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・「生涯教育ゲームの分析枠組/分析可能性」『天理大学生涯教育研究』no.9.pp.30-49.天理大学人間学部人間関係学科生涯教育専攻研究室(2005/3/22)


生涯教育ゲームの分析枠組/分析可能性

石飛 和彦


0:はじめに

 生涯教育場面にしばしば導入される「ゲーム」は、理論的・経験的研究にとって興味深い対象となる。この点については、すでに別稿で簡単なアウトラインを描き、「空気の協働的管理」という視点を設定した(拙稿(2004))。
 本稿では、「ゲーム」を理論的に分析する枠組みとしてアーヴィング・ゴフマンの議論を取り上げ、検討する。その際、生涯教育専攻の合宿研修で実際におこなわれたゲームを手がかりにする。

1:ゴフマン「ゲームの面白さ」論文

 社会学者のゴフマンは著書『出会い Encounters:Two Studies in the Sociology of Interaction』(1962=1985)の中で「ゲームの面白さ Fun in Games」という論文を発表している。この論文は、次のように書き出される:

日常生活のなかでは、ゲームはリクリエーションの一部であり、そして「ゲームは原理的には、集合的、組織的生活の結束性と持続性に対しては、なんら重要な影響力を持たない」[Roger Caillois]と見なされている。ゲームをすることは面白いことである。ゲームをする動機として一般に認められているのは、この面白さということだけである。・・・真面目な活動は、そこに面白さがあることによってそれ自身が正当化される必要はないのである。それ故にわれわれは、これまで面白さということについての分析的考察や、面白さが相互行為一般に投げかける局面を充分評価してこなかった。この論文では、面白さを真面目にとりあげると、果たして、それを何処まで突っ込んでいけるかということを試みることにする。(邦訳書p.3-4)

 ゴフマンはまず、研究する対象を大きく、「出会いencounter」ないし「焦点の定まった集まりfocused gathering」あるいは「状況づけられた活動システムsituated activity system」と規定する。これは、「人びとが、互いに相手と身体的に直接的に居合わせる場合に起きるあるタイプの社会的配置social arrangement」である(邦訳書「まえがき」p.iiおよびp.4-5)。ゴフマンは言う:

参加者にとって、出会いは次のようなものを伴う。それらは、注意を視覚的および認知的な単一の焦点に集中すること、言語的コミュニケーションにおいて自分を相手に対して相互的かつまた優先的に開放しておくこと、行為の相互関連を強化すること、参加者が相互に観察しあっていることを、各参加者に目と目によって充分に知らせるような生態学的な群れ方をすること、などである。このようなコミュニケーションの配置が与えられると、彼らがそこにいることは、いくつかの表現されるサインによって承認されかつ是認される。そして、そこに「われわれというものの理由づけ」がでてくる。すなわち、わ れ わ れ は、ひとつのことを同時に一緒にやっているという一体感が生まれてくるようになる。(p.4.)

こうした「出会い」の例として、ゴフマンは、「対談、陪審審議、カードゲーム、二人で組んで行なうダンス、身体を近づけ合って行なう共同作業、求愛、ボクシングなど」をあげているが、そのなかでも出発点として「ゲーム」 − もっとも典型的にはチェスやトランプのようなゲーム − を範例としている。
 ゴフマンは、先行研究を引きながら、こうした「ゲーム」を次のように述べる:

リェツラーは遊びと真面目さに関する素晴らしい論文のなかでこのテーマについて述べている。「私はもっとも単純な例から始めることにする。われわれはチェスあるいはブリッジのようなゲームをする。これらのゲームにはプレイヤーたちが守るべきルールがある。これらのルールは「現実」世界のあるいは「日常」生活のルールではない。チェスには、王、女王、騎士、ポーン、その空間、その幾何学、その動きのルール、その要請、そしてそのゴールがある。チェスの女王は本当の女王ではないが、一片の木や象牙でもない。彼女は、ゲームで一定の動きを与えられることによって、明確な意味をもつ、ゲームのなかでの実在なのである。ゲームは女王がそこにおいて女王である文脈なのである。この文脈は、現実の世界や日常生活のものではない。ゲームはそれ自体のひとつの小さな宇宙(コスモス)なのである」。であるから、ゲームは世界を構築する活動である。(p.15-16)

このゲームの「世界」は、「無関連のルール/具現化されるリソース」という表裏をなす仕組みによって構築されている。
 「無関連のルール rules of irrelevance」とは、「ゲーム」の世界を構成する要素以外の要素を、「関係ないirrelevantこと」として、その場面から選択的に排除する仕組みである:

例えば、チェッカーを、四角のリノリューム板の上に蓋をおいてやっても、象眼の大理石をおいてやっても、また特別仕立ての盤の升目の上に色つきの敷石に立っている制服姿の像をおいてやっても、ゲームをする人たちは「同じ」位置から始め、同じ一連の戦略的手番や対抗的手番を行ない、同じ興奮の輪を広げていく。・・・チェスに真から夢中になっているプレイヤーが互いに、袖でかすって脇にやった駒を進んで元に戻すときの無意識的な動作に注目して欲しい。彼らはこの出来事をゲームと関連したリアリティとは切り離している・・・。(p.6-7)

そして、そのようにして外部のリアリティ世界から切り離された「ゲーム」の世界は、「ゲーム」固有のルールに従って「ゲーム」世界内部に固有のドラマを作り上げる。そうした「局所的に具現化される出来事と役割」をゴフマンは「具現化されるリソース」と呼ぶ。  このような理論的道具立てによってゴフマンが提供する構図は、日常的リアリティの世界の中に浮かぶ島宇宙としての「ゲーム」のリアリティ世界、といった、シュッツの「多元的リアリティ」論を髣髴とさせるものとなるだろう。
 ここから、ゴフマンの分析は、各々固有のルール構造によって産出されている複数のリアリティ世界 − さしあたり「ゲーム」の世界とその外部の世界 − が相互にどう重なり合っているか、また、その重なり合いのなかで参与者たちが何を経験し、何がゲーム参与者たちの「面白さ」の経験を産み出すのか、という点に焦点を集中することになる。
 「ゲーム」の場面は、ふたつの次元、すなわち「プレーすること/ゲームすること playing/gaming」という次元の重なり合いとして再定義される(p.24)。例えばチェスというゲームは、そのルールによって決められた盤上で、決められた動きをする駒を使い、ルールによって決められた「白」「黒」というプレイヤーが、ルールによって決められた「勝利」に向けて互いに指し手を繰り出しあう、というゲームである。これは、チェスの「ゲーム」のルールがその内部に局所的に具現化するリソースからなるリアリティ次元での活動である。一方、同じ「ゲーム」の場面は、「ゲーム」の外部のリアリティの中では、社会的リアリティによってあらかじめ規定されたA氏とB氏が、ある社会的文脈のなかでチェス盤をはさんで対座している。この次元では、両者は、まさに「ゲーム」をしている、と記述されるだろう。極端な例として「接待ゴルフ」や「八百長試合」を想起すればわかるとおり、「プレー」の次元と「ゲーム」の次元は重なり合いながら、しばしばズレを含み持つものである。
 ゴフマンは、このズレながら重なり合うふたつの次元の調整の仕組みについて、「変形ルール transformation rule」ないし「透過膜 membrane」という概念を提起する。あらゆる「ゲーム」は、この日常世界のなかで生きるこの私たちによって行なわれている以上、「無関連のルール」だけによって外部から完全に孤立するということはありえないのであって、かならず「プレーすること/ゲームすること」の次元が重なり合いながら成立する。そのとき、「ゲームのリアリティ世界」の中に「外部のリアリティ世界」がどのように浸透し、導入されるか、をコントロールするのが「変形ルール」である。「ゲーム」によって参与者たちが経験する「プレー/ゲーム」のふたつの次元が適切な「変形ルール」によって適切に重なり合うとき、参与者たちは、「ゲーム」の世界に「乗って」いき − ゴフマンの言う「自発的(スポンテニアス)な関与 spontaneous involvement」ないし「自己動員 self-mobilization」 − 、心地よく(過不足なく)没入 − ゴフマンはこの状態を「ユーフォリア(多幸状態)euphoria」と呼ぶ − することができる(逆の状態は「ディスフォリア」、また特にゲーム外のリアリティが過度にゲーム内に浸入して参与者がプレイヤーとしての度を失してしまうことを「あふれ出し flood out」と呼ぶ)。  賭金をかけたゲームを想起してみよう。賭金は、ゲームの勝敗という「プレー」の次元と、参与者の経済状態という「ゲーム」の次元とを、通底させる。賭金のレートは、「変形ルール」のわかりやすい例となるだろう。レートが低すぎると、誰もゲームに本気にならないかもしれない。逆にレートが高くなりすぎてしまうと、ゲームが深刻になりすぎてしまい、参与者たちは「プレー」の次元に没入できなくなるだろう。適度なレート − 変形ルール − を調整することが、「ゲームの面白さ」を産む − ゴフマンの分析する「ゲームの面白さ」とは、さしあたり、このようなものである。
 さて、こうしたゴフマンの分析枠組みは、私たちの関心の対象である「生涯教育ゲーム」の分析にどのような有効性を持つだろうか。

2:簡単な事例

 ここで、ある「ゲーム」の場面を見てみることにしよう。ここで検討するのは、過去の生涯教育専攻合宿研修を撮影したビデオテープのなかに登場している「ゲーム」場面である。ゲームを行なっているのは生涯教育専攻所属の学生であり、一泊二日の合宿研修の中の研修プログラムのひとつとして、「グループごとにゲーム(既存のゲームないしアレンジないし自作したもの)を紹介し・全員に指導して実演する」という課題を行なっていた模様が記録されている。ここでは特に、次のゲーム場面を検討してみる(ルール等についてはビデオ音声の聴き取りにくかった点を補っている):

「人間進化論」

場所:体育館
参加者:全員(80名程度)
ルール:
1)まず、全員がバラバラに床の上に広がって、手足を床につけてしゃがむ。これが「進化」の出発点「ごきぶり」。
2)「スタート」の合図と同時に、各人が相手を探してじゃんけんをする。勝ったら進化して「あひるさん」になる(しゃがんだまま上体を起こして片手でくちばしの格好を作る)。負けた人は「ごきぶり」のまま、また別の相手を探す。
3)「あひるさん」になった人は、別の「あひるさん」を探し、「あひるさん」どうしでじゃんけんをする。負けた人は退化して「ごきぶり」の姿に戻り、また別の相手を探す。勝ったら進化して「ゴリラ」になる(中腰になり胸をドンドンとたたく)。
4)「ゴリラ」になった人は、別の「ゴリラ」を探し、「ゴリラ」どうしでじゃんけんをする。負けた人は退化して「あひるさん」に戻り、また別の相手を探す。勝ったら、立ち上がって「人間になった!」と叫んで、集団の外側に出て、順番に並ぶ。なるべく早く「人間」になる、その順番を競う。

2−1:「ゲーム」の文脈

 この「ゲーム」の場面は、明らかに、いくつものリアリティ文脈の重なり合いの中に存在している。そして、そこに重なり合っている多元的なリアリティが、確かに、重合的にこの「ゲーム」場面に決定的な影響を与えており、その多元的リアリティの様相を抜きにはこの「ゲーム」世界の成り立ちを理解できないことがわかる。
 まず、大まかには、「ゲーム内playing/ゲーム外gaming」という次元設定が可能だろう。しかし、その「ゲーム外」にはさらにいくつかのリアリティ文脈が重合していることがわかる:

・研修プログラムとしての「ゲームの実演」 − この「ゲーム」は、「ゲームを実演してみる」という課題の中でおこなわれている。つまり、参加者はそれを、「ゲームとして」おこなっていると同時に、「生涯教育の研修の一環として」おこなっている。
・「合宿」の一部としての研修 − さらに、この研修プログラムは、年一回一泊二日「合宿研修」の日程の中に、一連のプログラムの一環として組み込まれている。したがって参加者は、この「ゲーム」を「ゲームとして」「研修として」おこなっていると同時にまた「合宿の活動の一部として」おこなっている、ということもできる。たとえば、合宿の目的のひとつとして参加者の親睦を深めることがあげられており、参加者は、ゲームそのものの次元や生涯教育研修プログラムという次元にではなく、親睦という次元において満足を得ている、ということも、可能性としてありうる。
・生涯教育専攻行事としての「合宿」 − 合宿は、専攻の行事として、1〜3回生と4回生の一部が参加する年一回のイベントである。したがって、「生涯教育専攻の行事の一部として」ゲームをおこなっている、という次元も弁別できるだろう。専攻そのものが気に入っているので、合宿やゲームの内容そのものいかんにかかわらず楽しむ、という参加のしかたも可能性としてはありうるし、また逆に、ゲームが・あるいは合宿が楽しかったということによって、生涯教育専攻という準拠集団に対するコミットメントが深まる、ということも起こりうるだろう(おそらく実際に、合宿はじめ専攻行事の多くはそうした機能をもっているだろう)。
・年齢段階の一部としての大学生生活 − 学生のほとんどにとって、生涯教育専攻という集団に属するのは、彼らがほぼ20歳前後の年齢段階にあるという文脈を抜きには語れないだろう。彼らの多くは、高校を卒業後に大学生となることを選択し、その中で天理大学そして生涯教育専攻に属している、という次元を設定することもできるだろう。そこで彼らは、「ゲームをプレイしている」と同時に、「大学生している」ということもできるだろう。

こうした次元をさらに同心円的に拡張していくと、さらに無数の層を設定することができるだろう。同時にまた、このゲーム場面には、必ずしも同心円的でない次元を見出すこともできる:

・たとえば、この場面で、学年ごとの集団の性格を無視することはできない。合宿研修の企画運営を担当する3回生は、このゲーム場面においても、ほかの参加者たちを積極的にオーガナイズすべき位置にある。また、1回生は、新入生歓迎という色彩を持つこの合宿では、皆に紹介され注目される新参者、という位置にある。同じ「ゲーム」場面で、異なるコンテクストにある参加者がgamingしているのである。
・あるいはまた、このゲームに参加している集団は、学年のほかにもあらかじめ自生的に形成されているなにがしかのグループのようなものによってもいくぶんかの分節をうけているだろう。80名程度の、ふだん大学でそれぞれの日常生活をおくっている学生たちが合宿を行いゲームをおこなっているのである以上、この「ゲーム」外での諸々の集団力学というものが、積極的消極的に、ゲーム実践の背景となることは、避けられないことである。同時にまた、逆に、合宿やゲームをおこなうことによって「親睦を深める」ということそのものは、「ゲーム」内で起こったことを、「ゲーム」外の日常生活に波及させていこうとする試みであるだろう。「ゲーム」外の諸々の人間関係は、この場合、「ゲーム」をおこなうことにとって、主要なテーマともなるだろう。
・また、この「ゲーム」場面では必ずしも顕在化しているようには見えなかったが、性別という要素はゲームにおいてしばしば重要なファクターとなる。多くのゲームが、「男女ペア」を単位とするし、また、さまざまな形でのスキンシップを含んでいる。小学生のフォークダンスから合コンの王様ゲームにいたるまで、多くのゲームが男女の性的距離をオーガナイズし各々の目的に従って適切にコントロールしているのがわかるだろう。ここで注目しているゲーム「人間進化論」でも、「ごきぶり」「あひるさん」「ゴリラ」といったジェスチャーをすることは、大人としての自己イメージと食い違うと同時に、男女それぞれのジェンダーイメージとも食い違う可能性をおびている。大学生の男女が、中腰で胸をドンドンと叩きあいながら「ゴリラ」としてじゃんけんをする、という光景は、それ自体としては、かなり異様ではあるだろう。

2−2:「面白さ」とその効果

 にもかかわらず − ここが重要なのだが − この「ゲーム」は、ビデオ記録を見る限り、相当程度に「うまくいっていた」のである。
 ビデオには、「ごきぶり」や「あひるさん」や「ゴリラ」の格好で楽しそうにじゃんけんをし、残り人数が減ってくるとあわてながらじゃんけんの相手を探し、「人間になった」ことで集団の中からうれしそうな笑顔でダッシュで抜け出す参加者たちの姿が残っている。
 この「盛り上がり」について、ゴフマンの分析枠組みは一定の理解を与えてくれるだろう。
 ここでのさしあたりの問題、ないし疑問、は、ここで行なわれた「人間進化論」というゲームが、一見したところ、「子ども向け」のゲームであるように見えるにもかかわらずなぜ参加者に一定の「面白さ」を与えたか、ということである。この問いに答えるには、このゲームのリアリティがどのような「変形ルール」により維持されていたのかを検討するとよいだろう。
 この「ゲーム場面」は、先に検討したとおり、無数のゲーム外の文脈の重なり合いの中に位置づけられて成立している。そのうちいくつかの次元で見るならば、このゲームは参加者のアイデンティティと齟齬をきたす(たとえば、「大人」としてあるいは「大学生」として、あるいは「男性/女性」としてのアイデンティティ)。またもう一方では、いくつかの次元においては、そうした齟齬は存在しない(例えば、「大学生」の彼らは「大人」であると同時に「生涯教育を専門的に学ぶ者」でもある。そして「生涯教育の専門家を目指す者」のための研修プログラムとしては、ゲームというものを実際に自分で実演することは重要で有意義な課題である。また、例えば、この合宿の企画運営を担当する3回生にとっては、率先してにこやかにゲームをやることは義務でもあるだろうし、また新参者の1回生にとっては、先輩たちの活動に積極的に参加する態度を示すことは有効な自己呈示となるだろう、等々)。この「ゲーム場面」では、そうしたいくつかの異なる次元のリアリティがバランスよく調整されていることがわかる − 簡単にいえば、「生涯教育の研修だから」「合宿の行事なら」という「言い訳」が用意されることによって、それ自体としては「子どものやるような」ゲームへの没入が免罪されているのである。
 また同時に、ビデオを見ると、この「ゲーム」はこの場ではかなりルーズに行なわれているということがわかる。厳密にルールを適用するならば、プレイヤーはきちんとジェスチャーをやり・最後に「人間になった!」と叫ばなければならないだろう(決められたジェスチャーをしたり言葉を叫んだりすることは、一般に、ゲームにとっては重要な、それぞれのゲームごとの本質をなす要素である)。しかし、ここでは、そうしたジェスチャーや叫びは、きちんとはおこなわれていない(これがよりリジッドなたとえばチェスの試合であれば、駒の動かし方を無視するといったルール違反は反則となるだろう)。このことは、この「ゲーム場面」において、いわば、プレイヤー各自にある程度のアイデンティティのバランスの調整がゆだねられている、ということを示している。
 プレイヤーは、各々自分の位置づいている重合するコンテクストの間でバランスを調整し、みずからのアイデンティティ(あるいはゴフマンの用語で言う「面子 face」)を維持する。そのコントロールをゆだねられることじたいが「一人前の社会成員」としてのアイデンティティの重要な一部である。この「ゲーム場面」は、一見子どもじみたゲームの枠組みを設定しながら、参加者に、「一人前の成人」としての振る舞いを許し・求めているのである(これは、ゴフマンの同書所収のもう一本の論文「役割距離」のテーマでもある)。そこで、むしろ、この場面でより一層屈託なく「ゲーム」をやってのけるプレイヤーこそがもっとも「一人前の社会成員」としての能力を証明する、という逆転が起こる。「人間進化論」というゲームがこの場で行なわれたことの面白さは、このあたりにある。
 床にしゃがみこみ、あるいは中腰で、「ごきぶり」「あひるさん」「ゴリラ」のジェスチャーをすることは(じつは「子ども」にとってさえ充分に)ゲーム外的アイデンティティを脅かす(ようするに「面子」に傷をつける、あるいは、かっこ悪い、恥ずかしい、照れくさい、等々)ことである。にもかかわらず、そのジェスチャーを躊躇なく堂々とやり、ゲーム世界の中で積極的に相手を見つけてどんどんとじゃんけんをすることができたプレイヤーが、結果的により早く「人間になる」ことができる。このゲームは、いちはやく「人間」としてのアイデンティティを回復して集団から離脱し、ついいましがたまで自分がそうであった動物的状態を客観的に見る視線の主となる、という構造をもっているのである。
 こうした仕組みで「参加者」に一定の「面白さ」を供給することにより、また、このゲームは、ある効果を持つことに成功しているように見える。
 第一に、このゲームは参加者たちに、退行的振る舞いをするための口実を与え、それによってより親密な「親睦」の機会を提供する。このゲームは、「ゲーム世界」の中で、学年や日常的グループ分けや性別の区別なく、また成人という対人距離の敷居を越えて、誰もが「ごきぶり」「あひるさん」「ゴリラ」として出会い、交流するチャンスを与える。これは、「合宿研修」という活動の目的のひとつが「親睦」であることに対応している。
 第二に、このゲームはまた、参加者各々の「自我のコントロール」の学習の場となる。このことは特に、生涯教育の専門家のトレーニングの場面では、意義深いものとなる。というのも、生涯教育の場面では、子どもから成人にいたるまで幅広い範囲の活動に参加し、柔軟にその場面に適応しながら集団をファシリテートしていくことが要求されるからである。その意味では、この場面でこのゲームに充分に没入して「面白さ」の経験をすることは、「生涯教育の研修プログラム」という合宿研修のコンテクストにおいて意義があると考えられるのである。
 ゴフマンの分析枠組がこの「ゲーム場面」について与えてくれる説明は、さしあたりこのようなものであるだろう。

2−3:排除によって成立する分析枠組

 ゴフマンは「ゲームの面白さ」という論文の結論を次のような文章で結んでいる:

対面的相互行為において状況の定義を相互に維持する過程は、関連および無関連のルールによって社会的に組織される。没入することを管理するこれらのルールは社会生活では実質的でない要素、すなわち、丁寧さ、作法、礼儀というような事柄であるように見える。しかし、われわれがリアリティをしっかりと実感することができるのは、外部の世界のゆるぎない性格によっているのではなく、まさにこれらのもろいルールによっているのである。ある状況のなかで居心地良くいられるということは、これらのルールに適切に従っているということによる。そしてそれは、これらのルールが発生させ安定させている意味によって、夢中にさせられているということである。気づまりということは直接接しているリアリティをしっかりと掴んでいないということであり、そして他の人たちが把握しているリアリティを見失っていることを意味している。ぎこちなく、またはだらしなくしていること、間違ったことを言ったり、やったりすることは、一人の危険な巨人になること、すなわち、世界の破壊者になることである。すべての精神病患者や喜劇役者が知っているべきであるように、あらゆるまさに不適切な動作というものは、その場にあるリアリティという薄い袖を突き通すことになるのである。(p.80-81)

なにやら不穏な結語ではないだろうか?
 リアリティという薄い袖を突き通してしまう「精神病患者」という登場人物は、直接には、ゴフマンの調査研究のフィールドが精神病院であったことに由来するだろう。しかし、論文中の次のような一節にあらためて注目すると、どうだろう:

あの見えない新しい服の寓話が、王様に関連していたということは偶然のことではない。裸を無視することの難しさ、裸であるということを認める自分を再確認することに対する強い抵抗は、重要な人物でなかったならほとんど保持されえなかったことである。(p.54)

リアリティという目に見えない・あるいは薄い衣服をめぐる、「王」と「狂人」をめぐるゴフマンの比喩の体系は、私たちに、スケープゴートの力学を想起させずにいない。そして、ゴフマン自身がこの論文のなかでそうした力学をあからさまに描き出してもいるだろう:

・・・ある個人があふれ出すとき、他の個人たちもまたそれに感染したようにあふれ出すことがあるし、また、(自発的であれ、意識的であれ)事件をあたかも起きなかったことのように扱うことがある。さらに参加者が違反者に対して反応する第三の方法がある。緊張に耐えられるレベルを見つけだすために、彼らは公然とこれらのルールを変更し、違反者の苦境をめぐる状況を再定義する。しかしその違反者を も は や 一 人 の 参 加 者 と し て は 扱 わ ず 、 単 な る 注 目 の 焦 点 と し て 扱うわけである。つまり実際上は自発性をもたないパフォーマーとして扱うわけである。例えば、人びとがある人を、あふれ出るまでわざわざからかったりする状況にそれが見られる。あるいは少なくとも「思うつぼ」にはめるように罠にかけることで、出会いに新しい境界ができているにしても他の人たちを一時的にせよその出会いに関与しやすくなるような場合もそうである。(p.55-56)

こうした点に注目しなおすならば、ゲームのリアリティの構築は、「王」の形象のもとに上方から吊り下げられ、また、スケープゴートを「狂人」として形象化し下方へと排除することによって、支えられている、ということができる。私たちが「無関与/関与のルール」によって維持しているゲームの世界は、こうした力学の中に宙吊りにされているのである(おそらくゴフマンの結語に登場するもう一人の登場人物、「喜劇役者」とは、そのゲームの世界を決定的には破壊しない範囲内で縦横に活躍し再活性化させるゲーム内の「両義的英雄」「道化」の形象であるだろう)。
 ここにきて、ゴフマンの「ゲームの面白さ」という論文の結語の不穏な印象の正体が明らかになる。ゴフマンの分析にとって、「ゲーム」の世界がゲーム外の世界から相対的に自立した自己同一性を持っていることは前提条件となっている(ゴフマンが、チェスやトランプといったあらかじめ明確なルール構造を持つゲームを範例としていることを見逃さずにおこう)。ゴフマンのゲーム分析の枠組みは、複数の重なり合うリアリティ次元の間の関連の仕方 − 変形ルール − を分析するものである。そしてそれは、ゴフマンの分析方針からすれば、複数のリアリティの間の「ズレ」を調整する「自己」の葛藤のドラマとなるだろう。ゴフマンにとって、ゲームへの「自発的=スポンテニアスな関与」とは、すでにある − レディメイドな − 「ゲーム世界」にどのくらい自発的にバランスよく没入しているか、その程度問題にかかっているのであり、逆に、ゲームの面白さを感じていない者とは、そのバランスを失しているもの、ということになるわけであり、 − つまりすべてが「自己」の葛藤のドラマへと回収されていくのである。しかし、こうした分析枠組を設定するためには、くりかえしになるが、リアリティそのものの自己同一性を自明視する必要がある。ゴフマンの分析枠組は、ひとつひとつの「リアリティ世界」がそのものとしていかに成立しているのか、という次元の問いを立てない。むしろ、いわば、「ゲームのリアリティの薄い袖を突き通してしまう」者を、「狂人」という形象に閉じ込めて排除する人々の、半ば以上共犯者となる − そのとき、ゴフマンは「ゲーム」の自己同一性を絶対的に保証する超越者としての「王」の位置に身を置くことにもなるのだが − ことによってはじめて、ゴフマンの分析枠組は成立するのである。だとすれば「ゲームの面白さ」論文の結語の不穏さとは、その痕跡なのではないだろうか?
 ゴフマンの注釈によるならば、この「ゲームの面白さ」論文の発想のもととなったのは、当時まだ未刊行だったハロルド・ガーフィンケルの論文"A Conception of,and experiments with, 'trust'as a condition of stable concerted actions"である。ガーフィンケルはそのなかで、次のような実験を学生にやらせている(図1):誰かと「三目並べ」をやる。相手(X)が一手目をどこかに書き込んだら、何食わぬ顔で桝目から外れたところに自分の手(O)を書き込んでみる。相手はどう反応するか − ?


( 図1 )Garfinkel(1963),p.197.

実験台たちは、みな、めんくらいながらも、「そこで何が − どんなゲームが − 起こっているのか」をその場その場で柔軟に − 例えば、思っていたのと違うゲームなのか、あるいは冗談、あるいは実験者が何か他の事を考えてうわのそらだったのか、あるいはちょっとしたギャグでナンパを始めようとしているのか、等々 − 推測し対応しようとし、そしてそれ以上に実験の度が過ぎると − 怒り出した。すなわち、「ゲーム」が行なわれる際には、その「ゲーム」の自己同一性を維持するための作業が「ゲーム」の進行中を通じて不断に行なわれるのであり、そして、その作業は、「道徳的 moral」な性格を帯びている − それを破壊するものは、憤激の対象となり、排除される(「おまえとはやってられん!!」等々)。
 ガーフィンケルが照準しているのは、いわば、ゴフマンとその登場人物たちが「狂人」として排除するであろう参与者の視点から見られた風景である。ガーフィンケルの有名な「期待破棄実験 breaching」が実験的に開示するのは、ゴフマンの視点がまさに視界から排除する次元である。「ゲーム」に参加する自己のドラマではなく、「ゲーム」そのものが、その場においてまさに「ゲーム」として成立しているための条件 − その条件は、実際の「ゲーム」場面においていかにして協働的に達成されているのか − 「ゲーム世界」は、その場その場でどのような秩序として立ち上がっているのか − 等々。
 ゴフマンの分析枠組が「ゲーム」の分析に一定の有効性を提供していることは、言うまでもない。先に検討した「人間進化論」ゲームなどは、まさにゴフマン的なゲームであり、ゴフマンの分析によってその面白さと有効性が測定される好例だと思われる。しかし、同時に、そのようなゴフマン的な分析枠組そのものの可能性の条件 − それはすなわち、ゴフマンが共犯者となっている「ふつうの」ゲーム参加者の視点が成立する可能性の条件でもあるだろう − を問うような次元 − ガーフィンケル的な次元 − もまた、成立する。こうした問いは、ゴフマンのそれとは通約不能で非対称的に異なる社会学的探求の領域を開くのである。

3:ゲームの分析可能性

 「人間進化論」のビデオ記録には、一瞬、奇妙な人物が映りこんでいる。盛り上がっているゲームの渦中で、彼は、呆然と凝固している − 彼だけが、乗り遅れてしまったのだ。彼は、ゲームが終わるまでの間、曖昧な姿勢を保ちながら、時間をやり過ごすことしかできないでいる。ゴフマンであれば、彼の自己がいかにゲームに没入しそこない、あるいはゲーム外のアイデンティティとのバランスを計り損ねてゲーム内に過剰な自己をあふれ出してしまっているか、そして、この「人間進化論」というゴフマン的なゲームにおいて、そうした参加者こそが最後まで「進化」に取り残され、「未熟」な自己を可視化してしまう、というありさまを、皮肉めいた筆致で多少なりともドラマティックに描き出しもするだろう。そして、そうした分析は、それ自体として、まったく的を射ているといって間違いないだろう。
 ところで、しかし、本稿で提案する視点は、まさにこの取り残された彼からのものである。彼は、ゲームに乗り遅れていたたまれない気持ちでいることはたしかである。しかし、それだけではない。彼の視界に広がっているのは、ゲームの参加者たちがいきいきとゲームの世界の中で活動している姿そのものである。「ゲーム内」にいるプレイヤーたちにとってごく当たり前であるような「ゲーム世界」がそこには醸成されている。そこには、いわば、ゲーム参加者たちが協働で作り上げ、そのなかでひと時の生を営んでいるような共同的なゲシュタルト空間のようなものが広がっている。それは、しかし、いったいどのようにして参加者たちによって作り上げられ、生きられているのだろうか?


( 図2 )

このゲームは、数人のグループが司会進行を担当して実施された。(図2)は、進行役(中央右)の学生が、グループメンバーの模範実演つきで最初のルール説明をしているところ。「あひるさん」どうしがじゃんけんをして、勝ったほうが進化して中腰で胸をドンドン叩いて「ゴリラ」。負けたほうは「ごきぶり」に逆もどり・・・笑い・・・。


( 図3 )

こうした簡単なインストラクションから、すぐにゲームが始まる(図3)。最初は「ごきぶり」ばかりだったのが、徐々に「進化」が進み、「人間」になる者もでてくる(図4)。


( 図4 )

興味深いのは、先に指摘したとおり、参加者たちがかなり適当なジェスチャーしかしていないことである。図からは、彼らがこの場面のなかでかなりアバウトにしかジェスチャーをしていないということが読み取られる − にもかかわらず、彼らは、それらをそのつど「ルール適合/ルール違反」として分離・可視化することなく、すなわち適宜「ゲーム」のルールのシステムそのものを調整しながら、どのようにしてか、はっきりと「ゲーム空間」を協働的に作り上げ、そのなかに没入しているのである。
 (図5)は、ゲームが進行して、かなり人数が減ってきた状態。多くの参加者は、すでに「人間」になって、周囲をぐるりと囲んで、中央に残されたプレイヤーたちを一方的に見ている。


( 図5 )

最初のインストラクションでは、「人間になったら「前に出て」並ぶ」としか言われていなかったにもかかわらず、実際にゲームを進行してみると、中央に取り残された者を周囲から一方的に見る、という視線の空間構造が作り上げられた − なぜなのだろうか − ?
 (図6)(図7)は、かなり最後に近くなって「人間」になったプレイヤーが、ダッシュで集団から離れるところ。中央の集団とそれを取り巻く列のあいだに、プレイヤーを走らせる重力場ないしゲシュタルト空間が形成されている。彼が走るのは、たんに周囲からの視線の集中を回避したいという理由ではない − 彼の表情は、彼の運動が「ゲーム内」の力学によって、「ゲーム」を楽しみながら、おこなわれていることを示している。


( 図6 )


( 図7 )

ここに形成されている「ゲシュタルト空間」ないし「ゲーム空間」は、この「ゲーム」場面に特有のものである。例えば(図8)(図9)を見てみよう。同じ体育館で同じ学生たちがしゃがんだり立ったりしているのだが、(図3)(図4)とはあきらかに違う「空気」を作っている。


( 図8 )


( 図9 )

実は、(図8)は(図2)の説明の最中にカメラが学生たちを映したもので、(図9)もまた、別の説明を聞いている学生たちである。おおまかにいうならば、視線や表情や身体配置が、「説明を聞いている協働的空間」を作り上げていることが見て取れる。(図8)の中央で、ちょうどこちら側を向いている学生がいるが、彼女はこの空間の中では、「ひとりだけ横を向いている」ように見えるだろう − すなわち、この空間が、彼女の身体の向きを逸脱的なものとして可視化するように構造化されているのである。
 (図10)は、同じ合宿の記録ビデオに残っている、別の時間・場所の映像である。1日目の晩のミーティング風景であるが、この空間は、(図8)(図9)の空間と似た構造を持っているようにみえる。


( 図10 )

ただし、(図10)のほうが、より明確に構造化された空間であるように見える。同じ人数の同じ集団が、同じ「説明を聞くこと」を行なっているのだが、微妙に違った空間が作り上げられているとすれば、それはなにによるものなのだろうか?
 (図11)も同じ部屋で同じ1日目の晩。懇親会のプログラムのなかで、やはり簡単なゲームを組み込みながら、何人かずつ自己紹介を全員の前で行なっている場面。


( 図11 )

(図10)と同じ「説明を聞く」場面と見ることもできるが、また、少数者をみんなが一方的な視線の対象とする、という意味では、ある面で(図5)に近い視線の構造を持っているともいえる。縦長で前面に黒板と教卓のある研修室の物理的構造が、ここで、縦方向の視線を優先的に導くような空間を構成するための重要なリソースとなっている(容易に気づかれるとおり、この空間は、さらに学校の教室という空間を想起させる。そこでは、黒板や教卓のほかに、碁盤目状に配列された机や椅子が重要なリソースとなっている。この机や椅子の大きさや形状や素材は、そこに座る生徒たちの身体の配置を強力に構造化する(たとえば、逆に、大きくやわらかいソファ状の机・椅子、あるいは畳に文机と座布団、を想起するといいだろう)。この教室という空間構造の中では、生徒の姿勢のひとつひとつが、机や椅子の配列をマトリックスとしてはっきりと可視化され、教育的視線ないし規律訓練ないし矯正のターゲットを示すことになる。明治期の日本に学校教育が立ち上がる際、学校の校舎や教室や机・椅子の寸法や配置まで、ことこまかに西洋から模倣・輸入された(森(1993)を参照)。いうまでもなく、学校教育という「ゲーム」は、こうした物材をリソースとして構造化される「ゲーム空間」によってはじめて成立する)。
 ただ、同じ研修室の空間が、必ずしも(図10)(図11)のように斉一的に構造化されるとはかぎらない。


( 図12 )


( 図13 )

(図12)(図13)は、懇親会のフリートークの場面である。先ほどとは別の側面がリソースとして空間の中に具現化される。特にここでは、壁際が背もたれとしてもちいられるためか、部屋の周辺部に連続的なコロニーが形成され、また、部屋の中央部にも数人ずつの輪状のコロニーが形成されている。その間を、何人かが動き回っている、という空間構造である。この場面は、一見したところ(図3)(図4)(図5)に似ているように見えるが、しかし明らかに、空間構造が異なっている。(図12)(図13)は、より自然発生的なものに近い、コロニーの群体のような多焦点的なゲシュタルト空間を形成している。
 一連の図を見て、ふたたびゲームの映像に注目するならば、この「人間進化論」というゲームが、体育館の物理的広さといった条件までも含めたさまざまなリソースを援用しながら、ルールのシステム(これもまた言語的な次元でのリソースのひとつであるが)とその場での協働的実践によって、この集団のゲシュタルト空間をオーガナイズしている様子が改めて見えてくる。最初は(図8)(図9)のように(あるいは(図10)(図11)のように)、斉一化されていた参加者の身体配置を、一度、(図3)(図4)のように撹拌し、相互行為を促進させる空間 − だれもがじゃんけんの相手を探して互いを「ごきぶり」「あひるさん」「ゴリラ」として視認し接触しようとする空間 − を作り上げる(これは、一見、(図12)(図13)と似ているように見えるが、(図12)(図13)が自生的で静的なコロニーの群体であるのに対し、このゲームは、そうしたコロニーを解体して、諸身体をより開かれた態勢にさせている)。そして、その騒然とした空間のなかから、次第に、中央に残された少数者と彼らを周辺部から一方的に見る多数者、という視線の構造が浮かび上がる((図5)(図6)(図7))。
 ゴフマン的な分析 − 他者の視線にさらされる自己のドラマ − が可能となる条件は、このような視線構造がこの場面のなかで達成されることにかかっている。「ゲーム内」で具現化されるリソースは、ゴフマン的な分析が俎上に乗せるような社会的コンテクストやゲーム外的アイデンティティばかりではなく、体育館の広さや形、窓からさす自然光の明るさや声の響き方まで含め、無数にその場に生起しているし、ゲームの参加者それぞれにとって各々異なるものである。それはむしろ、状況内で、ゲームの空間を協働的に作り上げながらそのつど初めて見出され具現化されていく − ちょうど、ガーフィンケルの実験の対象者が、ゲームの最中にそのつどさまざまなコンテクストを援用しながら「そこでどんな「ゲーム」がおこなわれているか」をアイデンティファイしようとしていたように。

4:課題

 ここで、もういちどゴフマンの文章を引用しよう:

参加者にとって、出会いは次のようなものを伴う。それらは、注意を視覚的および認知的な単一の焦点に集中すること、言語的コミュニケーションにおいて自分を相手に対して相互的かつまた優先的に開放しておくこと、行為の相互関連を強化すること、参加者が相互に観察しあっていることを、各参加者に目と目によって充分に知らせるような生態学的な群れ方をすること、などである。このようなコミュニケーションの配置が与えられると、彼らがそこにいることは、いくつかの表現されるサインによって承認されかつ是認される。そして、そこに「われわれというものの理由づけ」がでてくる。すなわち、わ れ わ れ は、ひとつのことを同時に一緒にやっているという一体感が生まれてくるようになる。(p.4.)

ゴフマンが「ゲームの面白さ」論文で最初に「出会い encounter」ということばを規定した文章である。あらためて読み返すと、ここには、そのあとのゴフマン的分析で切り落とされていく視点が含まれていることがわかるだろう。ここに描かれているような生態学的な条件が、「ゲームの面白さ」を産出しているのだ、とはいえないだろうか。それは、ゴフマンのゴフマン的な分析の手前にあるのである。
 「ゲーム」そのものが、ゴフマンのような社会学者やゲーム参加者自身にとって可視的となり分析可能となる方法 − 分析可能性 − の探求、という課題について、冒頭に述べた拙稿においてすでに、「空気の協働的管理」という比喩を提起している。ゲームが「うまく」行なわれているとき、そこには、「空気」が成立している。その「空気」は、その状況内で、ゲームのルールと状況内の物理的・社会的・等々の諸側面をその場その場での資源としながら、参与者たちによって適切に管理されている。特に、生涯教育場面に導入されるゲームにおいては、チェスやトランプ、野球といったレディメイドな型を持ったゲームとは異なって、その場その場での状況的な変異に適切に適応しながら、またさまざまに異なる参与者の属性や目的や社会的文脈等々に応じて、スポンテニアスに維持されることが不可欠である。じつにそのことこそが、生涯教育ゲームの教育的効果の重要な部分をしめる − つまり、「空気の協働的管理」のトレーニングとなる − のではないか。しかし、そのことは、往々にして看過されている。
 生涯教育ゲームのテキストは、しばしば、ゲームを、現実を単純化したシミュレーションのようなもの、と定義する。すると、教育研修によって得られる「効果」とは、単純化された現実の要素を反復的に予行演習するトレーニング効果にあることになる。そして、同時に、ゲームがゲームである必然性として、「ゲームの面白さ」は、単純な反復演習にいくぶんかの味付けをして、参加者を積極的にゲーム内に動員するための付加的な要素、ということになる。こうした二分法が、ゴフマンの分析枠組にそっくり再現されていることを、本稿では見てきただろう。
 ゲームは、たんに現実を単純化したシミュレーションのようなものではないし、ゲームを行なうことの教育的効果は、単純化された現実の要素を反復予行演習することにあるのではないし、ゲームの面白さは、その反復演習にいくぶんかの味付けをするための要素ではない。生涯教育ゲームのテキストやゴフマンが見出しているような、自己同一的で透明な「ゲーム(とその効果)」とその「面白さ」との二分法は、じつは、空気の協働的管理によってその場その場で「ゲーム空間」を産出し管理しその中で生きる参与者たちの活動の次元から、排除とスケープゴートの力学を経て抽象化をほどこされることによってはじめて見いだされうる(乱暴に言うならば、「疎外態としての」)ふたつの側面に過ぎない。じっさいには、ゲームとは、それじたいが、その場面において達成されるひとつの協働的リアリティ空間であり、その協働的リアリティを達成する − 空気を協働的に管理すること − が、ゲームの効果でもあり、すなわち、面白さでもある。
 本稿がゴフマンの議論を検討しながら提起したのは、そういった視点である。そのために、「ゲーム」そのものの可視性・分析可能性の次元の解明は、理論的にも実践的にも大きな意義を持っていると思われるのである。


【 文献 】

Garfinkel,H.(1963) "A Conception of,and experiments with, 'trust'as a condition of stable concerted actions" in O.J.Harvey(ed.), Motivation and Social Interaction.New York,Ronald Press,pp.187-238
ゴフマン、アーヴィング(1961=1985)「ゲームの面白さ」『出会い』誠信書房
石飛和彦(2004)「教育場面に導入される「ゲーム」について −「空気」の協働的管理 −」『天理大学生涯教育研究』no.8.pp.23-35.
森重雄(1993)『モダンのアンスタンス』ハーベスト社