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【日本教育社会学会 第52回大会(於・北海道大学) 課題研究「教育社会学教育の課題」 報告レジュメ】


職業としてのではない学問
− 認識の”相対化”と教育の”実践” −

石飛和彦(天理大学)


0:はじめに

 ウエーバーが「価値自由」を説いたのは、「職業としての学問」についてだった。「職業Beruf」である限りにおいて、そこでの学問は、超越的な価値に差し向けられているのだから、此岸的な価値から自由であろうとすることに不自然も不都合もない。ところで、いま、私(たち)が直面しているのは、大衆化した大学において、学問を天命などとは間違っても思っていない学生たちである(私(たち)は、H・S・ベッカーが『アウトサイダーズ』で描き出したビバップ・ジャズマンたちのような立場に立っている)。社会学者と学生という、「構え」をまったく異にする両者が接触する「授業」という場面は、とても奇妙なものだ。

1:社会学者と学生の間の「価値葛藤」

 例えば、デュルケームの「社会は個人を外側から拘束する」といった命題をとりあげる。『自殺論』などを紹介して説明すると、その限りにおいては学生は「理解」するし、「面白い」と言う。しかし、「でも、じゃあ私はどうしたらいいんですか?」と質問されて社会学者は絶句することになる。学生は、勉強して何かを身につけ、それを今後の行動の指針にできる、と、ごく常識的に考えている。そして、その「構え」じたいは、なんら非難されるべきものを含まないだろう。しかし、社会学には、まさにその「個人の意図的行為」の積極的な場所が、ないのだ。
 同様の別の例をあげよう。授業で「再生産理論」をとりあげる。学生は自分たちが再生産の円環の中に閉じこめられていることを「理解」する。しかし、それを知ったところで学生は自分の出自や今まで生きてきた人生を取り消すことができるわけでもない。だとすると、学生に対して(しばしば相対的に「優越」した立場から)「理論的知見」を「教え」るという振舞いじたい、とても居心地のわるいものだ。
 ここに、「職業としての」学問とそうでない学問との原理的な「構え」の違い、ないし「価値葛藤」がある。「象牙の塔」の中で真理への意志/信仰を共有する社会学者にとって、学問とは、いかにピースミールの営みでさえ、真理への過程の一端をになうことによって義とされるものである。しかし、学生にとっては、自らに与えられた生が総てである。これは、社会学者/学生にとっての、(ほとんど実存主義!的な)学問の「倫理」に関わってくるもんだいだ。

2:「相対化」する視点という便法

 ここではじめて、「相対化」という視点が、便法として登場する。「あなたは、社会学を学ぶことによって、「「常識」は「ある社会の中での常識」でしかない」ことを知るのだ」と言えば、学生は(ある程度は)納得するだろう。呪縛された状態から解放されると言うのだから、学生も社会学を(ある程度は)歓迎するだろう。
 しかし確認しておくならば、「相対化」はほんらい、社会学にとっての目的でも本質でもない。デュルケームが『自殺論』を書いたのは、常識をひっくり返すため、ではなく、あくまで、社会的自殺率の変異を通して社会の組成の原理を解明するため、であった。「職業としての学問」は、このように此岸から切り離された次元での認識に没頭するものである。
 「相対化」の効用は、個人として社会学を学ぶ学生に対して、はじめて、便法として、強調されるだろう(例えばP・バーガー『社会学への招待』)。

3:人々の常識的実践としての相対化

 本学会『ブリテン』の課題研究アナウンスメントにあった通り、エスノメソドロジーは特に「相対化する視点が強い」ものとして一般に流通している。
 しかし、H・サックスによれば、むしろ、「相対化」というのは(エスノメソドロジー以外の)あらゆる「学説」が(「非科学的常識からの脱却」「先行研究の批判」といったかたちで)行使してきたものであって、エスノメソドロジーこそはむしろいままで「相対化」され切り捨てられてきた「常識」そのものをあらためて俎上に乗せ直すのである。また、M・ポルナーは、「相対化」の振る舞いを、こんどは、人々が用いている「常識」の手続きの重要な一部として指摘し、「アイロニー化」と名付けた。つまり、人々は、「常識的世界」を協同的に作り上げていくにあたって、現実の多様な側面を「相対化」することによって「あるひとつの現実」を達成する、というわけだ。「学説」の振る舞いは、こうした「常識」の手続きの洗練されたものにすぎない。また同じことを、たとえば構築主義的社会問題論のイバラ=キツセならば、「パースペクティヴ化」のレトリック、と呼ぶだろう。エスノメソドロジーのこうした関心は、本報告の問題関心にかさなってくる。  授業という「価値葛藤」の場面において、いわゆる「社会学的な知見」を「教える」ことの「居心地の悪さ」については先に述べた。繰り返すならば、この「居心地の悪さ」は原理的なものである。それは、社会学者と学生との「構え」の差異、あるいは社会学の「天命」と学生の「倫理」との差異、に由来するものである以上、それじたい社会学的に解明されるべき土台の上になりたっているといえる。
 実際、「居心地の悪い」授業がなお平然と行われているのは、大学教育が学歴社会という社会的文脈に埋め込まれているからにほかならない。技術機能主義的な意味ではとうの昔に破綻している学歴社会がなお拡大している限りに於いて、研究者集団は自らのアイデンティティ(と、下世話に言うならば、ポスト)を与えられる。学生の側もまた、大学教育から「目に見えない価値」(まさに、目に見えない限りに於いてのアリガタさ=権威)を受け取る。両者は、まさに食い違いつつ、その差異そのものを糧として、幸か不幸か − つまり、「居心地の悪さ」から目を背けさえすれば − 噛み合ってしまっているのである。それは、学生が、授業で教師の口から「当為」命題(ex.いじめはやめるべきだ、等々)を引きだそうとする場合に於いてそうであるだけでなく、「相対化」の場合にも同じ構造が見られる。
 授業の感想で、学生が、「別の見方もあるのだとわかった」といったことを書いてくる。これは、授業に「相対化」効果があったのだという指摘であると同時に、これじたいが学生の側の「相対化」の手続きでもある − 要するに、「世の中にはいろいろな見方がある」のだがいざとなったら「至高の現実」にいつでも戻ることができるというわけだ。あるいは、同じくレポートに登場する「机上の論」という言い回し。あるいはまた、社会学の「相対化」的な知見を引用しながら、「常識に流されている世間はおかしいと思う」といった形で、自らの立場をむしろ守る方向で「相対化」手続きを図る場合、等々。ここに見られるのは、社会学者がわざわざ教える以前に、じつは学生の方が、エスノメソッドとして「相対化」の手続きを自在に行使し、それによって「社会学的な知見」を自らの「構え」の内部に着床させ、「居心地の悪さ」を修復しようとしている、という姿である。学生が「相対化」を歓迎するのは、むしろ現実を都合良く「否認」する格好の口実と手口を、社会学者という「権威」の口から引き出し、手に出来るため、ということになりかねない。
 だとすれば、社会学者は、この「居心地の悪い」「授業」において、その「居心地の悪さ」を修復しながらなおただ「社会学的な知見」をやりとりするのではなく、むしろそのやりとりそのものを俎上に乗せるべきなのではないか。それによってはじめて、「知見」が学生の倫理的な次元にまで触れうるのではないか。
 したがって、社会学者は単に「別の「知見」」を提示するだけでは、不足なのだ − もっと、学生じしんを追いつめるようなやりかたでやらねばならない。

4:実践へと動かす実践

 「居心地の悪い」はずの授業の中で教え込まれる「知見」を適当に「相対化」しながら切り貼りし、みずからの生活世界の中にアクセサリーのように取り入れるというという学生の「構え」は、そのまま、「タテマエとホンネ、正論と現実の使い分け」というかたちで、学歴社会問題にとどまらない多くの社会問題言説に共通のエスノメソッドである。だとすれば、このエスノメソッドを(たんに「呪縛から解放される」だけでなく)解明するエスノメソドロジー的な視点には、大きな可能性があると思われる。たんに社会学的な「知見」を(あるいは「別の知見の可能性」を)提示するだけでなく、その提示の「場」=授業そのものを素材として、そこで働いているエスノメソッドの働きを、解明していくこと。それによって、学生を、常識的世界の呪縛から解放する、のではなく、むしろ、呪縛的な日常世界そのものへと直接切り込んでいく(体を動かす、実践する)ための実践的トレーニングとなるのではないか。
 学問を「職業として」ではなく行おうとする学生たちに対して、社会学者はこのようなやり方で触れていくことが出来るのではないだろうか。

【文献】
拙稿「教育社会学教育の社会学」『天理大学生涯教育研究』no.1,1997.


課題研究II   第二報告(報告者:石飛和彦(天理大学))   配布資料 '00/09/17

【補注A:M・ウェーバー『職業としての学問』(尾高邦雄訳、岩波文庫)より】

人は近ごろよく「無前提な」学問ということばを口にする。だが、いったいそんなものがあるであろうか。このばあい問題となるのは、ここにいう「前提」がなにを意味するかということである。もとより、論理や方法論上の諸規則の妥当性、つまりわれわれが世界について知るうえの一般的諸原則がもつ妥当性は、すべての学問的研究においてつねに前提されている。だが、このような前提は、すくなくとも当面の問題にとっては、なんら議論を要しない。ところが、一般に学問的研究はさらにこういうことをも前提する。それから出てくる結果がなにか「知るに値する」という意味で 重 要 な 事柄である、という前提がそれである。そして、明らかにこの前提のうちにこそわれわれの全問題はひそんでいるのである。なぜなら、ある研究の成果が重要であるかどうかは、学問上の手段によっては論証しえないからである。それはただ、人々が各自その生活上の究極の立場からその研究の成果がもつ究極の意味を拒否するか、あるいは承認するかによって、 解 釈 されうるだけである。/・・・ここで知るに値するというのは、なにもこれらの法則によってなにか技術上の目的を達することができるからというのではなく、むしろ − これらの学問をおのれの「天職」とする以上は − 「学問それみずからのために」知るに値するという意味なのである。それがはたして知るに値するかどうかは、これらの学問みずからが論証しうべき事柄ではない。いわんや、これらの学問が対象とする世界がそもそも存在に値するかどうかということ、またこの世界がなにか「意味」を持つものであるかどうかということ、さらにこの世界のうちに生きることがはたして意味あることであるかどうかということ、 − こうしたことにいたっては、もとより論証のかぎりではない。これらは、すべて問題外とされるのである。(p.43-44)
われわれは諸君につぎのことを言明しうるし、またしなくてはならない。これこれの実際上の立場は、これこれの究極の世界観上の根本態度 − それは唯一のものでも、またさまざまの態度でもありうる − から内的整合性をもって、したがってまた自己欺瞞なしに、その本来の 意 味 をたどって導き出されるのであって、けっして他のこれこれの根本態度からは導き出されないということがそれである。・・・そして・・・われわれの任務をわきまえているかぎり・・・各人に対して か れ 自 身 の 行 為 の 究 極 の 意 味 に つ い て み ず か ら 責 任 を 負 う こ と を強いることができる、あるいはすくなくも各人にそれができるようにしてやることができる。わたくしとしてはこのことは、各人のまったく個人的な生活にとっても小さな事柄であるとは思えない。・・・ もとより、ここに述べたような考えは、人生が、その真相において理解されているかぎり、かの神々のあいだの永遠の争いからなっているという根本の事実にもとづいている。・・・このような事情のもとにあって学問がだれかの「天職」となる価値があるかどうかということ、また学問それ自身が何かある客観的に価値ある「職分」をもつかどうかということ、 − これはまたもやひとつの価値判断であって、この点については教室ではなにごとも発言しえないのである。なぜなら、おしえるものの立場にとっては、この点を肯定することがその 前 提 だからである。わたくし自身ももとより自分の仕事を通じてこの点を肯定している。・・・(p.63-5)

【補注B:エスノメソドロジーと「相対化」について − H・サックス】

ソクラテス以前の哲学から最近の少なくともフロイトまでの、いわゆる革命的とされる学説を、その論文の第一パラグラフ − まあ第三パラグラフの場合もあるが − まで読むと、奇妙なことがわかる。それらはすべておよそつぎの内容で始まっている。「人々はこれから私が語ることがらについてすでに知っていると思いこんでいるが、実は知らないのである。しかもそのことを人々に伝えたとしても何も変わらないのである。人々は夢の世界をさまよっているに過ぎないのに、相変わらず目覚めているかのように歩き回るのだ」。ダーウィンも、フロイトも、こんな具合にして語り始めた。我々が関心をいだくのは、この、人々が知っていると思いこみそして使用しているものは、一体何なのか、ということである。(パーデュー大学でのシンポジュウムから。K・ライター『エスノメソドロジーとは何か』p.1.より引用)

【補注C:・・・と、見栄は切ったものの、自分の授業では、・・・】

・小レポート「「大学で教える知識は役に立たないので、面白くない授業は適当にさぼってバイトやサークルをやった方が人生勉強になってよい」という意見があります。この意見についてどう考えますか?」・・・ほぼきれいに、「反対」意見(「役に立たないと言っても何かの役には立つかも知れない」「我慢して授業を聞いて忍耐力を付けるのも人生勉強のうち」「授業料を親に払って貰っているので出席しないともったいない」「学生の本分は勉強である」等々)と「賛成」意見(「じっさいにつまらない授業が多い」「大学生には自由な時間と責任があるので、自分の責任で単位を落とさないように要領よくやるべきだ」)等々、あとは「個人の自由だ」という回答、が毎回でてくる。それぞれにつき論駁をして、「つまり皆さんは授業に出席するにせよさぼるにせよ、自分で論理的な説明をできないのだ、にもかかわらず皆さんは自分の意図で行為していると思いこんでいるのだ、なんと薄気味悪いでしょう?」と脅かす − 
・たいていのクラスで、最初の授業で自己紹介しながら、「教壇から見た図」「それを横から見た図」なるものを描き、授業の「視線」の構造、のようなものに論究する。小レポート「私は授業で学生さんのほうを見ません。どうしたらいいでしょう?」・・・これはあまりうまくいかなかったが、「先生が学生の方を見ないとコミュニケーションがないので「教育」にならない」といった意見や、「学生を野菜だと思えばいい」といった意見、「サングラスをかけて授業をすればいい」といった意見が出たので、現在の大学の授業というのが、そもそも構造的にコミュニケーション不能な条件の中で行われていながら、なおそこで「視線の交錯」がナイーブに希求されているという点、その中でむしろ学生の方が率先して自分を無生物に擬するという点、などにからんでみる。(サングラスについては、サングラスをかけながら分析を行った分析家の話など交えてみる)
・卒論指導の際、学生が「最近の子どもは実体験が少ないので、魚が海で切り身で泳いでいると思っている」と言う − 「あんたそんな変な子ども知り合いなん?」「いえ、どっかで読みました」
・・・

【補注D:「言説」について】

3つの文章を引用しよう:

(A):(「学歴社会」の定義は?) − 偏差値や知能指数など数字で人間の価値を示す社会。(「学歴社会」はなぜおこるか?) − エリート指向が原因だと考える。誰もがよい人材=かしこい人という考えで、勉強ができる人ほど、賢いみたいな考えが、学歴社会を作ると思う。何を基準に能力があるかないかを決める時やはり大学の偏差値が物を言う。優秀な人材を求めるときに、実践で使えるかどうかでなく、勉強ができるかどうかで判断し人間の価値を決めていくうちに学歴社会が成立していったと考える。
(B):(「学歴社会」はなぜおこるか?) − 今の私達の年代の人は、学歴ではなくその人の才能を見るべきだ、と言うが、今の会社を経営している人達の年代は私達と違って、学歴がその人のすべてを表しているように見ているので、どうしても学歴社会が起こってしまう。
(C):「今日の社会では、学歴よりも実力と言われている。実力というのは、実際に仕事を何年もやらせてみた上でないと、誰にそれがあるかわからない。しかし、実力をみるために、試しに二、三年働いてみせるわけにもいかないから、採用する方は、やはり学歴とそれを確かめる試験を判断の基準にしてしまうというのが現実である。学歴がないから、その人間の能力が低いということは決してない。学歴でその人間の価値が決まるわけでもないし、学歴があっても必ずしもその人が、人格的にすばらしいとは言い切れない。しかし、いずれにしても、学歴が持つ効果は大きく、人々の社会的な階級と密接に関係しているのである。身分階級がなくなったからといって、階級がなくなってしまうわけではない。学歴社会が存在している限り、それは社会的な階級、つまり就職という段階において、存続し続けていくのである。」

これらは、いずれも現代の大学生によって書かれた答案の文章である(A、Bは筆者のそれぞれ別の大学の講義の受講生の小レポート。Cは、薬師院仁志「学歴についての諸言説 − 学生答案の質的考察」『教育・社会・文化』no.5,1998,p.88.に紹介されているやはり学生の答案)。これら3つの、互いに面識もないはずの三人の学生による文章を読んで、私たちは鈍い衝撃を受ける。同じだからである。細かな表現や語順の違いは少しずつ含まれるものの、3つの文章は、あたかも同一のジグソーパズルを完成させようとしているように、同一である。別の時・別の場所で3人の学生が同じ答案を書いてしまったこと、さらに言えば、この3人はなんら特殊なケースではなく、ここに取り上げていない無数の答案がやはり同じであること(これを読まれた方はぜひ、「学歴社会の定義を述べよ」というテーマでアンケートを採られるとよいだろう)、これはとても薄気味悪い現象である − はずだ。
 もっとも、この薄気味悪い一致現象を、まったく薄気味悪くないと見る事もできるかもしれない。というのも、上の学生たちの答案のような見解を、私たちは日常的に目や耳にしているし自分自身がいつ口にしてもおかしくないからで、つまり、それはこの社会の典型的な共通見解だからだ。「1+1」の答がいつどこでも「2」であるように、「学歴社会」とくればいつどこでも「学歴で人間の価値は決まらない」云々と口にして当然、というわけだ。
 そうした反論は、おそらく半分はその通りであり、半分は疑わしいと思われる。「その通り」であるのは、上記の学生の答案のような見解がこの社会の「共通見解」だ、という点である。私たちは、上記の見解を、まさしく正論として(ということは逆に言えば一人一人の語り手のオリジナリティよりもむしろ「既視感」を感じながら、しかし「正しいものは正しい!」といういささかの情熱と賛意を込めて)受け止めるだろう。しかし、正論であることと正しいということは違う。もし、この学歴社会批判の見解がこの社会の共通見解であったとして、つまりこの社会の全員が本気でこうした見解をもって行動に移したとしたら、この社会はとうの昔に「学歴社会」ではなくなっているだろう。第一、あの答案を書いたのは学生、すなわち「学歴社会」に積極的に荷担している当人たちであり、しかも「試験」にパスする事を目的としてあれらの答案を書いている以上、あれらの答案の「正しさ」は、そもそも実際において裏切られているのである。言うまでもなくそれは学生たちだけにあてはまるのでなく、同様の「学歴社会批判」を誰もが口にしながら、涼しい顔でこのまぎれもない「学歴社会」に荷担しその中で生きている私たちすべてにとって、上記のような見解は、「1+1=2」が正しいようないみにおいては正しさを欠いているのである。
 積極的な根拠を欠いているのにもかかわらず社会の人々に積極的に(繰り返すならば、むしろ情熱を込めて「正論」として)語られるこのようなパターン化された見解を、「言説」と呼んでおこう。この「言説」が、ひとりひとりの話者のオリジナリティを超えて異口同音に語られ続けることの薄気味悪さを確認しておこう。

【補注E:学歴社会について、小レポートを用いながら・・・拙稿「神話と言説」より】

・・・筆者が以前発表した調査データを再確認しておこう。調査はある地方公立進学校2校(A,B校)と大阪近郊の私立有名進学校1校(X校)の3年生に対して行なわれ、以下の知見が得られた(詳しくは拙稿(1995);特に、紙幅の関係で今回割愛した数表を参照されたい):@設問「学校の勉強や受験勉強で得られる知識は仕事の役に立つ」に対しyes=20.3% という数字は、受験生の受験行動が「技術機能主義的神話」によって導かれている訳ではないと予測させる。A設問「出世のためには高い学歴が必要」に対しyes=37.9% という数字は、調査対象がいずれも進学校である事を考慮すれば決して高い数値とは考えられない。B設問「「一流企業」に入社するのはほとんどが「一流大学」の卒業生である、と思う」に対しyes=39.0% だが、同内容で、「親(保護者)が思っているだろうと思う」に対してはyes=58.5% 、また「世間一般の人々が思っているだろうと思う」に対してはyes=82.0% と高い数値が得られている。「神話」は、さしあたりマイヤーが言う通り、他人の信仰として間接的に信じられているに過ぎない − 「神話の効力は、諸個人がそれを信じているという事実のうちにあるのではない。むしろ彼らが、他の誰もが信じていると「知っている」という事実、そしてそれゆえに「実際的に見る限り」神話は正しい、という事実のうちにあるのである」。
 言う迄もなく上記の「データ」だけから現代日本の「学歴社会」の具体的なメカニズムを解明する事は困難であろう。しかし本稿の関心は「神話」そのものにある。「神話」のありかたを辿るために、ここで新たに補助線として、上記の調査データを大学生(筆者の担当する講義「教育社会学」受講者)が解釈するやりかたに注目する。授業の一環として十数枚の数表の解釈を求められた学生のうち相当数が、次のような特徴的な「解釈」に到達した:@このデータから、私立有名進学校の生徒達が特に「神話」を信じている事がわかる。A受験生本人よりも親や世間の方が「神話」を信じている事がわかる。B従って、受験生が「神話」を信じるのは親や世間がそう教え込んだためだという事がわかる − これらの「解釈」を含む例は以下の通り:

◎ X校はA・B校と比べてほとんどの質問でYESと答えている割合が多く、逆にNOが少ない。全体的にA・Bの2つは割合が似ていて、XはA・Bとは違うといってもいいのではと思う。高い学歴が就職に必要という考えが3校とも現在まで残っていることはいるのだが、10年前と比べてという質問に対してはA・BとXはそれぞれ違う結果がでている。しかし、僕の印象ではX校が強く高い学歴を意識しているのでは?と思っています。
◎ @X校は有名私立進学校だけあって、幼少から親にうるさく言われ、塾に通い、難関を突破してきたからなのか、「勉強や努力は仕事にも役立つ」という回答がA・B校に比べて多かった。又、親とだけでなく友人間でも学歴が話題に登るのも、常に競争意識を持って勉強しているという感じがでている。A気になるのは、X校に於いて「よい就職に学歴は必要」という回答(60.5%) と、「出世に学歴は必要」という回答(37.9%) の差である。A・B校は両回答にあまり差がないのだが。思うに、X校では就職してしまえば後はストレートに実力で出世すると思う人間が多いのではないか?B10年前と今とを比較する問にもA・B校は「今」、X校は「昔」と対照的だが、これも、A・B校に比べX校の生徒は自分が今できているから、そんなに深刻に学歴社会の影響を感じないのではないか?
◎ 統計を見ると、ただいい所に就職するだけのための高学歴だと思う。表2−1、表2−2を比べると、学歴の話を友達より親と話すほうが多いということは、表4−2で一流大学を卒業するといい所に就職できるという考えを思っている親からその時せんのうされていると思う。
◎ 学生は、一流企業に入社するのは一流大学の人であるとは多くは思っていないが、保護者、世間一般の人ではそのように思っている。その部分の考え方はわかれてしまうが、よい就職をするためには、高い学歴が必要であると思うのは学生にもある程度ある。保護者、世間一般の人が学歴重視するために、親との間で、学歴は大切であるとか、実際、就職難である現在会社側はすぐに使える人材を求めるから学歴が大切になるという話が出てくるのだと言える。私立高校は高校の時から学歴重視という考え方があるから、学歴が必要であるという考えが多くなる。
◎ ”生徒は学歴社会を、親・学校・地域(社会)から押し付けられ、刷り込まれている”という事が全体から分かる。中高一貫で6年間も進学について厳しく指導を受けたX校は、さすがに”学歴神話”が続いているようだ。親が子供に高学歴を望むのは(どの学校のデータを見ても)同じである。又、出世は自分の努力次第と思っている傾向があるのか、”出世に高学歴が必要”と答えた人は予想より少なかった。しかし出世をして甲斐のあるような所に就職できるかどうかは、努力よりむしろ学歴で決まると、とらえている(→特にX校)。一番頑張って勉強していそうなX校で10年前より今の方が学歴社会は薄くなっていると感じているのは、意外だった。

これらの「解釈」は端的に誤っている(当然ながら、回答者の親や世間が実際に「神話」を信じているかどうかをこのデータだけから判断することはできない。また、数表の中にはむしろX校(私立有名進学校)生の「神話」懐疑的態度を示すものもある)。にもかかわらず多くの学生がまさにこの「解釈」に到達し得たとすれば、我々はそこに何らかの力学を読み取ることができるだろう。すなわち、自分の信じていない「神話」を他人が信じているだろうと信じる、という形式がここでもまた反復されているのである。
ここで確認しておくならば、意識調査の回答者はいずれも進学校の受験生であり、その意味では学歴社会に最も適合的に受験行動を行なっているはずである。また、データ「解釈」を行なった大学生は当然ながらしかるべき進路選択とそれに見合う受験行動の結果として大学に在籍しているはずである。にもかかわらず彼等は一様に「神話」への不信を表明する。さらに付け加えよう。彼等が「神話」の信奉者と見做した「親や世間一般」は果たして本当に「神話」を信じているのだろうか。受験を題材にしたドラマや小説、新聞や雑誌の記事や投書もまた、自らの「神話」への不信を訴えてはいないか。
要するに、現代の明らかな学歴社会の中で、その成員は皆、口を開けば「神話」への不信を訴えているのである。それは、それぞれが他人を「神話信奉者」に仕立て上げる事によって事態を納得しようとしていたためなのではないか、と考えられる。学歴社会は、デュルケーム的な社会的事実として我々自身の意識に絶対的に外在するにもかかわらず、なお我々自身は学歴社会の参与者=部品としてその一部を成してしまっている。これは不条理な事実である。我々は「神話」への不信を語ることによって自らの意識の上からその不条理を解消しようとしているのではないか、と考えられるのである。だとすれば、極端に言えば、この社会の誰ひとりとして自分では「神話」を信じていなくても、むしろその不信を互いに表明し合う為にこうした「スケープゴーティング」が言説の次元で行なわれることによって「神話」の実体性は維持され得ていると言えるのだ。・・・
(拙稿(1997)「神話と言説」『教育・社会・文化』no.4,p.94-96.より)