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・「「いじめ」の実践的行為の形式構造」『教育・社会・文化』no.6.pp.31-52.京都大学大学院教育学研究科教育社会学研究室(1999/7/30)


「いじめ」の実践的行為の形式構造
On Formal Structures of Practical Actions of "Ijime"

石飛和彦
Kazuhiko,ISHITOBI

0:はじめに

 「いじめ」という現象は、ある奇妙な論理構造をもって成立していると考えられる。本稿ではその奇妙さそのものを浮かび上がらせることをさしあたりの目的とする − すなわち、ここで「いじめ」を検討するのは、第一義的には、それが「重大な教育問題である」からではなく、あくまでその現象が奇妙だから、という理由からだということである。ただし、「いじめ」の論理構造を明らかにすることで、結果的に、「いじめ」問題の問題点に、ある角度から光を当てることになるかもしれない。

1:対象の規定 / 「いじめ」の定義 / 定義問題について

1−1:定義の困難
 考察を始めるに当たり、まず研究対象の「定義」をしておかなければならない。しかしながら、こと「いじめ」に関しては、まずその「定義」なるものそのものが「いじめ」現象それじたいの重大な要素となっていることに注意しなければならないだろう。例えば、菅野(1997)は「いじめの定義」なる項目を次のように語り始める:

いじめの定義については、残念ながらいまだにかなりの混乱がある。子どもが仲間になんらかの加害の行為を加えた場合、性急にそれがいじめととられてしまうことがある。単なる「ふざけ合い」がいじめに見なされたり、よくある「喧嘩」が疑わしい目で見られたりする。反対に、真実のいじめが「遊び」と誤認されたり、友達同士につきものの「仲違い」と間違えられたりもする。この上なく可視的でありながら認識の目からかくもたやすくこぼれ落ちてしまうもの、それがいじめの実像である。(p.247)

定義の混乱に由来する「いじめ」のこうした「見えにくさ」は、言うまでもなく、親や教師、社会学者や各種統計調査にとってのものであるのと同様に、また当事者(子ども)たち自身にとっての「いじめ」の「見えにくさ」でもある。森田=清永(1994)は、同じく「「いじめ」の定義」と題された項目のやはり冒頭付近で次のように述べる:

もちろん、いじめの手口のなかには誰から見ても明らかにいじめにつながる行為だと判断できるものもある。しかし、からかいやイタズラ、あるいは軽微ないじめには、こうした被害者の受けとめ方とそれ以外の者による事態の認識の仕方とのズレの生じることが多い。/このズレが現代のいじめを見えにくくしている要因であるとともに、現代のいじめを陰湿なものとしている要因でもある。(p.41-42)

こうした問題は、何が「いじめ」であり何がそうでないか、を客観的・一義的に線引き判定できるモノサシ=定義を作ることさえ可能であれば、回避できたはずのものだ。言い換えれば、現在言われているところの「いじめ」現象は、その存在こそ誰もが認め注目さえしているものの、いざ定義しようとすると途端にその輪郭を消してしまう、奇妙な現象であり、しかも、その定義不能性じたいが、「いじめ」現象の根幹をなしているのである。  こうした困難に当たって、先述の菅野は次のような提案をする:

・・・いじめの定義を誤らないためには、いじめを病気に比較する視点が重要だろう。いじめは幾何学的に定義される類のものではなく、むしろ診断学的に定義されるべきものである。あるひとつの病気はまとまりをもつ「病像」のことである。熱があるか、舌に発疹があるか、これらはいずれも一定の病気を示唆する「徴候」にほかならない。おのおのの徴候が多少とも恒常的に結合し、そこに統合されたある全体が浮かび上がる。これと同じように、いじめの定義は特有ないくつかの徴候によって制作される。しかし定義に仕上げられた一そろいの徴候は、いじめの必要十分条件などではない。(菅野前掲書、p.248)

この提案は、原理的には、ヴィトゲンシュタインが「言語ゲーム論」として行った提案とパラレルなものである:

(75)あるゲームの何たるかを知っている、ということはどういうことなのか。それを知ってはいるが、言いあらわすことができない、ということはどういうことなのか。そのような知識は、言いあらわされていない定義と何か同値なものなのか。それゆえ、その定義が言いあらわされるなら、わたくしはそれを自分の知識の表現として認知できるのであろうか。わたくしの知識、わたくしのゲームに関する観念は、わたくしの与えうるであろう諸説明の中で完全に表現されているのではないだろうか。すなわち、わたくしがさまざまな種類のゲームの例を記述し、いかにすればそれらの例にしたがってひとがあらゆる可能なしかたで他のゲームを構成できるかを示し、自分はこれこれのものをまずゲームとは呼ばないだろうと述べること、等々のうちに表現されているのではないだろうか。(ヴィトゲンシュタイン(1953=1976)、p.77)

個々の現象を見るための「定義」をあらかじめ制作しておくのではなく、逆に、具体的な「徴候」なり「例」なりの一群の記述からひとつのまとまりとしての「定義」を仕上げること。この方針に従ってみることにしよう。

1−2:テキストの分析 / 「語り方」と「定義」の実践的運用
 ひとつのインタヴューがある:

 − どういういじめでした?
A子 手紙にも書きましたけど・・・。ひどかったです。
 − 給食をグチャグチャにされたり・・・。
A子 私が給食係だったら、皿にのせられることを拒否します。
 − 食べないんだ。
A子 じゃなくて、自分で(給食を)取りに行くんです。
 − 暴力的ないじめは?
A子 それもありました。突然、男の子に殴られたり・・・。でも、肉体的ないじめより、精神的ないじめの方がずっと辛かった。
 − 給食の一件?
A子 あんなもの、軽い方ですよ。
 − ”クサイ””○○菌”みたいな悪口・・・。
A子 それも、まだ耐えられました・・・。けど。
 − けど?
A子 たとえば、こういうことがあったんです。私が誰かに近づいて行くでしょ。すると、周りの人が、”〜さん””〜くん”と、私がそばに行ってることを注意するんです。
 − すると?
A子 注意された人がおおげさに慌てて逃げます。
 − 辛いなあ。
A子 音楽で実技のテストってありますよね。
 − ハイ。
A子 そんなときも、私が歌うときになると、みんながいっせいに耳をふさぎます。
 − ウ・・・ム。
A子 あと、鬼ごっこも辛かった。
 − 鬼ごっこ?
A子 たまに、みんなが鬼ごっこに(仲間に)入れてくれたりするんです。でも、決まって私が鬼の役。そして、私を鬼にしたまんま、みんなでいなくなってしまう。
 − 小学校時代、ずっとそんな感じ?
A子 そんな感じです。
(『ジャンプいじめリポート』p.29-30)

この記述からは、ふたつの次元の事柄が読みとれる。
 第一に、語られている内容の次元において、この報告は、様々な「いじめ」行為を描き出している。我々がそれをされれば「いじめ」と受け取るであろう様々な行為が小学校時代のA子に対して行われた、という事がわかるだろう。第二に、語っている語り方の次元において、この報告は、「いじめ」行為をまさに「いじめ」行為として語る語り方で語っている。言い換えれば、A子はここで単純に過去にあった出来事をそのまま語っているのではなく、まさにインタヴューの現時点においてそれが正しく「いじめ」であったと聞き届けられるようなやり方で、語っているのである。ここでは特に第二点について検討していくことにする。
 さしあたり気づかれるのは、「みんな」という言葉の使い方である:「みんながいっせいに耳をふさぎます」「みんなが鬼ごっこに入れてくれたりする・・・そして、・・・みんなでいなくなってしまう」。ここで「みんな」という言葉が繰り返されているという事態は、単にA子の小学校時代に実際にそういうことが起こった、というのとは次元を異にする。実際に起こったことの次元で言うならば、例えば音楽の時間に耳をふさいでいる「みんな」をA子は一々数え上げ確認しはしなかっただろうし、鬼ごっこが本当に「みんな」(数十人?)によって行われていたと想定することは困難でさえあるだろう。にもかかわらず、A子のここでの「みんな」という語の用い方は、「いじめ」行為を語る語り方の次元において、まさに適切なものだと思われる。漠然としその適用範囲さえ画定困難(友達グループ「みんな」?クラスの「みんな」?人類「みんな」?)であるような「みんな」という語を用いることによって、まさにその無限定な曖昧さによってこそ、「いじめ」行為の「いじめ」性を描き出すのである。
 同様にまた気づかれるのが、時制の問題である。A子のここでの語りは小学校時代すなわち過去の出来事を語っているにもかかわらず、現在の時制が用いられている:「私が誰かに近づいて行くでしょ。すると、周りの人が、”〜さん””〜くん”と、私がそばに行ってることを注意するんです。・・・注意された人がおおげさに慌てて逃げます」。このエピソードは、「たとえば、こういうことがあったんです」という導入部とともに語られている事からわかるとおり、明らかに過去の出来事である。にもかかわらず用いられている現在の時制は、単に印象の生々しさ(現にいま、ここで起こりつつあるような)を伝えるだけのために用いられているのではないだろう。むしろ、そうした生々しい具体性とは逆の、抽象的な法則性のニュアンスを伝えていることが、この語り方の特徴であると思われる。例えば、「猿が木から落ちた」と過去形で言えば、これは過去のある時点に起こった一回的な事象の報告に過ぎないが、「猿も木から落ちる」と現在形で言えば、特定の時点に限定されない、常に適用可能な抽象的な法則性を帯び、諺のニュアンスを的確に伝えることになる。A子のここでの語りは、過去に起こった(もう終わっている)出来事を語っているにもかかわらず、現在形を用いることで、その持続性(強調していうならば、「未来永劫性」)のニュアンスを適切に伝えていると思われるのである。言い換えれば、「みんな」という語の用法が社会空間的な無限定な曖昧さによって描き出していたものを、現在の時制の用法が時間的な無限定性によって描き出している、ということである。
 これらの語り方の特徴は、そのまま、現在一般に流通している多くの「いじめ」定義の項目である「集団性」「継続性」に対応している。いわば、A子は、「いじめ」行為を単に語るのではなく、語りの中で「いじめ」定義を実践的に運用しながら、その語り方によって語る対象に「いじめ」性を付与しているのだ、という事ができるだろう。同じ事は、インタヴューのテキストを読む我々自身についても言える。なぜなら、A子がまさに「いじめ」行為として独特の語り方で語ったテキストの中に我々はあやまたず「いじめ」性を看取しうるからである。我々もまた、A子とともに、「いじめ」定義を実践的に共有しているのだ。むろん、その定義は漠然としている。しかし、実践的有効性を超えてある程度以上の客観性・一義性を追求する試みは、おそらく「別の言語ゲームに属する」のだ:「わたくしが太陽までの距離を1メートルまで正確に述べなかったり、家具師に机の幅を0.001ミリまで正確に言ってやらなかったりすると、不正確ということになるのか」(ヴィトゲンシュタイン前掲書、p.89)
 次節では、本節で以上に見てきた「定義」をもとに、「いじめ」という現象の奇妙な空間構造に注目していく。

2:いじめの空間構造

2−1:行為の否定
 例えば、次のような訴えがなされたとする:

「突然、男の子に殴られた」

さしあたり、先入観抜きでこの言明だけを見てみよう。我々は、この言明が暴力的行為の被害者からの訴えであることを、明瞭に読みとるだろう。しかし、同様に明らかであるように思われるのは、この言明だけを見る限り、そこからは「いじめ」のニュアンスを読み取り難い、ということである。この言明だけを見るならば、そこからは(例えば道を歩いていて暴漢に襲われたといった種類の)突発的な暴力が読みとられるだろう。そして、その暴力的行為の主体が「男の子」として提示されている以上、(話者が女性である場合には特に)その暴力の原因は「男の子」の内面に求められることになるだろう(例えば「男の子」の精神的未熟さ、あるいは女性に対する「男」性の粗暴さないし性的な関心の裏返し、等々)。
 ところで、既に気づかれる通り、上の言明は、前節で引いたインタヴューの中で、次のような文脈でなされたものであった:

 − 暴力的ないじめは?
A子 それもありました。突然、男の子に殴られたり・・・。

つまり、件の言明は、「いじめ」の体験を語るというインタヴューの文脈の中でまさに「いじめ」の例として語られ・聞き取られ・読まれているのである(例えばこの文脈の中で読む限り、「男の子」という語は、路上の暴漢でも未熟な男児でもない「クラスの男子」といったニュアンスを帯びて適切に読み取られるだろう。また、「突然」という語は、「男の子」の内面的な衝動に対応するニュアンスではなく、「さしたる理由もないのに」といった動機のなさのニュアンスを帯びて適切に読み取られるだろう)。これは、とても奇妙なことではあるが、同時に、我々の常識にとってとても自然なことであると思われる。この奇妙な自然さの仕組みを明らかにするため、さらにインタヴューの続きの部分を辿り直してみよう:

A子 (・・・)でも、肉体的ないじめより、精神的ないじめの方がずっと辛かった。
 − 給食の一件?
A子 あんなもの、軽い方ですよ。
 − ”クサイ””○○菌”みたいな悪口・・・。
A子 それも、まだ耐えられました・・・。けど。
 − けど?
A子 たとえば、こういうことがあったんです。(・・・)

ここでA子は「肉体的/精神的」という二分法を用いている。しかし、その二分法が必ずしも文字通りのものでないことは、この部分のやりとりでわかるだろう。殴打に代表される「肉体的いじめ」に対するような「精神的いじめ」といえば、文字通りに取るならば、(直接肉体を傷つけないまま)精神を傷つけるような手口のいじめ、ということになるだろう。しかし、まさにそうした意味で「精神的」であるはずの「給食をグチャグチャにする」「配膳を拒否する」「悪口を言う」等の「いじめ」は、ここでは「ずっと辛かった」という「精神的いじめ」の適切な例とは見なされていないのである。インタヴューのさらに続きの部分を見直せばわかる通り、A子がここで「精神的いじめ」と言っているのは「近づいていったら逃げる」「音楽の時間に耳をふさぐ」「鬼ごっこでおきざりにする」という3つの例で示しているもの、一言で言えばいわゆる「仲間外れ」「シカト」と呼ばれるものである。とすれば、A子の「肉体的/精神的」という二分法が指しているのは、いじめる側から見たいじめられる側の肉体/精神ではなく、逆に、いじめられる側から見たいじめる側の肉体の現前性の有無ではないか、と考えることができる。すなわち、殴打から、給食を巡る嫌がらせ、悪口を言うことにいたるまでの一連の手口においては、いずれもいじめられる側に対していじめる側から直接的に「いじめ」行為が行われ、その意味でいじめる側の肉体が具体的に現前している。一方、A子が「精神的」と称した3つのエピソードではいずれも、「いじめ」行為は「みんな」の間で完結している(「私が誰かに近づいて行くでしょ。すると、周りの人が、”〜さん””〜くん”と、私がそばに行ってることを注意するんです。・・・(すると)注意された人がおおげさに慌てて逃げます」)。このとき、いじめられる側から見れば、いじめる側の具体的な肉体は、現前しているようで現前していない。むしろ、いじめられる側に直接向き合わないこと(「仲間外れ」、「シカト」)それ自体が、「いじめ」になっているのである。このいわば行為の否定こそ、A子がもっとも「辛かった」と特権化しているものである。おそらくそれは、殴打等の具体的な「いじめ」行為に比べて単に相対的に「辛かった」というだけではなく、むしろ質的に次元の異なる、「いじめ」の本質をなすものではないか、と考えられる。
 ここで再び、「突然、男の子に殴られた」という言明に立ち戻ってみよう。何度も強調するように、この言明だけを取り上げるならばそれは単純な突発的暴力以上のものを意味しないだろう。にもかかわらずこの言明がある文脈の中で「いじめ」行為の記述として読まれるとすれば、むしろ「いじめ」として読み取られるべきは、この言明に対する文脈効果そのものの方だと考えられる。仮に、「いじめ」という文脈の中でこの言明の中の「男の子」なる語が「クラスの男子」といったニュアンスを帯びて読み取られるとするならば、それは、我々がそこに「クラス」といった集団の存在を付け加え読み込んでいる、という事である。また、「突然」なる語が「さしたる理由もないのに」といったニュアンスを帯びて読み取られるとすれば、それは、我々が、人が殴られる場合にはしかるべく納得のいく何らかの脈絡が存在するはずだという常識を付け加え、さらにその前提として、そうした脈絡が殴る側の主観的なものでなく誰にでも納得のいくものであるはずだ、言い換えれば、そうした脈絡を「常識」として相互にわきまえ突発的暴力を抑止する集団 − 「クラス」といった − があるはずだ、という常識を付け加えて読み込んでいる、ということである。従って、件の言明を「いじめ」の記述と読むとき、我々は、殴打そのものを「いじめ」と捉えているのではなく、A子が「突然、男の子に殴られた」という事態の発生を「クラス」集団が抑止せずただ傍観して何の関与もしないという点、すなわち抑止の否定・関与の否定にこそ、「いじめ」を見ているといえるのである。

2−2:ネガティヴな空間
 「いじめ」は、行為の否定であり、具体的な個々の行為の集積ではなく、それらの行為が埋め込まれている文脈の効果そのものである。上述の議論の帰結するところは、「いじめ」を行為論としてではなく、空間論のもんだいとして捉える捉え方である。すなわち、個々の行為を「いじめ」行為として文脈づけるようなひとつの空間こそがもんだいなのであり、それが維持され・機能しているということが「いじめ」である、ということだ。ただし、この空間があくまで「文脈」の空間である、という点を強調しておかなければならない。「文脈」の空間は、「いじめ」行為そのものによってではなく、相互行為によって・あるいは相互行為として形成されるだろう。具体的な行為の次元を離れている(また具体的な行為の「否定」である)という意味において、この「いじめ」の空間を、「ネガティヴ」な空間と表現することができるだろう。ある者がいじめられる、ということは、その者がこの「ネガティヴ」な空間の中に置かれる(追い込まれる)ということにほかならない。
 この空間は、「我々(とは、しかしいったい誰か?)の日常生活の空間」と、ぴたりと重なり合っている。この点について、A子の語り方を、上に引用した部分全体の流れから読みとってみよう。
 「どういういじめでした?」というインタヴュアーの言葉から始まる前半部は、インタヴュアーが主導する形でいくつかの具体的な手口を言い、それに対してA子が答える、という流れになっている。しかし、ここでは、A子の態度はいまひとつ、乗り気でないように見える。一方、「例えば、こういうことがあったんです」という言葉でA子が主導権を握る後半部では、A子は、「肉体的いじめよりずっと辛かった」という「精神的いじめ」を印象的なやり方で語り始める。このふたつの部分の「語り方」の決定的な違いは、「いじめ」の手口への言及の仕方にある。前半部では、インタヴュアーはいきなり「いじめ」の具体的な手口に言及している。それはあたかも、「給食をグチャグチャにする」「悪口を言う」ことそのものが「いじめ」であるかのような語り方である。しかし、後半部のA子の語り方では、(1)まず、ごく日常的な場面が提示され(「私が誰かに近づいて行くでしょ」「音楽で実技のテストってありますよね」・・・)、インタヴュアーに相づちを打たせておいてから、(2)それが実は「いじめ」の場面であったこと、を語る、というやり方がとられている。ここで、A子によって語られている「いじめ」の個々の内容についてではなくあくまで「語り方」に注目するならば、彼女は「語り方」そのものによって、「いじめ」の空間論的性格を伝えているのだと言うことができる。そこに読みとられるのは、日常生活の空間のあらゆる地点が「いじめ」の空間への入り口になっているということに他ならないのである。まさにそのこと、言い換えるならば、その「逃れようのなさ」こそが、彼女の言う「精神的」な苦痛の源泉となるのである。

2−3:「主観的定義」と「定式化」の問題について / ワークの空間
 いじめが実体的次元でない「空間」に生起する現象だと言う場合に、まず念頭に浮かんでくるのが、ラベリング論ないしいわゆる「社会構築主義」的な視角であろう。「いじめ」がひとつの社会問題として成立した(すなわち、単なる教室内でのエピソードのひとつとしてではなく、社会をあげて解決への道が模索されるべき「問題」として全社会的な関心の焦点を形成するに至った)のが80年代半ばであり、それまでは「いじめ」は端的に存在していなかった(今で言う「いじめ」に相当するような現象も、「いじめ」としては認識されていなかった)ということは、既に徳岡(1988)によって指摘されている。情報化社会の中で生きる我々にとって、現実体験とは、多く、メディアによって媒介された「代理体験」でしかない。しかるがゆえに、「いじめ問題」もまた、マス・メディアによって成立し、またひとたび成立するや、我々の現実体験を「いじめの現実」の代理体験へと組織していくひとつのリアリティ空間となってしまうのである:

現代社会における情報は、直接体験的なものではなく、マス・メディアによって処理された間接的・二次的な記号情報にならざるを得ない。したがって、社会問題を定義づけ、形成していく上で、マス・メディアの果たす役割はきわめて大きい。それに加えて、わずかな現実体験をすら、マス・メディアの提供する枠組みで解釈してしまう。・・・情報化社会の影響力の大きさは、われわれの眼のフレームを規定してしまう点にあり、しかもそのことが自覚されていない場合が多い、ということにこそ留意すべきであろう。直接体験しているから、この目で確かめているからマス・メディアに影響されていない、とは言い切れない。体験そのものの意義づけ、解釈の仕方がすでに、マスコミによって規定されてしまうからである。(徳岡前掲論文、p.167-168.)

こうしたラベリング論的な視角は、経験的に見てきわめて説得力がある。特に、マスコミのいわゆるキャンペーンが主導となって推移することの多い「いじめ問題」の状況を見るならば、こうした視点の有効性は疑い得ないだろう。ただし、ここでもひとつ、解決されねばならない問題がある。それは、「いじめ」という「主観的定義」が「現場」に導入されるやり方についてである。
 ラベリング論的な図式においては、「いじめ」という定義は状況の外側から導入され、当該の行為ないし現象に「レッテル」として外側から「貼り付けられる」(あるいは別の比喩を用いるならば、「いじめ」という「色眼鏡」によって当該の行為・現象に色付けして見る、あるいは、「いじめ」という枠組によって、当該の行為・現象を枠付け、切り取ってくる − いずれも、ニュアンスの重点は様々であるが、同じ事を言っている。この点については拙稿(1997)(1998)で「眼鏡」の比喩と呼び論じているので参照されたい)という論理構成をとる。すなわち、(1)具体的な行為の次元においては、ある所与の行為・現象を「いじめ」と同定することはできず(この点については本稿も既に[2−1]で強調した)、あらゆる行為が「いじめ」となりうる;(2)それに対し、その行為・現象に関与する者(当事者であれマスコミであれ)が、レッテルとして「いじめ」という「主観的定義」を貼り付け・「意味付与」し・「いじめ」という現実を構成する、という論理構成である。単純化するならば:

[「現実」=「不定形の行為・現象」+「主観的定義」]
[「いじめという現実」=「不定形の行為・現象」+「「いじめ」という主観的定義」]

という事になる。
 こうした図式によって「いじめ」を把握した場合、では、社会学者はいったいいかなるスタンスで「いじめ」を論じることになるだろう:

あるニュースが人の意識に食い込むと、以前であれば無視されたかもしれない類似のニュースへの関心が高まる。二、三の大きいハプニングがあると、新聞はきわめて些細な類似の出来事をすら全国から集めてきて、それを報じる。集団ヒステリーの第一段階とも言えよう。事件続発の有無にかかわらず、マス・ヒステリーのなかで生じた大衆的鋭敏化によって、報道の有無や報道のされ方が規定されてしまう・・・逸脱の徴候に敏感になっている新聞は、報道し、再解釈し、時には話題を創出することによって、読者を神経過敏にさせるための主要なメカニズムとして機能する。/マス・メディアによるこのような「状況の定義」を受けて、一般大衆もますます神経過敏になる。そして、神経過敏化ということが無ければ、いじめとは解釈されなかったであろう些細で曖昧な出来事までが、潜在的な、あるいは現実のいじめとして再解釈される。過敏になった人々は些細な出来事を、あるいは事実を誤認して、いじめ事件として顕在化させる。ヒステリー状況では、いじめに関係ない人や関係のない行為にまで、疑いの目が向けられることにすらなりかねない。(徳岡前掲論文、p.168-169.)

この引用文中から、ひとつのスタンスを明瞭に読みとることができる。ここでの社会学者の議論の焦点は、「いじめという現実」と(そのもとにあったはずの)「不定形の行為・現象」とのズレの指摘である。そして、そのズレている有様を「神経過敏」「ヒステリー」と言い当てること、そして、その過敏にヒステリックな認識を正すこと、社会の人々の歪んだ「主観的定義」を補整すること、に、この議論の価値が根ざしているのである。
 こうしたスタンスは、しかし、ある種の困難を必然的に抱えることになる。
 第一に、こうしたスタンスから行われた研究は、マス・メディア等による「状況の定義」の方を分析の俎上にのせようとする議論の展開の性質上、その反作用として必然的に、具体的な行為・現象の次元の出来事については分析の俎上から排除することになる。そこで、こうした立場から語られる言説は、あたかも、「「いじめ」は、実はとるに足らない現象だ」、と語っているかのごとくに機能してしまう:「きわめて些細な類似の出来事をすら全国から集めてきて、それを報じる」「事件続発の有無にかかわらず」「時には話題を創出する」「神経過敏化ということが無ければ、いじめとは解釈されなかったであろう些細で曖昧な出来事」「いじめに関係ない人や関係のない行為にまで、疑いの目が向けられる」(以上、上記引用文より再掲) − 。こうした「実態」への軽視(と映りかねない言明)は、論者の個人的な先入観・イデオロギー・政治的意図・等々によってなされるわけではない。あくまでも、議論の立て方の問題として、上記のようなスタンスで「「いじめ」という主観的定義」に研究領域を焦点づけるためのレトリカルな方略として、そのようにせざるを得ないのである。その意味で、この問題は、上記のスタンスの抱える必然的な困難であるということができる(この点については拙稿(1994)を参照されたい)。
 第二の困難は、上の困難をいくぶんか理論的な文脈にずらした問題である。ラベリング論的なスタンスでは、「いじめ」の存在の根拠を具体的な現象の外側から貼り付けられる「主観的定義」に置いている。とすれば、いかにして「いじめ」が、個人的かつ主観的な「思いこみ」ではない、社会的な事実となるか、という説明が、困難になるだろう。無論、マス・メディアの強力な均質化の圧力によって、あらゆる人々が「「いじめ」という主観的定義」を注入されるのだ、という説明は可能であるかもしれない。しかし、マス・メディアの均質化の作用の度合いをどの程度に見積もるかはともかくとして、いずれにせよ、そうした図式においては、「いじめ」が「社会的現実」である(すなわち「個人的・主観的」な思い過ごしあるいはマボロシ、等々、ではない)のはただ単に人々の注入された「主観的定義」が互いに重なり合っているからその限りにおいて「いじめ」という現実が「共有」されているに過ぎない、という、消極的なものに過ぎなくなるだろう。これは、「いじめ」という現象を社会的な事実として説明する図式としては、きわめて弱いものでしかない。
 第三の困難は、第二の困難を、より具体的な「いじめ」の現場で起こりうる問題としてパラフレーズしたものである。すなわち、具体的な「いじめ」の現場においては、実は、「いじめ」という定義が共有化されているケースよりも、共有化が拒絶され・まさにその共有化の当否を巡って闘争がめぐらされるケースの方が圧倒的に多いと考えられるのである(いわゆる「リアリティ分離」の問題(Pollner(1975=1987)))。
 おそらく、次のようなやりとりは「いじめ」の現場で幾度となく交わされ、あるいは実際に交わされるまでもなく潜在的に意識されているものだろう:

教師「これは「いじめ」だろう?」
生徒「いいえ「いじめ」じゃありません」
 (「「ふざけているだけ」です」、「「気のせい」です」、等々)

こうしたやりとりが行われ(得)るということ、すなわち、「いじめ」というレッテルを具体的な現象ないし行為に「貼り付ける」ことの困難さこそが「いじめ」という現象のきわめてクリティカルな核心を為しているという点については、本稿[1−1]で既に述べている。ところで、容易に気づかれうるように、このやりとりは、論理的にそのまま、次のように書き換えることが可能である:

マス・メディア「これは「いじめ」だろう?」
社会学者「いいえ「いじめ」じゃありません」

つまり、ラベリング論的なスタンスによって社会学者が社会的言説空間を相手取って行う「分析」は、論理的に、「いじめ」の現場において典型的に交わされているやりとりの相似物(ある具体的な行為・現象にそれぞれの立場からレッテルを貼ったり剥がしたりすること)であり、しかも、まさにそれこそが問題の核心であるはずのもの(「いじめ」現象の認識を困難にしてしまうメカニズムとしての、上記のようなやりとり)の一端を、理論という文脈に場所だけを移しながら反復し、むしろ担ってしまってさえいるのである。この困難もまた、上記のような[「いじめという現実」=「不定形の行為・現象」+「「いじめ」という主観的定義」]という図式を採用した事による必然的な困難だということができるだろう。
 さて、では、こうした困難はどのように解決することができるだろうか。ここで、ガーフィンケル=サックスの「形式構造」論文(Garfinkel=Sacks(1969))の議論を参照することにしよう。
 誰もが社会について語る − これが、ガーフィンケル=サックスの議論の出発点である。社会について語るのは、専門的社会学者だけでなく、言うまでもないことだが、この社会の中で生きるすべての人は、この社会の中で起こるあらゆる物事について、語るだろう。たとえば、人々は「いじめ」について、あれこれ語る。ガーフィンケル=サックスの言い方を借りるならば、素人であれ専門家であれ誰もが社会学的推論を実践している、例えば人々は「いじめ」についてそれぞれのやり方で社会学的推論を実践している、のである。ところで、では、専門的社会学者が素人と違うことを行っているとすればそれは何か?それにはさしあたり、次のように答えることができるだろう − 素人が(例えば「いじめ」について)語る言葉は正確ではない・偏見や誤謬を含み・客観性を欠く、従って、そうした不正確な言葉を、正確で客観的な表現に置き換え・修復していくこと(「いじめ」について素人の誤謬を正し客観的に語り直すこと)、これこそが、専門的社会学者の役割である、と。
 さて、こうしたスタンスは、既に気付かれるとおり、本稿で先程、ラベリング論的なスタンスとして提起しておいたものと同じものを指している(「現実」は「不定形の行為・現象」を「言葉」によって切り取ってきたものであり、社会学者の役割は、素人が素人の「言葉」によって切り取ってきた「現実」に異議を唱え、素人の「歪んだ」言葉を、客観的な言葉によって置き換え・修復することだ、というのだから)。ガーフィンケル=サックスはこうした専門的社会学者の活動を「構成的分析」と呼ぶ。そして、それを正面切って批判するというわけでもなく、ただ、自らの研究のスタンスとして、エスノメソドロジカルな視角を提起する。
 彼等が手掛かりとするのは、およそ次のような日常会話の断片である(ここでは便宜上「いじめ」についての想定例を挙げる)。角括弧で括った部分に注目しよう:

A:パン買ってきてよ。
B:え?
A:[あ、これっていじめじゃないからね。]

この会話において、角括弧で括ったAの2回目の発話は、会話の中にありながら、この会話状況そのものについて言及するものである。会話の中でのこのような実践を、ガーフィンケル=サックスは「定式化」(formulating:「定式化」が定訳としてほぼ定着しているが、本稿の文脈に沿って補うならば、「不定形の行為・現象」を「言語」によって切り取り・枠付け・「形式づけ」る、といった程度の含みである)と呼ぶ。では、Aは、ここでこの「定式化」を行うことで、結局の所、なにを行っているのだろうか?
 第一に確かなのは、Aのこの「定式化」によって、この会話状況に客観的な「意味付与」が為された、とは言えない、ということである。つまり、この会話状況はAがこの「定式化」を行わなくても、別段「不定型な現象」ではなくそれなりに有意味なものであったし、また、Aが「定式化」を行ったことによってより状況の意味が明確に客観化されたわけではない、ということである。この点は次の仮想例を参照すれば確認できるだろう:

X:おはよう、[これは挨拶だよ。]
Y:??

形式論理的に言うならば、ここでXが行った「定式化」は、会話状況をより厳密に明確に表現しているか、あるいは単なる同語反復で会話に何も新しい情報を付け加えていないか、であるはずだ。しかしながら、実際にこういう発話をXにされたら、Yは面食らうか、あるいはXの底意を疑うことになり、要するにもともとの会話状況は破壊されてしまうだろう。つまりこういうことである。確かに我々は日常会話の中で頻繁に「定式化」を行っているが、だからといって、(1)我々の日常的な諸活動は、「定式化」を行うことによって「意味付与」がなされ成立しているわけではない;(2)にもかかわらず、我々の日常的諸活動は常に、実践上困らない程度に充分に、有意味である;(3)むしろ、「定式化」それ自体が有意味となるためにあらためて状況文脈が参照されなければならなくなる。先の例のAの「定式化」は、状況の文脈如何によって、「コレハイジメデハナイ」とも「コレハイジメダゾ」とも含意しうるものなのである。
 こうした「定式化」が、ラベリング論的なスタンスにおける「レッテル貼り」「意味付与」にほぼ呼応していることはもはや言うまでもない。そして、ラベリング論の思惑を裏切る形で、日常生活の諸活動の有意味性は、外側からの「意味付与」によるものではないことが明らかになった。だとすれば、あらためて次のように問うことができるだろう。日常的な諸活動の有意味性は、いかにして達成されているのか? もし、[これは挨拶だよ]という定式化が適切であるような活動が行われているとすると、そこでは結局の所、いったい何が行われているのか? − こうした問題設定を、ガーフィンケル=サックスは次のような表記「[・・・]すること」(doing[...])で図示している:

doing   [ルールにのっとってチェスをすること]
doing   [統一性を保証するため調査スケジュールを調整すること]
ただし
doingとは、[角括弧で括られた記号]によって表された事項がその説明可能なテキストになるためのワークを示す
(Garfinkel=Sacks,op cit.p.352.)

エスノメソドロジーとは、この図で言うところの「doing」の部分を、経験的に明らかにしていくものである。これを本稿の論題に引き寄せてパラフレーズしよう。「いじめ」は、確かに、具体的な行為・現象の次元にその本質定義や根拠があるわけではない。そこまでは、ラベリング論的な直感は当を得ている。しかしながら、「いじめ」の定義を今度は人々の「主観」の中に根拠づけ、「いじめ」とは「いじめ」とレッテルを貼られたものである、という論理構成をとることはできない。「いじめ」が「いじめ」であるのは、そうしたレッテル貼り=「定式化」よりも、以前である。したがって、まさにその、「いじめ」が「いじめ」でありうるためにそこで何が行なわれているか、すなわち、doing[いじめ]の「doing」の部分を、経験的に明らかにしていかなければならない、それが、「いじめ」のエスノメソドロジーの研究方針となるのである。
 本稿[1−2]から[2−2]までのテキスト分析で試みたのは、そうした意味での、ひとつのテキストにおける経験的研究である。そこでは、doing[いじめ](あるいは厳密には、doing[「いじめ」を「いじめ」として語ること])が、こまかな言葉遣いやレトリックがインタヴューの会話の中で絶妙に組み合わされ、文脈の流れを形成することによって達成されているさまを、ある程度まで追い得ているはずである。
 エスノメソドロジーが経験的研究であるということは、言い換えれば、こうしたdoingが状況ごとにそれぞれのワークによって成立している、ということを指している。例えば、[いじめること][いじめをうけること][いじめを目撃すること][いじめに言及すること][いじめを訴えること][いじめを調査すること]等々、様々なシチュエーションがあり、そのシチュエーションごとに異なる様々なワークがあるだろう。「いじめ」がひとつの「空間」であるというとき、それは、こうしたワークからなる空間のことを意味する。そして、その空間の中で(あるいはその空間そのものを成すものとして)様々な具体的行為・現象が互いに精巧に積み重なり自己組織しあいながら、ひとつの文脈を達成していく様をこそ、研究していかなければならないだろう、ということなのである。

3:「いじめ」の論理構造とその相互行為的達成

3−1:ひとつの疑問 − 「否定」の可視性
 前節では、「いじめ」を「ネガティヴな空間に追い込まれること」と規定した。本節では、その「空間」が帯びている奇妙な論理構造に注目する。そのために、前節で見た「行為の否定としてのいじめ」の、特権的な形態である「シカト」について考えてみよう。  出発点は、ひとつの論理学的な疑問である:「「シカト」において、いかにして「口をきか*ない*」という行為(の*否定*=「無」)が可視化されているのだろうか? 一般に、「XがYに何かを*する*」というのは、ごく自然に可視的な現象だと納得できそうである。しかし、「XがYに何かを*しない*」という振舞いが、いかにして可視的になるのか? たしかに、「シカト」というのは誰か一人が口をきいてくれないというのではなく、もっと多人数が誰も口をきいてくれない、ということを指す。しかし、では、「A、B、C、・・・、XがYに口をきか*ない*」という風に、口をきかない人数を増やしていけば「何かを*しない*」という行為(の*否定*)がそれによって可視的になるか、というと、そういうわけではない。ゼロに何を掛けてもゼロにしかならないのと同じである。あるいは例えば、ごく単純な事実の問題として、この世界にはわたしと口をきいたこともこれからきくこともない人間が数十億人いるだろうが、しかし、彼等がわたしを「シカト」している、と言うのはいかにも不自然な言明だ、というのと同じである。
 この問題が解決されるには、個々の具体的な行為の次元「何かをする/しない」を見るのでなく、「規範」と「行為」の関係の次元「何かをしてしかるべきである場合に、それをする/しない」を見なければならない。「シカト」が成立しているということは、イコール、「Yに口をきいてしかるべきメンバー」の範囲が画定されている(従って、地球の裏側の数十億の住人は関与外となる)ということであり、個々の具体的な「口をきか*ない*」は、あくまでもそのメンバー「全体」との関連において、反映的(reflexive)に、「シカト」の一部を成すものとして可視化されているのである(先に[2−1]で、「突然、男の子に殴られた」という言明が「いじめ」の報告として読みとられる際に「クラス」といった集団の存在が喚起されるという現象を指摘したが、それは「殴る」という形態の「いじめ」についての、同様の事例となる)。言い換えれば、人は、doing[いじめ(「いじめ」をする/看取する/等々)]において、「全体」(およびその相関項としての「規範」)を達成している、といえる。この達成は、まさに「いじめ」を行う相互行為の内側からの*秩序*形成なのである。

3−2:「シカト」の協働的達成にかんする視角
 言うまでもなく、ただちにひとつの疑問が浮かぶだろう。「シカト」の成立が「全体」の達成によってなされるとして、では、具体的にどのようにそれが行われているのか。これは、doing[シカト]の、doingの部分についてのエスノメソドロジカルな経験的研究を要請する問いであるが、ここではそれに対して、サックスのアイディアを援用しながらいくつかの視角だけを提起しておく。
 「シカト」が成立している仕組みを明らかにするために、さしあたりふたつの段階に分けて問いを立ててみよう。第一の問いは、「いかにして、「無視」が可視化されうるのか」という一般的な問題であり、それを見るためにここでは、サックスらの提起した「会話の順番取得装置」という装置の機能ぶりに注目することにする。第二の問いは、「いかにして、「全員」による無視が可視化されうるのか」という「いじめ」固有の問題であり、それを見るために、サックスの提起した「成員カテゴリー化装置」という装置の機能ぶりに注目することにする。

a)「無視」の相互行為的達成と「会話の順番取得装置」
 先に述べたとおり、AがBと「口をきかない」ことは、Aがたんに口をきいていない、というだけでは成立しない。また、Aが「口をきくまい」と心の中で決意しているかどうか、という点が関係ないことも、経験上明らかである(特に「口をきくまい」と思っていなくても、「無視された」と受け取られることはままある。逆に、「口をきくまい」と決意していても、「無視された」と受け取ってもらえないこともままある)。また、逆にBの側が、黙っているAを指して、Aが「口をきいてくれない」のだ、と意味づけレッテル貼りすることも、よく考えてみれば、AがBと「口をきかない」ことを成立させない(もしそれで成立するのであれば、Bは、Aが黙っているときであればいつでも(例えば街角でAを偶然見かけたときでさえ)、「Aが自分を無視している」と思念するだけで、「無視」の事実を主張する事ができることになってしまうだろう。あるいは逆に、誰が見てもAがBを無視している時でさえ、ただ一人Bさえそれを否認すれば「無視していない」ことになってしまうだろう)。では、AがBと「口をきかない」という事態は、いかにして成立するのか。その手がかりとして、ある会話場面を想定してみよう:

(XとYが会話をしている)
X:これ、おいしいねえ ・・・(沈黙)・・・ おいしくないかなあ?

さて、ここに見られる「沈黙」を、我々はごく自然に、「Yが黙っている」と聴き(読み)取るだろう。Xの発話の区切れの後に無音の状態が続けば、我々はそれを「沈黙」として可視化し、かつ、それを他ならぬ「Yの沈黙」と同定することができる。それは、Yの意図ともXの主観的意味づけとも無関係に、端的に観察可能なものである。また、Yがただ単に黙っているというだけでないのも明らかである(だいいち、この無音状態が他ならぬ「Yが黙っている」と記述されうること自体をいま、問題にしているのだ)。
 この無音状態が「沈黙」として可視的になりうるタネは、二つある。ひとつは、これが「XとYの会話」である、ということである。すなわち、会話というものは、単に複数の人たちが思考を音声化して喋り聴く、というだけではない、ひとつの限定された「空間」を形成している、従って、例えば「XとYの会話」であれば、Xの発話の区切りの後に無音状態が続けばそれはその空間内のX以外の参与者、すなわち他ならぬYの「沈黙」として(すなわち例えば隣のテーブルのおじさんの「沈黙」としてではなく)可視化されることになるのだ。第二のタネは、サックスらの言う「会話の順番取得装置」である。彼らは、我々が「会話」というものをキャッチボールないしテニスのラリーのようなものとして行っているという点に注目した。そして、そうだとすれば、そのラリーないしパス回しが円滑に成立するために、そこに何らかの社会的装置が機能しているはずだ、という:

[会話の基本的な]特徴とは、(1)単一の会話においては、少なくとも一人の、かつ一人の話し手だけが一時に話すこと、および(2)話し手の交代が繰り返されることの二つである。また、ともに会話を交わしている者どうしは、会話をしながら話し手の順番を継続的に秩序づける「装置」を用いて、この特徴をそれぞれ、あるいは、むしろ、二つの特徴を同時に確保するのである。この順番取得装置(turn-taking machinery)は、一方で、「次の話し手」の選択を組織する一組の手続きと、他方で、どのようなきっかけで次の話し手への移行が起きるのか、もしくは起きなければならないのかを指定する一組の手続きを構成成分として含んでいる。(Schegloff=Sacks(1972=1989),p.181.)

我々は会話において、ただ思ったことを互いに音声化し合っているのではなく、こうした装置を随時参照しながら、まさに一つの円滑な「パス回し」として、会話の流れを組織化しているのである。逆に言うならば、会話の中でのアクシデント(例えば二人以上の発話が衝突した場合、あるいは逆に、「沈黙」が発生した場合、等)は、この装置が参照されていることによって、まさにそのような事態として直ちに可視化され、そのようなものとして修復が試みられる。例えば上記の例は、Xの投げかけたボールをYが投げ返さなかった、だからXがもう一度ボールを拾って投げ直した、というように聴き(読み)取られるだろう。Xはそこで「Yの沈黙」を聴き取り、「・・・おいしくないかなあ?」と発話し直すことで、その「Yの沈黙」を、Yの「無言の否定」として会話の流れの中に適切に位置づけ直し、会話の「パス回し」の円滑さを修復しているのである。
 さて、ここで先の議論と考え合わすならば、この順番取得装置こそが、会話の「空間」を成立させているものである。つまりこういうことだ。会話が限定された「空間」を形成しているとしても、その領域を画定しているのは具体的・物理的な次元のものではない(混んだ電車の中で数人で会話をしている場面を想起されたい。隣席の乗客に話の内容が全て筒抜けでも、また、話の輪の間を車掌が遮っても、会話の「空間」は変化しない。隣席の乗客や車掌が突然会話の一員になることはないだろう。同様の例をいくつか想起されたい)。また、参与者同士が個人的に面識があるかどうかとも無関係(知り合い3人が電車に乗り、そのうち2人が会話している、ということはありうる)であり、また、喋り聴く必然性を持っていたりいなかったりとも無関係(会話の外から見知らぬ人がいきなり「そうそう、私もそう思ってましたよ」と「割り込んで」くる場合の違和感を想起されたい)である。では、会話参与者相互の「主観的意味づけ」によるものだろうか − この説明はかなり有効であるかに思われる。しかし、先の例を今一度見直してみよう。ここでYは一言も発していない。Yは、これを「会話」と意味づけていないかもしれない。にもかかわらず、我々はこれを「XとYの会話」のひとこまとして違和感なく聴き取るし、現にXもそうしている。会話の「空間」が成立するためには、参与者(や観察者)がどう主観的に意味づけするか、あるいはその主観的意味づけが相互に共有化されるか否か、は、条件とはならない。ただ、「会話の順番取得装置」が円滑に機能し会話の流れを組織化している限りにおいて、その機能範囲がその「会話の空間」なのである − サッカーのゲームにおいて「パス回し」が円滑になされゴールに至った場合を想起しよう。確かに再現ヴィデオで見れば選手達の「連携」なるものがそこに存在したかのように見える。しかし、ゲームの最中において存在していたのは一個のボールだけである。連係プレーの「空間」は、「パス回し」の中で、「パス回し」の経路そのものとして、成立しているのである。  さて、こうした「会話の順番取得装置」という視点を、「いじめ」における「無視」の問題に引き戻してみよう。「AがBと口をきかない」という事態は、AとBが会話の「空間」内にあり・かつ・Bからの発話を受けるなどAが発話してしかるべき場面が生じたときにAが発話しない、ということによって、可視化される。そこで可視化された「沈黙」は、最初はBによって修復が試みられるかもしれない(自分の発話がAに聞こえなかったのだ、と、もう一度言い直す、等)し、また、より深刻に受けとめられるかもしれない(Aは自分と喋らないつもりなのだ、等)。そこから、ついには、会話空間そのものの破綻が見出されることになるかもしれないし、そうなれば、いわゆる「シカト」による「排除」と「「いじめ」の空間」への追い込み/追い込まれが成立することになるだろう。さて、ここで重要なことは、Bがそこで「無視」という事態を見出すまで(あるいは、AがBへの「無視」を完遂し成立させるまで)には、あるいはさらに会話空間そのものの破綻が成立するまでには、しかるべき相互行為のプロセスが系統的・組織的に重ねられているはずだ、ということである。「日常的な」会話空間が相互行為的に達成されているのと同様に、「無視」「シカト」もまた、「ネガティヴな空間」として相互行為的に達成されているのだ(やや別の文脈であるが皆川(1993)をぜひ参照されたい)。
 ここで、もっとも単純な例によって強調されているのは、「いじめはいじめられる側も共犯である」という次元の問題ではない。むしろ逆である。既に見てきたとおり、ラベリング論ないし構築主義的な議論は、「いじめ」の存在の根拠を具体的物理的次元に置くことの誤謬を指摘するために、まさに「いじめられる側の主観的定義」に「いじめ」の存在の根拠を定位してしまった。本稿での議論は、それを「いじめられる側の主観」の次元から、「いじめ」の起こっている相互行為の次元へと、引き戻し定位し直す試みにほかならない。相互行為の次元は、物理的実体性を持たないが、にもかかわらず完全に実体的である。我々はそこで、定義的アプローチが分析の俎上から排除した「いじめの実態」を再び見出すだろう。「いじめ」はいかにして成立しているのか。その相互行為のテクノロジーを経験的に解明することには、理論的・実践的な意義があるだろう。

b)「頼れる人が誰もいない」 − 「成員カテゴリー化装置」について
 「シカト」は、単なる「無視」ではなく、[3−1]で確認したとおり、まさにそれが「全員」によって行われていることが決定的な要件となっている。それがどのように達成されているか、という問題について、サックスの別の議論を参照しながら見てみよう。
 サックス(1972=1989)は、緊急精神治療所に電話をかけてくる自殺志願者たちがいかにして「私には頼れる人が誰もいない」という結論に到達するか、を分析している。最も重要なポイントは、自殺者志願者達・そして一般に我々はすべて、この社会の成員を「成員カテゴリー化装置」によって分節している、という点にある。サックスがここで注目しているのは、成員間の関係を示すカテゴリー化装置である。そこには[「夫−妻」「親−子」「隣人−隣人」・・・「赤の他人−赤の他人」]というように、様々なペアが含まれている。そして、そのペアごとに、相互の義務と権利が細かく規定されている。従って、例えば自殺志願者は、苦痛を誰かに相談しようとすれば、まずその相談相手を、このカテゴリー化装置を用いて探索することになる − 自分が自殺の相談をもちかける権利を行使できる対象になりうるのは誰と誰であり、また、その優先順位はどうなっているか、というふうに。そこから、次のように言える。我々は普通、「世の中には大勢人間がいるのだから、”誰も”頼る相手がないなどということはないだろう?」と思うかも知れない。しかし、自殺志願者の相談相手の探索は、あらゆる人間について相談の可能性を一から試してみる、というやりかたではなく、カテゴリー化装置の使用によって、いわば機械的にカテゴリーの組み合わせと比較検討を行うことによってなされている。従って、いくつかの可能的な選択肢が閉ざされるという事態が、すなわち、自分には「相談を持ちかける権利を行使できない」相手しか存在しない、すなわち、「”誰も”頼る相手がない」という結論に帰着するのである。
 では、「いじめ」の場合にこのアイディアを敷衍してみよう。「シカト」のケースを考える場合、さしあたり「友人−友人」「同級生−同級生」というカテゴリー・ペアに注目するのが適当だろう。前者は、情緒的・個別的な関係として規定されている。また、後者は、前者の範囲をより広げ、さほど個別的ではないがやはり情緒的な関係として、規定されている。無論、生徒の日常生活の中には、この二つにとどまらないこまごまと多様なカテゴリーが存在するだろうが、代表的な上の二つを見て想像できるのは、生徒同士の関係の多くは、(濃淡はあるにせよ)情緒的なものとして − すなわち、形式的な権利・義務を超えた「友情」「親密さ」等による結び付きとして − 組織化されているということである。通常の場合、生徒はこれらのカテゴリー化装置を用いることで、お喋りの相手や遊びに誘う仲間・あるいは相談相手、助けてくれる相手、等を探し当てる。逆に言うならば、「シカト」に会った生徒が直面するのは、これらのカテゴリー化装置を用いても、それに該当する対象を見いだせない、という問題だと言い換えることができるだろう。ここで[1−2]で取り上げたテキストを再び見てみよう:

A子 たとえば、こういうことがあったんです。私が誰かに近づいて行くでしょ。すると、周りの人が、”〜さん””〜くん”と、私がそばに行ってることを注意するんです。
 − すると?
A子 注意された人が大げさに慌てて逃げます。
 − 辛いなあ。

ここでA子自身が用いているカテゴリーは、「私」と「誰か」「周りの人」「注意された人」である。これらはいずれも極めて匿名性の高いカテゴリーであり、「友人」に該当しないどころか、ほぼ「赤の他人」と等価な関係を規定するものである。「シカト」が成立している事態とは、すなわち、情緒的なものとして組織化されている生徒集団において、「友人」に代表されるような、声をかけたり遊んだり相談を持ちかけたり、困ったときに助けてくれる相手が見当たらず、「赤の他人」しかいなくなった状態、と言い直すことができるだろう(そこから、「シカト」の成立プロセスの経験的研究の方針として次の問いが立てられるだろう − いかにして、ある者にとっての「友人」であった者が「友人」カテゴリーから切り離され「赤の他人」カテゴリーへと再編成されていくか? このプロセスもまた先に(a)で見たような相互行為の時間構造の中で生起するものだろう)。
 ただし、ひとつ重要な点を看過してはならない。上のテキストで用いられている「誰か」「周りの人」「注意された人」というカテゴリーは、単に「私」との関係の希薄さのみによって(言い換えれば「ネガティヴに」)捉えられるものではない(仮にそれだけならそれは「私」の「孤独」の記述にはなっても「いじめ」の記述とはならないだろう)、ということである。三つのカテゴリーをそれ自体として見れば、それこそ街頭での出来事を記述するときに用い得るほど無限定なカテゴリーである。しかし、上記テキストの文脈の中に配置されることによって、これら三つのカテゴリーは、すべていわば「同じ水準の」もの、いわばひとつのポジティヴな実体をなすものとして、聴き取られるだろう。それは、同じ一つの文脈の中で語られているという理由に加え、「誰か」「周りの人」「注意された人」の間にコミュニケーションが成立しているというエピソードが語られているという理由からも、そうなる(付け加えるならば、「周りの人」は「誰か」を名前で呼んでいる。すなわち、「周りの人」と「誰か」との個別的な関係が表されているのだ)。
 [1−2][3−1]で示唆したとおり、あるテキストが「いじめ」の記述となりうる条件は、無限定な「全体」が喚起されることである。上記引用テキストにおいては、まず、「誰か」「周りの人」「注意された人」といった匿名的なカテゴリーが用いられることで”無限定性”が表され、かつ、それらカテゴリーがひとつの水準の中で相互関連しているという点において、積極的な集団としての”全体”なるものが示唆されている。すなわち、「私」に対して単に情緒的な関与の埒外にあるというだけではなく、それら相互が「私」を疎外しながらひとつの集団として活動している、ということである。上記テキストの後の部分で用いられている「みんな」という語は、具体的物理的な次元での関与者の総和ではなく、そうした匿名的でありながら実体的であるような、カテゴリカルな構成物としての「全体」を指していると考えられるのである。
 ここで、先に触れた「同級生−同級生」というカテゴリー・ペアに再び注目してみよう。それは、「友人−友人」のように個別的な関係を規定せず、より匿名的である。また、「友人−友人」のような一義的な情緒的関係ではなく、より曖昧な(形式的ではないが、積極的な情緒的内容を含むわけでもない)関係をしか規定しない。そこから、「同級生−同級生」なる関係から組織された「クラス」という集団の両義性が帰結するだろう。ある者がひとたび「シカト」に会うや、彼/女にとっての「同級生」とカテゴリー化されたメンバーは一挙に「クラス」という匿名者の集団 − 不定形で曖昧な情緒が充満した − に変貌するだろう。彼/女はまさに、「頼れる人が誰もいない」状態に転落するのである(無論、個々の「同級生」の中には、相談されてもかまわないと思っている者もいるかもしれない。しかし、ここで問題となっているのは、カテゴリーである。自殺志願者が「赤の他人」に片っ端から相談を持ちかけることがないように、いじめられている者も、「単なる「同級生」」に相当する者に、いきなり相談を持ちかけるかどうかは疑問であろう)。しかも、そうした情緒的集団から排除されることによって、いじめられる者はまさに情緒的な苦痛を覚えることになるだろう(例えば上記引用テキストのような事態も、銀行の窓口で交わされたとすれば、なによりまず手続き上の不都合が生じるだけで、確かに腹も立つにせよ、「辛いなあ」ということにはならないだろう)。「クラス」という集団の編成原理としてのカテゴリーの性質から派生する問題については、おそらく、本稿の範囲を大きく超えるだろう。別稿に譲り改めて論じることにしよう。

4:さしあたりの「おわりに」 − 研究方針

 本稿冒頭で述べたとおり、本稿の目的は何よりもまず「いじめ」の奇妙な論理構造を明らかにすることであった。「ネガティヴな空間」における「否定の可視化」としての「いじめ」の奇妙さを指摘することによって、本稿はまた、その奇妙さが相互行為的に達成されるプロセス、すなわちdoing[いじめ]についての経験的研究という研究方針を提起することになった。
 本稿[3]は、「シカト」という局面に限った上でさらにその研究視角の一端を提案したものであるに過ぎない。逆に言うならば、doing[いじめ]という研究領域は、経験的研究に対して膨大な対象を提供していると言えるだろう。そしてそれは、先に述べたとおり、「いじめ」の「実態」を再び見出すものであるといえる − 「いじめ」が行われるとき、どのような相互行為的な手続きが系統的にとられているのか? − どのようなレトリックの積み重ねが、適切な「いじめ」の訴えを成立させ得るのか? − 教師と生徒が「いじめ」の有無について論争するとき、そこでは何が起こっているのか? − 人はどのようにして「いじめ」をあやまたず目撃するのか? − また、仮にそこで自分が「助けにはいる」ことをしなかったとして、そのことがいかにして「傍観」として可視化され、自分が「傍観者」として「いじめ」に参与することとなるのか? − 等々。
 また、本稿[2−3]で簡単に触れたが、「いじめ」が当事者によって「定式化」されるというケースがある。そこで何が起こっているかを明らかにすることは、徳岡の指摘する「ポジティヴ・フィードバック」に相当する現象を考えていく際に重要になってくるであろう。
 また、[3−2]の最後に触れた、「クラス」集団の編成原理としてのカテゴリーについての問題は、恐らく、局所的なエスノメソドロジカルな視角を越えて、学校という制度の歴史的な変化の問題へと接続していくと考えられる。学校という制度的な組織体が自らをいかに秩序化するか、その編成原理の変遷をモデル的に辿った拙稿(近刊)の議論を踏まえながら、生徒集団による組織秩序形成の仕組みとして、「いじめ」を読み直すことが可能になるのではないかと考えられる。
 いずれにせよ、本稿は「いじめ」についてひとつの経験的研究領域を開きその出発点を示したに過ぎない。従って、この「おわりに」もまた、さしあたりのものにすぎないであろう。

【 文献 】
Garfinkel,H.=H.Sacks.(1969) 'On Formal Structures of Practical Actions'
        in McKinney,J.C.=E.A.Tiryakian.(eds.)Theoretical Sociology.
石飛和彦(1994)「社会問題の存在論とエスノメソドロジー的アプローチ」
       『ソシオロジ』第120号
 −  (1997)「神話と言説」『教育・社会・文化』第4号
 −  (1998)「ハロルド・ガーフィンケルのテキストにおける言説空間設定の問題」
       『天理大学学報』第187集
 −  (近刊)「「校則問題」のポストモダン」
       『シリーズ 子どもと教育の社会学』第2巻、教育出版 所収
皆川満寿美(1993)「「無関与」の協働的達成」『現代社会理論研究』第3号
森田洋司=清永賢二(1994)『新訂版 いじめ 教室の病い』金子書房
Pollner,M.(1975=1987)「お前の心の迷いです」
       山田・好井・山崎訳『エスノメソドロジー』せりか書房 所収
Sacks,H.(1972=1989)「会話データの利用法」
       北澤・西阪訳『日常性の解剖学』マルジュ社 所収
Schegloff,E.=H.Sacks.(1972=1989)「会話はどのように終了されるのか」
       北澤・西阪同上邦訳書所収
菅野盾樹(1997)『増補版 いじめ 学級の人間学』新曜社
週刊少年ジャンプ編集部編(土屋守監修)(1995)『ジャンプいじめリポート』集英社
徳岡秀雄(1988)「自己成就的予言としてのいじめ問題」『関西大学社会学部紀要』(20-1)
ヴィトゲンシュタイン,L.(1953=1976)『哲学探究』大修館書店

なお、ガーフィンケル=サックス論文については、阿部耕也氏のホームページに公開されている邦訳を参考にさせていただきました。

(いしとびかずひこ・天理大学人間学部専任講師)