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・「職業(Beruf)としての/ではない学問」『天理大学生涯教育研究』no.6.pp.21-44.天理大学人間学部人間関係学科生涯教育専攻研究室(2002/3/22)
職業(Beruf)としての/ではない学問
石飛和彦
0:はじめに
現在、大学に「アカウンタビリティ(accountability;説明責任能力)」を問う声が高まっている。アカウンタビリティという言葉の定義上、それは学問の内的要請ではなく、全体社会システムと、その部分装置としての大学との、関係にかんする問いである。学問は本質的にどうあるべきか、という問いではなく、学問を通じて大学は全体社会のために何をできると期待され、またじっさいに何をしているのか、それをはっきりと示すことが、全体社会から大学に対して求められている、というわけだ。
本稿は、特に大学の「授業」をめぐるこの問いについて、特に教育社会学という領域を念頭に置きながら、教育社会学的に分析することを目的とする。その際の補助線として、本稿では、第一にマックス・ウェーバーの講演「職業としての学問」を参照する。また、第二に、実際の大学での授業場面を想定してそこに日々感じられている(はずの)ある種の「居心地の悪さ」を手掛かりとしながら、その構造を教育社会学的に分析していくことで議論を進めていく。そして、第三に、教育社会学の方法論の評価について、特にエスノメソドロジカルなアプローチを参照しながら検討する。その際、特に認識の「相対化」という契機について、批判的に検討することになるだろう。
なお、本稿のテーマについては、既に拙稿(1997a)で触れ、また、2000年に行われた日本教育社会学会第52回大会での課題研究「教育社会学教育の課題」で報告(拙稿(2000);日本教育社会学会(2001))を行った。本稿は、前者の議論を再検討しながら、後者の報告資料をもとに加筆・再構成したものである。
1:社会学者と学生の間の「価値葛藤」
1−1:「職業(Beruf)としての学問」
「職業としての学問」と題されたウェーバーのこの短い講演テキストは、社会科学の名著として現在まで広く読まれている。この講演は、一般に、ウェーバーのいわゆる「価値自由」の教説が凝縮的に主張されているものとされている:
第1次大戦後の混迷のドイツ。青年たちは事実のかわりに世界観を、認識のかわりに体験を、教師のかわりに指導者を欲した。学問と政策の峻別を説くこの名高い講演で、ウェーバー(1864-1920)はこうした風潮を鍛えらるべき弱さだと批判し、「日々の仕事(ザッヘ)に帰れ」と彼らを叱咤する。それは聴衆に「脅かすような」印象を与えたという。(尾高邦雄訳岩波文庫版(1919=1936;1980改訳)表紙)
ここに要約されている限りでウェーバーの教説に従うならば、我々はそもそもアカウンタビリティの問いになど答える必要はなく、答えようとしてはならない(学問と政策の峻別;日々の仕事=学生の本分たる純粋学問的追求に帰れ)ことになるだろう。じっさい、「そんなことを研究して何の役に立つのか」と問われた時に、ウェーバーの名を挙げることによって相手に脅かすような印象を与えたり、「こんな重箱の隅をつつくような勉強をやって何の役に立つのか、TVのワイドショーのコメンテーターの辛口コメントのほうがずっといいことを言っているじゃないか!」などと言っている学生に読ませて「日々の仕事に帰れ!」と恫喝するのに便利そうなテキストではある。しかし、たんにそれだけにとどまらない含蓄が、ウェーバーの議論の中には含まれている。それは、学問論、とくに社会科学論であり、同時に大学についての教育社会学的分析でもあると思われるのだ。
さしあたりは、ウェーバーがここで「職業(Beruf)」という言葉の両義性を梃子にしながら議論を進めているという点に注目しておこう。「職業(Beruf)」という言葉こそ、ウェーバーがその代表作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で焦点を当てた中心概念であるからだ。ルターが聖書をドイツ語訳した際に導入したこの「職業(Beruf)」という単語(英語で言う「calling」)は、一方ではキリスト教的な「天命」を、他方では世俗的な意味での「職業」を意味する。その両義性によって、プロテスタンティズムは、世俗内的な職業をキリスト教的な天命に結びつけ、自己目的的に(すなわち現世的な欲望を満たすためでなく、神から与えられた使命として)際限なく労働に励む「世俗内禁欲」の精神を成立させ、それによって資本主義を準備した、というのが、ウェーバーの代表作における議論であった。だとすれば、同じ「職業」という言葉を用いて展開された学問論もまた、同じ構図をなしていると、さしあたりは、予測できるだろう。
じっさい、ウェーバーの講演はまず、学問を卒業後の職業にしようとする学生の辿るであろう運命について語るところから始まっており、この講演の聴衆がまさにそうした学生たちであったであろうことを考えあわせるなら、ここでの「職業」とは、まずは、社会的経済的な意味で用いられている。そして同時に、ウェーバー的な文脈でいうならば「職業」である限りにおいて、そこでの学問は、超越的な価値(学問の客観的真理性)に差し向けられているのだから、現世的価値ないし政治的利害関心から自由であれ、日々の学問的探求を使命と心得てひたすら際限なく自己目的的に没頭せよ、というウェーバーの主張はきわめて一貫したものであるといえる。
ひとたび学問を「職業」とした以上、その職分に見合った日々の仕事に没頭せよ、それこそが価値あることだ − こうした教説は、いわゆる「象牙の塔」というイメージを思い起こさせるかもしれない。じっさい、ウェーバーの時代の大学が現代とは比較にならないほど学問的選良の場であったであろうことを考えるなら、このような「職業としての学問」に焦点を合わせて学問論を展開したとしてもうなづけるだろう。
ところが、いま、社会学者が直面しているのは、ウェーバーの語りかけていた聴衆とは異なった種類の学生たちである。現代の社会学者は、ウェーバーとは異なり、大衆化した大学において、学問を天命などとは間違っても思うことのない学生たちに語りかけねばならない。社会学者と学生という、「構え」をまったく異にした両者が接触する大学という場、とくにその最前線である「授業」という場面は、したがって、とても奇妙なものである。
1−2:「構え」の相違
例えば、社会学の授業の中で、デュルケームの「社会は個人を外側から拘束する」といった命題をとりあげる。『自殺論』などを紹介して説明すると、その限りにおいては学生は「理解」するし、「面白い」と言う。しかし、「でも、じゃあ私はどうしたらいいんですか?」と質問されて社会学者は絶句することになる。学生は、勉強して何かを身につけ、それを今後の行動の指針にできる、と、ごく常識的に考えている。そして、その「構え」じたいは、なんら非難されるべきものを含まないだろう。しかし、社会学には、まさにその「個人の意図的行為」の積極的な場所が、ないのだ。
同様の別の例をあげよう。学歴社会論の授業で「再生産理論」をとりあげる。学生は自分たちが学歴社会を通じて階級の社会的再生産の円環の中に閉じこめられていることを「理解」する。しかし、それを知ったところで学生は自分の出自や今まで生きてきた人生を取り消すことができるわけでもない。だとすると、学生に対して(しばしば相対的に「優越」した立場から)「理論的知見」を「教え」るという振舞いじたい、とても居心地のわるいものだ。
うんざりするほどわかりきったはなしではあるが、私たちの人生は有限である。限られた時間、限られた状況の中で、限られたチャンスを与えられた中で行動をするしかなく、しかも一度起こってしまったことは二度と消えない。現実は、どんなものであろうとそれがすでに存在してしまっているという理由だけで、取り消すことのできない絶対的な現実である。それゆえに、私たちの生きる世界はどうしたって理不尽で不条理である。一方に理不尽な不幸、他方にこれまた理不尽な既得権と暴力の行使があり、その間で私たちは限られた時間の間だけ限られた生を営む。それゆえに − ギリシャ哲学時代以来ニーチェやゲーム理論に至るまで恐らくそうなのだが − 私たちが「知」を求めるのは「善く生きるため」だということになっていて、逆にいえば、この理不尽さの中で敢えて「善く」あろうとしなくてもただ単に生きている限りにおいては、「知」などあってもなくてもかまわない、ないしはないほうがよいとさえ感じられる(拙稿(1999)参照)だろう。
ここに、「職業としての」学問とそうでない学問との原理的な「構え」の違い、ないし「価値葛藤」がある。「象牙の塔」の中で真理への意志/信仰を共有する社会学者にとって、学問とは、いかにピースミールの営みでさえ、真理への過程の一端をになうことによって義とされるものである(ウェーバー邦訳書、p.22-23.参照)。しかし、学生にとっては、自らに与えられた生が総てである。これは、社会学者/学生にとっての、(ほとんど実存主義!的な)学問の「倫理」に関わってくるもんだいなのである。
2:「相対化」する視点という便法
ここではじめて、「相対化」という視点が、便法として登場する。「あなたは、社会学を学ぶことによって、「「常識」は「ある社会の中での常識」でしかない」ことを知るのだ」と言えば、学生は(ある程度は)納得するだろう。呪縛された状態から解放されると言うのだから、学生も社会学を(ある程度は)歓迎するだろう。こうしたレトリックを、おそらく社会学の授業を担当するものであればかならず使っているはずだ。
こうした「相対化」の視点を打ち出したテキストとして重要な役割を果たしたと思われるのが、いわゆる現象学的知識社会学の立場からの入門書としていまなお広く読まれ根強い人気を得ているピーター・バーガー『社会学への招待』(1963=1979)である。同書最終章「ヒューマニスティックな学問としての社会学」の末尾において、彼は、まさに社会学的認識による「知的解放」というヴィジョンを提示して締めくくっている:
われわれの議論で以前に登場させた人形芝居のイメージに今一度立ち戻ることにしよう。人形たちが小舞台で踊ったり糸に操られて飛びはねながら、決められた筋道にしたがって、さまざまなちょっとした役割を演じているのをわれわれは見る。われわれは、この劇場の論理を理解するようになり、自分たちもその論理に則ったしぐさをしていることを知る。われわれは、社会の中に自己を位置づけ、こうして社会の巧妙な糸に吊るされながらわれわれ自身の位置を認識する。一瞬われわれは人形としてのわれわれ自身を実際に見る。しかしわれわれは人形芝居とわれわれ自身のドラマとの間の決定的相違を把握する。人形たちと違って、われわれには自分たちの動作をやめて自分たちを動かしてきたからくりを見上げ認識するという可能性が残されているのである。この行為にこそ自由への第一歩があるのだ。そして、この同じ行為のうちに、われわれはヒューマニスティックな学問としての社会学の最後決定的な正当化を見いだすのである。(p.258)
バーガーの言う「知的解放」というのは、とてもアイロニカルだ。われわれは現実に社会の操り人形である。デュルケームの「社会は個人を外側から拘束する」といった命題はほとんど逃れようのない真理である。ただ、しかし、われわれはただ一点において、その命題を超えることが可能ではないか。「知」によって、つまり「人形としてのわれわれ自身」の姿を見ること、「自分たちの動作をやめて自分たちを動かしてきたからくりを見上げ認識する」ことによって、いわば現実に対して”先回り”をして見渡す自由を得る、それは決定的な「知的解放」であり、またわれわれが社会の呪縛からまがりなりにも「解放」されるのはそのようなやりかたでしかありえない、というわけだ。
こうしたヴィジョンは、現象学的知識社会学というバーガーの(ある意味で「徹底した」)理論的立場の帰結であって、そのいみでは、「自由への第一歩」などという点に「最後決定的な正当化を見いだす」という立場が社会学全般に共有されているわけではない。後にも触れるように、こうした「相対化」の契機を特に強調するのは社会学の中でも一部である、という共通了解があるようである。にもかかわらず、げんにバーガーのこの入門書が、まさにこの「ヒューマニスティックな学問としての社会学」を提示することによって、その相対主義によって、社会学の初学者の間で広く読まれ、すなわち社会学者が学生に対して推薦し続けている、という事実に注目しよう。
こうした「相対化」への傾向は、社会学の入門書の中により広く見ることができる。例えば、最近出版された教育社会学の入門テキスト、『教育の社会学』(苅谷・濱名・木村・酒井(2000))を見てみよう。同書は、非常にオーソドックスな内容をバランスよくコンパクトに盛り込んだ好著であり、すなわちバーガー的な「過激さ」をセールスポイントにするものとは対極にあるのだが、その副題には「〈常識〉の問い方、見直し方」とあり、すでに「相対化」の視点が示唆されている。その「はしがき」には次のような言葉が書かれる:
・・・教育への社会学的アプローチの特徴は、たんに教育と社会との関係を見ようとする点にとどまらない。もうひとつの重要な特徴は、社会学が、人々の間で「当たり前」のこととして広まっている「常識」を疑う学問であることから導かれる。/この「脱常識」へのアプローチは、とりわけ教育のように「当たり前」のものの見方が広く流布し、支配する分野において効果を発揮する。私たちが教育について語るとき、いかに、「当たり前」の「常識」が下敷きになっているか。・・・このような「当たり前」が疑われずに広く通用していればいるほど、「社会」はスムーズに、秩序を保ちながら存続を続けるのだが、そうだとすれば、〈教育の社会学〉は、こうした「当たり前」に疑問を向けることを通じて、教育という営みが社会現象としてどのような特徴を持つのかを解明しようとする学問といえる。(p.i-ii)
繰り返すように、同書の内容は非常にオーソドックスな、また理論的にはむしろバーガー的な現象学的視点に対して抑えを効かした傾向を持つものである。にもかかわらず、同書もまた初学者に対してこのようにして社会学を「常識の問い直し」として特徴づける、それによってアカウンタビリティを確保している(それがいいとかわるいとかいうことではなく、事実の問題として、多くの社会学者がそうするように、同書もまた的確なやり方でそのようにしている)。「相対化」という視点が便法として用いられている、とは、そういうことである。社会学者が、学生からのアカウンタビリティの問いに対して、さしあたり差し出すのは、結局こうした「相対化」の視点なのである。
しかし確認しておくならば、「相対化」はほんらい、社会学にとっての目的でも本質でもない。デュルケームが『自殺論』を書いたのは、常識をひっくり返すため、ではなく、あくまで、社会的自殺率の変異を通して社会の組成の原理を解明するため、であった。学歴社会論が階級の再生産を指摘するのも、「学歴なんて本当は人間の価値とは関係ない!」ということを訴えるため、ではなくて、社会の階級構造の自己維持の仕組みを解明するためにほかならない。そんなことを解明してどうなるのか?というアカウンタビリティの問いとは別の次元において、「職業としての学問」は、このように此岸から切り離された次元での認識に没頭するものである。
ここであらためて見直すなら、バーガーの言う「解放」というのは、結局のところ、社会学の具体的なひとつひとつの知見によるのではなく、たんに、「職業としての学問」としての性質すなわち此岸から切り離されるという「構え」の性質に、よっているということがわかるだろう。そのいみでは、バーガー的な「解放」は、社会学でなくとも、物理学でも気象学でも同様に成立する − 人間は原子によって構成されている、従って物理法則によって操られているしそこから逃れるすべはない、しかし、われわれは物理法則を認識することができる − あるいは、天気は気象の法則によって操られている、われわれはそれを変えることはできない、しかしわれわれはその法則を認識し天気予報で先回りする「自由」を持つのだ − などなど。天気予報であれば、雨が予測されたら傘を持っていけばよいのだが、社会学であれば、たとえ「知的」な先回りによって社会法則を認識することができたとしても、現実的な一歩を踏み出そうとすれば、たちまちその一歩がまたしても社会の法則によって拘束されることになる。繰り返すように、学生は、「知的」な「構え」のうちで階級の社会的再生産のメカニズムを認識することはできても、それを自らの人生の「構え」の中に着床させる手段を持たないのである。そのいみで、バーガーの主張する「自由への第一歩」は、現実には、その一歩を踏み出さない限りに於いて、つまり「自分たちの動作をやめて自分たちを動かしてきたからくりを見上げ認識する」ことに没頭する「職業としての学問」の彼岸的な「構え」に立つ限りに於いて、現実的な「構え」との落差によって、成立しているように見えるに過ぎない。そのいみで、バーガーの言う「相対化」による「自由」は、現実的な次元における無力と同値であり、いわば仏教的な「解脱」への誘いであり、「職業(Beruf)」という語の宗教的な意味での脱俗という側面に集中した「職業としての学問」の強調であることがわかるだろう。
「こんなことを勉強して何の役に立つのか」という学生からのアカウンタビリティ(accountability)の問いに対して、「相対化」を強調することは、いわば、無力と引き替えにして知を、すなわち世界についての説明(account)を提供する。学生の側も、それを、便法としてとはいえ、受け入れているようだ。これはしかし、奇妙な事態である。さて、そこで、次節では「相対化」をめぐって、さらにその仕組みを明らかにしていくことにする。
3:人々の常識的実践としての「相対化」
3−1:「常識」的な日常的相互行為それ自体への注目
「相対化」について最も先鋭な議論を展開しているのは、エスノメソドロジーである。例えば、学派の創始者のひとりであるハーヴェイ・サックスは、パーデュ大学でのシンポジュウムを次のように語り始める:
ソクラテス以前の哲学から最近の少なくともフロイトまでの、いわゆる革命的とされる学説を、その論文の第一パラグラフ − まあ第三パラグラフの場合もあるが − まで読むと、奇妙なことがわかる。それらはすべておよそつぎの内容で始まっている。「人々はこれから私が語ることがらについてすでに知っていると思いこんでいるが、実は知らないのである。しかもそのことを人々に伝えたとしても何も変わらないのである。人々は夢の世界をさまよっているに過ぎないのに、相変わらず目覚めているかのように歩き回るのだ」。ダーウィンも、フロイトも、こんな具合にして語り始めた。我々が関心をいだくのは、この、人々が知っていると思いこみそして使用しているものは、一体何なのか、ということである。(K・ライター『エスノメソドロジーとは何か』p.1.より引用)
すなわち、サックスによれば、「相対化」というのは(エスノメソドロジー以外の)あらゆる「学説」が(「非科学的常識からの脱却」「先行研究の批判」といったかたちで)行使してきたものである。彼の言い方はきわめておおざっぱな印象を与える(おそらくそういう語り口はサックスの持ち味なのだが)が、本稿の文脈に置き直すなら、同じことを、「職業としての学問」という言葉でいうことができるだろう。さて、エスノメソドロジーはむしろいままで「相対化」され切り捨てられてきた「常識」そのもの − すなわち、「職業」としてのではない、私たちが生きる限られた生の「構え」そのもの − をあらためて俎上に乗せ直すのである。
同じくエスノメソドロジーの重要な論客の一人であるメルヴィン・ポルナーもまた、「相対化」に注目している(ポルナー(1975=1987))。彼は「相対化」の振る舞いを、こんどは、人々が用いている「常識」の手続きの重要な一部として指摘し、「経験を皮肉る(ironize)こと」と名付けた。そのことを説明する極端な例として、「妄想」という種類の経験がある。ある日、探偵が自分を尾行していることに気付く。あるいは妻は自分を裏切っている。あるいは自分はナポレオンである。ところが、自分以外の人々には探偵の影は見えず、妻は貞淑であり、ナポレオンは歴史上の人物であって − 要するに、彼らからすれば自分は「妄想」を抱いているに過ぎない、ということになり、そういう形で自分の経験は相対化され(「皮肉られ」)ることになる、というわけだ。こうした「相対化」は、あらためて見直せば、より日常的な場面でも頻繁に見られ、実は私たちの日常生活がしっかりと堅固なリアリティを維持しているのはそうした「相対化」の実践を私たちが互いにおこないあっているからだ、ということに気付くだろう。たとえば:
ノックの音を聞いても自分のほかに誰も聞いた者がおらず、ドアを開いても、そこに誰もいないときは、「ノックが聞こえたような気がした」というように表現しなおされる。ここでたとえば「思考」という主観的プロセスをその間に挿入すると、聞こえたノックが結果としては主観的なものだったということになる。つまり、ノックは外の世界には存在していなかったのであり、混乱した思考の投影にすぎなかったのである。(p.59)
こういうことは、実は、いつでもおこっているのだ。すなわち人々は、日々の「常識的世界」を、ごく日常的なものとして協同的に作り上げていくにあたって、現実の多様な側面を「相対化」することによって「あるひとつの現実」を達成する、というわけだ。そしてポルナー自身指摘しているように、サックスが指摘したような「学説」の振る舞い(=「職業としての学問」の、バーガー的な「相対化」の側面)もまた、こうした「常識」の手続きの洗練されたものにすぎない:
社会科学のある種の研究の大きな目的は、人や集団がどのようにしてにせの世界に住まうようになるかを解明することである。すなわち、にせの世界はある人々にとっては「現実」であり、「そこにある」ようにみえるのだが、それをワンセットの社会学的メカニズムや心理学的メカニズムから作り出された人工物として分析するのである。その時、こうしたメカニズムによって擬似的な客観的リアリティが作り出され、維持されるのだと説明される。このような研究は対象者の経験を皮肉り、それによって、どうして対象者がにせの世界を現実の世界として経験することができたのか説明しようとする。ここで皮肉が生じるのは、研究者の世界経験と対象者集団の世界経験とを明に暗に対立させるからである。この場合ふつうに見られるのは、研究者の世界経験を客観的経験とみなし、対象者の世界経験を「主観的」なものとみなすことである。そして、社会科学の理論的価値や力量が発揮されるのは、この二つの世界経験の違いを説明する心理的・社会的メカニズムや慣習を定式化する時である。(p.63-64)
そういうわけで、授業で社会学の「理論的価値や力量が発揮される」のは、対象者、すなわちこの場合なによりまず学生自身、の世界経験を「主観的」なものと断じることによる「相対化」によってなのだ、というわけだが、それを学習した学生が、例えば小レポートで次のように書くときに、いったいそこでは何が起こっているのだろう:
いい大学を出ている人がいい行いをし、いい仕事ができると、会社や社会がかんちがいをしていて、大卒者ばかりを社員として採用しようとするので、外の人もその会社に入りたいがために一生懸命に勉強するから学歴社会がおこると思う。いい大学を出てる人がいい人だという風潮が日本の中に浸透しているから学歴社会が直らないんだと思う。
(「学歴社会はなぜ起こるか」というテーマの小レポートの答案。拙稿(1997b)参照)
ここで、学生は「かんちがい」「風潮」という言葉を挿入することによって、「会社や社会」「日本」が現に営んでいる「学歴社会」を皮肉ろうとしている。そしてその姿勢は、バーガー的な、あるいは社会学の入門書が提示している「相対化」の効果と正確に一致している。じっさい、ある種の学歴社会論はこの学生が言うようなこととそっくり同じことを語るだろう。そうである以上、この学生の小レポートは、よく社会学を理解した優等なものである、と評価することも可能かも知れない。しかし奇妙ではないだろうか? 学歴社会が「かんちがい」なら、なぜこの学生は授業などに出てきて小レポートなど真面目に書いているのだろうか? この奇妙な「言行不一致」こそは、前節でバーガーについて指摘したことの繰り返しである。そこでは、知的優越と解放が、現実的な無力と表裏一体のものとして提示されているのである。
何かがうまくいっていない。あるいは、何かが、悪い具合に、奇妙に円滑に機能してしまっているのだ。ここで再びウェーバーの議論を検討し、その上であらためて、私たち自身の問題を見直してみよう。
3−2:再び、「職業としての学問」について
3−2−1:ウェーバーの分析 − 「合理化論」
先に見た通り、ウェーバーは「職業としての学問」に焦点を合わせ、「日々の仕事に帰れ」と説き、超越的な真理の追求に身を挺する学者たちからなる「象牙の塔」のようなものを提起していた。しかし、彼がそのような主張をしたということは、逆に、当時の大学がそのようではなかった、という事実の現れである。げんに、ウェーバーが分析してみせる大学の風景は、かなりの程度において、現代に通用するように見える:
・・・近ごろの若い人たちのあいだでは一種の偶像崇拝がはやっており、これはこんにちあらゆる街角、あらゆる雑誌のなかに広くみいだされる。ここでいう偶像とは、「個性」と「体験」のことである。このふたつのものはたがいに密接に結びつく。すなわち、個性は体験からなり体験は個性に属するとされるのである。この種の人たちは苦心して「体験」を得ようとつとめる。なぜなら、それが個性をもつ人にふさわしい行動だからである。(p.27)
といった記述を見ると、そっくりそのまま現在の学生の心性を描いているのだといっても違和感は感じられないだろう。もちろん、そうした学生たちの欲求を見透かして、ウェーバーはすぐさま次のように言うだろう:
さて、お集まりの諸君! 学問の領域で「個性」をもつのは、その個性ではなくて、その仕事に仕える人のみである。(同上箇所)
しかし、講演も後半に差し掛かった辺りで次のようにウェーバーが言うとき、またしても現在の学生の顔が彷彿としてくる:
要するに、こんにち一部の青年たちが犯している誤りは、たとえば以上のような議論にたいして、「それはそうだろうが、しかしわれわれはただの分析や事実の確定ではないなにかあるものを体験したくて講義に出ているのだ」というふうに答えるばあい、かれらは講義者のなかに、そこにかれらにたいして立っている人ではない別のある人 − つまり教師ではなく指導者 − をもとめていることにあるのである。(p.57)
ウェーバーがこの「職業としての学問」という講演を語りかけた聴衆とは、さしあたり、このような学生たちであり、いわば、そうした学生たちの心性に対抗し逆撫でするようにして語ったからこそ、ウェーバーは学生たちに「脅かすような」印象を与えた、というわけである。こうした文脈を押さえるならば、ウェーバーの議論は、たんなる学問論である以上に、大学の授業という場における教師と学生との関係(についての学生の幻想)についての分析・診断と処方箋だったということがわかる。
ウェーバーの分析は二段構えになっている。まず、西欧文明のうちで何千年ものあいだ進行してきた、全体社会的な「合理化」の過程がある:
それを欲しさえすれば、どんなことでもつねに学び知ることができるということ、したがってそこにはなにか神秘的な、予測しえない力がはたらいている道理がないということ、むしろすべての事柄は原則上予測によって意のままになるということ、 − このことを知っている、あるいは信じているというのが、主知化しまた合理化しているということの意味なのである。・・・このことは魔法からの世界解放ということにほかならない。こんにち、われわれはもはやこうした神秘的な力を信じた未開人のように呪術に訴えて精霊を鎮めたり、祈ったりする必要はない。技術と予測がそのかわりをつとめるのである。そして、なによりもまずこのことが合理化の意味にほかならない。(p.33)
そして、この「進歩」の過程を進める「原動力」(同上箇所)となっているのがほかならぬ「学問」だということ、これが、第一の分析である。
第二の分析ないし診断は、先に述べたような学問の現状、すなわち学生が「個性」「体験」を求め、教師に「指導者」の姿を求める(そして教師もまたそれに応える)という現状に対して下される。それは、上述の「合理化」の不可避的な進行に耐えることのできない「意気地のない妥協」(p.73)ないし、「新しい宗教の再興」の画策であり、それは結局、「たんなる狂信的諸宗派をつくるだけ」(p.72)の悪い結果を引き起こすことになるだろう、というものである。
こうしたウェーバーの「合理化論」は、無論、ここであらためて要約してみるまでもなく有名であって、非常にシンプルで力強い説得力を持っている。先に述べたとおり、80年以上へだたった現在の大学についても、なおある程度まで妥当するだろう。ウェーバーが教育現場に見た非合理主義ないし前近代性は、当然、現代にもなお残っている。なぜなら、ウェーバーの言うとおりに学問こそは魔法からの世界解放の原動力であり、そこが最前線である以上、逆にいうならそこにこそ魔術的世界がもっとも残り執拗な抵抗を見せるだろうからである。そこは、「学問」の体現者たる教師と、非合理的心性の体現者たる学生とが衝突する、まさに戦線というわけなのだ。
しかし、ウェーバーの議論が妥当なのはあくまでも「ある程度まで」である。話を戻すならば、本稿の問題関心は、社会学の授業を受けた学生が「でも、じゃあ私はどうしたらいいんですか?」と問う、あの途方に暮れさせる問いを出発点としている。この問いが私たちを途方に暮れさせるのは、それが学生の「非合理性」を意味していると単純にいえないところにある。現に、先に述べた通り、学生はある場合には教師の教える「理論」を十分に理解した上で、ものわかりよく、社会の「常識」を相対化し、「非合理性」を指摘してみせることもできる。その上で − ある意味では、そうであるがゆえにこそ − 学生は、途方に暮れるしかないのである。世界が「合理的」に説明されつくしてしまったとしたら、その中に「自分」をどう倫理的に位置づけられるのだろうか?
3−2−2:プロテスタンティズムの倫理
無論、ウェーバーも、この問題についてやはり「ある程度まで」解答を出している。彼はこの問いを、トルストイの問いとして取り上げる(p.42,p.66)のだが、彼自身の解答はそれをしりぞけるようなものである:
学問がこんにち専門的に従事されるべき「職業」としてもろもろの事実的関連の自覚および認識を役目とするものであり、したがってそれは救いや啓示もたらす占術者や予言者の贈りものや世界の意味に関する賢人や哲学者の瞑想の産物ではないということは、もとよりこんにちの歴史的情況の不可避的事実であって、われわれは自己に忠実であるかぎりこれを否定することができない。(p.65-66)
われわれ[は]・・・各人にたいしてかれ自身の行為の究極の意味についてみずから責任を負うことを強いることができる、あるいはすくなくも各人にそれができるようにしてやることができる。わたくしとしてはこのことは、各人のまったく個人的な生活にとっても小さな事柄であるとは思えない。(p.63-64)
すなわち、ここでようやくウェーバーの議論の焦点は「各人のまったく個人的な生活」にまで降り立ってくるのだが、それによれば、「職業としての学問」は、学生たちをその個人的な生活の次元において、かれを取り巻く世界とかれ自身の行為の意味を合理的に認識した上でみずから責任を負うことができるようにする、というのである。きわめてシンプルかつ強力な合理主義の主張である。しかし同時に、それが私たちの学生の問いへの答えになっているか、というと、どうにも微妙なのである − 世界が「合理的」に説明されつくしてしまったとして、自分の行為の意味も「合理的」に説明されつくしてしまったとして、あらかじめ(!)それをすべて認識した上で「責任を負うことを強いる」、というのは、考えようによってはずいぶん酷薄な「解答」ではないだろうか。
しかし、ウェーバーにとってこの「解答」はまさにそのように酷薄であるべきだった。ここで、ふたたびあらためて、ウェーバーがここで「職業(Beruf)」という概念を手掛かりにしていたことに注目しなおそう。学問が、プロテスタンティズムの職業倫理のようなものとして設定されるとすれば、当然それは、プロテスタンティズムにおける「予定説」と同型のパラダイムの中に置かれねばならないはずだからである。
プロテスタンティズムの職業倫理を分析する際にウェーバーが最も注目したのがその異様に極限的な教義である「予定説」であった。およそキリスト教徒の信仰は「救済」に向けて行われるのが通常なのだが、しかし、もし神の力が絶対であったとしたら、信者の個人的な信仰活動によって「救済」の如何が影響されるはずはなく、それどころか、神の意志を知ることすらできないのではないか、だとすれば、「救済」はただ神の恩恵のみによってあらかじめ予定されており、誰がその中に選ばれているかは究極的には人間には分かり得ない(ウェーバー(1920=1989),p.146-147参照) − このような「予定説」は、信者の信仰を破壊してしまうものなのではないか? 自分の運命があらかじめ予定されていて自力で変化させることができないならば、誰しもが信仰を棄ててしまうのではないか? − しかし、結果的には、このような苛酷な教義のもとにおいて信者たちは、ぎゃくにいっそう熱心に信仰に励むようになった。なぜなら、信者たちは一心不乱に信仰に励み少しでも「救済」の可能性の徴しなりともかいま見ようとせずにはいられなかったのだ。そしてその信仰活動こそは、「職業(Beruf)」として示された世俗内の仕事であり、彼らは現世的な欲望のためでなく、際限のない信仰への挺身としてひたすら天職に励んだのである − というのがウェーバーの描いたシナリオである。ここまでくれば、それが「職業としての学問」にもぴたりと重なっているのはあきらかだろう。
プロテスタンティズムが「予定説」という形で信仰世界を抽象化・超越化し、いったん信者個人の生活(外面的信仰活動)から引き離したうえで、あらためて個人の内面(際限のない信仰への挺身)に信仰を定位しなおし、「職業(Beruf)」という両義的概念を経由して、世界そのものを、プロテスタンティズムの倫理形式による資本主義へと組み替えていったように、ウェーバーはこの講演において、大学を、プロテスタンティズムにおける教会ないし信団(ゼクテ)のようなものとして、すなわち合理主義の精神を産出する社会的装置として言説的に位置づけようとしていた、と考えられるのである。そうして見るならば、この「職業としての学問」という講演が、短い割にはジグザグに込み入った構成で語られており、特にその冒頭の長い部分をかけて、本題と一見無関係な、職業学者志望の学生の運命について悲観的な見通しを延々と語ってみせている、という理由もわかろうというものだ。彼はそこで、情熱にはやる学生たちに向けて、神による救済の予定説ならぬ、大学教師職人事の予定説(!)を、イヤミたっぷりの笑えないパロディとして語って聞かせながら、それによって、プロテスタント信者たちの置かれた宙吊りの緊張と同型の論理を「職業としての学問」に導入しているのだ。すなわち、プロテスタント信者たちひとりひとりが「予定説」の宙吊りの緊張の中で内面的に神と対峙しようとするように、ウェーバーは「職業としての学問」の従事者を、社会の合理化の過程の中で自らの運命の認識に挺身しそこに「責任」を負うことのできる近代的「主体」へと組み替えていこうとしたのである。
3−2−3:職業=呼びかけ(Beruf=calling)と服従する主体(Sujet/sujet)
したがって、私たちは、1919年にウェーバーが語った大学論をそっくりそのまま、1970年にルイ・アルチュセールが素描した「AIE:国家のイデオロギー装置」(アルチュセール(1970=1993)、とくにp.53-p.55を参照))のより詳細な社会学的図解として読むことができる。「職業としての学問」は、イデオロギーを授ける。みずからの職分をわきまえ、それを天命として受け止めて挺身する、世界を認識しそれを責任を負って引き受ける、「資本主義の精神」を持った「職業(Beruf)」の従事者を大学(あるいは学校制度)が作るとするならば、それは、とりもなおさず、現在ある社会を安定させるイデオロギー装置だというわけだ。ただしアルチュセールはイデオロギーというものを、支配者が大衆を騙すためにばらまく虚偽意識、としてではなく、この資本主義社会においてあらゆる人々に分かち与えられている、希薄で一般的なものとして、扱っている。その限りにおいて、それはウェーバーの言う「資本主義の精神」と同じものを指しているといっていいだろう。資本主義社会を構成する人々は皆、ある宙吊りの緊張において「職業」へと内的に突き動かされ身を挺する。「職業」とは、召命Berufあるいはcalling、すなわち、「呼ぶこと」である。そのおなじ身振り「呼びかけ(interpellation)」に、アルチュセールもまた注目する。イデオロギーは、「呼びかけ」を通じて、人々のあいだから「主体」を徴集し、人々を「主体」に変える(p.87)。呼びかけの主としてキリスト教の「神」を例にあげているのも、ウェーバーと同じ。人々は、神の呼びかけに応える形で自らを「主体」として認める。ただし、ウェーバーの「資本主義の精神」が結局は宗教から離れ、職業への挺身の形式だけを残し拡大していったように、アルチュセールも、「国家の支配的なイデオロギー装置の役割においては、教会は今日では学校にとってかわられた」(p.57)と言っている以上、やはり問題は、イデオロギーの形式のほうである。彼はそれを、「主体(sujet)」という語の両義性(主体/臣下。辞書参照)に注目しながら、大文字の主体(Sujet)と小文字の主体(sujet)の反映的関係と定式化する。ウェーバーは、「職業としての学問」に従事することを「特定の神にのみ仕え、他の神には侮辱を与えること」(ウェーバー前掲書,p.63)という比喩で表現している。しかし、アルチュセールの議論をふまえて言うならば、「職業としての学問」に従事し、世界を認識して責任を持って行為する自由な「主体sujet」であるということは、どの神に仕えどの神を侮辱しようがそれがもんだいなのではなく、いずれにせよおよそ神なるもの − すなわち「大文字の主体Sujet」 − に服従するということを、いみしているのである。そしてそれは、日常的な「呼びかけ」の中でつねに/すでに再確認され続けている。例えば往来で呼び止められる。私たちは振り返るだろう。そのことで私たちは「主体」としての自分を再確認する、とアルチュセールは言う(p.87)。そんな些細なことを一々、と目くじらを立てるのをよそう。なにしろ、昆虫は振り返らない。猫もあやしいものだ。子供はどうだろう? − 結局、振り向くのが一人前の人間というものだろう。そのような「主体」によってこそ、この社会は成立している。呼びかければ振り返る。呼びつけられれば律儀に出向く。手をあげればタクシーが止まる。電話をかければピザを持ってくる。手紙を出せば相手に届く。苦情を言えば責任者が出てくる。金を払えば物が買える。罪をおかせば処罰が下る。そうしたすべては、つまるところ、「呼びかけ」に振り返るという形式の変奏の繰り返しであり、この社会はその繰り返しによって織り上げられている。その中において初めて、私たちは自由な「主体sujet」でありうる(あたかも、将棋というゲームの盤上に置かれることによって初めて駒が自らの能力を見出してそれぞれのやり方で自由に動くことができるように)のである。私たちは「主体sujet」となるために、それ以前にある唯一の「大文字の主体Sujet」に服従しているのであり、服従している限りにおいて、自らの自由を見出す。その服従を作り出す − あるいは、自由を授けてくれる、といったってかまわないのだが − ための社会的な装置が、「イデオロギー装置」だというわけである。
さて、やや長い寄り道から話を戻そう。
3−2−4:学歴社会における「職業としての/ではない学問」
1919年、演壇上のウェーバーがどのぐらい本気で「職業としての学問」の必要性を説いていたのかは知る由もないが、現在に至るまでの教育システムの変化を辿るならば、彼の思惑はある意味で裏切られてしまったようだ。すなわち、当時とは比較にならないほどの教育拡大、高等教育の大衆化が実現され、いまや、教壇上で語る社会学者とそれを聞く学生との間の亀裂、「構え」の相違が一般化してしまっているのだ。しかしこの歴史は、大学人ウェーバーの思惑を骨抜きにしてはいるものの、社会学者ウェーバーの教育社会学的分析によっては、ほぼ予見されていたものと見えるだろう。アルチュセールの議論を補助線として変形を施すならば、ウェーバーの「職業としての学問」は、世界を認識しその責任を負う「主体」を形成するものであり、大学はそのような服従的「主体」を産出する「国家のイデオロギー装置」なのだから、当然、大学人ウェーバーの願望を裏切って現代社会の中で不可避的に増殖し勢力拡大していくだろう。資本主義と官僚制の拡大の運命を予見していた社会学者ウェーバーであれば、当然そのことは予測できただろうし、実際、ウェーバーの議論の延長上で、ジョン・W・マイヤー(1977)は、官僚制化し儀礼化した学問と学歴社会のありようを「正当化理論」として提示している(「正当化理論」については薬師院(1996);拙稿(1997b);山口(2001)を参照されたい)。そこでは、現代の官僚制的社会システムの隅々にまで行き渡った大学卒業資格取得者が、もっぱら互いに自らの行為のアカウンタビリティ(accountability)を、「学問的」な語彙をその場その場で援用し「科学的・合理的」に説明(account)しあい、儀礼的に受け入れあう姿が描かれるだろう。
学歴社会とともにここに「職業としての/ではない学問」として成立したのは、たんなる合理主義でもたんなる非合理主義でもない、むしろ、両者が − 「学問」と「生」とが? − いわばSujet/sujetの反映的な構造の中で − 奇妙な共犯関係を演じているものだと考えられる。それが、私たちの大学の授業を構成する基盤となっているのだ。
3−3:授業場面の常識的基盤と「相対化」による修復実践
私たちの「授業」の基盤は、こうした文脈の中で構成されている。この構造についてはすでに別稿で素描を試みた(拙稿(1997a))が、ここで、より正確に定式化することができるだろう。
「授業」を取り囲む文脈を二つの次元にわけることができる。第一に、「学歴社会」という文脈がある。これは、大学と全体社会との関係の次元での文脈である。第二に、授業そのものの内的論理としての「職業としての/ではない学問」という文脈がある。ここでは、教師と学生との関係が問題になるだろう。
第一の文脈から見ていこう。私たちのこの社会は、まぎれもなく「学歴社会」である。まぎれもない、というのはつまり、誰もが学歴社会の害悪に言及しながら、同時に、高等教育進学率が上昇し続けている、すなわち、誰もが役に立たないとわかりつつ学歴を追求しているような社会、という意味である。そうした意味において現代は学歴社会であり、それを、例えば先に触れたマイヤーは次のように記述している:
学生が「高校卒業者」である、ということは、歴史と英語と数学の必修単位を取得したということである。それは制度化された教義である。というのも、たいていのばあい人は学生を、そうした知識を既に獲得したものとして扱わねばならない、しかも、いちいち直接確かめるわけではなく、しかじかの単位が修得されたというそのことじたいによって、そう扱わねばならないのだ。(Meyer,op.cit.p.66)
すなわち、この次元においては、学校教育の目的とは、単位の取得、卒業資格=学歴の取得、ということにつきている。それは、学生の側にとってそうであると同時に、卒業後の学生を受け入れる社会の側にとってもそうである。たしかに、例えば現在、企業は学生に対して、大学時代に語学力やコンピューターの基礎能力を身につけておくことを希望している。それがいわば、企業社会から大学に対して提示されたアカウンタビリティの要請である、かに見える。しかし、それは実は、ここ数年、不況期であり新卒採用が企業有利の買い手市場になっているために現れた項目に過ぎない。企業が、不況を乗り切るリストラ策の一環として、企業内で行ってきた人材育成の一部をアウトソーシングするその先を、大学教育に求めた、と見ることができるだろう。というのも、この不況期の直前、バブル期においては、逆に学生有利の売り手市場であったため、各企業は競って曖昧な(「遊び心」いっぱいの!)企業広告を出し、「白紙の状態の学生」を求めると喧伝して、要するに大学教育の中で勉強しなかった学生まで採用せざるをえないみずからを自己説得していたのであり、そういう意味では、企業が学生に(すなわち大学教育に)要求する内容というのは、それ自体としてはきわめて首尾一貫していないものであって、にもかかわらず企業が一貫して学歴取得者を優先して採用するその深層構造をいうならば、要するに、先に述べたとおり、社会は教育内容ではなく単に学歴を要求している、といえるのである。
この文脈の中に置かれている限りにおいて、授業とは、端的に「単位発行」の機会であってそれ以上でも以下でもない。ウェーバーが強調した「職業(Beruf)」の、プロテスタンティズム的な緊張と挺身、といった超越的な契機はそこには場所を見出しえない。にもかかわらず、そこで取り交わされている「授業内容」は、あくまで「学問」的な「合理性」に貫かれているとされている − あくまでもそれが「学歴社会」の前提である、というのがマイヤーの(あるいはアルチュセールの)皮肉な主張である。ここに懐胎される矛盾が、大学の授業の「居心地の悪さ」を規定する基盤の第一である。
第二の文脈は、授業そのものの内的文脈である。これはさらに、二つの要素に分解できる。
第一には、ウェーバーが問題にした、非合理主義と合理主義の葛藤である。学生がしばしば「机上の論」という言葉を用い、法則よりも「個性」を、理論的知見よりも「体験」を求めるという状況については、すでにウェーバーが指摘していた。大学とは、さしあたりはこのような次元での、非合理主義に対する合理主義の闘争の場である。そして、先に見たとおり、この合理主義は、繰り返すように、究極的には「職業としての学問」それ自体の内的論理からしか導かれ得ない超越的・脱世俗的な性格を持っている以上、学生からも社会からも、支持される根拠を結局のところ持ち得ない。結局のところ学生は、授業で教わる「机上の論」よりもサークル活動やアルバイトや海外旅行やボランティア活動での「体験」を貴重に感じるし、教師にも「机上の論」より「体験談」を要求するし、教師の「個性」を望み、また自分の「個性」を評価することを希望する。その中で、授業というのはひたすら「居心地悪く」なるだろう。
第二に、ウェーバー的な「職業(Beruf)」的合理主義そのものの、内在的な要素がある。これは、むしろ教師の説明をよく理解した学生にとっての問題であり、ウェーバーがトルストイの問いとして参照し、本稿でも再三問題にした、あの当惑させる問い、「でも、じゃあ私はどうしたらいいんですか」という問いに集約される。学生は、学問的ないみにおいてはよく理解し、その次元では面白さを感じるかもしれないにせよ、ひとたび我が身を振り返ると、その理論の中に「私」の場所が存在しないことに当惑することになる。ウェーバーが結局トルストイの問いを退けたように、「職業としての学問」の論理は、この当惑そのものを退けるという、超越への挺身としてはじめて成立する。この、プロテスタント的な、およそ学生にとって不可能な要求によって、授業は、真面目で合理的な学生にとってさえ不可避的に「居心地悪く」なる。
こうした何重もの構造的基盤の上に、授業はひたすら「居心地の悪い」ものとして成立する。ところが私たちは、その「居心地の悪さ」を、日常的に適度に修復しながら授業場面をやりぬいており、結局のところ学生は単位を取得し、学歴を得て企業社会に引き渡されることになる。この、「居心地の悪さ」の日常的な修復実践が、先に触れた「相対化」の実践であり、それがさまざまな次元における食い違いをそのつど適切に馴致する。
学歴社会との関連においては、なによりも、社会全体に蔓延している「学歴社会批判」言説が、その相対化の機能を果たしている。先に触れたとおり、この社会で結局のところ誰もが学歴社会を支えているにもかかわらず誰もが「学歴社会」を非難する。それは、学歴社会の「居心地の悪さ」の修復のための「相対化」の実践に他ならない。無論、その裏側では、「そうはいってもやはりこの程度の学歴ぐらいはとっておかないと・・・」という逆の言説が、ほぼ同じ口から語られているのであり、「他人事ならともかく自分の身になってみれば・・・」という形の逆の「相対化」が実践されるだろうし、無論、親や学校教師といった人たちがその語りに乗るのは言うまでもない。そのようにして、「学歴社会」をめぐる「居心地の悪さ」は、相互補完的な「相対化」実践のやりとりによって、修復され隠蔽される。
授業の内的文脈においては、より錯綜したやりとりがなされるだろう。
なによりもまず、ウェーバー的な「価値からの自由」とは正反対に、学生は授業で教師の口から「当為命題」(ex.いじめは醜いからやめるべきだ、等々)を引きだそうとするし、教師もまたその要求に応えようとする。その限りにおいて、ウェーバーの分析は現在も力強く当てはまる。その際たとえば、「理論的に言うといろいろ難しいのだが、はしょって言うと・・・」という具合にうまい具合にごまかすのが、教師の側からの「相対化」の実践であって、それによって、教師の「学問的」な「権威」を活かして非合理的な当為命題を教壇の上から語ることができるだろう。むろん、教師の側からのそうした働きかけは、だいたいにおいて弱々しいものであって、それよりも力強く機能している「相対化」は、学生の側からのものである。前記拙稿(1997a)でも述べたとおり、学生の答案を見ると、学生がいかに授業の内容を寸断的に理解し、自分の気に入った命題のみを取り上げ組み合わせ、当為命題的なものに仕上げ、それ以外の命題を「机上の論」としてあっけなく排除してしまうか、如実にわかる(薬師院(1998)の、「学歴社会」についての試験答案の分析も参照されたい)。こうした教師と学生との間の実践に見られるのは、「職業としての学問」の相対化と、その表裏をなす「学問的権威」のとりかわし、である。ごく常識的な意味において、このやりとりは、円滑に執り行われるだろう − なにせ、そうすることで、教師と学生との双方が、「職業としての学問」を排除する限りにおいて、相互に食い違いつつ、まさにその差異そのものを糧として、幸か不幸か、円滑に噛み合ってしまい、互いの「居心地の悪さ」を修復することができているからである。
さらに、「職業としての学問」そのものに内在する、トルストイ的な問いに対しては、バーガー的な「相対化」が対応する。すなわち、「じゃあ、私はどうしたらいいんですか」という問いに対して、あなたは知ることによって社会の呪縛から解放され自由になる、という視点が提供されるのである。繰り返すように、この「相対化」の視点は、社会学の教師が学生に対して繰り返し差し出すものなのだが、そこで得られるとされる「自由」は現実においてはほとんど無力にひとしく、ほとんど錯覚に過ぎない。にもかかわらず、アルチュセールが指摘したように、学校は、そうした錯覚としての「自由」を享受する「主体」を産出する「イデオロギー装置」であり、また、この資本主義社会の存立を支えているのも、そうしたイデオロギー装置としての学校教育制度=学歴社会なのだ、というぐあいに、はなしは大きく循環しながら、ひたすら「居心地の悪さ」を相対化し隠蔽し続けているのだ。
授業の感想で、学生が、「別の見方もあるのだとわかった」といったことを書いてくること。これは、授業に「相対化」効果があったのだという指摘であると同時に、これじたいが学生の側の「相対化」の手続きでもある − 要するに、「世の中にはいろいろな見方がある」のだがいざとなったら「至高の現実」にいつでも戻ることができるというわけだ。あるいは、すでに触れた「机上の論」という言い回し。あるいはまた、社会学の「相対化」的な知見を引用しながら、「常識に流されている世間はおかしいと思う」といった形で、自らの立場をむしろ守る方向で「相対化」手続きを図る場合、等々。ここに見られるのは、社会学者がわざわざ教える以前に、じつは学生の方が、エスノメソッドとして「相対化」の手続きを自在に行使し、それによって「社会学的な知見」を自らの「構え」の内部に着床させ、「居心地の悪さ」を修復しようとしている、という姿である。例えば、森(2001)は、「ジェンダー・フリー」教育の困難を次のように指摘している:
「ジェンダー・フリー」に関する大学での社会学的授業、否、少なくともジェンダーの社会・文化的「相対化」に関する大学授業においては・・・「相対化の相対化」という学生の「肩すかし」が十分に予想される。なぜならば、第一に「ジェンダー問題」は他のどのような社会学的テーマにも増して「身体性」という「確証」があると「信じやすい」問題領域であるがゆえに、「身体→心理」図式という解釈枠組みが「内面志向」の強い学生たちには親和的だからである。第二に、大学生という年代にあっては「ジェンダー問題」は「社会問題」であるよりも前にまず「対異性問題」としてとらえられがちであって、「恋愛志向」あるいは「恋愛現実」(これら自体、社会学的には相当部分「ジェンダー化」という社会・文化的被構築過程によるものであると考えるのだが)こそがおよそ性に関する「至高の現実」なのであり「支配的な文化」だからである。そこでは「愛の真実」に比べれば「ジェンダーの相対化」は「相対的に」重要な意味をもち得ないであろう。(p.97)
かくして、学生が「相対化」を歓迎するのは、むしろ現実を都合良く「否認」し、自分に都合のいい幻想だけを維持するための、格好の口実と手口を、社会学者という「権威」の口から引き出し、手に出来るため、ということになりかねない。
だとすれば、社会学者は、この「居心地の悪い」「授業」において、その「居心地の悪さ」を修復しながらなおただ「社会学的な知見」をやりとりするのではなく、むしろそのやりとりそのものを俎上に乗せるべきなのではないか。それによってはじめて、「知見」が学生の倫理的な次元、「人生」の次元 − にまで触れうるのではないか。
したがって、社会学者は単に「別の「知見」」を提示するだけでは、不足なのだ − もっと、学生じしんを追いつめるようなやりかたでやらねばならない。
4:実践へと動かす実践
前記拙稿(1997a)において、筆者は、「教育社会学的な意味での教育への「無知」を「闘争」の装置として社会的言説空間の中に戦略的に流通させていくこと」(p.57)という方針を提起している。この方針を、本稿でもほぼ繰り返して提起することになるだろうが、恐らく、ニュアンスの置き方を幾分かシフトさせることになるだろう。すなわち、「無知」というものの強調は、やはり「相対化」に与するものであるかのような誤解をあたえるだろうから、むしろ「闘争」のほうに強調を置くことになるだろう。相対化によって常識的世界の呪縛から解放する、のではなく、むしろ、呪縛的な日常世界そのものへと直接切り込んでいく(体を動かす、実践する)ための実践的トレーニングとしての社会学、と言い換えてもいい。そして、教育社会学は、なによりまず大学における「職業としてのではない学問」を、授業という場において、その「居心地の悪さ」とともに解明することで、実践的なトレーニングの実践となるだろう。それは、「学問的権威」によって世界の合理的説明可能性=アカウンタビリティそのものを供給する「職業としてのではない学問」の幾重にも重なったシステムを内側から解明することによって、アカウンタビリティの問いを自ら問い直し答え直す実践につながるだろう。
学問を「職業として」ではなく行おうとする学生たちに対して、社会学者はこのようなやり方で触れていくことができるのではないか。
【文献】
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− (1999)「知らなければよかった」『天理大学生涯教育研究』no.3
− (2000)「職業としてのではない教育」日本教育社会学会課題研究報告資料
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