んラブ♪ 涙色


9月30日(日)

この週末も結局家でゴロゴロして過ごしてしまった。土曜日は起きたのが午後の3時半で、今日が正午。これじゃあ出かけられない。日曜日はやっぱり次の日の仕事があるから、あんまり遅くまでは外にいたくないし。

石川梨華の評価を巡るこの人との思想的対立は、もはや後戻りのできない地点まで到達してしまったような気がする。もしかするとオフ怪の現場で掴みあいの喧嘩になるかもしれない。見たい人は是非参加を。

9月27日(木)

横浜ベイスターズの石井豚朗選手が日テレの清純派アナウンサーと二度目の結婚をしたらしいのですが、またしてもぼくは「もてる男」と「もてない男」のあいだに聳え立つ途方もなく高い壁の前でただ深く考え込むしかなくなってしまうのであります。だって人気アイドルグループのメンバー全員を喰ってうち一人と結婚して離婚したあと、今度は知性派アナウンサーを変装させて自室に通わせたりしてるんだよ。それで最後はお嬢さまタイプのアナウンサーと再婚。すごすぎ。

関係あるかどうか分からないけれど、藤本由香里が週刊文春に連載しているまんが評のコラムで倉田真由美の「だめんず・うぉーかー」が採り上げられていました。『SPA!』で連載された、どうしようもない男に引っ掛かってしまう女の人へのインタヴューを中心としたまんがです。西原理恵子ファンのぼくからすれば、倉田真由美というのは一橋卒で美人であるという“逃げ場”を固めておいて、破天荒を演じてるだけの人に思えますが、藤本由香里は誉めてました。意外なような、そうでもないような。

結論としてはですね、彼女(or配偶者)がいないからと言って、別に人格まで否定されるわけじゃないんだぞ、ということを強く自分に言い聞かせながら生きて行きたいなあ、ということです。

そうだ、ちゃんと告知してませんでしたが、かとぅさんと合同で「お深い」やります。よろしくです。

9月24日(月)

大田垣晴子『男と女の深い穴』を読みました。「ダ・ヴィンチ」に連載されていた、性風俗を中心としたイラスト・ルポ。この人が性を採り上げるって意外性があるんですが、いつもと同じようにちょっと突き放して観察してる感じです。性のことってどうしても自分に引き付けて考えないとダメっていう部分がありますが、そんなの気にしてないみたい。関心の向かう方向が今のぼくと同じでとても共感。「男は何に対してお金を払うのか?」とかね。テレクラの章もあります。特に女性にお勧めの一冊。

9月23日(日)

土曜日は会社の同僚(男)と二人でサッカーを見に行きました。初めてだったんですが、野球より面白いですね。あと思ったのは、サポーターたちの振る舞いがモーニング娘。のコンサートによくいる人たちに似ているということです。そんなこと言ったら怒られるかもしれないけど。

日曜日は3周年記念企画ってことで、2年数ヶ月ぶりでテレクラに行って内部の写真を撮ってきました。法律の改正で店舗がもうすぐなくなってしまうという話なので、いちおう記録だけしておきたくて。ちなみに鳴った電話は1件だけでした。22歳の援助希望。4万円。高いなあ。まあ、三連休の中日で時間帯も中途半端だったけど、やっぱり寂れてるんでしょうね。完全に終わったメディアなんだなあという感じがしました。

というわけで写真はあとでまとめて別のページに載せる予定です。(別にそんな大したものじゃないんですが。)

9月20日(木)

昨日はサイト開設3周年の記念日だったのに、そんなことまったく忘れてました。W32Nimdaに感染したんじゃないかと気が気じゃなかったし。どうやら大丈夫のようですが。。

そう言えばこの人と石川梨華の評価をめぐって思想的な対立が深まっております。ぼくが何故石川梨華を評価しないのかについてはそのうちちゃんと説明しないといけないな、と思っているのですが、なかなかうまく言葉にできない面があります。ある意味、生理的に受け付けないと言ってもいいかもしれない。特に「ザ☆ピ〜ス!」以降。

9月17日(月)

こういう記事に反応している場合ではないのですが、正直、読んだあと動悸が鎮まるまで5時間くらいかかりました。アホです。

米国の「報復」に対して日本国内ではどちらかというと冷ややかな反応が多いように思えますが、それは「反米」なのか「反戦」なのか解釈に迷うところです。いずれにしても小泉がいち早く米国の姿勢に「支持」を打ち出したのは、国民感情の読み違えなのではないかという気がします。

9月13日(木)

昨日からいろいろ考えていたんですが、特攻隊と今回の自爆テロとどこが違うのかというと、日本軍の特攻が、ギリギリではあるけれどもいちおう戦争という「ルール」の中で行われていたのに対して、今回の自爆テロはルールを完全に無視しているんですよね。そこが違う。米国のマスコミは今回のテロを真珠湾攻撃になぞらえて報じることが多かったと聞きますが、真珠湾攻撃は彼らにとってルール無視の攻撃だった(と見なされている)ということがよく分かります。

この社会には「平和」というフェーズと「戦争」というフェーズがあって、平和なときは人を殺すのは理屈抜きにぜったいに許されないのに対して、いったん戦争になると、敵と思われる人間なら殺してもかまわないという風にルールが変更される。そういう具合に理解しないといけないのかなあという気がします。で、この「平和」と「戦争」の垣根を一方的に破るのはルール違反で、卑劣な行為です。やるなら正々堂々とやれ、という話です。

ちょっと話がずれますが、蒙古襲来の時の日本の守備隊は怖かっただろうなあ。「戦争」というのも単に滅茶苦茶に殺し合いをすればいいというわけではなくて、その中にいろいろ暗黙のルールがある。ところがあのケースだとルールが共有できてないんですからね。米軍が太平洋戦争中の日本軍やヴェトナム戦争時のヴェト・コンに対して抱いた恐怖もそれと同じようなものだったのかもしれません。

んで、話を戻すと、われわれ日本人は、そういう「平和」「戦争」というフェーズ分けをなくそうじゃないか、と考えている筈なんですよね。ずっと「平和」で行こうじゃないか、と。憲法前文にも9条にもそう書いてある。ぼくは大雑把に言ってやはりその考えに賛成です。人間は人間を殺すべきじゃないです。もちろん、テロリストに襲われても反撃も報復もするべきじゃない、なんてことは言いませんよ。ああいうことがあったら何らかのアクションは起こさなくちゃいけない。不測の事態に備えるためには、やはり国軍ってものも必要なのかもしれない(結論出すつもりはないですが)。ただ、「人は人を殺しちゃいけない」という大原則だけはどんなときも踏み外したくないな、と思うわけです。

松浦亜弥の新曲が初登場3位になったというのに、こんな事件が起きたせいで喜びに浸れないのが悲しいです。

9月12日(水)

今回のテロ事件が決して許されるものではないというのは大前提で。

○この事件が衝撃的なのは、やはり普通の日常が突然圧倒的な暴力によって破壊されたところにありますね。それは戦争の悲惨さとはまた少し違う。戦争でもやはり同じように無辜の一般市民が犠牲になることがありますが、どういうわけだか攻撃した側に対する憎しみというものはやや薄いような気がする(たとえば広島のことを念頭に置いています)。たぶん戦争そのものが一つの大きな災厄であるということもあるし、そして戦争であればいくら人を殺してもかまわないというルールになってるからですね。

○犯行の背後に例のイスラム原理主義指導者オスマ・ビン・ラディンという人がいるのかどうかはまだ分かりませんが、TV番組で彼の組織に関する報道を見ていたら、「自爆テロの実行者は聖戦の犠牲者として祭り上げられる」などと報じられてました。もちろんそれは彼の組織がいかに狂信的で恐ろしいものであるかを伝えようとしているものなのですが、ぼくはそれを聞いていてどうしても神風特攻隊や靖国のことを思い出してしまったのです。不謹慎ですか?(民間人を狙ったテロと軍艦を狙った特攻は、もちろん、同列には論じられませんが)

それにしてもテロは怖い。いくら強大な軍事力を持っていても、防げないものは防げないんですよね。「平和」という言葉の意味の問い直しを迫られた一日でした。

9月9日(日)

先週は仕事関係でいろいろ悩みの多い一週間でしたが、今日はそれを吹き飛ばすような素敵な一日でした。

というか端的に言って『松浦亜弥新曲発売記念ミニライブ』を見によみうりランドくんだりまで朝早くのこのこ出かけて行ったわけですが、いやいや本当に素晴らしいものでした。とにかく歌が圧倒的に上手いのです。これがプロのステージだ、という感じがしました。音程やリズムが完璧なだけでなく、その歌声にはCDで聴くのよりもさらに魅力があるのです。アイドル歌手というのはこうでなくちゃいけません。ときどきアイドル歌手とは歌が下手なものだという誤解が見られますが、真のアイドル歌手とは、歌が上手いものなのです。正直、入場券引き換えのために列に並んでいるときは5,500人のおたくの群れにうんざりしていたのですが(まあぼくもそのおたくの群れの一員となっていたわけですが)、ステージの間はおたくたちのウザさも気にならないほどでした。

あと驚いたのは、今日の天気。予報では一日中雨、実際に現地でも時折スコール気味の雨が降る生憎の天気だったのですが、松浦亜弥がステージに上がると雨がやんで陽が射してくるのです。で、衣装替えのためにステージ袖に引っ込むと雨が降る。また出てくると晴れる。そんなことが2、3回続きました。オカルト嫌いなぼくもちょっと唸ってしまいました。スターとなるべく生まれてきた人の勢いとは、こういうものなのでしょう。

おそらくアイドル歌手に求められる資質とは、プロデューサーの指示を忠実に、しかもその意図をしっかり理解した上で実行できることなのではないかと思います。そして今の彼女はそれを完璧にこなしています。あとは作り手の問題になるわけですが、曲の出来も良好だし、売り出しに使う金も潤沢、もう文句ありません。

で、ライブ終了後に「握手会」があったわけですが…、参加せずに逃げ帰ってしまいました。ちょっと5,500人のおたくの中の一人となってアイドルと握手する自分、というものとうまく折り合いがつけられそうになかったので。

9月3日(月)

松浦亜弥と同じ時代に生きていられて本当によかったと感じる今日この頃。あの可愛さはもはや現代の奇跡だ。

そう言えばよく誤解されるのだけれど、ぼくは別に「松浦亜弥のような女の子」が好きなわけではない。ぼくが好きなのはあくまでも「松浦亜弥」なのだ。もう少しミもフタもない言い方をすると、松浦亜弥という「商品」が好きなのである。アイドル好きという人種がみなぼくと同じ考え方をするかどうかは分からないが、少なくともぼくの場合はそうだ。

9月2日(日)

松浦亜弥はTVや雑誌で常に「久々の正統派アイドル」という紹介のされ方をする。ここで問題になるのは「正統派アイドルとは何か?」ということである。たぶんこういう表現を聞いて普通に想起されるのは松田聖子を頂点とする80年代前半のアイドルたちであろう。ところがそういうアイドル像はおニャン子以降完全に破壊され尽くしているのであって、そのことに無自覚なまま「正統派アイドル」を名乗ったのでは、おそらく消費者にはそっぽを向かれてしまうだろう。松浦亜弥が名乗る正統派アイドルとは、松浦亜弥自身がそのあり方を一から作り上げていくものでなければならない。

ただもしかすると、そういうアイドル像が破壊されていること自体が既に忘れ去られているのではないか、ということは考えられる。大塚英志なんかはこのように述べている。

例えば、つんくのやっていることだって、近田春夫から『よい子の歌謡曲』に至る歌謡曲批評が八〇年代以前に言い尽くしたことを、いまさら忠実に反復しているだけなのだけれど、でも若い世代には当然「いまさら」なんていう感覚はないわけだからおもしろいように引っかかる、という構図が成立してしまう。
(『戦後民主主義のリハビリテーション』より「バブルかファシズムか」)

つんくに対する評価は必ずしも同意しかねる部分もあるのだが、言いたいことは分かる。ただ松浦亜弥に関して言えばその「いまさら」が現在まで100%成功しているとは言いがたいものがあり、ぼくは若い消費者もそこまで「引っかかりやすい」わけではないのではないかと思っている。

松浦亜弥は、若い世代には新鮮な「正統派アイドル」像を、われわれのようなロートルには懐かしさと同時に今の時代の空気を、ともに感じさせてくれるアイドルであってほしいし、彼女にはその素質があるのだ。

9月1日(土)

○木曜日に祖母が97歳で逝去。老衰です。木曜日の夜から金曜日まで葬儀のため大阪に行っていました。大往生なんで、葬式と言っても悲しみというのはなくて、何と言うか晴れ晴れとした空気があったような気がします。親戚が集合するのはこういう機会しかないのですが、やっぱりみんな顔とか性格が似ているんだよなあ。特に男性陣は。不思議。

○「どうしてこの社会は男性の性的慰安(所)を必要とするのか?」ということを考えてます。従軍慰安婦とか、新宿で丸焼けになった「抱きキャバ」とか。

○元モーニング娘。の福田明日香はあるファンの作った掲示板にときどき現れるのですが、8月中旬に現れたときに「私は首相の靖国神社参拝に反対である」とはっきり書いてました。自分と同じ考えだからそう言うわけではないけど、やっぱり彼女は凄い。モーニング娘。の新メンバーが束になっても全く太刀打ちできない才能を持った子です。おそらく今の芸能界で彼女と対抗できる才能を持っているのは宇多田ヒカルくらいしかいない。どういう形にせよ、もう一度ステージに戻ってきて欲しいな。


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