1月21日(月)
小笠原祐子『OLたちの<レジスタンス>』(中公新書)。大企業OLのミクロな現状分析。おじさんに読ませたい本。
ところで市井紗耶香がダイタン水着満載の写真集を発売したわけだが、まったく欲しいと思えない。おそらく彼女は15歳から16歳までのあいだに輝き尽くしてしまったのではないだろうか。
彼女はもともと飛びぬけて容姿が優れていたわけでもなかったし、ぱっと人目を引くような華やかさもなかったし、歌も取り立てて上手だったわけではなかった。にもかかわらず、15歳の彼女には他の誰にもないような凄い魅力があった。それはたぶん、15歳の少女なら誰でも持っている、“無限の可能性”を一点に凝縮させたような種類のものだったのではないかと思う。あの頃の彼女は、自分は何にだってなれるんだと心から確信しているように見えた。その確信が、彼女を単なる15歳の少女ではなくしていたのである。
今の彼女について語るのが、あまり趣味の良い行為であるとは思えない。人はいつまでも15歳ではないし、本当に何にだってなれるわけじゃない。たとえ可能性は無限でも、結局選び取れるのは限られた道でしかない。でも、アイドルというのはそんなつまらないことを我々に教えるために存在するわけではないのだ。
1月17日(木)
日曜日の朝方、なんだか少し熱っぽいなと感じながら外出、帰ってきて寒気がひどくなってきたので熱を計ったら39度以上ある。そのまま寝込む。学生の頃は熱なんて出したことがなかったのに、ここ2〜3年、ちょっと頻繁すぎる。水曜日の夜になってやっと平熱に戻る。会社を2日も休む羽目になってしまった。
東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)。たいていの人が同じ感想を持つのではないかと思うのだが、「なんだかなあ」という感じ。特に第三章で、「YU-NO」とかいうさして有名でもないエロゲーのストーリーを、現代日本社会の分析にこじつけてるのは、いくらなんでも無理。本全体としても、「データベース化」という考え方自体は面白いんだけど、「でじこ」の「萌え要素」がどうのこうのって言われたって、ねえ。
だいたい、「オタク=アニメオタク=ゲームオタク=エロゲーオタク=葉鍵っ子」という図式が短絡過ぎやしませんか。本の中で「ギャルゲー」の代表格みたいな採り上げられ方をしているのが「Leaf」「Key」という2つのメーカーの作品なのだけれど、この2社の作品の愛好者は同じエロゲー好きの中でも「葉鍵っ子」と言われて別種の扱いを受けているのを東氏が知らないわけもなかろうに。(ちなみに、かの2ちゃんねるでも、この2社の作品に関する話題は、ちゃんと独立した板で扱うことになってます。)
まあコミケとやらに何万人の人が集まるか知らないけれど、所詮は蛸壺だと思うなあ。その点我らがモーニング娘。のムーヴメントは・・・なんて言い始めるとキリがないからやめるけど。
1月8日(火)
「買春」と書いて「カイシュン」と読ませる最近の造語が大嫌い。「売春」と区別をするためだろうが、それならせめて「買い春」と送り仮名をふってはどうか。「カイシュン」と聞くとどうしても「回春」が先に頭に浮かぶ。だいたいこの言葉は「児童カイシュン」という形で使われるので、より一層「回春」という言葉との連想が働く。
話が少しそれるが、何でも中国の一部の地域では初潮前の少女と性交すると若返り(回春)の効果があると信じられているらしく、東南アジアで少女買春をやっているのは、(もちろん日本人や欧米人もいるのだろうが、)本当は中国人の金持ちが中心なんだそうだ。ところが日本では、日本人が東南アジアで少女を虐待している例は(特に朝日新聞あたりが)針小棒大に騒ぎ立てても、中国人が最大の顧客であることは決して取り上げられず、またそのことを指摘するのが反中国の右翼だったりするのである。
ぼくの考えでは、顧客がどこの国から来ているかなんてのは大した問題ではなくて、そういう男はどこにでもいるのだというのを前提にして、そのような悲惨(性的搾取を受ける子どもたち)を生む戦争とか貧困とかについて考える方が先だと思う。「買う男がいるから少女が悲惨な目に遭っている」というのも間違いだとは言わないが、じゃあペドフィリアをこの世から根絶やしにできるのかと言えば、それも非現実的な話なのである。
話を元に戻すと、この「カイシュン」という言葉は、「同じ“バイシュン”でも、クローズ・アップされるのはいつも女の“売春”だけで、“買春”する男の責任が問われることが少ない」のが問題視された結果、読み方が改められるに至ったのではなかったかと記憶しているが、それならそれで「売買春」という言葉を使えばよいのではないかという気がする。「売春」と「買春」は、あくまでもセットで捉えるべき問題ではないかと思う。
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ちょっと参考にこういうサイトをのぞいたりしてたんだけど、東南アジアなんかの深刻な児童売春の問題と、日本の女子高生のヌード写真を同列に置くのは絶対にムリがあるよなあ・・・。
1月3日(木)
ネットサーフィン(死語)していて面白いのを発見。
ネットウォッチ@2chネカマ作戦記
映画「トゥルーマン・ショー」のインターネット版。全部読むのに半日以上かかったけど、もう腹がよじれるかと思いました。
1月2日(水)
今さらのように年末に放送された「ザ・ベストテン2001」を見る。南野陽子の元アイドルとしての矜持の保ち方に感動。
1月1日(火)(2)
新年早々2ちゃんねる巡回で一日が終わってしまった。。
で、名スレ発見。
別れた彼女が他の男に抱かれるって[失恋板]
おなじようなことを考える奴はいるもんだなあ。
2ちゃんねるにずっといると言っても、行く板は自然と限られてくるわけで、ぼくの場合は2ちゃんねるにいる時間のほとんど8割方はモ娘(狼)で過ごすことになってしまう。あとは今やってるゲームの攻略情報を探したり、大ニュースのときに反応を見たりするためにちょっと他板に行ってみる程度なのである。で、今日ふと「えっちねた」板に行ってみて(←なんでだ?)、そこからたまたま上のスレッドを発見したわけだ。
「失恋」板って初めて見たのだけど、失恋してあんなところに毎日書き込みとかしてたら傷が深くなる一方のような気がする。。。それは他の板でも同じことで、どうも「ニュース速報」板あたりで繰り広げられてる不毛な議論って、結局のところ議論にすらなっていなくて、どんどん自分の考えの中に没入してしまうだけに終わっているケースが多いのではないか。
そう言えば「2ちゃんねる宣言 挑発するメディア」という本が出ていたので読んでみたのだが、筆者は筑紫哲也が2ちゃんねるを指して「便所の落書き」と呼んだことをずいぶん根に持っているようだ。でもぼくはやっぱり2ちゃんねるは「便所の落書き」だと思う。むしろ「便所の落書き」で何が悪い? と開き直る方が正しいんじゃないかと思う。
1月1日(火)
明けましておめでとうございます。
読者のみなさま、旧年中はいろいろとお世話になりありがとうございました。
本年もよろしくお願いいたします。
去年は松浦亜弥と一緒に駆け抜けたという感じの1年になりましたが、本日が正式発売日となっている彼女のファーストアルバム「ファーストKISS」を聴いていると、今年もやはり彼女を中心に回っていくのかなという気がしています。というか、このアルバム、素晴らしい出来です。シングル4曲+新曲7曲、新曲はそれぞれ違う曲調、ぜんぶ完璧に歌いこなしてる。これがデビュー1年に満たない15歳のシンガーの仕事なのかと耳を疑いたくなります。21世紀最初の紅白歌合戦の歌い出しを彼女が勤めたのは幸運な巡り合わせでしたが、来年・再来年とさらにその実力を確固たるものとしていってほしいものだと思います。
ていうか、新年早々松浦亜弥の話題だけかよ。。