異界 その壱

第八頁



ふんふんふん

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 あかずの間に跳ぶ 




山姥伝説

1 「山妣」(やまはは)

−−−木の幹の横に、ぱっと人が踊り出た。長く伸びた白髪。大きく開いた灰色がかった瞳。
全身にうす汚れた毛皮をまとい、素足にぼろぼろの毛皮を紐で縛りつけ、手には木鋤ようなものを握りしめている。
 山妣だ。
 妙の膝から力が抜けた。
 山妣は妙を見つけると、言葉にならない声を発して斜面をざざっと降りてきた。

 以上は坂東真沙子著「山妣」の一節である。時代は明治の末期、越後の豪雪地帯を舞台に男女の愛憎劇を描いた力作である。一人の遊女が逆境から抜け出すため殺人まで犯し、山に隠れて子を産む。やがて彼女は里人から「山妣」と呼ばれて恐れられるようになった。ストーリー展開に山村の伝説が織り込まれ、独特の構成を作っている。例えば次のような習俗・伝説がある。

「気にすることはね。皆、やってることだ。ここらの女は、子を間引きした時にゃ、長岡に塩を買いにやったということになってるがんだ。そおしてな、殺した子は、あの藁叩きの定場石の下に埋めるんだ」

 母親が娘に「子殺し」を語るくだりである。かつては幼児が死ぬと、大人と同じ墓には入れず、家の軒先などに埋めるという埋葬習慣があったらしい。

「又鬼(またぎ)が山さ籠もって猟をする時は、いろいろど厳しい掟があるあんだ。特別な山言葉を使うごどになってるし、死火や産火にあだってはいげねえ。山で女ど会ったら、話してもいけねえったい」

 これも山を仕事場とするマタギたちの習俗である。なぜ女や出産を忌避するか、それは山の神が女であるからという。


 柳田國男は「山姥奇聞」(妖怪談義)のなかで次のように記している。

 山姥姫の話は信越の境の山々を始めとして、山国の里に多い。関東から奥羽にかけては、山母はアマノジャクに近いものとされ、今では単なる童話中の妖怪にまで零落している。だが山姥も最初は山をめぐり里に通うて、木樵の重荷を助け民の妻の紡織を手伝ったという説があり、北ヨーロッパのフェアリーなどと同じく、単なる空想の産物ではなかったろう。坂田公時を足柄山の山姥の子ということなども、前太平記以前には確かな記述もないようだが、相当根拠のある作りごとであったらしい。阿波の半田の奥の中島という村の山には、山姥石という大きな石がある。この辺には山姥が住んで、ときどき里の子供を連れて岩の上に出て来て火を焚いてあたらせることがある。それを見たという人も以前にはあったそうな。他の地方の山村でも、冬の特別に暖かい年は、「今年は山姥が子を育てている」と戯れのようにいう処が少なくない。・・・(以下略)

 柳田は「山姥」伝説が発生した背景を二つ挙げた。第一は大和民族が平野部に勢力を広げたとき山に隠れ住んだ土着民がいたのではないか、第二は山の神への信仰には狼への畏怖が含まれており大口真神(おおくちのまかみ)という名さえ与えた、だから狼の首領が老婆に化けたり子育てをしたりする話が生まれた、という。

 今日の考古学では縄文時代(およそ六千年前)にすでに熱帯ジャポニカ種の稲が栽培されていたことが知られており、約2600年前、縄文人は朝鮮半島から温帯ジャポニカ種を輸入し、弥生時代に入る頃おそらく中国南部からも温帯ジャポニカ種の稲を持った弥生人がぞくぞくと渡ってきた。また日本人の顔(頭蓋骨)は東日本と西日本で異なっており、東日本には縄文人の特徴が、西日本では弥生人の特徴が優勢で、各地にそのハイブリッド(交雑種)が発見される。温帯ジャポニカ稲は水田で作られるが、熱帯ジャポニカ種は焼畑によって山でも作れるから、熱帯種を守りつづけた人々は山に留まったかもしれない。ただ、縄文人はけっして背が高くはなかったからただちに山姥のような大女を連想することはできない。
 他方、狼はその猛々しさゆえ大神を連想させるし、犬の出産は神聖視されてきた。犬は安産の動物であり(妊婦は戌の日に腹帯を巻く)、子犬を育てる姿は人に深い印象を与えただろう。山の神はその場所柄まず山の人々の信仰であったと思われる。この信仰を維持したのが縄文系の人々であってもおかしくはない。山の神は猛々しいだけでなく、稲の豊作を予祝する神でもある。これは昔話にも多く残っている。したがって、柳田が挙げた二つの説は別個のものというより、相互に絡み合いながら山姥伝説の素地を作り上げてきたと考えてもいいようだ。


 宮田登も「老人と子供の民俗学」の中で次のように山姥に触れている。

 日本の民話に数多く登場してくる山姥は、女の妖怪として描かれがちであるが、やはり山の老婆のもつ呪的な力がその背景にある。山母・山婆とも記されており、山の老女の姿は恐ろしげであった。背が高く、口が耳まで避け、髪の毛が長く、人の子をさらって食べてしまう等々、さまざまな言い伝えがある。ところが一方では、山姥は里へ出て来て村人に幸運を授けるので崇められているという話もある。外見は恐ろしいけれど、村人には親しまれるという存在である。
 これは一つの信仰の表れと思われる。山中の老婆には、山の神を祀る古い時代の巫女のイメージが原型としてあるのではないかという考えもある。彼女は、あるいは山の神そのものなのかもしれない。いずれにせよ女性の姿をとって現れてくるというのは、山に住む老女が実在していて、いろいろと祈祷や呪いをしていたからかも知れない。

 そして同書に興味ある話を載せている。「姥捨伝説」である。この一連の話は、@一度は老親を山に捨てるが情に耐えず家に戻しやがてその老親の知恵で国を救うものと、A老親を捨てて帰ろうとするとき男の子供がこれを諌める型のものがある(この二つのタイプはそれだけで一つの記事になるので詳細は別に譲る)。
 いずれも老人を大切にする話であるが、さらに宮田は老人の聖性を指摘する。すなわち、老人のイメージが祖霊と重なっていること、正月の年神が尉と姥の姿をとること(まれびと信仰)、そして山中異界の聖なる場所であること、など。ところで、日本人は老爺(男)と老婆(女)をどのように描き分けてきたか。老夫婦をセットにした昔話(「花咲じじい」や「おむすびころりん」他)で活躍するのは男の方である。また「雀のお宿」でははっきりとお婆さんが悪役になっている。「若返りの水」でも失敗するのはお婆さんである。浅茅が原の伝説では老婆が人食いの鬼となって登場する。宮田登はこれを「男性優位の社会となった中世的現象」の結果であろうと推論する。歴史的に見ても(中世か古代かは別にして)かつて卑弥呼が咒的力を奮った時代から、男性天皇が神道の巫者に替わったのは事実である。


 山が人々の生活、豊穣・豊漁に深く係わっていることを示した例がある。中島成久は屋久島の「岳参り」民俗を以下のように解説する。

 岳参り(タケメエ)とは、屋久島の空間認識に関わる参詣登山である。各集落では、春と秋の二回、あるいは一回でもよいが、とにかく、決められた日取りの日に、村の青年が奥岳と前岳にそれぞれ参詣登山する。浜でみそぎをした青年は部落のお宮にまず参り(あるいはお籠りをし)、それから三岳の一つを目指す。多くの場合、宮之浦岳が最終的な目標となる。奥岳に登るグループは、日帰りで往復することは不可能だったし、登山道の整備された今日でも山中で一泊することが義務付けられている。(屋久島の環境民俗学)

 こうした参詣登山の目的は言うまでもなく、豊作・豊漁である。山の神の霊力を里に招来することが登山の重要な目的であった。山の上には益救(やく)神社がり、壱千年以上も前の「延喜式」に記載されていると言う。中世に一時廃れ、貞享元(1684)年、社殿が再興された。この宮を始め島の各地に「一品宝珠権現」が祭られ、中島は山臥修験道の影響を指摘するが、それだけでなく、里人の伝える不思議な物語を紹介している。真冬、山を歩くと「山の声」が聞え、山和郎(やまわろ)・山姫の存在が信じられてきたというのである。(松田高明「屋久島の不思議な物語」から)

 

2 山姥のイメージ

昔の人が山姥をどうイメージしていたか、探ってみよう。まずは「今昔物語」から。

「猟師の母鬼となりて子を食はんと擬するものがたり 第二十一(二十七巻)
 今は昔、鹿や猪を捕らえることを仕事とする兄弟がいた。ある日、鹿を待ち伏せるため二人は50メートルほど離れて木に登り、身を潜めた。九月下旬の夜であたりは真っ暗。そうするうち、兄がいる木の上から得体の知れないものが手を伸ばして彼の髷をつかんだ。兄は「きっと鬼が俺を食おうと思って引き上げ様としているに違いない」と考え、弟に向かって「俺の髷を引っ張る奴がいる」と知らせると、弟が「では見当をつけて矢を射てやろう」と答えた。矢は手応えがあり、兄が探ると手首のあたりで射切られた手が残っていた。兄弟は狩を中止して家に帰った。すると、母親がなにやら苦しんでいた。兄弟がもしやと思い戸を開けると、母が「おのれたちの仕業か」と襲いかかろうとした。二人は母親に「これは母上の手か」と言って部屋の中に投げ入れ、戸を閉めてしまった。その後母親が死んだので、葬った。

この物語は「されば、人の親の年痛う老いたるは、必ず鬼になりて、かく子をも食はむとするなりけり。云々」で結ばれている。凄惨な物語である。「鬼」と表現されているが、私たちには「山姥」を連想させる。「今昔物語」27巻には他にも「霊」「もの」が出現する話が載っている。しかし、今日のように鬼が角を生やし虎皮パンツをつけているわけではないし、山姥のごとく恐ろしい形相を示してもいない。こうした悪霊・鬼・妖怪は一括して「もの」と表現されるのが普通であった。

「肥後国の書生羅刹の難を免るるものがたり」(巻12第28)
 ある書生(今でいう公務員)が帰宅の途中で山中に迷う。日暮れて見つけた家には恐ろしげな女がおり、馬を返して逃げ出す。その姿「長(たけ)は一丈ばかりの者の、目口より火を出して雷光(いなづま)の如くして、大口をあけて手を打ちつつ追ひ来れば」、書生は落馬して穴に落ちる。馬は食われてもはやこれまでというとき、穴から声が響き鬼を追い払ってくれた。声の正体は法華経をこめた卒都婆の「妙」の字だった。

 この話は以前にも本ホームページで引用した。ここでは「羅刹」と表現されているが、その姿は山姥そのものである。してみると、山姥のイメージは仏教から来たのかもしれない。「今昔物語」の時代、山姥は単に山の神であり、山中異界の存在であってもまだ具体的なイメージが賦与されてはいなかったと見るべきだろう。その姿は、多分もっと後世、昔話が全国の村村に浸透する江戸時代に入ってから与えられたのではないか。鳥山石燕の描いた「山姥」はずいぶんと影響力があったと考えられる。


3 昔話に登場する山姥(鬼)

(1)糠福米福(柳田國男の分類による日本の昔話)
 おなじみの継子苛めの話だ。母は継子の糠福と実子の米福を栗拾いに出す。二人は山で迷って山姥の家に行くが、ここは鬼の家だからといって二人をかくまう。山姥は二人に土産の箱を渡す。糠福の箱には紅い小袖が入っており、長者屋敷の神楽を内緒で見物に行く。その姿を見た長者の息子が糠福を嫁に欲しいという。
 この話では山姥は不幸な娘を助け、福を授ける存在である。とくに山姥の小袖は糠福を(多分)美人に変身させる咒具であって、「姥皮」のように幸せな結婚を導く役割を負っている。

(2)皿々山(同上)
 糠福と米福の姉妹が山に栗拾いに行く。日暮れて訪ねた家には死んだ糠福の実母がいて、打出小槌をくれる。糠福はこの小槌でよい着物と重箱を出し芝居見物に行くが、これを見かけた金持ちの息子が糠福を嫁に欲しいという。
 宝の咒具をくれたのは実母であるが、やはり山中異界の存在であった。

(3)米ぼこぬかぼこ(日本の民話4)
 母親が実娘の米ぼこと継娘のぬかぼこを米穂拾いに出した。ぬかぼこは米穂が集まらないので山に入り込み、鬼の家に泊まる。留守居の婆は親切で鬼からかくまった上、帰りには延命小袋をくれた。義母と義妹が芝居見物に行った後、ぬかぼこは延命小袋を使って仕事を片付け美しく変身して芝居に行くと、あちこちから嫁の貰い手がきた。(群馬県)
 山姥と表現されてはいないが、この老婆は鬼の母親であろうと考えられる。何故ぬかぼこに親切にするのか、その理由は語り手も忘れてしまっている。

(4)姥皮(日本の民話3)
 田を耕してくれたら娘を嫁にやると聞いて、サルが田を耕した。三番目の末娘が嫁に行くことを承知する。山で餅をつき、娘は臼ごとサルに担がせて木の枝を取らせたので、サルは川に落ちた。夜になって娘が訪ねた宿は鬼の家で、留守居の婆から姥皮をもらう。娘は里の長者の屋敷で姥皮をかぶったまま奉公するが、長者の息子に正体を見られ、幸せな結婚をする。(山形県)
 これらの昔話を読んでいると、山姥は山の神の恐ろしさの反面、人々に福をもたらす側面があったことが推測される。その福のすべてが「幸せな結婚」のみであったかどうかは判らない。ただ、老婆と娘は祖母と孫と言う関係を連想させる。かつて子供は神や霊を憑依させるための依代とされた。また子供に昔話を語って聞かせたのは(文化の伝達)たいてい祖父・祖母である。このあたり、宮田登の「老人と子供の民俗学」を参照すると面白い。

(5)三枚のお札(柳田國男の分類による日本の昔話)
 村の子供三人が山へ花摘みに行くが、迷って山姥の家に行く。子供たちは便所の神様に三枚の札をもらい、これを使ってようやく逃げることができた。
 この話は種々のバリエーションがあるが、山姥が子供を食おうとすることと三枚の咒具で無事に逃げおおせることが共通している。

(6)三枚の札(日本の民話2)
 寺の小僧が山であけびを採っていると鬼婆がやってきて家に誘う。和尚が止めるがどうしても行きたいと言うので、三枚のお札を持たせた。小僧は夜危険に気付き、三枚の札を使って逃げ出す。寺まで追ってきた鬼婆と和尚が知恵くらべをして、豆粒に化けた山姥を食べてしまう。(宮城県)

(7)三枚のお札(日本の民話5)
 和尚が小僧さんに山へ木を切りにいくよう言いつける。その際、用心にと三枚の札を持たせた。小僧が木を切っているうちに日が暮れたので宿を求めると口が耳まで裂けた婆の家だった。小僧は便所から抜け出し三枚の札を使って寺に逃げ込んだ。追ってきた鬼婆を和尚が騙して井戸に落として殺した。(新潟県)
 便所の神様はむかしから祭られてきた。その性格や役割を調べるのも面白いだろう。

(8)山鬼と旅人(http://www.okinawa.ntt.ocn.ne.jp/minwa/index.html)
 山で道に迷った旅人が訪ねたのは老婆の姿をした鬼の家。夜中包丁を研ぐ音に驚き、便所から抜け出す。追われた旅人は寺に逃げ込み、和尚に鐘の下に隠してもらう。鬼婆は追い払われたが、旅人も蛇に化身していた。(沖縄県)
 牛方山姥とお寺の小僧の話が混ざっている。

(9)天道さん金の綱(柳田國男の分類による日本の昔話)
 山奥に母と三人の子供が住んでいた。母が留守の間に山姥がやってきて巧みに家に入りこみ、末の子供を食べてしまう。残った二人の兄弟が逃げ出し、木に登って「天道さん、金の綱」と言うと天から綱が降りてくる。山姥がこれを追うが、降りてきたのは腐った綱だったので切れて落ちてしまった。

(10)鬼と三人の子ども(日本の民話12)
 母親と三人の子が住んでいた。母が夜海に蛸を取りに行くと鬼がやってきて母親を食い
殺し、顔の皮をかぶって母親になりすまし、家にきた。怪しんだ兄弟は便所に行くと言って抜け出し川辺の木に登った。鬼が追ってきたので「悪には灰(あく)綱さげて、私達にはよい綱をさげてください」と祈ったところ天から綱が降りてきた。子供たちは天に逃れた。鬼は綱が切れて落ちて死んだ。(鹿児島県)
 以上の二つの話の筋はそっくりであるが、違いは「顔の皮をかぶって母になりすました」部分である。もしかすると「姥皮」の片鱗が残ったものかもしれない。

(11)牛方山姥(柳田國男の分類による日本の昔話)
 鯖の荷を積んだ牛方が山を越えるとき山姥に出会った。山姥は鯖を食い尽くし馬も食って、なお牛方を追う。牛方は山姥の家に逃げ込み、帰ってきた山姥を巧みに石の櫃に誘い、し返しをした。
 この話の特徴は牛方が積極的に山姥に復讐するところにある。

(12)さば売り(日本の民話3)
 三人の兄弟が越後へ正月の鯖を買いに行った。帰りの峠道で鬼婆につかまり、鯖ばかりか二人の兄までが丸呑みされた。弟が逃げ込んだのは鬼婆の家で綺麗な娘(嫁)がかくまってくれた。この嫁の協力で末の弟は仇を取り、鯖も兄弟も取り戻した。(山形県)
 筋は似ているが、「嫁」が助けてくれる。「浅茅が原」伝説でも若い娘が自らを犠牲にして旅人を救ってくれる。老婆と若い娘がセットになるのも一つの特徴だ。

(13)さば売りと鬼婆(日本の民話5)
 鯖売りが山越えをして道に迷い、訪ねた宿は鬼婆の家だった。鯖が全部食われたので鯖売りは家の二階に逃げて隠れた。鬼婆が木の唐ひつに入って寝たので熱湯を注いで仕返しをした。(新潟県)
 三つとも奪われるの鯖であり、東北地方である。他の地方ではどうだろうか。

(14)食わず女房(柳田國男の分類による日本の昔話)
 これもおなじみ。けちな男が飯を食わない女房をもらうが、これが山姥だった。桶に乗せられ山に向かう途中逃げ出し、蓬(よもぎ)と菖蒲のおかげで助かった。
 蓬や菖蒲が魔除けになっている。

(15)食わず女房(日本の民話5)
 けちな男が「飯を食わない」という嫁をもらった。しかし嫁がたくさんのご飯を頭の口で食べていることに気付き嫁を責めると、嫁は蛇になって追いかけてきた。男は菖蒲の畑に逃げ込んで助かった。(山梨県)

(16)めしを食わない嫁(http://www.biwa.or.jp/~t-hide/yogo/minwa/index.html)
 欲深い男に飯を食わないという嫁がきた。しかし倉の米が減るので不審に思い、出かける振りをして家を覗くと女が頭の口で飯を食っていた。女は正体がばれたことを知り、山姥の姿に戻って消えた。(滋賀県)

(17)食わず女房(http://www.tr-108.co.jp/minwa/html/index.html)
 欲張りな男のところに「飯を食わない」嫁がきた。変に思った男が二階に隠れて様子を窺っていると、嫁は大飯を炊いて頭の口で食べていた。正体を知られた女は籠に男を乗せ山に運ぶが男は途中で籠を抜け出す。女の跡をつけるとクモの子がたくさんいる家にいく。女は失敗に気付いて翌日の夜村に現れるが、男たちに追い払われる。(鳥取県)
 女房の正体は話によっていろいろだが、けちで欲深な人間はそこにつけこまれるということだろうか。

(18)千匹狼(柳田國男の分類による日本の昔話)
 商人が商いの帰り道で狼の群れに襲われる。木の上に逃げるが狼は梯子となって迫ってくる。最後に現れたのが孫太郎婆。商人が腰の脇差で上をつつくと熊が出てきたので、狼の群れは逃げ去った。
 この話はバリエーションがあり、首領格の狼を刀で切りつけ、その後鍛冶屋の家を訪ねたら、そこの婆が狼の正体だったというものである。直接山姥が出るわけではないが、狼と婆との関連からひいてみた。

(19)野根山のオオカミ(日本の伝説・南日本)
 土佐藩の飛脚が夜峠を越えるときオオカミの群れに襲われた。杉の木に逃れるが、オオカミ達は犬梯子を作って登ってくる。飛脚が刀を振るうのでオオカミは「佐喜の浜のかじ屋のばば」を呼ぶ。飛脚は鉄なべを被ったオオカミの統領を斬って撃退し、翌朝野根村に下り、佐喜の浜のかじ屋を訪ねた。そこで怪我に苦しむ老婆を見つけ、殺したところ、その正体はオオカミであった。(高知県)
 姥皮は出てこないが、狼が変身しており、本物の婆は殺されて床下に埋められている。

(20)鬼婆の恩返し(日本の民話5)
 長嶺に鬼婆が住んでいたが、しらみのため頭も体も痒くて困っていた。親切なお婆さんが助けてあげると、礼にお金がなくならない巾着をくれた。(山梨県)
 使ってもなくならない巾着、或いは麻糸などはやはり宝咒具である。

(21)山のばあさまの里がえり(日本の伝説・北日本)
 村の若い娘が桑畑で姿を消した。娘は60年もたってから恐ろしい婆の姿になって里に戻ってきた。婆は60年前山の者の嫁になった、里が恋しくなったので戻ってみたと事情を語った。山の者は体が大きく力も強く、人間とあまり変わらない、と言って婆は山に帰っていった。(青森県)
 これによく似た話は「遠野物語」にいくつか出てくる。後述する。

(22)足柄山の金太郎(日本の伝説・東日本)
 むかし、足柄山に山姥と息子の金太郎が住んでいた。山姥は機を織り、金太郎は力持ちに育ってやがて源頼光に仕えた。(神奈川県)
 金太郎を山姥の息子とする話は愛媛(http://user.shikoku.ne.jp/hgc03177/iyomono.html)にもある。「金太郎物語」で、山姥が側室となり自分の子と正室の子を取り替えるが終には我が子を連れて山に帰る、という筋である。

(23)山小屋の糸とりばば(日本の伝説・東日本)
 甲斐駒山系に鳳凰山があり、この山小屋に婆が現れてあんどんを点しては糸をとっていた。この噂を聞いた度胸のよい猟師が山に登り婆を鉄砲で撃ったが相手は死なない。二度目に行灯を撃ってようやく仕留めた。正体はムジナだった。(山梨県)

(24)山姥物語(http://www.sainet.or.jp/~han/inuyama/kanko/densetu.html)
 梶原景時の家臣の福富新蔵という武士が夜山へ狩りにでかけた。月明かりで見たのは身の丈三メートル余りの女。矢で撃つと女は姿を消した。翌日、血の跡を追うと知人小池与八郎の家に連なっており、与八郎の妻の寝所が血で汚れていた。妻の正体はおがせ池の竜女であった。(愛知県)

(25)山姥と七人の樵夫(http://www.kagawa-net.or.jp/kagawa-net/MUKASI/)
 七人の樵が山小屋に泊まっていると髪振り乱した山姥が入ってきた。山姥が男達の顔をなめていると七人目の樵がなたで切りつけた。翌日、血の跡を追っていくと岩穴に連なっており、煙でいぶすと山の主のヒキガエルだった。(香川県)

(26)ヤマンバ(http://www.asahi-net.or.jp/~hj5k-td/yama.html)
 焼畑の帰り雨に降られ笠を風に飛ばされたので、一人探しに行ったら髪の長い裸の女に出会った。キセルでつつくとヤマオナゴは消えたが、男は血を吸われていたので長生きをしなかった。(九州山岳)

(27)吹原谷の山ん婆(http://www.oec-net.or.jp/~naokawa/ippuku.html)
 夜炭を焼きながら魚を焼いて酒を飲んでいいると山ん婆が現れて魚を欲しがった。次々に与えて魚がなくなったので、クワ先を真っ赤に焼いて放ると、これを食べた山ん婆は悲鳴を上げて逃げていった。(大分県)
 以上五つの昔話では山姥は単純に妖怪であり、いずれも人間によって退治されてしまう。(26)番の話だけはあたかも吸血鬼のごとく語られている。さらった子供の血を搾ったり、怠け者を肥らせて膏を取る陰惨な一連の話があるが、主旨が逸れそうなので指摘だけにとどめる。

4 「遠野物語」の山姥(<>内の数字は原著に示された話の番号)

(28)山々の奥には山人住めり。栃内村和野の佐々木嘉兵衛という人は今も七十余にて生存せり。この翁若かりしころ猟をして山奥に入りしに、遥かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳りていたり。顔の色きわめて白し。不適の男なれば直ちに銃を差し向けて打ち放せしに弾に応じて倒れたり。そこに駆けつけて見れば、身のたけ高き女にて、解くたる黒髪はまたそのたけよりも長かりき。−−−以下、証拠の髪を持っていくが帰り道で奇妙な山男に取り戻されてしまった。山姥と共に山男も数多く登場する。

(29)上郷村の民家の娘、栗を拾いに山に入りたるまま帰り来たらず。家の者は死したるならんと思い、女のしたる枕を形代として葬式を執行い、さて二三年を過ぎたり。しかるにその村の者猟をして五葉山の腰のあたりに入りしに、大いなる岩の蔽いかかりて岩窟のようなれるところにて、図らずこの女に逢いたり。互いに打ち驚き、いかにしてかかる山にはおるかと問えば、女の曰く、山に入りて恐ろしき人にさらわれ、こんなところに来たるなり。(中略)子供も幾人か生みたれど、我に似ざれば我が子ににはあらずといいて食うにや殺すみや、もないずれへか持ち去りてしまうなり。−−−と語り、今にもその男たちが帰ってくるかも知れないから帰ったほうがいいと言われた。普通の女性が山姥の家に嫁として暮らしているのは前述の昔話にもあった。一つの説明でもある。

(30)路の傍らに山の神、田の神、塞(さえ)の神の名を彫りたる石を立つるは常のことなり。また早池峰山・六角牛山の名を刻したる石は、遠野卿にもあれど、それよりも浜にことに多し。
 直接に山姥のことではないが、浜・平野部は信仰で山と結ばれている。

(31)上郷村に河ぶちのうちという家あり。早瀬川の岸にあり。この家の若き娘、ある日河原に出でて石を拾いてありしに、見馴れぬ男来たり、木の葉とか何とかを娘にくれたり。丈高く面朱のようなる人なり。娘はこの日より占いの術を得たり。異人は山の神にて、山の神の子になりたるといえり。
 山人から霊力を授かった例である。富や咒具に連なるだろう。

(32)昔々あるところにトトとガガとあり。娘を一人持てり。娘を置きて町へ行くとて、誰がきても戸を明けるなと戒しめ、鍵を掛けて出でたり。娘は恐ろしければ一人炉にあたりすくみていたりしに、真昼間に戸を叩きてここを開けと呼ぶ声あり。開かずば蹴破るぞと嚇す故に、是非なく戸を明けたれば入りきたるはヤマハハなり。−−−この後娘は家を逃れ、柴の中、萱の中、沼の木の上、最後に若い女の家に逃げ込み木の唐櫃にかくまってもらう。ヤマハハが追ってくるが騙して石の唐櫃に寝かせ熱湯で殺してしまう。この話はどう見ても、「瓜姫」と「牛方山姥」或いは「三枚の札」が結合している。

5 再び、山姥の原像

次に同じく柳田の「山の人生」から引用する。
(33)「五 女人の山に入る者多きこと」
 天野信景翁の『塩尻』には、尾州小木村の百姓の妻の、産後に発狂して山に入り、十八年を経てのち一たび戻ってきた者があったことを伝えている。裸形にしてただ腰のまわりに、草の葉を纏うていたとある。山姥の話の通りであるが、しかも当時の事実譚であった。(以下略)

(34)「十八 学問はいまだこの不思議を解釈しえざること」
 嘘かとは思うが何郡何村の何方と固有名詞が完全に伝わっている。今から三十年ほど以前に愛媛県北部の或る山村で、若い嫁が難産をしたことがあった。その時腹の中から声を発する者があって、おれは鬼の子だが殺さぬなら出て遣る。もし殺すならば出て遣らぬがどうだと言う。(中略)この近傍には鬼子の例少なからず、或る村の一家のごときは鬼の子の生まれる少し以前に、山中に入って山姥のオツクネという物を拾い、それから物持ちになったかわりに、またこういう出来事があったという。オツクネとは方言で麻糸の球のこと、山姥の作ったのは人間の引いたのとは違って、使っても使ってもなくならぬ。すなわちいわゆる尽きぬ宝であった。
 この伝承の興味深いところは、鬼子と宝咒具がセットになっていることである。かつて農山村では金持ちの家に奇怪な子供が生まれる等の伝承ともつかぬ噂話がよく流された。単なる妬みが原因だったかもしれないが、狐つきや犬つきの血筋でも体のどこかに傷のある子供が生まれると言われた。これは聖痕と呼ばれている。

(35)「十八 同上 続き」
 察するところ本来この不可思議の財宝は、むしろ不可思議な童子に伴うて神授せらるべきものであったのを、人が忘却してこれを顧みぬようになってから、山中の母ばかりが管理をすることとなったのであろう。この想像を幾分か有力にするのは、ウブメ(産女)と称する道の傍らの怪物の話である。支那で姑獲(こかく)と呼ぶ一種の鳥類をこれに当てて、産で死んだ婦人の怨恨が化成するところだの、小児に害を与えるのを本業にしているのと、古い人たちは断定してしまったようだが、それでは説明のできない著しい特徴には、少なくとも気に入った人間だけには大きな幸福を授けようとしていた点である。
 ウブメは夜道を行く人を呼びとめ赤子を抱いてくれと言う。たいていは赤子が石の様に重くなるが最後まで抱いていると金銀に変わっているという昔話がある。神が人間を試す話であり、「大歳の客」がその代表例である。

(36)「十九 山の神を女性とする例多きこと」
 山の神は通例諸国の山林において、清き木清き石について、臨時にこれを祀り、禰宜・神主の沙汰はない場合が多いが、これを無格社以上の社殿の中に斎くとすれば、すなわち神の名を大山祇命(おおやまつみのみこと)、もしくは木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)といい、稀にはその御姉の岩長姫命とも称えて、何とかして「神代巻」に合致させようとするのが、近世神道の慣わしである。
 日向の大河内部落の秘伝では千二百の山の神の母を一神の君というらしい。また、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の名前も見られ、イチは神に仕える女性を意味し、その語の起源はイツキメ(斎女)であると、柳田は指摘した。

(37)「十九 同上 続き」
 羽後の方では八人組十人組という二組のマタギ、(妊婦が救いを求めてきたのを)一方は忌みを怖れてすげなく断ったに反して、他の一方では小屋の頭がただの女性ではないと見て快く泊め、小屋で産をさせて介抱をした。陸中の山村では猟人の名を万冶磐司(ばんじ)といい、磐司がひとり血の穢れを厭わず親切に世話をすると、十二人の子を産んだと伝えている。いずれも山神がその好意をめでて、のちのち山の幸を保障したことは同じであった。(『東奥異聞』からの引用)
 子を産む異堺の女性、これは山姥であり、山の女神そのものである。

6 終わりに

子供のころに聞いた山姥の話はただ恐ろしかった。しかし、その山姥が里に下りて機織仕事を手伝ったり、村人を助けたりする童話に出会って、実は優しい性格も持ち合わせているのだと気づき、あらためてその存在の奥深さに感心したものである。河童は中国の河伯という神様が日本に伝わり、一種の妖怪に零落したものだとの説がある。多分、正しいのだろう。山姥も似たような経過をたどって妖怪と見なされるようになったのかも知れぬ。ただ、その本来の性格はまだまだたくさんの昔話の中に残っている。このバリエーションを楽しむのも一つの読み方かも知れぬが、別の角度から日本の古層に埋もれた信仰・習俗の表現として見ることも大事な研究態度と考えられる。その出自が縄文時代に遡ると考えれば、山姥は日本独特の信仰習俗の代表になるかも知れない。例えば、アイヌのユーカラに出てくるポイヤウンペは姉によって育てられた。子供を育てる山の女神、これを山姥の原像と考えてもおかしくはない。
                                (2002/1)

<参考図書>

山妣          坂東真砂子   新潮社   1996年
妖怪談義        柳田國男    講談社   昭和52年
老人と子供の民俗学   宮田登     白水社   1996年
屋久島の環境民俗学   中島成久    明石書店  1998年
今昔物語5       長野嘗一校註  朝日新聞社 昭和28年
柳田國男の分類による日本の昔話 岩崎敏夫 角川書店 昭和52年
遠野物語        柳田國男    岩波書店  1976年

日本の民話2東北(一)    加藤・佐々木編   ぎょうせい 昭和53年
日本の民話3東北(二)    武田正 編     ぎょうせい 昭和54年
日本の民話4関東       谷本・柾谷・丸山編 ぎょうせい 昭和54年
日本の民話5甲信越      小沢・福原・森野編 ぎょうせい 昭和54年
日本の民話12九州(二)沖縄  有馬・遠藤 編   ぎょうせい 昭和54年

日本の伝説・北日本編 松谷みよ子      偕成社 1978年
日本の伝説・東日本編 大川悦生・松谷みよ子 偕成社 1978年
日本の伝説・南日本編 大川悦生       偕成社 1978年

ホームページからの引用は各項目に示した。




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