治に出かけた。鍋をかぶり杖を持ち体に縄を巻いて死人に見せかけ化け物の仲間と思わせて、彼らの正体が「おしゃもじ・ひしゃく・どびん他」であると判って、翌朝これらを燃やしてしまった。 この話は日本各地にあり九十九神(道具の百年たつと妖怪と化す)を度胸の良い旅の僧が見破ると言うストーリーと同じだ。沖縄南部では悪僧の座主も、神力ゆえ北部には勇者として伝わったのかも知れない。 |
赤犬子神社(読谷) |
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4 ウミチル姫の運命 「天女のお母さん」(沖縄の民話 未来社)は羽衣伝説である。貧しい百姓の奥間がある夜、水浴する天女に出会い、羽衣を隠して彼女を妻にする。二人の間には恩鶴(ウミチル)と亀千代という子供が生まれる。その後、母親は天に帰るが、ウミチルは成長して王妃に迎えられ、亀千代はやがて王位に即いた。この人が名君と謳われた察度(さっと)王である。察度王と天女伝説は以前本ホームページで取上げたので、そちらをお読みいただきたい。今回はウミチル姫の話である。 「金の瓜の種」(沖縄の民話 未来社)王の住む首里城の奥に大内原という御殿があってたくさんの美女が集められている。その中に久高島出身のウミチルという美人がおり、王はこれを夫人とした。二人の間に男の子が生まれるが、後宮の女たちはこれを妬んで、ウミチルを陥れた。新年の宴席で誰か屁をたれた者がいて、同席の女たちはウミチルのせいにした。王は怒って彼女を首里から追放し久高に帰した。男の子は後に成長して父王に会い「この金の瓜の種は屁をしたことがない女が撒かなければならない」と申し上げ、王のかつての非道をたしなめた。 「王様と瓜」(日本の民話12巻 ぎょうせい)宮古島で採取された話で、短いがほぼ上の昔話と同じストーリーである。成長した子どもが瓜を売り歩きながら王様の前に出て「この瓜は屁を出す人は食べられない」という。王が「屁を出さない人はいない」と言うと、子どもは「あなたは私の母が屁をしたために離婚しましたね」と非難した。王は反省して母と子を首里城に戻したという。 「黄金の瓜の種」(沖縄民話集)玉城村の白樽は戦乱の世を嫌って妻と共に久高島に渡り、そこで三人の子をもうける。長女はヌウル(祝女)になり、長男は家業(百姓?)を継いで栄えた。次女の恩樽(オミタル:omitar=umitir であろう)は王城の巫女として召し抱えられ王の目にとまって愛人となった。すると、周りのものがこれを妬み、王のいる席上で彼女を陥れた。以下は前二話と同じ展開・結末となる。三話とも子どもは王の跡を継いで国王になったとある。 これらの昔話の時代背景を推察してみよう。1469年、第一尚氏は尚徳をもって断絶する。尚徳と対立して隠居していた内間金丸(尚円)が推挙されて王位につき第二尚氏王朝がスタートした。 尚円は在位7年で崩御、世子尚真がまだ12歳であったため尚円の実弟の尚宣威が第二代国王になった。しかし尚宣威はたった六カ月で退位することになる。その退位劇を背後で操ったのは尚真の母・世添御殿(よそひうどぅん)であったという。 源武雄は「琉球歴史夜話」の中でこの退位劇を次のように解説している。 「1477年2月のある日、国頭間切の辺戸のアフリ岳という山に飛行機の落下傘のようなものが二つ三つ現れた。(中略)この時天から天下った神様の名はキミテズリ(君手擦)という神様であった。この神様は琉球王が即位すると、その即位を賀し、新しい王様に霊力を与え、かつ新王の御世が太平になるように守護してあげるといった使命をもって、首里城の正殿を訪れる神様」である。この報を得て聞得大君(キコエオオキミ)はじめ多くの神女が祝賀のため神々の託女として首里城正殿に集まったが、前例と異なり尚宣威王のいる玉座を背にして並んだ。そして尚宣ではなくて尚真を褒め称える託宣を行った。これを聞いた尚宣王は天命が自分になく尚真にあることを悟って退位したという。 こうした神女たちの行動を操ったのは尚真の母・世添御殿であったらしい。尚円王には正妃世添御殿の他に十人近い妾がいた。しかし源武雄はこの正妃が男勝りで権力欲が強く、王の系譜に妾とその子どもたちの名を載せることを断固拒否したのではないかと推測する。今日に残る王家の墓・玉陵(たまうどぅん)には自分の生んだ直系の子孫しか葬らせなかったほどである。 第三代尚真王はわずか13歳、実質的な権力を握り、睡簾(すいれん)政治を行ったことだろう。 尚真王の御世、琉球には黄金時代が訪れる。尚真には正妃の他夫人が二人、確認はできないが妾が13人ほどいたらしい。尚真の長男・尚維衡(後、浦添王子と称する)は正妃の子であるにもかかわらず玉陵の墓誌に彼の名前が刻まれていないという。正妃・居仁は尚宣王の娘であったから、世添御殿は彼女を嫌って長男を受け入れなかったと思われる。 後宮の中で激しい暗闘が生じ、第四代尚清王(尚真五男)を生んだ思戸金(うみとかね)夫人が最終的に勝利を収めた。尚維は姦計に落ち、母ともども首里を追われてしまった。 歴史の表舞台に現れない女たちの戦いの中からウミチル母子の伝説が生まれたと考えたらいかがだろう。たった一つの伝説・昔話の中にも、歴史と権力に弄ばれた女性たちとその子どもたちの悲しい声や怨念が押し込められているのかもしれない。数年前浦添城跡を訪ねたとき、防空壕の脇に「浦添王子」と刻まれた墓碑を見つけたことがある。尚維衡の悲運を慰めるために建てられたのだろうか。 |
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5 信仰、呪術、妖怪、悪神 (1)セジ かつて仲原善忠はおもろ神歌を中心に沖縄人の信仰の対象を調べたところ、セジという非人格的な霊力が圧倒的であったと述べた(沖縄文化叢説 中央公論社)。セジもしくはスジは霊的な力で特定の形を持っていない。その本源も管見にして私は知らない。具体的には姉・妹がオナリ神となって兄弟を守る、その力を呼んでいる。歴史的に見てその典型は聞得大君(キコエオオキミ)であり、もっぱら王族の女性がこの職に就いて王室と琉球国の繁栄をその霊力で守ってきた。沖縄の女性の霊力を昔話に探してみよう。 「姉と弟」(日本の民話12巻 ぎょうせい)むかし親のいない姉と弟がいた。貧乏だが頭の良い弟は金持ちの子どもから苛められた。学校の先生から問題を出されるが、姉の智恵でいつも一番だった。 「姉と弟」(沖縄の民話 りゅうぎん)むかし親のいない姉と弟がいた。貧乏だが頭の良い弟はいつも金持ちの子どもから苛められた。ある日、金持ちの子どもが弟を騙して毒入りのご馳走をする。姉の警告を聞かず料理を食べた弟は死ぬが、姉はよもぎの花を使って弟を甦らせた。 これと同じ話がNTT西日本のホームページにも載っている。 沖縄では海に出漁する男たちをオナリ神の姉妹が守るという。漁だけでなく、その昔は戦いに臨む戦士たちの無事をも祈ったことだろう。もっと言えば、古代の戦争はまず巫女たちによる呪的な戦いがあったと考えられる。 |
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聞得大君ぎゃ 赤の鎧 召しよわちへ 大国 鳴響(とよ)みよわれ 鳴響む精高子(せだかこ)が (おもろさうし 第1巻123番) この歌を詠んでいると、かつて邪馬台国の卑弥呼が周辺の国々を率いるため戦いの先頭に立ち、その呪力をもって敵を打ちひしぎ、味方を奮い立たせた姿を彷彿とさせる。 |
(聞得大君が) (立派な鎧をお召しになって) (大琉球は世に鳴り響く) (名高き精高子は) |
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(2)咒文・呪物 「マブイグミ」と「アンマ−クート」はかつて沖縄のお年寄りから聞いた咒文である。 島袋盛敏は「耳学問」(沖縄文化叢説)の中で次のように解説している。 「シナには離魂病と云ふ病気があるさうだが、沖縄にもそれと似たことがあって、驚いた時には魂が体から離れてしまふと考へられて居る。魂が体から離れることを「マブイを落とす」と云って居る。落としたマブイを拾ふことをマブイグミ(マブイをこめる)と云ひ、それを専門にして居る者をマブイグミヤ−と云って居る」 「小さな子供が夜分何かの用で、誰かと一緒に家を出て行く時は母親がその子供の顔に唇を押し当て「アヤークート、ターガン、ンーダン」と云ふ。母以外には誰も見ないと云ふ魔除けのまじなひである。士族の母はアヤーと云ひ、平民の母はアンマーと云ふ」 こうした咒文を使うのはたいていお婆さんか母親か姉などである(因みに私の女房もこの咒文を使う)。霊力(セジ)を持っているのは女性だからである。 咒文を扱った昔話もある。 「くしゃみ」(沖縄の民話 未来社)昔、男が墓地のそばを通ると「石垣の上で赤ん坊の泣きまねをすると赤ん坊がくしゃみをする。三回くしゃみをすると、魂を抜き取れる」「くしゃみのたびにクスケー(糞の意味)と言われたらあきらめろ」という話を盗み聞いた。男は話に出た家に行き、生まれたばかりの赤ん坊を見せてもらい、くしゃみをするたびに「クスケー」と唱えて呪いを解いた。 NTT西日本ホームページ「クスケーの由来」もほぼ同じ話である。 「サンを結ぶこと」(沖縄民話集)羽地村の奥武(おう)島の近くのジャーナマという小島に老人が住んでいた。あるとき化け物が大勢現れてご馳走を出せと要求した。毎晩来るので老人は困ってしまったが、ある晩、ご馳走に手をつけずに帰ってしまった。老人は「すすきで結んだサン」のせいだと気づいた。 すすき・クバ・笹など輪に結んだ物をサンと呼ぶ。魔除けの呪物である。沖縄の土産物店に行くと「クバのサン」「シーサー」「石敢當(いしがんとう)」がよく売れている。いづれも魔除けで近年の流行である(勿論私は三つとも持っている)。 ところで「奥武島」は南部島尻郡玉城村を抜けて太平洋側に出たところにも同じ名称の小島がある。若い人は「おくたけ」と読むが、本来は「おう(む)」である。「おう」は青ヶ島などの「あお」と同じで、かつては死者を葬る他界とされてきた。谷川健一は「日本の地名」の中でこのことを考察している。化け物が出ても不思議はない。 |
シーサーとサンのお守り |
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(3)妖怪・悪神 「真玉橋の唐獅子」(沖縄民話集)豊見城村真玉橋(まだんばし)の下を流れる国場川の入り江の東南にガーナー森(ムイ)という小島がある。昔、ガーナームイは怪物で人を襲って困らせていたが、神様が岩を落としてガーナームイをこらしめた。村人は唐獅子を作ってガーナームイが再び暴れださないようにした。この獅子はシーサーであると思われる。真玉橋には人柱の伝説もあり、今でも幽霊が出るという話が残っている。第二尚氏第11代尚貞王のときに真玉橋を改修したという記録が残っているから、そのあたりで人柱の噂が生まれたのかもしれない。 「疫病神」(沖縄の民話 未来社)石垣島の漁師が海岸にいると大勢の人の声がする。流木を引っ張っていたので漁師がこれを手伝った。しかし彼らは疫病神で島に疫病を持ち込もうとしていたのだった。手伝いの礼に「夜烏が鳴いたら木臼を杵で叩け。病気が防げる」と教わり、漁師は島中の人に知らせて疫病を防いだ。この昔話のポイントの一つは流木である。流木については本ホームページ「今昔物語集から」を参照されたい。 「鬼に食われる運命」(沖縄の民話 りゅうぎん)昔、子供のいない先生が養子をもらったが、占い師から「鬼に食われる運命だ」と告げられる。その日が近づくと子供は神様に願をかける旅に出る(中略)。やがて天から大きな赤い牛が来て子供の周囲を回るが、どこかにいなくなってしまった。この話に出てくる鬼は赤牛だが、先に紹介した「卵から生まれた英雄」にも赤牛の妖怪が来間島に出現している。牛に神性があることを早くに指摘したのは石田英一郎で「河童駒引考」の中で詳しく解説している。 「ことばを話す牛」(沖縄の民話 りゅうぎん)では牛が持ち主の若者に冨をもたらすが、後半で「この村に疫病がはやるが、私(牛)を殺して食べるシマクサラシという行事を行え」と若者に教え、疫病を防ぐ話がある。解説によると、このタイプの話は本土ではまったく聴取されておらず、沖縄と中国にだけ伝えられているという。 「シマクサラシ(スマウサラ)」は八重山地方で行われる魔除けの儀礼で上原孝三が「祭にみえる境界」(方法としての境界 新曜社)の中で詳細に述べている。「スマウサラは・・・旧暦6・7月中に行われる。悪霊や悪疫が集落内にはいるのを防ぐことを目的とし、そのために豚骨を縛った左縄を村の入り口にめぐらす儀礼である。この行事は宮古諸島一帯に広がっている」。 かつては豚ではなく牛を殺し「その血をススキ(と桑の葉)につけ、家の壁、便所、門に塗りつけた。左縄をない、牛の骨をつけ、部落の四方のはずれや入り口の道をまたぐようにして、部落に悪霊の入るのを」防いだという。 「病気の神様」(NTT西日本・南部)むかし暴風で難破した船が海岸に打ち寄せられたので、島の人々がこれを助けたが、乗っていたのは病気の神様達だった。病気の神様は「お前たちは親切だから、病気にならない方法を教えよう」と言った。四月に豚の血をテツボクの木の葉につけて村の入り口に下げること、八月にすすきと桑の葉を家の入り口と角々に挿すことだと言った。 |
石敢當 |
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6 その他の昔話 (1)モーイ少年を主人公とする一群の頓知話がある。父は三司官(さんしかん:琉球行政官の最高位)で あると語られており、長じて伊野波毛偉親方(いのはもーいうえーかた)と呼ばれたというからには実在の 人物のようで、琉球の上流社会の中でもてはやされた話と思われる。話型そのものは九州から伝わった のだろう。 (2)木の精キジムナーも沖縄らしい一群の昔話である。暗い道で人に水をかけたりする半面、漁や 山仕事を手伝ってくれる愉快な妖怪である。「ざしきわらし」の性格を持つが、追い払ったからといって 富を失うわけではない。「キジムナーに出会うツアー」という企画が旅行会社で毎年立てられるという ことである。女房の姉や親戚筋の者が度々出会っている。 (3)鬼の話は桃太郎のように定型化されていない。 「鬼のいる島」(沖縄民話集)では二人の小坊主が和尚に叱られ、海に流されて鬼の島に着くが、一人は宝物を奪って帰ってくる。 「二日夢」(日本の民話12巻)では初夢を見た子供がその夢を人に語らないというので海に流され、 鬼の島に着いて宝物を持ち帰る。 別の一群の鬼の話は兄弟姉妹・妻が鬼だったというもの。 「鬼餅」(沖縄の民話 未来社)では暴れ者の兄が鬼となったので、妹が餅を作って退治する、鬼餅(ムーチー)の由来。 「姉は鬼」(日本の民話12巻)では鬼となった姉が部落の人々をみな食ってしまう。数十年ぶりに村を訪ねた弟は妻からもらった三つの玉でこの鬼を退治した。鬼に追われながら三つの玉を一つ一つ投げるという「三枚の札」型の話である。 「三つの玉」(NTT西日本HP・宮古)はおしかけ女房が実は鬼で村人を食い殺す。ストーリーは同じである。 「三良と鬼婆」(NTT西日本・北部)でもおしかけ女房の正体が鬼。逃げても逃げてもしつこく探し出される 三良(さんらー)は最後に寺の坊さんに助けを求める。三枚の札型ではなく、「牡丹燈篭」のような怨念を感じさせる話だ。 (4)神々の話で有名なものは「星砂の由来」(沖縄の民話 りゅうぎん)であろう。 むかし北極星と南の星の間に子供ができたので、竹富島の海岸で生んだ。ところがこれに腹を立てた竜神が大蛇を送って子供の星をことごとくかみ殺してしまった。竹富島の御嶽の女神が哀れに思い、星砂となった亡骸を香炉に集めて天に帰したという。悲しいが南国沖縄らしいほのぼのとした昔話である。 「木々の由来」(沖縄の民話 りゅうぎん)世の始まりに神様が八重山を作ったとき、木たちを集めた。早くやってきたフクギ・マツ・クワ・タケ・クバ・アダンにはそれぞれ肥えた土地が与えられ又役目も決められたが、遅れてきたソテツやアコウ・ガジュマルには岩だらけの荒地しか残っていなかった。十二支の由来話に似ている。 「海の神と陸の神」(NTT沖縄HP)昔、陸の神様が美しい浜辺を見て自分の領地にしようとハマハンダ(ひるがお)を植えた。海の神様もこの浜辺を欲しがり、二神の争いになった。海の神様が風と波を起こしたが、ハマハンダは丈夫で抜けなかった。今でも二神の戦いは続いていて夏に台風が来るのがそれだという。 この話は沖縄にしかないらしい。 (5)「ミルク神とサーカ神」(沖縄の民話 りゅうぎん)両神は隣同士だったが、あるとき土地争いをする。蓮の種を撒いて競争するが、ずるをして勝ったサーカ神が「ここから見える土地は全部私のものだ」と言ったので、ミルク神は「ではここから見えない土地は私のものだね」と答えた。ミルク神の土地は肥えていて栄えた(西表島)。 「ミルク神とお釈迦様」(日本の民話12巻)はほぼ同じストーリーで、やはり二神が土地を争う。高い山に登り、釈迦が「ここから見える土地はわしのものだ」というのでミルク神は「では山陰の見えないところをもらおう」と答えた(竹富島)。 ミルク神は八重山地方の豊饒神で、出自は勿論弥勒菩薩である、両神とも仏であり、元来対立関係にはない。おそらく体系的な仏教教義が伝えられる前に、有難い神様として伝わり、「隣の爺」型の話が構成されたのではないかと思われる。石垣空港に降りると、ミルク神の大きな面が飾ってある。 この地方の祭礼で人がお面として被り登場すると聞いた。 |
石垣島 |
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7 おわりに 沖縄は北海道(アイヌ)と同様にお話の宝庫である。本土からもたらされた昔話も多いが、大陸および南洋の色彩を持った話が実にたくさんある。それからもう一つ、歴史伝説に根ざす昔話が目立っている。 紹介からもれたが、「白銀堂物語」は薩摩藩支配の許で生まれてきた話であろう。一つの話の中で登場する人・物(例えば治金丸)が別の物語に登場し、次々に展開していく。村落の儀礼に固く結びついた伝説も特徴的である。 互いに遠く離れた島々であるがゆえに独自の話があるかと思えば、似通ったものもある。「ソテツ地獄」と言われる辛酸をなめた人々はその苦しさの中にありながら、南海のあっけらかんとした話を作ってきた。アイヌ人が和人支配の許でもユーカラを歌い上げてきたことと似ていると思うのは私だけだろうか。 |
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