寺屋敷(てらやしき)遺跡とは

篠田通弘「平成6年度徳山ダム水没地区内埋蔵文化財緊急調査の概要 寺屋敷遺跡」(『第13回揖斐谷の自然と歴史と文化を語る集いレジュメ集』所収、1995年)を再録。



1、遺跡の立地とあらまし


2、各時代の遺構と遺物


  ア)第1次遺構面(平安時代)の調査


  イ)第2次遺構面(縄文時代)の調査


  ウ)第3次遺構面(旧石器時代)の調査


3、まとめにかえて

1、遺跡の立地とあらまし

 寺屋敷遺跡(寺屋敷跡)は、旧山手集落より約1キロメートル上流の、揖斐川本流と磯谷(いそんだに)の合流地点に突き出た尾根の先端にあります。従来、地元の方々によって「観音屋敷」「寺屋敷」などの地名が伝承されていましたが、平成元年に「揖斐谷の自然と歴史と文化を語る集い」(揖斐谷ミニ学会)の略測調査によって尾根を人為的に削平した遺跡であることが確かめられました。標高は約335 メートルで、河川からの比高は約22メートルです。
 本遺跡の調査は平成5年度から始まり、今年で2年目となります。昨年度は約400 平方メートルの発掘を行った結果、第1次遺構面からは平安時代後期(9〜10世紀頃)の礎石建物跡を検出したのを始めとして、縄文時代早期末(約7000年前)の第2次遺構面がさらに下層にあることが確かめられ、さらにその下の第3次遺構面には徳山地区で初めての発見となる旧石器時代(2万年前)の遺跡が埋没していることが確認されました。
 今年度は昨年度に引き続いて第1次遺構面を46平方メートル、第2次遺構面を446 平方メートル、第3次遺構面を320 平方メートル、計812 平方メートルの発掘調査を実施しました。

2、各時代の遺構と遺物

 ア)第1次遺構面(平安時代)の調査

 昨年度の調査で調査地区のほぼ中央にあたる削平地より3間×3間の礎石建物跡を検出しましたが、今年度の調査によってもう一回り大きな遺構であることが確かめられ、最終的に3間×4間の礎石建物跡であることが判明しました。主軸はN12°Wで、正面は真南からやや東に振っています。
 礎石建物跡は716センチメートル×537センチメートルの規模を持つもので、中央の礎石列の左右には棟持柱を受けたと考えられるやや小振りな礎石が、前面には縁束を受けたと考えられる礎石が3個置かれていました。愛知工業大学工学部助教授岡野清氏(古建築)の鑑定によって、1間が179 センチメートルで設計されたものであることが判明しました。また、周囲はやや低く凹められていて、雨水が排水されやすく工夫されている様子も確かめられました。礎石を置く基壇を造成する際には、奥の部分は山を削平し、尾根先端部分は山土を運んで平らに整地した上で、たたきしめて建物が傾かないような造作がなされていました。礎石建物跡の性格については、仏堂建築様式の古代寺院跡であろうと考えられます。
 出土遺物は灰釉陶器(49点)、鉄釘(21点)などで、鉄釘には火熱を受けているものも認められ、この建物の廃絶に際して火災を受けている可能性もあります。
 この礎石建物を建立した集落としては、磯谷をはさんで眼下にのぞむことのできる磯谷口遺跡が考えられますが、その関連の解明は今後の課題です。寺屋敷遺跡からの礎石建物跡の発見は、これまで不明な点が多くあった徳山地区の平安時代の解明に貴重な資料を提供することとなったと同時に、地元の方々が伝えてこられた伝承の正確さが証明されることとなりました。

 イ)第2次遺構面(縄文時代)の調査

 昨年度の調査で確かめられた第2次遺構面(縄文時代)は、礎石建物跡の直下と背後の尾根部分、そして礎石建物跡の前方の尾根部分から新たに確認されました。
 礎石建物直下からは、竪穴住居跡1軒、土坑4基、ピット41基を検出しました。また、背後の尾根部分からはファイアーピットと呼ばれる焼土坑2基、そして前方の尾根部分からは縄文時代早期後半の土器集中箇所を検出しました。
 このうち竪穴住居跡は、平安時代の礎石建物跡の真下から層位的に非常に良好な状態で検出されました。長径3.9 メートル、短径3.4 メートルのやや楕円形を呈しています。壁面は明確に立ち上がらず、摺り鉢状ですが、床面は固くたたきしめられていました。中央には地床炉が置かれていて、そのまわりには柱穴と考えられるピットが9ケ所検出されました。また、地床炉の南側の床面には石皿が埋め込まれていました。
 この前方の尾根部分からは、縄文時代早期後半の茅山下層式土器をまとまって検出しました。この土器は胎土に繊維を多量に含むもので、全面に二枚貝をこすりつけた条痕文(じょうこんもん)を施しているのが特徴的です。これら縄文土器は今年度212 点検出しました。

 ウ)第3次遺構面(旧石器時代)の調査

 昨年度の調査で、徳山地区で初めての旧石器時代の遺物を検出しましたが、今年度は第2次遺構面の精査を終了してから、全面的にさらに下層へ掘削し、旧石器時代の包含層の確認に努めました。
 背後の尾根部分から昨年度検出されたナイフ形石器を含む直径2メートルほどの旧石器の集中箇所は、今年度の調査によって直径4〜5メートルほどのさらに大きなものであることが確かめられました。ここからはナイフ形石器2点を始め、石器を作る素材となった石核や、石器を作る際に石核からはぎ取られた剥片(フレイク)、石器製作の時に散乱した砕片(チップ)などが集中して検出されました。また、これらの石器を含む包含層の廃土をすべて水洗選別した所、多数の砕片が含まれていることがわかり、石器製作場所であったことも明らかとなりました。また、ここからは焼けた礫なども検出されています。今年度の調査で検出した石器類は4924点にのぼります。
 さて旧石器の包含層は地表面から8番目の層、第[層に相当しますが、今年度の調査においてこの上の第Z層から多量の火山ガラスが検出されました。第Z層は上からZa層、Zb層、Zc層、Zd層の4層に分層されますが、そのうちでもZa層から最も多く検出されました。この火山ガラスは分析の結果、今から2万2千年〜2万3千年前に鹿児島湾で大爆発をした、姶良(あいら)カルデラから噴出した姶良Tn火山灰(AT)であることがわかりました。この結果、寺屋敷遺跡の旧石器は、このAT噴出以前の、2万3千年よりさらに古いものであることが確実となりました。AT降灰以前の石器群が、後世の撹乱を受けずに検出されることは、中部地方でも非常に稀なことであることも、京都文化博物館主任学芸員鈴木忠司氏(考古学)の鑑定によって明らかとなりました。
 また、旧石器の包含層が尾根に埋没した河岸段丘の段丘礫層の上に堆積した、段丘堆積物に形成されていることが静岡大学名誉教授加藤芳朗氏(土壌堆積学)の鑑定により判明しました。

3、まとめにかえて

 今年度の寺屋敷遺跡の調査では、3時期にわたる遺構面の調査を行いましたが、このうち第1次遺構面(平安時代)については調査を終了しました。第3次遺構面(旧石器時代)については、段丘礫層がさらに尾根の奥へ伸びていることが判明し、第3次遺構面の上には3メートル以上も山土が覆っていることが明らかとなり、さらに遺跡が拡大することが確実となりました。また、これに伴って第2次遺構面もその範囲が拡大することが判明しています。とりわけ本遺跡の旧石器がAT降灰以前のものという、極めて貴重なものであることが確認されていますので、来年度にはその全容の解明に努める予定です。