異界その壱 |
第六頁 |
おんおんおん |
物語の広場・表紙へ |
目次に戻る |
あかずの間に跳ぶ |
本所七不思議(「両国・錦糸町むかし話」より) 平成12年5月 |
|
昔話はなにも田舎だけのものではない。好きな方ならご存知の通り、都市にもある。都市に生まれた民間説話の一型が都市伝説である。本所七不思議譚を紹介しながら、都市民間説話を考察してみようと思う。 |
片葉の葦。 なぜか、葉がすべて片側に 傾いて生え伸びている。 |
2.「七不思議」というタイプの民間説話は明らかに昔話とは違っている。昔話の鉄則は「むかしむかし、あるところに」であり、「先日、おいてけ堀で大工の留さんがね」という世間話とは性格を異にする。前節の紹介でいくつかコメントしたような合理的解釈さえ可能な「生々しさ」が世間話の本質である。 著者の岡崎氏は本書の冒頭に両国〜錦糸町の地図を載せ、「七不思議」の候補地を一つ一つ示している。例えば、四番のシイの木は大川(隅田川下流)端にあった松浦静山の屋敷のものだとされている。割愛したが四番の二「津軽太鼓」は本所にあった津軽越中守の屋敷で打ちならされた太鼓である。七番の「足洗い」は本所三笠町の味野岌之助(あじのきゅうのすけ)という旗本の屋敷となっている(この話は番町七不思議にもあり、やはり旗本屋敷である)。 これらの話は何時ごろ、どんな人たちが生み出したのだろう。 「おいてけ堀」の狸や河童は昔からのキャラクタのように見えるが、登場人物は釣の浪人(生業ではなく趣味)、酔っ払い、おかみさん、魚屋さんであり、どう見ても町の風情だ。「片葉のアシ」は前述した通り江戸っ子好みの筋立て。「明りなしそば」はまごうことなき町の商売である。 こうしてみると、「七不思議」の主人公は町人・侍(大名や旗本)で舞台は大都市江戸の外縁あたり。大名・旗本の屋敷が並び、一般商工人の長屋、商業地、市場、遊廓、寺社をはじめ全国から集まってくる遊民・流民などで人口と宅地が増加した。すなわち、著者は「明暦三年(1657)の振袖火事による大被害の結果、幕府は下町行政の抜本的改革を迫られた。その一つに本所の開発がある」と解説する。本所の道路や用水路が碁盤目状に並ぶのはその計画的な開発のためである。鳥獣虫魚の楽園であった広大な湿地帯は地を固められ、多くの生き物が追い立てられた。時代はまもなく元禄を迎え、大発展のエネルギーに満ち満ちていた。 |
沖縄県豊見城村の 真玉橋には、 人柱となった女性の 幽霊が出るという。 |
3.ここで、牛久・若柴のHPに掲載された伝説に触れておく。七不思議1・2・3番の話が牛久にも伝わっており、かつ妖怪の正体が河童とされていることである。 前田氏(HP主宰者)の紹介によれば、牛久沼は「むかし沼の水源である東谷田川と西谷田川は合流して旧鬼怒川へ流れていたと言われている。それより下流の低湿地から逆流が活発化し、旧鬼怒川との合流地点に土砂が堆積してせき止められ」形成された。 また「永禄年間から天正年間にかけて(中略)、領民は競って開墾に勤めた。そしてこの地方の収穫高は年々増えていった」「やがてこの地方は関東有数の穀倉地帯になったのである」「古くから牛久沼では漁業が盛んであった」とあり、江戸時代の初期から霞ケ浦を含むこの東関東地域は大都市江戸の食糧を供給してきたといえる。 土浦から牛久、取手、柏を経由し、大量の米俵が隅田川を降ってきた事だろう。米と魚貝類を扱う商人たちが往還し、中継の宿場町がにぎわい、芸人・僧・巫女・小商人たちが押し掛けた。そして彼等が江戸の文化を伝えたに違いない。ファッションや流行歌、はやりの神仏、下町小話、うわさ話など何でも歓迎されたであろう。 その事情は八王子市が中継の宿場町として発展したのと同じである。「八王子の昔話」で紹介した「もんじゃの吉」というシリーズものの笑い話は恐らく江戸下町で語られた話が八王子に伝わったのだ。本所や番町の七不思議譚もこうして牛久市に伝播していったと考えておかしくはない。 一つ異なるのは七不思議1・2・3番に登場する妖怪が本所では正体不明(もしくは伏せられた)であったのに比べ、牛久では「河童である」と明言されていることだ。 本所にも河童説はあるのだが、地元商業振興(カッパ市)のため宣伝された面もあり、といって狸と決めつけるには堀とあわないからあいまいなのである。 この疑問の答えはやはり前田氏のHPのなかにある。明治〜大正にかけて活躍した小川芋銭の存在がそれである。 再び前田氏のHPから、芋銭は「慶応四年、江戸赤坂の牛久藩大目付小川伝右衛門賢勝の長男として生まれた。幼名は不動太郎」、長じて「スケッチ漫画を新聞に発表。俳雑「ホトトギス」などに挿絵や表紙を描くことによって有名になった」「河童の絵は特に有名で著書に「河童百図」などがある」「昭和13年永眠、享年七十歳、牛久城中の得月院に眠る」とある。 大野圭は著書「河童の研究」の中で「それまで本草学者の研究材料であったり、妖怪味をもった画題にすぎなかった河童を、芋銭は、生きものとして山河に還し、自由気ままに水中で泳がせ、自然の一部として振舞わせた」と評価する。江戸時代以来、河童は鳥山石燕、葛飾北斎、川鍋暁斎らに描かれてきたが、博物的対象から徐々に戯画化し、人間化してきた。芋銭はそれを本来の自然に帰したのだという。しかしこの頃、すでに河童は大衆の人気者−アイドルに変身していたと言っていいだろう。 江戸の七不思議が伝えられた時正体不明だった妖怪が、実は河童であったと、牛久の人々が考えたのはむしろ自然な成り行きなのだろうと、私は推測する。 |
|
4.本題に戻ろう。ここで本題とするのは、本所や番町に七不思議譚が生まれた由縁である。結論から言って、私はこれら七不思議譚を日本における都市伝説のはしりであろうと考えている。 |
|
<参考図書> 両国・錦糸町むかし話 岡崎柾男 下町タイムス社 1983年 江戸の小さな神々 宮田 登 青土社 1997年 都市伝説に潜むもの 宮田 登 東京都研修所 1997年 →資料として全文を掲載予定。著作権に触れるかな? 河童の研究 大野 桂 三一書房 1994年 http://www3.justnet.ne.jp/~ushikunuma/ 前田享史氏ホームページ |
|
物語の広場・表紙へ |
目次に戻る |
このぺーじの先頭に |
あかずの間に跳ぶ |