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・「ハロルド・ガーフィンケルのテキストにおける「受肉」のモチーフ」『教育・社会・文化』no.7,pp.1-23.京都大学大学院教育学研究科教育社会学研究室(2000/7/30)


ハロルド・ガーフィンケルのテキストにおける「受肉」のモチーフ
The motif of "incarnation" in the work of Harold Garfinkel

石飛和彦


0:はじめに

 デパートのウインドウの中に女性が立っているのを見かける。次の瞬間、それがマネキン人形であることに気付く − 「エスノメソドロジー」誕生まもない時期に書いた論文「降格儀式を成功させるための諸条件」の中で、ガーフィンケルはこのような印象的な例を用いている(Garfinkel(1956),p.421.)。それはさしあたりそれだけの例にすぎない。しかし、この例の奇妙に無気味な印象を、心に留めておきたい。なぜなら、たとえば精神医学の古典的な症例に見ることのできる次のような体験が、相似的に透けて見えるからである:

ある日、私が校長室にいたときのことでしたが、突然室が途方もなく大きくなり、偽りの影を投げかける恐しい電光に照し出されました。あらゆるものは精巧で滑らかな、人工的で極端に緊張したものになり、椅子やテーブルは、そこここに置かれた模型のように思われました。生徒も先生も、理由もなく実在性もなく回転する操り人形であり、私は何一つ認識できませんでした。それはあたかもこれらの事物や人々から、現実が希薄になり、滑り出してしまったようでした。私は底知れぬ恐怖に圧倒され、救いを求めて絶望的にあたりを見渡していました。人々の話し声は聞えましたが意味は把握できませんでした。声は金属的で、温さも陰影も感じられず、時折り、一つの言葉だけが他の言葉から、まるでナイフで切断したかのように切り離され、頭の中をぐるぐると不条理にかけまわっていました。(セシュエー(1950=1955),邦訳書p.12.)

ガーフィンケルがいくぶんかユーモラスに引いた喩えの本質的な無気味さは、実は、ある人々にとってはその一点ゆえに世界が崩壊してしまうような悲痛な生々しさに直結している。ガーフィンケルを読むとき、私たちは、例えばこうした悲痛な生々しさを汲みながら読んでいかなければならないのではないか − 例えば、有名な「実験」で彼が学生に命じたレポートの記述:

背の低い太った男が家に入ってきた。私の頬にキスをし「学校はどうだったい」と尋ねた。私は愛想良く返事した。彼は台所に入って行き、二人の女性のうちの若い方の女性にキスをし、もう一人に「やあ」と言った。若い方の女性が私に「ねえ、夕飯は何がいい?」と聞いた。私は「別に」と答えた。彼女は肩をすくめ、それ以上何も言わなかった。年長の女性はぶつぶつつぶやきながら台所を動き回っていた・・・(Garfinkel(1964=1989),邦訳書p.46.)

この記述を、ガーフィンケル理論を例証する単なる「実験」のデモンストレーションとしてではなく、その記述の悲痛さに於いて − この記述は、まさに自分の「家族」の団欒風景から「現実が希薄になり、滑り出してしまったよう」な、「理由もなく実在性もなく回転する操り人形」たちによる「精巧で滑らかな、人工的で極端に緊張した」姿を開示している − 読まなければならないのではないか?
 ガーフィンケルを、現象学的認識論・方法論のテキストとして読むのではなく、なによりまずいわば「生」をめぐるテキストとして読むことが、本稿の試みである。そのためにまず、彼のテキストの「受肉」のモチーフに注目することにする。

1:「受肉」の論理構造とその社会学的形態

1−1:キリスト教神学における「受肉」論の位置

 ハロルド・ガーフィンケルは、主著『エスノメソドロジー研究』第1章を次のように書き始めている:

以下の諸研究は、実践的活動・実践的環境・および実践的社会学的推論を経験的研究のトピックとして扱い、日々の生活の最もありふれた活動に対してあたかも異常な事象に対する時のような注意を向けることによって、それらをそれら自体の権利においてある諸現象として研究しようとするものである。これら諸研究の中心的な主張は次の通り。すなわち、成員たちが日常的な諸々の出来事からなる組織化された諸状況を産出し維持していくために行なっている諸活動は、それらの諸状況を「叙述−可能」にするための成員たちの手続きと同一のものである、ということだ。叙述実践と叙述との「反映的」・「受肉的」な特徴は、上の主張の中でも重要な問題を成している[The "reflexive," or "incarnate" character of accounting practices and accounts makes up the crux of that recommendation] 。(p.1)

ここに登場している「受肉 "incarnate"」ということばは、もともと、キリスト教神学的な背景を持つ用語である。キリスト教神学における「受肉」論の教理上の詳細については本稿で立ち入って論じることはできない。ここでは本稿の目的に必要な範囲内で「受肉」概念を概観しておく。
 この用語のキリスト教的用法は、ヨハネ福音書第1章14のラテン語訳聖書に由来する。同箇所は、四福音書の中でも神学的色彩の強い同福音書の第1章冒頭部、「初めに言[ことば、ロゴス]があった」という言明に始まる、いわゆるヨハネのロゴスの思想が語り起こされている序説の部分の、有名な一句である − 「1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」。
 単純化を恐れずに言うならば、この記述(を含む「受肉」論)こそは、キリスト教の独創性とギリシャ哲学的思考体系との間にひとつの接点を設定した、極めて戦略的なテーゼである。接点を設定したとはすなわち、(a)ギリシャ哲学(またストア哲学)で用いられていた「ロゴス」なる語を用いることによって、ギリシャ・ローマ世界に向けて福音を解説した、ということであり、それによって同時に(b)ギリシャ哲学的な「ロゴス」的思考に対する「キリスト=ロゴス」論の特異性を鋭角的に提示した、ということである。  (a)「ロゴス」という観念は、ギリシャ哲学の伝統において重要な役割を果たしていた。それはギリシャ哲学の二元論的な思考体系の中に位置づけられており、必滅無常の経験的・感性的・物質的な世界に対する、イデアルな先験的「理性」としての「ロゴス」が措定されることになる。ヨハネのロゴス論は、イエスの秘儀を、「ロゴス」と「肉体」というかたちで、二元論的な図式に対応させ翻訳する役割を果たした。
 (b)しかし同時に、それによって、ギリシャ哲学的二元論的体系(ないしは、より直接的にはヘレニズム的な異端 − イエス・キリストの「受肉」を認めないコリントのグノーシス主義的「仮現論」(ギリシャ的二元論に立ち、霊的存在たるキリストはただ人間の肉体をいわば「住まい」として用いただけに過ぎず「見かけ上」人間になったに過ぎない、とする)に対する一連の論争的なテキスト「コリント人への第一の手紙」「コリント人への第二の手紙」「ヨハネの第一の手紙」「ヨハネの第二の手紙」が、その経緯を示している)にまさにおさまらないものとして、イエスの秘儀を提示することになった:

「神の言」という概念は、新約聖書が旧約聖書神学から受けついだものだったのである。言(ヘブル語「ダーバール」)は(知恵や聖霊と同様)旧約聖書の神学においては、神の創造的な働きを語る諸方法の一つだった。神は、その「み言」によって、世界を造られたのである。・・・つまり神はただ言葉を発しただけで世界を造られたという意味であった。「神は・・・あれと言われた。すると・・・があった」(創世記)。創造における神の至高の力を記述するのにこれ以上に印象的な、あるいは非擬人的な方法は考えられなかったであろう。(リチャードソン(1958=1967),p.263)
フィロンやギリシア哲学者たちの言う純粋な〈ロゴス〉は、神的であるがゆえに、悪しき物質、すなわち堕落せる肉とは何のかかわりも持ちえないものであった。だから単に神とともにあっただけでなく、実際に神であった(あるいは神的であった)〈ロゴス〉の「受肉」という主張ほどはっきりと、ヨハネ思想のヘブル的、聖書的性格を示すものはないのである(ヨハネ1:1)。〈ロゴス〉が肉体化したのである。そんなことはフィロンやストア哲学者たちにとって、考えることはできなかったであろう。また、たとえ抽象的に考ええたとしても、それを知ることはできなかったであろう。(p.266-267.)

超越的な神性である「ロゴス」が「肉体」のかたちをとって − 抽象的・非人称的な永遠不滅の存在としてではなく、ナザレのイエスという歴史的・具体的な死すべき人格として − 現れた、という言明は、すなわち、ギリシャ的二元論がイエス・キリストにおいて − 繰り返すならば、その人格が具体的な生々しい肉をもって存在するという一点に於いて − 現実に廃棄されることを主張するものなのである。

1−2:社会学的「仮現論」

 このように「受肉」概念の含意を確認した上でそれを社会学的文脈に戻すならば、その戦略的な方向性が浮かび上がってくるだろう。それは、社会学的な領域におけるギリシャ的二元論への批判、あるいはより踏み込んで言うならば、社会学的「仮現論」への批判、という戦略的な方向性を含意しているだろう。ここで言う社会学的「仮現論」とは、具体的には、例えば『エスノメソドロジー研究』と同時期におなじアルフレッド・シュッツの影響下で「現象学的社会学」を展開していたと目されるピーター・L・バーガーの、例えば次のような文章に顕れているようなものである。今なお根強い人気を得ているテキスト『社会学への招待』から、いささか長くなるが引用しよう。
 同書の第5章「人間の中の社会」において、「役割論」と「知識社会学」という二つの社会学的潮流に言及しながら、彼はある「人間観」を語る:

役割論は、・・・社会学的人間学、つまり社会内存在に基礎をおく人間観を与えてくれる。この人間観に立てば、人間とは、社会という壮大な演劇の中で劇的な役割を演じるもの、しかも、社会学的に言えば、そうするためにかぶらなくてはならないもろもろの仮面そのものに他ならない。人間という人物も、・・・その演劇上の語源に忠実に、今や演劇的脈絡で登場する。人物とは役割のレパートリーによって成立っていると見なされ、それに対応して各役割には一定のアイデンティティがきちんとそなわっている。個々の人物の活動範囲は、その人物が上演可能な役割の数によって測定することができる。ある人物の生活史は、今や人生という舞台で、異なった観客に対して行われる演技の絶えざる連鎖としてあらわれてくる。・・・そこでは常に、行為者とは、彼が演じているものであるということが要求されている。(p.155)
・・・個人は、その役割やアイデンティティをえてくるのとほぼ同じやり方で、彼の世界観を社会的に導き出してくるのである。言いかえれば、個人の行為と同様彼の感情や自己解釈も、個人にかわって社会によってあらかじめ定義されているのであり、同じことは、個人を取り囲む宇宙への認知的接近の仕方にも当てはまるわけである。この事実をアルフレッド・シュッツは「自明な世界(world-taken-for-granted)」という言葉で把握している。つまりそれは、各々の社会がその歴史過程のうちにうみだしてくる、一見したところでは自明で自己確証的な、世界に関する諸仮定のシステムのことである。この社会的に規定された世界観は、少なくとも部分的には社会の用いる言語の中にすでに与えられている。・・・ある人間の言語は、その人間の現実との関係を形づくる手助けとなることだけはほぼ疑いえない。そして、われわれの言語がわれわれ自身によって選択されるものではなく、われわれの最初の社会化を託されている、特定の社会集団によって押しつけられるものであるということはもちろんである。われわれが世界を把握し、われわれの体験を秩序づけ、われわれ自身の存在を解釈する際用いる、あの本源的な象徴的装置 − これを社会はわれわれにかわってあらかじめ定義するのである。(p.171-172)

この文章に見られるのは、素材としての「生」が、「役割」「仮面」「アイデンティティ」「諸仮定のシステム」「言語」といった一連の形相によって秩序づけられ、みずから「社会」的存在になる、という二元論的な構図である。興味深いのは、こうした構図を表現するためにバーガーが用いる比喩である。というのも、まさにわれわれが本稿で出発点としたイメージがそこに喚起されているのだ:

今や、社会のうちへのわれわれの幽閉は、外的諸力の作用に劣らず、われわれ自身の内部からの影響をこうむったものとして浮かび上がってくる。社会的現実の描写としては、人形芝居というのが、今やよりふさわしいものだろう。幕が上がると、そこではさしずめ、眼に見えない糸に操られながら跳ね回っている小さな操り人形たちが、上演されるべき悲喜劇の中で、自分たちに振り当てられたちょっとした役柄を陽気に実演しているというわけである。しかしながら、このアナロジーでは十分とは言えない。人形芝居のピエロは意志も意識も持っていないが、しかし社会という舞台におけるピエロは、筋書の中で彼を待ち受けている運命以上のものは何一つとして欲しないのだから。しかも、彼にはそのことを証明するための全哲学体系があるのである。(p.177)

ここで登場する「操り人形」は、意志を持ち意識を持ちながら、自らに押しつけられた運命を自ら欲することしかしない、サルトル的な「自己欺瞞」(p.208)に逃げ込む存在である。いくぶんかカリカチュアライズされてはいるが、この「操り人形」のイメージは確かに「受肉」の主題系の中にある。それは、上記引用部に先立ち「幽閉」のイメージを提出している第4章「社会の中の人間」末尾の文章を参照すればいっそう明らかになる:

社会とは、どの個人の生活史よりもはるか彼方にまで時間的に拡がっている、歴史的実在体である。社会はわれわれに先立って存在し、われわれを越えて存続する。社会はわれわれが誕生する以前からそこに存在し、死後もそこにある。われわれの生とは、社会が時の流れの中を荘厳に進行してゆく間に生まれた、ささやかなエピソードにすぎない。つまり、社会とは、われわれを歴史の中に幽閉する壁なのである。(p.135)

ここでバーガーが「社会」と呼ぶものを「ロゴス」と読み替えるならば、先に辿った「受肉」論の構図が再現されるだろう − ただし、正確に言うならば、「社会的存在」の成立をあくまでもサルトル的な「自己欺瞞」に見るバーガーの立場は、キリスト教「受肉」論の論敵たる「仮現説」、すなわち、キリストが人間となったのは「見かけ」に過ぎず、霊的存在が人間の肉体を単なる「住まい」のようにしてその中に仮に住み込んだに過ぎない、という見方により一致しているのである:

この章で検討を加えた現象に言及するのに社会学者が用いる鍵となる用語は、内面化(internalization)である。社会的世界が子供の内部で内面化されるということが社会化過程で生じるわけである。多分質の点では劣るだろうが、同じ過程は、大人が新たな社会的コンテクストあるいは新しい社会集団に加入する際にはいつでも生じるものである。そうだとすると、社会とは、単にデュルケム的な意味で何か「そこにある」ものだというだけではなく、「このうちに」ある、つまりわれわれの最も奥深い存在の一部でもあるのだ。内面化の理解によってのみ、ある社会の大多数の人々にとって、大部分の外的強制がほぼいつでも効を奏するという驚くべき事実が了解可能となる。社会は、われわれの動きを統制するだけでなく、われわれのアイデンティティや思想、感情まで形づくる。社会の構造は、われわれ自身の意識の構造となる。社会は、われわれの皮膚の表面で止まっているということはない。社会は、われわれを包みこむと共に、われわれの内に食い込む。われわれが社会の囚われの身になるのは、社会に征服されてというよりも、社会との共謀によってなのである。確かに、われわれは時折、服従を余儀無くされることがある。しかしこれよりずっと頻繁なケースは、われわれ自身の社会的性質によって罠に陥るということだ。われわれを幽閉させる壁は、われわれ自身によって絶えず再構築されている。われわれは、他ならぬわれわれ自身の協力によって囚われの身に陥っているというわけである。(p.177-178)

ここでどれだけバーガーが、社会の内面化の徹底的であることを繰り返し強調しようとも、バーガーの基本構図が二元論ないし「仮現論」的であることに変わりはない − 同書最終章「ヒューマニスティックな学問としての社会学」の末尾において、彼は、まさに社会学的な認識による自己欺瞞からの「知的解放」という、いわば反転した「グノーシス主義」というべきヴィジョンを提示して締めくくっている:

われわれの議論で以前に登場させた人形芝居のイメージに今一度立ち戻ることにしよう。人形たちが小舞台で踊ったり糸に操られて飛びはねながら、決められた筋道にしたがって、さまざまなちょっとした役割を演じているのをわれわれは見る。われわれは、この劇場の論理を理解するようになり、自分たちもその論理に則ったしぐさをしていることを知る。われわれは、社会の中に自己を位置づけ、こうして社会の巧妙な糸に吊るされながらわれわれ自身の位置を認識する。一瞬われわれは人形としてのわれわれ自身を実際に見る。しかしわれわれは人形芝居とわれわれ自身のドラマとの間の決定的相違を把握する。人形たちと違って、われわれには自分たちの動作をやめて自分たちを動かしてきたからくりを見上げ認識するという可能性が残されているのである。この行為にこそ自由への第一歩があるのだ。そして、この同じ行為のうちに、われわれはヒューマニスティックな学問としての社会学の最後決定的な正当化を見いだすのである。(p.258)

ここで語られている「自由」とは、何か? − みずからの「生」が自己欺瞞によって「社会」と結びつけられている、その姿を社会学的な「知」によって「見る」、そして「認識する」ことによって「自由」への第一歩を踏み出す、というのだから、それはまさに、霊的な知識=グノーシスを所有することによってみずからの霊的実体が肉的実体から解放され自由になるとするグノーシス主義のカリカチュアライズされた陰画だといえよう。そしてそれは、ちょうど、パウロによって批判されたコリントのグノーシス主義が「放埒主義」「禁欲主義」という両極端の倫理的性向を帰結しながら結局霊的「自由」の観念を空疎化しているのと同様の困難に逢着する。バーガーのいう「自由」とは、ある意味では無限大のものである − なぜならわれわれはただ自らの欺瞞を「認識する」だけでいつでもどのようにでもそこから脱却できるのだから − が、同時に、ある意味では限りなく無に近い − なぜなら、そこにはあくまで「からくりを見上げ認識する可能性が残されている」に過ぎず、それも「自由」への「第一歩」に過ぎないのだから − 要するに、バーガーはここで結局のところ、何も積極的な命題を提起できないまま「自由」そのものを取り逃がしてしまっているのだ。
 このような文脈の中で、では、「受肉」概念はどのような社会学的含意を持ってくるのであろうか。

1−3:デュルケーム宗教論による再構成 − 霊魂/身体

 キリスト教的な「自由」とは、霊が肉との結びつきから解放されるか否かが問題なのではなく、むしろ霊肉の統一体として神の支配に服し「働き」をなすときにこそ、キリスト者の真の「自由」があるという:

神の国には、選ばれた自動人形のごときものは存在しない。神はわれわれのうちに働かれる。しかしわれわれのなすべき「働き」がある(ピリピ2:12以下)。恩寵の秘義と逆説は、それがわれわれの自由意志や、われわれ自身の決断への責任を排除するのではないというところにある。われわれの意志が、まったく神に服従しているとき以上に、真の意味で自由であり、完全にわれわれの意志であることはほかにないのである(第一コリント15:10)。(リチャードソン前掲書,p.468)

このことは、なにもキリスト教の教義にのみ当てはまるわけではなく、上に言われている「神」を「社会」と置き換えるならば、ごく常識的な感覚にも合致することがわかるだろう − 「自由」とは、「社会」から切り離されその外側に立つことではなく、あくまで「社会」の中で「社会」によって与えられた活動をどれだけなすことができるか、という点にこそ、ある。当たり前でしょう? このように「神」と「社会」とを互換的に読み替えながら「受肉」論の問題系を社会学的に敷衍していくために、ここでデュルケームの宗教論 − デュルケームこそは、宗教現象の社会的起源を明らかにし、「神」の聖性を「社会」の集合意識の超越性として読み解いた最初の、そして決定的な社会学者である − から、「霊魂」観念をめぐる議論を参照しておこう:

・・・個人の霊魂は集団の集合的霊魂の部分にすぎない。それは、礼拝の基底にある無名の力であるが、しかも、ある個人に化身して、その人格性[personnalite]に応じているのである。それは個別化したマナである。(デュルケーム(1912=1975),邦訳書下巻p.56)
・・・人格の観念は二種の因子の産物であることになる。一つは、本質的に、非人格的[非人称的・没我的]である。これは、集合体に霊魂として役立つ霊的原理である。事実、個人的霊魂の本体そのものを構成してるのはこの原理である。ところが、それは特定の人物の物ではない。すなわち、それは集合的資産の一部をなしているのである。あらゆる意識は、その中で、また、それによって、交通するのである。しかし、他方、各個の人格が存在するためには、この原理を寸断し、これを分化する他の一因子が介在しなければならない。いいかえれば、個物化の因子を必要とするのである。この役割を演ずるのが身体である。身体は互いに区別されているし、また、時間と空間との異なる諸点を占めているので、個々の身体は、集合表象が、異なって屈曲し、染色する特別な環境を構成している。その帰結として、これらの身体に引き入れられたあらゆる意識は、同じ世界、すなわち、集団の道徳的統一をもたらしている観念と感情との世界に臨んでいるには違いないが、これを、すべて同じ角度から眺めているのではない。おのおのが自己流にこの世界を表明しているのである。(p.66)

ここにみられるデュルケームの構図と先に見たバーガーの構図との相違は、明確である。バーガーにおいて単なる「壁」に過ぎなかった「社会」が、ここでは個人の「霊魂」そのものを構成しているのだ。ここから、「自由」をめぐってバーガーとは正反対の解釈が導き出される:

[社会生活が展開していく表象の世界]に支配している決定論は、したがって、われわれの[身体的・有機体的]組織の構造に根を張っているそれよりもはるかに柔軟性に富んでいて、行動者にまさしくもっとも偉大な自由の印象をとどめる。・・・つまり、自らを生理力から解放するわれわれの唯一の手段は、[社会的な]集合力をもってこれに対抗することである。/しかし、われわれは、社会から受けるものをわれわれの仲間と共有するのである。それゆえ、われわれが個別化されればされるだけ人格的であるということは、けっして、真実ではない。二つの用語は、どう考えても、シノニムではない。ある意味では、両者は、含み合っているよりも、対立し合っているのである。情熱は個別化するが、同時に奴隷化する。われわれの感官は本質的には個人的である。しかし、われわれは、感覚から脱却し、概念によって思考し、行動しうるようになればなるほど、より人格的である。したがって、個人におけるすべての社会的なものを主張する人々は、そのために、人格を否定し、あるいは、低めているわけではない。彼らは、単に、これを個別化の事実と混同することを拒否しているにすぎないのである。(p.69-70)

より深く社会的集合力に浸透されることによってこそ、より自由になる、というここでのデュルケームの主張は明解である。しかし、本稿の文脈、すなわち「受肉」論の文脈において見るならば、一見、デュルケームの図式もまた、霊と肉とを二元論的に把握する社会学的な「グノーシス主義的仮現論」に陥っているかに見えなくもない。例えば:

霊魂は・・・一定の有機体に内在している。いくつかの時期に、有機体から脱れ去ることはできるが、ふつうはその囚人である。霊魂は、有機体が死ななければ、ここから決定的に解放されない。(p.71)

という記述は、確かに霊と肉との結びつきの強固さを主張してはいるが、その前提として霊魂と有機体とが二元的にそれぞれ別次元の領域を構成していることをも表現しているかに見えなくもないのである。
 この点については、デュルケームの次の注記が手掛かりになるだろう:

だからといって、われわれは個人的因子の重要さを否定はしない。個人的因子は、われわれの見地からすれば、非人格的[非人称的・没我的]因子とともに容易に説明される。人格性の本質的要素がわれわれのうちの社会的なものであるとしたら、各個人が結合されていなければ社会生活はありえないし、しかも、この社会生活は、個人が多いだけ、また、互いに異なっているだけ、それだけ豊かである。したがって、個人的因子は非人格的因子の条件である。その反対もまた真である。というのは、社会そのものが個人的分化の重要な一源泉だからである(参照:『社会分業論』)。(p.70)

ここに読まれる「結合」「分化」という言い回しに注目しよう。デュルケームにあっては、「個人」が「結合され」て社会をなし、また、それを源泉として差異的な「個人」が「分化」され析出される。つまり、ここでデュルケームが「社会」として指しているものは、キリスト教における、キリストの「からだ」としての「教会」と相似的な存在であることがわかる:

「わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである」(「コリント人への第一の手紙」12:13)
「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。そして、神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、つぎに力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた」(同12:27−28)
「この教会はキリストのからだであって、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ち満ちているものに、ほかならない」(「エペソ人への手紙」1:23)
宗教とは、神聖すなわち分離され禁止された事物と関連する信念と行事との連帯的な体系、教会と呼ばれる同じ道徳的共同社会に、これに帰依するすべての者を結合させる信念と行事である。(デュルケーム前掲翻訳書上巻,p.86-87)

かくして、キリスト教神学のテキストに見られる、教会について書かれた次のような文章は、そのまま、デュルケームが「社会」について語っている文章と薄気味悪いほどの相似をなすことになるだろう:

教会の聖性は・・・神が与えたもうものであって、われわれが自分で造り出すことはできない。われわれは、たとえば義と善行への努力を倍加することによって、自分を聖くするということはできない。聖書において、聖は契約の関係に含まれていた従順の戒めと非常に密接なつながりを持ってはいるけれども、厳密に言えば倫理的特質なのではない。それは類を異にする(sui generis)カテゴリーであって、道徳とか、感情とかいうような、それ自体以外の何者にもおきかえることはできないのである。(リチャードソン前掲書p.485)

デュルケームにあっては、霊と肉とが形相と質料との関係にあるのではなく、むしろ霊肉の統一体としての個々の身体とその諸身体が結合された社会があくまで部分と全体という形で同じ次元の領域に位置づけられている。それはちょうど、個々のキリスト者と「教会」との関係に等しいといえる:

新約聖書における教会の一致は、数学的なものと考えられてはならない。教会は、単に地域的な集会の総体というのではないのである。・・・教会が、有機的一致であって数学的一致ではないゆえに、まったきキリストが、すべての地域的な集会や数的にはどんなに少なくとも、地域的な教会のすべての集会に臨在なしたもうのである。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20,また28:20参照)。教会はキリストとの《交わり》(第一コリント1:9、第一ヨハネ1:3)であり、地域的な諸教会は一つの教会である。なぜならキリストは、全体の中にも、諸部分の中にも、完全に臨在なしたもうからである。・・・新約聖書に従えば、教会は見えざる実在(「神にのみ知られる」)でもなければ、プラトン的「イデア」でもなく、現実のからだを持った存在である。「見えざる教会」などというのはヘブル的思想としては、からだのない霊と同様、相容れないものだったであろう。教会はからだをそなえ、目に見え、手でさわれるものである。それはさまざまな部分ないし「肢体」からなるはっきりした構造を持ち、現実的、地域的である。(リチャードソン前掲書,p.482-483)
・・・ある聖なる存在が分裂するときには、その各部分は、依然として、本来の存在に相等しい・・・いいかえれば、宗教思想については、部分は全体に等しい。部分は全体と同じ力能・同じ効力を持っている。遺骨の一片は遺骨全体と同じ功徳をもつ。どんなにわずかな血の滴りでも、血全部と同じ動的原理を含んでいる。霊魂は、われわれが述べるように、組織体に器官または組織があるのとほとんど同じだけの部分に分裂しうるのである。これらの部分的な霊魂のおのおのは、全体的な霊魂と等値である。(デュルケーム前掲書上巻,p.412)

このようにして、デュルケームは、社会と宗教とがイコールであること、社会がまさに宗教として編成されているということ、われわれが、信仰によってキリストと一体となるキリスト者のようなやり方で社会から霊魂を分かち与えられて生を営んでいるという事実を、ちょうどキリスト教神学が聖書のテキストから教会とキリスト者たちの存在証明をするのと同じやり方で、人類学的な資料から、明らかにしているのである。
 さて、ところで、最近の論文をガーフィンケルは、(例によって人を喰った語り口で)次のように語り始めている:

アメリカ社会学会の年次大会でこんなことがある度に、私はエスノメソドロジーについてあらためて考えさせられる。私はエレベーターを待っている。ドアが開く。「やあ、ハル!」「やあ」 私は乗り込む。 質 問 がなされる:「ねえ、ハル、いったいエスノメソドロジーっていうのは結局のところ、何なんだい?」 エレベーターのドアが閉じる。私たちは九階まで上がっていく。私はこう言うことしかできない「エスノメソドロジーは、ある種のとても途方もない問題を解明しようとしているんだ」 エレベーターのドアが開く。
 私の部屋まで歩いているうちに、私は次のように言う べ き だったと思いつく。つまり、エスノメソドロジーはデュルケームの言う、生きられた不滅の[immortal]普通の社会を再特定化している[respecifying]のであり、一連の途方もない問題を解明するというのも、まさにそのためなのだ、と。それらの問題の源泉は、全世界的な社会科学運動の中にある。その運動は、形式的分析[formal analysis]ないし表象的理論活動[representational theorizing]一般の研究方針と方法とに遍在的[ubiquitous]に関わるものであって、確かな成果がそこから挙がってもいるのだが、まさにそのために、それらの問題を解く必要性も生じてくるのだ。(Garfinkel(1996),p.5)

例によって晦渋を極める論文"Ethnomethodology's Program"の全貌をここで紹介することはおよそ不可能であるが、その人を喰った導入部に提示され(また本論中でも繰り返し強調され)ているデュルケームの議論との関連にあらためて注目しておこう。本稿の文脈に置き直して端的に言い換えるならば、ガーフィンケルはこう言っているのだ − デュルケームは「社会」が不滅の存在 − 「神」 − として成り立っている様態を解明したが、エスノメソドロジーはその不滅の「社会」がわれわれの日常に臨在しわれわれによって現に生きられているやり方 − ひとことで言い直すならば、起こりつつある「受肉」の様態 − を辿り直す=「再特定化」の、営みである。

2:息を吹き込まれる人形=機械装置

2−1:人形、死体

 今や、冒頭に引いた比喩によってガーフィンケルが何を言おうとしていたかが明らかになるだろう:

アイデンティティーの変換とは、ひとつの社会的客体を破壊し別のそれを構成することである。その変換は、あるアイデンティティーを別のそれへと代用する(古い方は新しい構成物の中の見逃されている部分としてただよっている)、というようなものではない。それは、デパートのショウウインドウの中の女性がマネキンだと判明した場合彼女が人間の女性だという可能性が残されないのと同様である。すなわち、古いほうの客体が修繕されるのではない;それは別の客体へと置換されるのである。人はそこでこう宣言する「今にしてみれば、それは最初から違っていたのだ」。(Garfinkel(1956),p.421)

ガーフィンケルはおそらくここで、二つのことを表現している。第一に、なによりまず字句通りに読むならば、彼がここで焦点を当てようとしているのは、まさに「受肉」の瞬間の様態である − 糾弾という相互行為においてアイデンティティは「構成」される、そして、そこで作られた者こそが、その人そのものだ、というわけである。念のために、アイデンティティの再構成という同じ主題についてのバーガーの文章を引いてみよう:

新しい意味システムに転向した結果、自己の生活史の中で散乱したままのデータに秩序を与えることが可能になる。このような経験は、われわれの心を解放し、われわれを心の底から満足させてくれる。われわれがこのように感じるのも、人間の心の奥深くに、秩序や目的や可知性に対する欲求が根をはっているからなのであろう。しかしながら、いかなる転向も最終的なものとは限らず、再転向や再々転向があり得るかもしれない − このように悟りはじめることは、われわれの精神が経験しうるもっとも恐ろしい想念の一つであろう。われわれが「態度変更」と呼んだ経験は(これは、まさに、無限に連なる鏡の中に自分の像を映し出すことである。しかも、鏡の一枚一枚はわれわれの像を、可能な限り多様に変化させる)、これを経験する人に目まいをひきおこさせる。すなわち、自分にとって可能な存在という地平線が無限に重なるのを前にして、形而上学的な広場恐怖症におちいるのである。(バーガー前掲書、p.93-94)

バーガーにとって、アイデンティティとは、無限に連なる一連の鏡像に過ぎない。「われわれ」ないし「人間の心」ないし「自分」が、それを次々と仮面のように纏っては脱いでいく。こうした捉え方こそが、先に指摘したバーガーの「仮現論」にほかならない。ガーフィンケルが上の文章で照準しているのは、バーガーとは異なって、端的に、ある人が「現在あるところのもの」となる、という「受肉」の事実そのものである。
 さて、しかし、本稿の文脈からは、ガーフィンケルはここでもうひとつのことを表現しているように思われる。というのも、ガーフィンケルがここで用いた比喩には、女性からマネキンへの変貌という、本稿冒頭の表現を繰り返すならば「悲痛」な生々しさがあるからだ。確かに、上に引いた文章の趣旨を字句通りにうけとるならば、「女性」から「マネキン」への「降格」ないし「アイデンティティ変換」は明らかに、可逆的なもの − つまり「マネキン」から「女性」への「昇格」もまったく同型の論理で成立しうる − であるだろう − 人はある時は「女性」として受肉され、別のあるときは「マネキン」として受肉される。この場合、「女性」と「マネキン」との差異は、社会的地位の相対的な差異に過ぎない。ガーフィンケルが「降格儀式」論文で展開している議論においては、さしあたりそれだけで十分である。ところが、既にここまで本稿で辿ってきたとおり、ガーフィンケルがここで用いている「人形」と「魂」との形象は、「受肉」のテマティズムの特権的なモチーフをなしている。その点にこだわりながらさらにガーフィンケルのテキストにあたっていくと、すぐさま、関連する、さらに適切にして痛ましい形象を見出すことができる − すなわち、「死体」である:

SPC[ロサンジェルス自殺防止センター]の問題探求は、ひとつの死から出発する。検死官はまず、その死の様態を多義的なものと見なす。そこから彼らは、その死を探索していくのだが、そこではその死が、かつて社会の中でさまざまに営まれやがてその死によって打ち切られることとなった可能的な生の、ひとつの先行条件[precedent] として用いられ、また、「残されたもの」すなわち遺体・装身具・薬瓶・メモ・衣服の切れ端・その他の記憶すべき諸々の事柄 − 写真に撮られ・収拾され・パッケージされたこまごましたもの − といった諸々の寄せ集めの中において読み込まれるのである。・・・標準的な法病理学のテキストにはたいてい喉を切られた被害者の写真などが載っているだろう。検死官がその「光景」を用いることによって死の様態の多義性を示そうとするならば、彼はこのように言うだろう:「死体がこの写真に見られるとおりの様子であるケースの場合、あなたは自殺死を目にしているのである、なぜならその傷口は「ためらい傷」であって、そのために傷口が大きくなっているのだ。こういう切り口を見たら、それは、被害者が最初何回かは無意識的にためらいながら試み・そしてついに致命的な一撃をやってのけたのだ、と想像することができる。またほかの行動経過も想像できる。ためらい傷のように見えるものは、それ以外のしくみでできたものかもしれない。わたしたちは、実際に示されたものからスタートして、そこからその写真と辻褄の合うような行動経過がじつに多様に想像できることを知らねばならない。人は写真で示されたものを行動のひとつの局面であると考えるかもしれない。しかしいったい、実際に示されたものの中には、唯一その局面だけが辻褄が合うような行動経過などというものがあるのか? まさにこのことが、検死官の問題なのだ」。(Garfinkel(1967),p.17)
SPC職員たちは、その判断可能性を達成するために次のような一連の「この・・・」に関わらねばならない:彼らはこれだけの物・この光景・このメモ・手にされているこのあれやこれやからスタートせねばならないのである。・・・解剖台の上に残されたものは、先行条件であるだけでなく、SPCの問題探求の目的地点でもある。SPC職員たちが手にしているすべてのものは、問題探求者が「最後に」「最終的な分析において」「いかなるケースにおいても」到達することとなるところのものを、社会がどのような経緯でもって産出したのかということを読みとる際に、先行条件とならねばならない。問題探求が到達しうる点というのは、死が到達したその地点なのである。(p.18)

「マネキン」として受肉されていた先の「人形」とは異なり、この「死体」はまさに「霊魂」を失った肉体である。ここに描かれているのは「死体」からの「生」の復元作業に他ならないのだ。確かに、「死体」を前にして・死を出発点として、失われてしまった「生」を、しかも「死」に帰結することがあらかじめ明らかな一連の経過としてその「死体」の中に再構成することは、私たちの現に生きている「生」の成り立っている様式とは決定的に異なっている(ようにも見える、しかし本当だろうか?)。また、喉笛を切り裂かれた死体の開示する痛ましさは、本稿冒頭の「悲痛さ」とは明らかに次元を異にするだろう。しかしここでは、「受肉」のモチーフがまたしても登場したことに、驚きをもって注目しておくことにしよう。無論、これもまた、ガーフィンケルが初期のフィールドとしてロサンジェルス自殺防止センターを調査していたという以上のことをさしあたりは意味しないかもしれない − しかし、実は彼は、その後再びこの例を取り上げているのだ。
 ステュワード天文台におけるパルサー発見の瞬間を題材とした論文(Garfinkel,Lynch&Livingston(1981))の中で「検死官の問題」という喩えは決定的な位置に置かれている:

われわれは、彼らのパルサー発見のワークを、「検死官の問題」への戦略的解の一つに過ぎないものと見なしてはならないと考えた。「検死官の問題」はできごとの一回性[first time through]の重要さを捨象してしまうからだ。・・・死の様態と原因を判定するという検死官の問題は、彼の問題探求そのものによって与えられた拘束と資源との組み合わせのもとに解決される:出発点においてそれが到達していた地点こそが、それがまさに到達せねばならない地点なのである。たしかにそれは、すべてが未解決という雰囲気に始まり、また一貫したなかにも常に経過性[in-course-ness]を取り出すことが可能である。しかしながら、それは一回性とはまったく別のことなのだ。(p.136)

天文台における研究者たちの活動を解明するために、それを検死官の活動と比較すること(あるいはその類比を棄却すること) − ガーフィンケルのテキストにおいて「受肉」のモチーフが範例となっていると考えられるのは、こうした点においてである。
 さて、言うまでもなく、「人形」と「死体」 − つまりいわゆる「霊魂」を持たない者たち − だけがガーフィンケルのテキストに登場しているわけではない。

2−2:陪審員、カウンセラー

 同じ「パルサー」論文の中に、次のような小エピソードが紹介されている:

シルズがストロッドベックにこぼした不満:1954年、フレッド・ストロッドベックはシカゴ大学法学部に招かれ、陪審室で隠し録りされた審議の録音テープを分析することになった。彼を招いたのはエドワード・シルズだった。ある時ストロッドベックが”ベールズの相互行為プロセス分析カテゴリー”を用いることを提案すると、シルズはこう答えた:「ベールズの分析法を使えば、きっと、陪審員の審議の何が彼らをひとつの小集団にしているのかについて、よくわかることだろう。だけど、私たちが知りたいのは、彼らの審議の何が、彼らを陪審員にしているか、ということなんだ。」(p.133)

ここで言及されているのは、ガーフィンケルが最初に「エスノメソドロジー」のアイディアを得た研究(『エスノメソドロジー研究』第4章にまとめられている)の出発点であるが、いまやわれわれは、ここに既に「受肉」のモチーフ − 「それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(「ヨハネ福音書」1:13−14) − が当初から一貫して完全に、中心主題となっているのを見るだろう。
 そして、ガーフィンケルのテキストの中でもっとも奇妙で印象深い「受肉」のシーンは次のようなものである。カウンセリング場面を想定した実験的な設定の中で、被験者はインターフォンを使ってカウンセラー役の実験者と会話をしている:

 被験者:わたしが知りたいのは、今の専攻を変えるべきかどうかということです。今は物理学専攻なんですが物理の成績をCに引き上げるためには点がずいぶん足りないんです。数学に切り替えたいんです。数学もあまり得意じゃないんですが、たぶん何とかなると思います。このUCLAでいくつか数学の単位を落としましたけど、ぜんぶ受け直してCで通っています。ある数学の科目ではBに近い成績をとった事もあります。他の科目より少し余計に勉強したから。で、質問は、やっぱり、専攻を変えるべきでしょうか?
 実験者:答えはノーです。
 被験者:うーん、ノーだって。じゃあもし変えなかったらわたしは成績をもっと上げないといけないことになるけれど、でもそれはすごく難しいでしょう、だって今学期もわたしはあまりよくないから。もし今学期に7単位ぶんAを取ったら、たぶん2月に物理学の学位が取れることになるでしょう、それにしても原子物理学での失敗が大きいんです。原子物理学の勉強は全く大嫌いなんです。原子物理学124番が、物理学の学位を取るための必要単位のなかに入っているんです。
 わたしが物理学の学位を取れると思いますか、物理学の124番を取らないといけないいうことを考えた場合。
 実験者:答えはイエスです。
 被験者:イエスだって。どうすればできるのかね。わたしはそんなに大した理論家じゃないんですよ。わたしの勉強の仕方はひどいもんだ。本を読むのが遅いんです、でも勉強に時間をさけないんです。
 わたしはうまく勉強の仕方を変えていくことができるでしょうか?
 実験者:答えはイエスです。
 被験者:わたしがうまく勉強の仕方を変えていける、と。どうやって勉強するかとかいろいろ人に言われてきたけど、でもうまく勉強できたためしがない。わたしは物理学を続けていく十分な動機がないでしょう、あるんでしょうか?
 わたしに物理学の学位を取るための十分な動機があると思っているんですか?
 実験者:答えはイエスです。
 被験者:答えはイエスです、と。たぶんわたしもそう思うでしょうね、もしわたしが、挽回がたいへんなほど成績悪くなければね。もう学位を取ることはひどく困難なんです。 わたしは今のまま家で妻とうまくやって家事もこなしながら勉強もやっていけると思いますか? わたしは学校であまり勉強しないし、家では勉強しなきゃという動機がいまいちないんです。でも妻が帰ってくると、勉強したくなる。でもそれでわたしたちは何もできなくなって、彼女が何もしないといつでもわたしのカンに触るんです、やらなきゃいけないことが山積みなわけだから。わたしは家でうまく勉強できると思いますか?
 実験者:答えはノーです。
 被験者:ノーだ、と。わたしもそう思う。
 じゃあ毎晩夕食後に学校に来て勉強すべきでしょうか?
 実験者:答えはノーです。
 被験者:学校に来て勉強するべきでもない、と。どこに行きゃいいんだ? わたしは大学の図書館に行って勉強するべきなんでしょうか?
 実験者:答えはイエスです。
 被験者:図書館に行って勉強するべきだ、と。どの図書館だ? 必要な参考書がそろってないんじゃないか、でも常に必要ってわけじゃない。少なくともあと3つ質問しないといけない。わたしはうまく勉強の仕方を改善して動機づけも得て実際にそのうまい勉強の仕方を実行できるようになって、もう夜遅くまで起きていずにすんで家事第一にしなくてもすむようになると思いますか?
 実験者:答えはノーです。
 被験者:ノー、と。勉強の仕方を改善してうまくやっていくことはできない、と。じゃあ、勉強の仕方を改善して目的達成までそれを続ける事ができると思ってないんなら、それを考えに入れた場合、わたしが物理学の学位を取れるとまだお考えですか?
 実験者:答えはノーです。
 被験者:ということは、わたしは学位をとれないんだ。じゃあどうしたらいいんだ? もしもし[Are you still there?(あなたはまだそこにいますか)]?
 実験者:はい[Yes,I am.]
 被験者:もしわたしが・・・つまりうまく勉強の仕方を改善できなくて物理学の学位を取れるとお考えでないとすると、あなたはわたしに大学をやめろというんですか?
 実験者:答えはイエスです。
 被験者:大学をやめるべきだと。もしもし?
 実験者:はい。
 被験者:もうひとつだけ質問があります。わたしは空軍の仕事につきたいんです。もう空軍のR.O.T.C.トレーニングは修了しました。でも就職するには学位がいるんです。もし学位をとらないと、就職できない可能性が強いんです、たしかにいろいろの事情がうまくいけば学位がなくても就職できる可能性がいくらかはあるんですが、それも望ましいものではない。質問というのは、わたしは空軍に就職できるでしょうか?
 実験者:答えはイエスです。
 被験者:わたしが空軍に就職できる、と、それはわたしの望むところだ、でも学位がとれるのか? もしわたしがその学位を取らずに就職できるとすれば、わたしは他の何かの学位をとれるのか?
 実験者:答えはノーです。
 被験者:なんかひどい結論だなあ、たしかにわたしのやりたい仕事でもある種のものは学位なんかいらないんだけど。そこにいますか? 入ってきてください。
(Garfinkel(1967),p.85-88)

これは、『エスノメソドロジー研究』第3章に含まれている「偽カウンセラー実験」の記録として有名な会話(「ケース2」)である。タネをあかせば、ここで実験者がインターフォン越しに行っている「回答」はすべて、乱数表によってあらかじめランダムに決定された順序でイエス/ノーと言っているに過ぎない。しかしながら、被験者は完全に、インターフォンの向こう側の「カウンセラー」の存在を信じ切っていた − 言い換えるならば、この実験においてガーフィンケルは、ある会話状況を設定することによってその中に一人の「カウンセラー」の存在を完全に人工的(artful)に産み出しているのである。
 ここで産み出された「カウンセラー」と先の「陪審員」が決定的に異なるのは、「陪審員」の「受肉」が一種の「役割獲得」の次元で起こるのに対して、ここでの「カウンセラー」は、人工的に産み出されたのにもかかわらず、ひとつの「生」を生き始めている、ということである。それは、上のプロトコルの後半で被験者が「Are you still there?」と繰り返し尋ねている部分に見て取ることができる。

2−3:「受肉」を生成する会話=機械装置

 ごく単純に考えてみよう。この実験で被験者は、機械装置(乱数表+インターフォン)を「カウンセラー」と「誤認」したのだろうか? 被験者にとって機械装置が「カウンセラー」だったのは、被験者の「先入観」が原因なのだろうか? 違う。被験者の一方的な「先入観」が問題なのではない。被験者はここで、「相談」という形で機械装置に語りかけていたのであり、そこにまぎれもない「会話」が成立していたからこそ、その限りにおいて、被験者はインターフォンの向こう側に相手の存在を認めたのである。
 「カウンセリング」の流れが変調をきたしたまさにそのタイミングで被験者によって発せられた言葉、「Are you still there?」に注目してみよう。ここで「you」と呼ばれているのはいったい誰だろう? ideal-speaker-hearerとしての抽象的存在でも、物理的「身体」でも、さしあたり、ない(そうしたものが不在であるならば、そもそも問いかけそのものがナンセンスになる − いいかえれば、この「you」なる者は、「会話」の成立にとってそもそもの前提条件をなしている − だろう)。そのことは、私たちが日常生活の中で同じ問いを発するケースをあれこれ想起してみればわかる(深夜の電話の相手が、話にとりとめがなくなり、相づちをうたなくなり、不意に黙る。 − 「もしもし?」)。そこで「you」と名指されているのは、「会話」の空間をエーテルのように満たしている/べき/はずの相手(とは、しかし、誰/何か?)の「実存」そのもの、すなわち自分に語りかけまた自分の言葉を聞き届ける具体的な存在そのもの、にほかならない。それは、日本語の語感で言うならば、ちょうど「話(仕事)に身が入っていない」の「身」に相当するだろう(それにしても、「身」が入っていない「身体」という形象は、あらためて本稿冒頭の「人形」の無気味さを想起させる)。この「偽カウンセラー実験」において産み出されているのは、会話に「身」が入っている存在=霊肉の一致した「実存」であり、そこで起こっていることこそが「受肉」にほかならない。「会話」が、その条件としての「you」なる存在を、その「会話」が成立しているという事実によって/として、その「会話」の経過の中で、達成的に産み出している − まさに「カウンセリング」の変調(breach)された瞬間に姿を現したこの事実にこそ、注目しなければならないだろう。

3:"plenum" − 「満ち満ちているもの」における秩序

3−1:状況の内側からのobjectiv-ism

 最近の論文で、ガーフィンケルは次のように言っている:

『社会的行為の構造』の理論化の方針、そして構成的分析の方法は、断固たる態度で、不滅の社会の観察可能性の問題を提供していた。それらの諸方針のなかでもひとつの方針が他のすべてを支配していた:すなわち、諸活動の具体性・と・分析的に提供された諸行為との間の区別である。・・・私は、パーソンズがその区別によって具体的に提供した諸行為を、パーソンズのプレナム(plenum)と呼ぶことにしよう。彼のプレナムは、具体的諸行為・分析的諸行為という対の一方をなすものである。彼のプレナムは、その対の一方の構成要素として運用されている。・・・ウエブスター大辞典によれば「プレナム」という語は「事物が充満した空間 − 空虚の反対」「十分」「全員出席の会議」「量的・程度的・度合的に完全に満ちた状態」;十分な・完了した状態」のこと。ウエブスターによれば「十分!(Plenty !)」というのはそこから来ている。「完全性(plenarty)」がそうであり、また「満月(plenilunium)」 がそうである。だが私が言いたいことからすれば、プレナムとはどんな意味かというようなことは問題ではない。・・・具体性/分析という対によってパーソンズが示したのは、具体的諸活動には秩序性がない、ということである。彼のプレナムによってパーソンズは、組織的事物の分析的には空虚な具体性を特定化したのである。パーソンズのプレナムによれば、組織的事物の具体性は、未だ現実の組織的事物ではない。また、それは未だ、方法的手続きに従って産出された組織的事物でもなければましてや方法的手続きからなるものとして産出された組織的事物でもなく、またそれは未だ明らかには組織的事物ではないのである。・・・要約しよう:『社会的行為の構造』から我々が学び得たのは、プレナムの中には秩序性が無い、ということである。・・・[それに反して]『エスノメソドロジー研究』以来20年のあいだに、国際的・学際的な仲間たちの成果として、実践的諸行為・いわゆる「自然的に組織化された日常的な諸活動」についての経験的研究が豊富に蓄積されている。これら諸研究は、パーソンズのプレナムにおいて/からなるものとして局域的に産出され自然に組織化され反映的に叙述可能な*秩序*現象を、詳細にデモンストレートしている。(Garfinkel(1991),p.12-15)

最近のガーフィンケルが繰り返して強調するテーゼ「プレナムの中に秩序がある」を、今やわれわれは「受肉論」の文脈において理解することができるだろう。ここでパーソンズの「構成的分析」として名指されているものは、本稿で既にバーガーを例に指摘していた二元論=社会学的なグノーシス主義=仮現論にほかならない。そして、「プレナム」とは、デュルケーム的ないみにおける社会、「すべてのもののうちに満たしているかたが、満ち満ちているもの」すなわち「キリストのからだ」としての「教会」 − 結合・組織化された「受肉」せる諸身体の全体 − の形象と読み替えることができるだろう。また、それは、前節で注目した「you」、すなわち、相互行為の空間をエーテルのように満たしその地平をなす存在、とパラフレーズすることもできるだろう。だとするならば、「プレナムの中の秩序」とは、そうした「受肉」の相において諸身体の具体的な活動の組織化のうちに神性が臨在し霊が分有されることを指しており、それを「一回的なもの」として − すなわち、検死官が死体から再構成する「生」のようにではなく − 辿っていくことこそが、「受肉論」としてのエスノメソドロジーなのである。
 繰り返し見てきたとおり、バーガーはその認識の「客観性」を、「人形」たる自らの姿を「外側から見る」可能性に求めており、また、理論的にも、無限に並ぶ一連の鏡を覗き込む超越的な主体/主観性としての「わたし」なる存在を措定していた。そのようなやり方で主/客のアンチノミーを止揚せんとしたバーガーの目論見を仮に「状況の外側からのsubjectivism」と呼ぶことにするならば、今まで「受肉」論として辿ってきたガーフィンケルの目論見は、ちょうど逆に、「状況の内側からのobjectiv-ism」と呼ぶことができるだろう。すなわち、ガーフィンケルは、わたしたちが「社会=教会」としての組織的活動においてまさに魂を吹き込まれた「人形」という社会的「object」として受肉する瞬間を辿ろうとしているのである。
 かくして、エスノメソドロジーの開示する世界はアニミスティックな様相を帯びる。ガーフィンケルにおいては、天文台で発見されるパルサーも、電話のベルも、高速道路の自動車の流れも、すべてが一回的な生命を息づいているのだ(それにしても、ガーフィンケルがまさに「一回性」の主題を扱った「パルサー論文」の研究が、そもそもフィールドワークの舞台として天文台を選んだという事実は感動的ではないか − パルサーとはすなわち、「脈を打つ星」なのだ)。それらはすべて、「自然的に組織化され」ている − この「自然」という語の神学的含意までを強調するのは、はたして「深読み」に過ぎるだろうか?

3−2:"judgmental dope"、液体に浸され/洗礼を受けた者

 このようにガーフィンケルのテキストを辿ってみるならば、ある種のエスノメソドロジー理解において重要な役割を果たしている"judgmental dope"なる術語の含意が問題になってくるだろう。この語には、通常、「判断力喪失者」という訳語がほぼ定訳として当てられている。だが、その語釈には、バーガー的な「判断力を自由に行使し得る(はずの)主体」という形象が前提として含意されており、明らかに、ガーフィンケルがそこから抜け出そうとしている罠にまさに囚われているといえはしないだろうか?
 ここで、俗語的に「麻薬中毒者」を意味する"dope"なる語の意味を辿るならば、そこにはもともと、"dip"「浸す」と語源を同じくする、液体のイメージがある。"dope"とは、薬液に頭まで浸された「クスリ漬け」といった語感があるが、興味深いことに、その同じイメージを辿ると、"dip"のキリスト教的な語義「洗礼を施す」に行き当たる。すなわち、"dope"なる語の含意は、ある「教会」的な共同体社会(霊的に充たされた液体状の融合世界)の中で洗礼を受け霊を分かち与えられる、というイメージを(「薬物の世界」へと皮肉な転調を施しながらではあれ)含んでいるのである。確認しておかなければならないのは、このことだ − われわれは、日常生活を秩序的に生きている限りにおいて、事実として"dope"なのである。

3−3:アグネス − どこといって英雄的なところのない「悲痛さ」について

 無論、"dope"でない登場人物もガーフィンケルのテキストの中には存在する。その中でも重要なのは、『エスノメソドロジー研究』第5章(Garfinkel(1967=1987))の主役、性転換者アグネスだろう。彼女の日常生活は、自分が男性の肉体を持っていることが露見しないように・「普通の女性」として存在し続けるように、常に行われるやりくり作業=「パッシング」の連続から成り立っている。彼女は、いわば、自分自身を自分自身で常に「女性」として受肉させ続けている。その意味では彼女もまた「受肉論」的な登場人物であるには違いないだろう。しかし、彼女の日常的実践は、「ルーティン」=「教会」的な共同体から引き裂かれた場において、否応なしに主題化された形でなされていた:

私は、アグネスに「君はいったいなにが事実だと思っているんだい」と聞いてみた。彼女は、「私が事実はこうだと思っていること。それとも、他の人が事実はこうだと思っていると私が考えていること」と、聞き返した。(邦訳書,p.281-282)
世界をあるがままのものとは別のものとして考えるように誘いかけられても、アグネスにとって、それは結局は脅迫的で不愉快な企てに従事するようにという指図にしかならなかった。・・・彼女はシステムの「内部にいる」ことを望んだ。(p.285-286)
彼女は、自分に起きた実際の出来事は、自分と同じ状況に置かれている人によってもまた検証可能だと主張した・・・彼女にとって、自分と同じ状況に置かれている人とは、正常な女性という状況に置かれている人のことを意味する。彼女は、この世界には自分と同じような問題をかかえている人もいると認めてはいた。だが彼女は、そうした人たちともまた正常な女性とも、自分と相手の立場を入れ換えて考えることもできるという、立場の潜在的な交換可能性にもとづく理解の共同体を作ることはできなかった。「私がこれまでやってきたことを本当に理解できるような人は誰もいないわ」と彼女は主張した。(p.289-290)
成員たちと共同して、アグネスは、彼らがどうやって正真正銘の男性や女性として生きるための権利に関しての証拠を、互いに対して提供しあっているのかを、どうにかして学んだ。また、それがいかにしてなされているかも学んだ。(p.292)

このアグネスに見られる孤立は、われわれを本稿冒頭の「悲痛さ」に連れ戻す。彼女は、必死にこの世界の「内部にいる」ことを望みまたこの世界の中に踏みとどまって成員の組織的な活動の網の目の中に自らもまた織り込まれようとしている。しかし、彼女は出発点において確実に、世界から引き裂かれた地点に立ち、半ばバーガー的な超越者の視点から自覚的に「見ること」(そこからはこの世界の人々 − "dope"たち − の活動が半ば人形たちの動きのように「見える」だろう)を余儀なくされているのである。この「悲痛さ」は、しかし、アグネス自身いう通り、いかなる英雄的な世界変革にも結びつかない、つつましくひたすら卑小でありしかも決定的な違和なのである。
 しかし、何がアグネスを世界から引き裂いているのか? − 彼女に生まれつき与えられた男性としての生物学的肉体が、というのは、一見、答えであるかのように見える。しかし、そう考えるのは恐らく、再び「実体論」の罠にはまることであるだろう。恐らくは、アグネスにとっての躓きの石である彼女の「男性としての生物学的肉体」そのものもまた、この世界の中で受肉された存在のひとつの形に過ぎないのだ。恐らく、こう考えるべきではないだろうか − 同様の躓きの石を、われわれは皆、少なくとも潜在的には、抱えているのだ、そうであるがゆえに、アグネスの、あるいはガーフィンケルの登場人物たちの開示する世界 − 日常的な「受肉」とそこから引き裂かれた卑小な「悲痛さ」の織りなす − は、まさにわれわれ自身のものとして生々しいのだ、と。われわれがエスノメソドロジーを実践しようとするのは、まさにそのためなのではないか − 引き裂かれた傷を癒やそうとして、あるいはさらに傷を広げ覗き込もうとして?

4:おわりに

 以上、本稿ではガーフィンケルのテキストの中で「受肉」のモチーフを辿ってきた。ところで、今更ながら、ひとつの、いかにももっともな疑問をとりあげておこう − いったい、ガーフィンケルが本当に「受肉」になど関心を持っていたのか? − 答えはもちろん、「どっちでもかまわない」である − その次元でいうならば、テキスト読解とは、いかにも「検死官」の作業である。いささか奇を衒った検死報告のひとつとして、本稿を「偽・論文」と規定しても一向にさしつかえない。
 ただ、こういう言い方は可能だろう。あるひとりの人物についての噂話を聞くようなやり方でこのテキストが読まれるならば − そして言うまでもなく、そのあとにガーフィンケルのテキストそのものがあらためて読まれるならば − 本稿はガーフィンケルに息を吹き込みうるかも知れない。そして − 蛇足ながらつけ加えるならば − そのように読むならば、ガーフィンケルは、共に生きるに値する、痛ましくリアルな存在である。
(以上)

【文献】
Berger,P.L.(1963=1989)『社会学への招待』思索社
Durkheim,E.(1912=1975)『宗教生活の原初形態』岩波文庫
Garfinkel(1956)"Conditions of Successful Degradation Ceremonies" American Journal of Sociology ,no.61.
  −  (1967)Studies in Ethnomethodology.Prentice-Hall=第2章「日常活動の基盤」北澤・西阪訳『日常性の解剖学』マルジュ社(1989)所収、第5章「アグネス、彼女はいかにして女になり続けたか」山田・好井・山崎訳『エスノメソドロジー』せりか書房(1987)所収
  −  (1991)"Respecification",in Button,G.(ed.)Ethnomethodology and Human Sciences,Cambridge Univ.Press.
  −  (1996)"Ethnomethodology's Program",Social Psychological Quarterly,vol.59,no.1
Garfinkel,Lynch&Livingston(1981)"The Work of Discovering Science Construed with Materials from the Optically Discovered Pulsar" Philosophy of Social Sciences,no.11.
金子武蔵(編)(1978)『ギリシア思想とヘブライ思想』(日本倫理学会論集13)以文社
リチャードソン(1958=1967)『新約聖書神学概論』日本基督教団出版部
セシュエー(1950=1955)『分裂病の少女の手記』みすず書房