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日本教育社会学会第50回大会(於・大阪大学)発表レジュメ(第IV−1「理論」部会)1998/10/31/13:55-14:20
『いじめの論理構造』
石飛和彦(天理大学)
0:はじめに
「いじめ」については既にあらゆる視角から論じられているので、もはや新たに付け加えるべき論点は見つからないかもしれない。本発表は、新たな論点を提起するというより「いじめ」についてひとつの簡便な図式を提案するものである。そのために、ここでは「いじめ」を、「暴力」の現象ではなく「秩序」の現象として、リビドーの経済学からではなく認識の論理学の視点から、辿り直すことにする。
1:ひとつの疑問 − 「否定」の可視性
図式の出発点は、ひとつの論理学的な疑問である:「いじめの特権的な形象である「シカト」において、いかにして「口をきか*ない*」という行為(の*否定*=「無」)が可視化されているのか」?「XがYに何かを*する*」というのは、ごく自然に可視的な現象だと納得できる。しかし、「XがYに何かを*しない*」という振舞いが、いかにして可視的になるのか?この問題は、「A,B,C,・・・XがYに口をきか*ない*」というふうに人数を増加させても論理的にはいっこうに解決しない。
この問題が解決されるには、個々の具体的な行為の次元「何かをする/しない」を見るのでなく、「規範」と「行為」の関係の次元「何かをしてしかるべきである場合に、それをする/しない」を見なければならない。「シカト」が成立しているということは、イコール、「Yに口をきいてしかるべきメンバー」の範囲が画定されている、ということであり、個々の具体的な「口をきか*ない*」は、あくまでもそのメンバー「全体」との関連において、*反映的*に、可視化されているのだ。(同様のことを、「反復」という点についていうこともできるだろう)
2:現象の内側からの実践的「*秩序*」
言い換えれば、人は「「いじめ」をすること(doing「いじめ」=「いじめ」をする/看取する)」において、「全体」(およびその相関項としての「規範」=cf.「生徒コード」(稲垣(1989)))を相互行為的に達成しているのだ。これを、エスノメソドロジーの用語に倣って、現象の内側からの状況的・相互行為的達成としての「*秩序*」形成、と見なすことができるだろう。
3:ポジティヴ・フィードバックと「いじめ」カテゴリーの問題
既に徳岡(1988)が指摘しているとおり、いわゆる社会問題次元の「いじめ問題」は、ミクロな「現場」にポジティヴ・フィードバックされる。「いじめ」を「*秩序*」形成と見ることによって、その局面に、ひとつの論点を付け加えられると思われる。それは、「いじめ」カテゴリーが「現場」に導入される二つのやり方についてである。それらをそれぞれ、(1)メンバーによって内側から「看取」され用いられる、資源としての「いじめ」カテゴリー;(2)外側から貼り付けられる「色眼鏡」としての「いじめ」カテゴリー、と規定しておく。両者の相違を、H・サックスに倣って「自己執行カテゴリー」の問題として整理するとわかりやすいだろう。
(1)前節で述べたとおり、人が「いじめ」を行う際、言い換えれば「いじめ」が存在する際、そこには「いじめ」カテゴリーが常に既に用いられ、状況の中で「いじめ」(及び、メンバー「全体」の「全体性」)を存在せしめる存在論的な基盤となっている。状況の内側から自らの存在を規定しているといういみで、ここで「いじめ」カテゴリーは「自己執行」されているということができるだろう。他方、(2)ある状況に対して外側から(あるいは事後的に)、「これは「いじめ」である」という形でカテゴリーを貼り付ける場合がある。この場合、カテゴリーは認識論の次元で導入されているといえる。
言うまでもなく、(1)と(2)の区別は分析的なものである。にもかかわらず、両者のズレが、いじめ現象の重要な争点を産み出していると思われる。例えば、(ex.1)教師が「「いじめ」だろう」と言い生徒が「「いじめ」じゃありません」と言い返す*可能性*が発生するのは、両者が共に(2)の次元で「いじめ」の語義を論争しようとしているからにほかならない。また、(ex.2)「いじめ言説」として必ず登場する「いじめられる方にも責任がある」という言い回しの屈折したニュアンスは、この命題に(1)(2)の両方の次元が混同されていることからくると思われる(論理的には、「あいつに客観的に責任がアル(のでこれは「いじめ」ではナイ)」となるはずの言明において、論点先取的に「いじめ」カテゴリーが導入されている、という点に注目)。
4:「四層構造」と「全員一致」の実体性の問題
「いじめ」を秩序形成として見るという捉え方は、何ら目新しいものではない。例えば「いじめ」を「全員一致の暴力によるスケープゴートの排除」と見る赤坂(1991)の議論は説得的である。本発表で付け加えうるのは、ひとつの論点の確認に過ぎない。すなわち、「全員一致」のプロセスは、実体としての具体的な「(例えばクラスの)全員」によって具体的な行為の次元でなされる(例えば具体的な陰謀の相談、具体的な目配せ、等)のではない、という点である。スケープゴート論の眼目があくまで「全員一致」にある以上、それは、個々のメンバーの個人的なフラストレーションなり暴力性なりの圧力が単に同時的に高まり噴出するというだけではないのは言うまでもない。あくまで、「全員」が「一致」する、という契機が決定的なのである。にもかかわらず、実際のいじめにおいて、具体的な行為の次元でそのような「一致」の場面を見出そうとするのは困難である。
そこで想起されるのが、「いじめ集団の四層構造論」(森田・清永(1986))であろう。人は「いじめ」に、被害者・加害者としてだけでなく、観客として、あるいは傍観者として、参与する。言うまでもなく、いじめの被害者にとっては、傍観されていること(救いの手をさしのべてもらえないであろうこと)そのものが決定的な排除である。従って、傍観者は傍観を決め込んでいるということにおいて「いじめ」に積極的に荷担しており、そこには確かに「全員一致」の契機を見出すことが出来るだろう。ところで、ここで第1節に指摘した「疑問」が再び変奏される:「「傍観」はいかに可視化されるか;ひとはいかにして「傍観者」に*なる*のか」? ここで、山本(1996)の指摘をパラフレーズしながら、「四層構造論」があらゆる生徒を「いじめ」に取り込むのは、「論理の上」であり「言説編成」上である、という点に注目しよう。つまり、「四層構造論」は、具体的な学級集団に外側から(=「客観的に」)対応し記述するモデルであるというよりは、状況の中で「いじめ」が行われる際にげんに用いられ、それによってあらゆる生徒を論理的・言説的に取り込んで「全員一致」を現出させる装置そのものであると言える。言い換えれば、それは、プロの社会学者が用いる*以前*に、メンバーによってげんに用いられている「エスノ理論」なのであり、まさにそれによって、「全員一致の暴力によるスケープゴートの排除」が、相互行為的に、達成されているのである。
5:解決されるべき問題について
いじめが集団の*秩序*形成のプロセスであるとすれば、その次元においては、それを病理現象と見なすことは出来ないだろう。また、そのプロセスを「論理学」の次元で捉えるということは、いじめ現象の「原因」を「論理」の次元において(つまり、生徒のフラストレーションや暴力性、様々な意識や感情、等の次元においてではなく)同定するということである。そこから、解決されるべき問題は、(1)具体的な現場においていかにして「いじめ」(具体的な個々の行為ではなく、「全体」としての「いじめ」)が達成されているかを明らかにすること;(2)具体的に「いじめ」カテゴリーが運用され論争されている場面において、いかにして齟齬が生じ議論が空転しているかを明らかにすること;(3)秩序形成の方略として「いじめ」を要請するような組織の在りようを明らかにすること、が考えられる。第三点については、学歴社会(の崩壊)における学校組織の在りようを、全体社会と学校との論理的連関(の崩壊)という視点から描き出すことになるだろう。(以上)
【 『いじめの論理構造』当日配布レジュメ 】
日本教育社会学会第50回大会(IV-1「理論」部会)1998/10/31 石飛和彦(天理大学)
*** 補注・「ダイアグラム」 ***
0:はじめに
いじめ
・・・具体的な動作の世界とは別次元の、「論理」の次元に開かれた「空間」
しかるがゆえに、言語的実践によって維持されるものである。
cf.補注・「テキスト分析」
1:ガーフィンケル&サックス「形式構造」論文
「形式」(ないし「定式」)と現象との関係についてエスノメソドロジカルな視角を提供
2つの捉え方(cf.二つの「秩序」)・・・
a:現象を「形式」によって形づける=認識する(ex.ラベリング論)
(はみ出した部分を修復することが、「認識の精緻化」)
b:現象=「形式」+残余 では*ない*(ex.エスノメソドロジー)
「現象=形式」と *するためのワーク* により達成されている
doing [ルールにのっとってチェスをすること]
doing [統一性を保証するため調査スケジュールを調整すること]
doing [いじめ]
(doing とは、 [記号]によって表された事項が、その説明可能なテキストになるためのワーク を示す。)
2:「いじめ」をめぐる状況の多様性
ある現象が「いじめ」*として*あつかわれるには、その状況の中でそれぞれのワークがなされていることが必要。
その状況には、
・いじめること
・いじめをうけること
・いじめを目撃すること
・いじめに言及すること
・いじめを訴えること
・いじめを調査すること
等々、様々なシチュエーションがあるだろう。
様々なシチュエーションごとに異なるありようの「いじめ」があると考えられる
ex.いじめられる側から見た場合・・・「否定」の可視化というもんだい(要旨参照)
ex.いじめる(傍観者)にとっては・・・いじめられる者だけでなく、「いじめ」が起こっているという事態そのもの(暴力)を視界から排除(cf.電車の中で喧嘩を見た時)
ex.いじめに言及する場合・・・(補注「テキスト分析」参照)
3:絶望について
doing[いじめ]によって、現象がイデアルな形式に結びつけられる。それは、
a:逆に言うならそれはdoing[いじめ]の実践によって不断に達成されているものなのだが
b:しかし、状況の内側からは、「永遠の全体的構造」(cf.森田=清永「四層構造」)が認識される。
「いじめ」が例えば「自殺」に結びつけられるとするならば、それを理解するためには、「いじめ」のこうしたイデアルな性格 − 無限定な全体性と永続性(A.エリスであれば「過度の一般化」と呼ぶような) − が喚起する「絶望」といったものについて、改めて目を向けてみる必要があるのではないだろうか?
*** 補注・「テキスト分析」 ***
1:「定義」の実践的運用
ひとつのインタヴューがある:
− どういういじめでした?
A子 手紙にも書きましたけど・・・。ひどかったです。
− 給食をグチャグチャにされたり・・・。
A子 私が給食係だったら、皿にのせられることを拒否します。
− 食べないんだ。
A子 じゃなくて、自分で(給食を)取りに行くんです。
− 暴力的ないじめは?
A子 それもありました。突然、男の子に殴られたり・・・。でも、肉体的ないじめより、精神的ないじめの方がずっと辛かった。
− 給食の一件?
A子 あんなもの、軽い方ですよ。
− ”クサイ””○○菌”みたいな悪口・・・。
A子 それも、まだ耐えられました・・・。けど。
− けど?
A子 たとえば、こういうことがあったんです。私が誰かに近づいて行くでしょ。すると、周りの人が、”〜さん””〜くん”と、私がそばに行ってることを注意するんです。
− すると?
A子 注意された人がおおげさに慌てて逃げます。
− 辛いなあ。
A子 音楽で実技のテストってありますよね。
− ハイ。
A子 そんなときも、私が歌うときになると、みんながいっせいに耳をふさぎます。
− ウ・・・ム。
A子 あと、鬼ごっこも辛かった。
− 鬼ごっこ?
A子 たまに、みんなが鬼ごっこに(仲間に)入れてくれたりするんです。でも、決まって私が鬼の役。そして、私を鬼にしたまんま、みんなでいなくなってしまう。
− 小学校時代、ずっとそんな感じ?
A子 そんな感じです。
(『ジャンプいじめリポート』p.29-30)
この記述からは、ふたつの次元の事柄が読みとれる。
第一に、語られている内容の次元において、この報告は、様々な「いじめ」行為を描き出している。我々がそれをされれば「いじめ」と受け取るであろう様々な行為が小学校時代のA子に対して行われた、という事がわかるだろう。第二に、語っている語り方の次元において、この報告は、「いじめ」行為をまさに「いじめ」行為として語る語り方で語っている。言い換えれば、A子はここで単純に過去にあった出来事をそのまま語っているのではなく、まさにインタヴューの現時点においてそれが正しく「いじめ」であったと聞き届けられるようなやり方で、語っているのである。ここでは特に第二点について検討していくことにする。
さしあたり気づかれるのは、「みんな」という言葉の使い方である:「みんながいっせいに耳をふさぎます」「みんなが鬼ごっこに入れてくれたりする・・・そして、・・・みんなでいなくなってしまう」。ここで「みんな」という言葉が繰り返されているという事態は、単にA子の小学校時代に実際にそういうことが起こった、というのとは次元を異にする。実際に起こったことの次元で言うならば、例えば音楽の時間に耳をふさいでいる「みんな」をA子は一々数え上げ確認しはしなかっただろうし、鬼ごっこが本当に「みんな」(数十人?)によって行われていたと想定することは困難でさえあるだろう。にもかかわらず、A子のここでの「みんな」という語の用い方は、「いじめ」行為を語る語り方の次元において、まさに適切なものだと思われる。漠然としその適用範囲さえ画定困難(友達グループ「みんな」?クラスの「みんな」?人類「みんな」?)であるような「みんな」という語を用いることによって、まさにその無限定な曖昧さによってこそ、「いじめ」行為の「いじめ」性を描き出すのである。
同様にまた気づかれるのが、時制の問題である。A子のここでの語りは小学校時代すなわち過去の出来事を語っているにもかかわらず、現在の時制が用いられている:「私が誰かに近づいて行くでしょ。すると、周りの人が、”〜さん””〜くん”と、私がそばに行ってることを注意するんです。・・・注意された人がおおげさに慌てて逃げます」。このエピソードは、「たとえば、こういうことがあったんです」という導入部とともに語られている事からわかるとおり、明らかに過去の出来事である。にもかかわらず用いられている現在の時制は、単に印象の生々しさ(現にいま、ここで起こりつつあるような)を伝えるだけのために用いられているのではないだろう。むしろ、そうした生々しい具体性とは逆の、抽象的な法則性のニュアンスを伝えていることが、この語り方の特徴であると思われる。例えば、「猿が木から落ちた」と過去形で言えば、これは過去のある時点に起こった一回的な事象の報告に過ぎないが、「猿も木から落ちる」と現在形で言えば、特定の時点に限定されない、常に適用可能な抽象的な法則性を帯び、諺のニュアンスを的確に伝えることになる。A子のここでの語りは、過去に起こった(もう終わっている)出来事を語っているにもかかわらず、現在形を用いることで、その持続性(強調していうならば、「未来永劫性」)のニュアンスを適切に伝えていると思われるのである。言い換えれば、「みんな」という語の用法が社会空間的な無限定な曖昧さによって描き出していたものを、現在の時制の用法が時間的な無限定性によって描き出している、ということである。
これらの語り方の特徴は、そのまま、現在一般に流通している多くの「いじめ」定義の項目である「集団性」「継続性」に対応している。いわば、A子は、「いじめ」行為を単に語るのではなく、語りの中で「いじめ」定義を実践的に運用しながら、その語り方によって語る対象に「いじめ」性を付与しているのだ、という事ができるだろう。同じ事は、インタヴューのテキストを読む我々自身についても言える。なぜなら、A子がまさに「いじめ」行為として独特の語り方で語ったテキストの中に我々はあやまたず「いじめ」性を看取しうるからである。我々もまた、A子とともに、「いじめ」定義を実践的に共有しているのだ。むろん、その定義は漠然としている。しかし、実践的有効性を超えてある程度以上の客観性・一義性を追求する試みは、おそらく「別の言語ゲームに属する」のだ:「わたくしが太陽までの距離を1メートルまで正確に述べなかったり、家具師に机の幅を0.001ミリまで正確に言ってやらなかったりすると、不正確ということになるのか」(ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』、邦訳p.89)
次節では、本節で以上に見てきた「定義」をもとに、「いじめ」という現象の奇妙な論理構造に注目していく。
2:いじめの論理構造
2−1:行為の否定
例えば、次のような訴えがなされたとする:
「突然、男の子に殴られた」
さしあたり、先入観抜きでこの言明だけを見てみよう。我々は、この言明が暴力的行為の被害者からの訴えであることを、明瞭に読みとるだろう。しかし、同様に明らかであるように思われるのは、この言明だけを見る限り、そこからは「いじめ」のニュアンスを読み取り難い、ということである。この言明だけを見るならば、そこからは(例えば道を歩いていて暴漢に襲われたといった種類の)突発的な暴力が読みとられるだろう。そして、その暴力的行為の主体が「男の子」として提示されている以上、(話者が女性である場合には特に)その暴力の原因は「男の子」の内面に求められることになるだろう(例えば「男の子」の精神的未熟さ、あるいは女性に対する「男」性の粗暴さないし性的な関心の裏返し、等々)。
ところで、既に気づかれる通り、上の言明は、前節で引いたインタヴューの中で、次のような文脈でなされたものであった:
− 暴力的ないじめは?
A子 それもありました。突然、男の子に殴られたり・・・。
つまり、件の言明は、「いじめ」の体験を語るというインタヴューの文脈の中でまさに「いじめ」の例として語られ・聞き取られ・読まれているのである(例えばこの文脈の中で読む限り、「男の子」という語は、路上の暴漢でも未熟な男児でもない「クラスの男子」といったニュアンスを帯びて適切に読み取られるだろう。また、「突然」という語は、「男の子」の内面的な衝動に対応するニュアンスではなく、「さしたる理由もないのに」といった動機のなさのニュアンスを帯びて適切に読み取られるだろう)。これは、とても奇妙なことではあるが、同時に、我々の常識にとってとても自然なことであると思われる。この奇妙な自然さの仕組みを明らかにするため、さらにインタヴューの続きの部分を辿り直してみよう:
A子 (・・・)でも、肉体的ないじめより、精神的ないじめの方がずっと辛かった。
− 給食の一件?
A子 あんなもの、軽い方ですよ。
− ”クサイ””○○菌”みたいな悪口・・・。
A子 それも、まだ耐えられました・・・。けど。
− けど?
A子 たとえば、こういうことがあったんです。(・・・)
ここでA子は「肉体的/精神的」という二分法を用いている。しかし、その二分法が必ずしも文字通りのものでないことは、この部分のやりとりでわかるだろう。殴打に代表される「肉体的いじめ」に対するような「精神的いじめ」といえば、文字通りに取るならば、(直接肉体を傷つけないまま)精神を傷つけるような手口のいじめ、ということになるだろう。しかし、まさにそうした意味で「精神的」であるはずの「給食をグチャグチャにする」「配膳を拒否する」「悪口を言う」等の「いじめ」は、ここでは「ずっと辛かった」という「精神的いじめ」の適切な例とは見なされていないのである。インタヴューのさらに続きの部分を見直せばわかる通り、A子がここで「精神的いじめ」と言っているのは「近づいていったら逃げる」「音楽の時間に耳をふさぐ」「鬼ごっこでおきざりにする」という3つの例で示しているもの、一言で言えばいわゆる「仲間外れ」「シカト」と呼ばれるものである。とすれば、A子の「肉体的/精神的」という二分法が指しているのは、いじめる側から見たいじめられる側の肉体/精神ではなく、逆に、いじめられる側から見たいじめる側の肉体の現前性の有無ではないか、と考えることができる。すなわち、殴打から、給食を巡る嫌がらせ、悪口を言うことにいたるまでの一連の手口においては、いずれもいじめられる側に対していじめる側から直接的に「いじめ」行為が行われ、その意味でいじめる側の肉体が具体的に現前している。一方、A子が「精神的」と称した3つのエピソードではいずれも、「いじめ」行為は「みんな」の間で完結している(「私が誰かに近づいて行くでしょ。すると、周りの人が、”〜さん””〜くん”と、私がそばに行ってることを注意するんです。・・・(すると)注意された人がおおげさに慌てて逃げます」)。このとき、いじめられる側から見れば、いじめる側の具体的な肉体は、現前しているようで現前していない。むしろ、いじめられる側に直接向き合わないこと(「仲間外れ」、「シカト」)それ自体が、「いじめ」になっているのである。このいわば行為の否定こそ、A子がもっとも「辛かった」と特権化しているものである。おそらくそれは、殴打等の具体的な「いじめ」行為に比べて単に相対的に「辛かった」というだけではなく、むしろ質的に次元の異なる、「いじめ」の本質をなすものではないか、と考えられる。
ここで再び、「突然、男の子に殴られた」という言明に立ち戻ってみよう。何度も強調するように、この言明だけを取り上げるならばそれは単純な突発的暴力以上のものを意味しないだろう。にもかかわらずこの言明がある文脈の中で「いじめ」行為の記述として読まれるとすれば、むしろ「いじめ」として読み取られるべきは、この言明に対する文脈効果そのものの方だと考えられる。仮に、「いじめ」という文脈の中でこの言明の中の「男の子」なる語が「クラスの男子」といったニュアンスを帯びて読み取られるとするならば、それは、我々がそこに「クラス」といった集団の存在を付け加え読み込んでいる、という事である。また、「突然」なる語が「さしたる理由もないのに」といったニュアンスを帯びて読み取られるとすれば、それは、我々が、人が殴られる場合にはしかるべく納得のいく何らかの脈絡が存在するはずだという常識を付け加え、さらにその前提として、そうした脈絡が殴る側の主観的なものでなく誰にでも納得のいくものであるはずだ、言い換えれば、そうした脈絡を「常識」として相互にわきまえ突発的暴力を抑止する集団 − 「クラス」といった − があるはずだ、という常識を付け加えて読み込んでいる、ということである。従って、件の言明を「いじめ」の記述と読むとき、我々は、殴打そのものを「いじめ」と捉えているのではなく、A子が「突然、男の子に殴られた」という事態の発生を「クラス」集団が抑止せずただ傍観して何の関与もしないという点、すなわち抑止の否定・関与の否定にこそ、「いじめ」を見ているといえるのである。
2−2:ネガティヴな空間
「いじめ」は、行為の否定であり、具体的な個々の行為の集積ではなく、それらの行為が埋め込まれている文脈の効果そのものである。上述の議論の帰結するところは、「いじめ」を行為論としてではなく、空間論のもんだいとして捉える捉え方である。すなわち、個々の行為を「いじめ」行為として文脈づけるようなひとつの空間こそがもんだいなのであり、それが維持され・機能しているということが「いじめ」である、ということだ。ただし、この空間があくまで「文脈」の空間である、という点を強調しておかなければならない。「文脈」の空間は、「いじめ」行為そのものによってではなく、言説によって・あるいは言説として形成されるだろう。具体的な行為の次元を離れている(また具体的な行為の「否定」である)という意味において、この「いじめ」の空間を、「ネガティヴ」な空間と表現することができるだろう。ある者がいじめられる、ということは、その者がこの「ネガティヴ」な空間の中に置かれる(追い込まれる)ということにほかならない。
この空間は、「我々(とは、しかしいったい誰か?)の日常生活の空間」と、ぴたりと重なり合っている。この点について、A子の語り方を、上に引用した部分全体の流れから読みとってみよう。
「どういういじめでした?」というインタヴュアーの言葉から始まる前半部は、インタヴュアーが主導する形でいくつかの具体的な手口を言い、それに対してA子が答える、という流れになっている。しかし、ここでは、A子の態度はいまひとつ、乗り気でないように見える。一方、「例えば、こういうことがあったんです」という言葉でA子が主導権を握る後半部では、A子は、「肉体的いじめよりずっと辛かった」という「精神的いじめ」を印象的なやり方で語り始める。このふたつの部分の「語り方」の決定的な違いは、「いじめ」の手口への言及の仕方にある。前半部では、インタヴュアーはいきなり「いじめ」の具体的な手口に言及している。それはあたかも、「給食をグチャグチャにする」「悪口を言う」ことそのものが「いじめ」であるかのような語り方である。しかし、後半部のA子の語り方では、(1)まず、ごく日常的な場面が提示され(「私が誰かに近づいて行くでしょ」「音楽で実技のテストってありますよね」・・・)、インタヴュアーに相づちを打たせておいてから、(2)それが実は「いじめ」の場面であったこと、を語る、というやり方がとられている。ここで、A子によって語られている「いじめ」の個々の内容についてではなくあくまで「語り方」に注目するならば、彼女は「語り方」そのものによって、「いじめ」の空間論的性格を伝えているのだと言うことができる。そこに読みとられるのは、日常生活の空間のあらゆる地点が「いじめ」の空間への入り口になっているということに他ならないのである。まさにそのこと、言い換えるならば、その「逃れようのなさ」こそが、彼女の言う「精神的」な苦痛の源泉となるのである。
*** 文献 ***
Garfinkel,H&H.Sacks(1969)On Formal Structures of Practical Actions
in J.C.McKinney&E.Tiryakian(eds),Theoretical Sociology
石飛和彦(1997)「神話と言説」『教育・社会・文化』no.4
週間少年ジャンプ編集部・編(1995)『いじめレポート』集英社
なお、ガーフィンケル&サックス論文については、阿部耕也氏のホームページに公開されている邦訳を参考にさせていただきました。