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生徒コードと「いじめ」の語り

石飛和彦(天理大学)


0:はじめに

 「いじめ問題」の言説論的研究は、社会的言説空間における「いじめ」カテゴリーについて多くの知見をすでに蓄積している。しかし、「いじめ」カテゴリーが個々の具体的状況に導入されるという局面については、また別の分析が必要だろう。本発表で注目するのは、「いじめを訴える」という状況である。ここでは、ある会話データを手がかりとする。その際、サックスのカテゴリー化論とともに、ウィーダーのコード論を参照する。

1:ある事例と問題設定

 あるインタビューで、回答者のひとりが「私、いじめられてるねん」と言う。これが出発点である。研究者はこの発話に対してどうすべきか? その「いじめ」の実態をさらに訊き出してその原因を探り対策を案出するか? あるいは「君が受けていると主張する「いじめ」とは、言説的構成物に過ぎない」と応ずるべきか? − おそらく、別のやりかたがあるだろう。そもそも日常生活を常識的に送っている私たち成員は、上のふたつのやりかたの前に、かならずあることを、ごくあたりまえに行っている。その手続きを明らかにするところから始めよう。

2:「看破問題」 − カテゴリー化論

 何のことはない、私たちは、「私、いじめられてるねん」と言われれば、まず例えば「え、うそ、ほんとに!?」と応じるだろう。サックスは、自殺志願者の訴えが[本気/冗談]の決定不能な曖昧さに必然的にさらされていることに注目し、訴え/聞き取る者に課される「看破問題」と名づけている(サックス(1972=1989))。「いじめ」の訴えに際してもこの「看破問題」 − その発話は本気なのか、比喩なのか、冗談なのか、勘違いなのか、あるいは・・・ − が重要なものとなるだろう(この問題が適切に解決されない場合、両者にとって深刻な事態が発生するだろう)。
 そこから、「いじめの訴え」の会話は、「いじめ」を探索する手続きをともなうことが予想され、実際にそうなる − 「どうしたん?」「実は・・・」「それは・・・」。
 さしあたりこの点は、いわゆる「いじめ問題の言説論」の視角から隠れている部分である。たしかに「いじめ」カテゴリーは歴史的構築物であり、別の時代・社会では別のカテゴリーAでありBであり、そして結局いわゆる現実は言説の外には存在しないという以上、言説を未知のXに変化させることで現実を変えることさえでき − そうに思われる(この立場を「状況の外側からの主観主義」と呼んでおこう)。しかし、ごくあたりまえの常識に目を向けるならば、「いじめ」のリアリティは、そのつど具体的状況の中の相互行為の中に埋め込まれたエスノメソッド(この場合、「探索手続き」)と相関した形で、ひとつの客体として受肉されているのである。エスノメソドロジーはこの受肉の様子を辿ろうとする(「状況の内側からのobjectiv-ism」(石飛(2000))。

3:生徒コードと「いじめ」の語り

 では、その「探索手続き」は、どのようにおこなわれるか。何よりまず、探索する手がかりとして「いじめ」の定義がなくてはならないだろう。この点については、石飛(1999)(2001)で記述を試みたとおり、成員は「いじめ」の語りの中で「いじめ」の定義を実践的に運用している。それによれば、「いじめ」は、「シカト」を原型とする、集団による排除の現象である。そうであるなら、「いじめの探索手続き」においては、集団の同定と排除の事実の同定とが重要な位置を占めると予想される。
 ここで、「生徒コード」という概念を導入しよう。この概念は、ウィーダー(1974=1987)の「受刑者コード」論を参照して稲垣(1989)が提起したものを、石飛(2001)(2002)で次のように再定義したものである:

「生徒コード」とは、生徒たちが「不在の共同体」の共同体規範を言語的に可視化・定式化したものである

 「私、いじめられてるねん」という発話に続いた「探索手続き」は、訴えをした生徒と聞き取った生徒の双方による、挨拶の仕方や雰囲気や服装等々についての暗黙の規範の所在を巡る会話として展開した。それは、正当な現象と不当な排除とを見分け、また共同体(=「みんな」)にとっての正当性の基準=共同体規範を、コードを語り合うことによって同定するという手続きだということができる。

4:語りの中に浮かぶ「不在の共同体」

 逆にいうならば、そこで焦点となっている共同体やその規範は、絶えず生徒たちによって語り合われ探索されることによってはじめて可視化されるものである(その点でそれは、いわゆる伝統的な共同体とは性質を異にする)。そして、上に扱ったのは「いじめを訴える」状況における探索手続きであったが、同様の手続きは、「いじめを自覚する」「いじめる」「いじめをまぬがれる」等々の状況の中でも変奏されたかたちで行われるだろう。その総体の中で、「不在の共同体」が、ヴァーチャルな現実性をおびて受肉される。
 ここでおこなった分析は、赤坂(1986=1995)がモデル的に提起した「いじめ=スケープゴート排除」論を、会話レベルで経験的に検証する試みであり、また、「いじめの言説論」にいじめ現象そのものを再導入し、相互行為の中の出来事を相互行為の中に戻す試みである。


【 文献 】
赤坂憲雄 (1986=1995)『排除の現象学』ちくま学芸文庫
稲垣恭子(1989)「教師−生徒の相互行為と教室秩序の構成 − 「生徒コード」をてがかりとして」『教育社会学研究』no.45
石飛和彦(1999)「「いじめ」の実践的行為の形式構造」『教育・社会・文化』no.6
 − (2000)「ハロルド・ガーフィンケルのテキストにおける「受肉」のモチーフ」『教育・社会・文化』no.7
 − (2001)「教育問題と逸脱 − 「いじめ」をめぐる言説の布置」柴野編『文化伝達の社会学』世界思想社
 − (2002)「生徒コード再考」『教育・社会・文化』no.8
サックス、H.(1972=1989)「会話データの利用法」北澤・西阪訳『日常性の解剖学』マルジュ社
ウィーダー、D.L.(1974=1987)「受刑者コード − 逸脱行動を説明するもの」山田・好井・山崎編『エスノメソドロジー』せりか書房



日本教育社会学会第54回大会(III−7「教育言説」部会)2002/9/21 17:20-17:45

当日配布資料 『生徒コードと「いじめ」の語り』 天理大学 石飛和彦


【補注A:あるインタビューより】

(会話1:「いじめ」の訴え→探索手続き、合理的説明の提起)

A:イヤなこと言いや 普通学級に入って思ったこと
B:言っちゃえ言っちゃえ
C:あんな あれや 授業のときは耐えてたらいいねん
D:耐えてる・・・
C:クラブがしんどいねんクラブが
A:何で?
C:いじめられてるもん
D:おー
A:もう見捨てられてるの?
C:そんなもんちゃうやんか もう私なんか行ってもいじめられるねんで
I:何言われんの?
C:あの 5対5とかの練習やるときにグッパとかで決めんねんけどそんときに私と一緒になったら「ゲー」とか言ったり「えーCさんと一緒やー」とか言ったりして いやがって なんか 5対5やってるときも 私だけパスもらえなかったり
A:うそ!
B:それわざとっていうかあれなんちゃう?
A:あそびちゃう?
B:親しみを感じて
D:Cさんクラブ行かへんもん
C:だから1年行ってへんやんか 1年遅れてるから私ヘタやねん ヘタやからな結構パスしたらミスるからとかいう理由でパスしてもらえへん

(会話2:「友達」にかんする話題から服装にかんする「生徒コード」の語りへ)

C:Dちゃんいちばん(部活)出てるんじゃ
A:Dちゃん友達がいるもん
C:なあ Dちゃん友達がいるもん
D:友達つくらへんからわるいねやんか
B:そうそうそう
C:つくれへんもん
A:つくってもケイベツされんだもん
I:(笑)いばることじゃねえだろ
B:(笑)そういう行動するから
C:(笑)誇りに思ってどうすんねん
D:転校した日につくってしまわなあかん すぐつくらな
C:そんなことぜったい
D:うそや それはうそやけど
A:試験を受けた日から友達だもんねー(笑)
C:(笑)二人で勝手に友達しやがって!
B:違う だってコワかったんだもん Cが
A:そうだよー
C:私かてこわかった
A:だって入試のときのかっこ見て 鏡で見てみーや
C:私は好きな服を着るのがおしゃれやと思ってんねん
B:聞いてよ 聞いてよ だってね 私ねCの隣にすわってたのにAに声かけられたそのぐらいCがコワかったんだよ
C:私かてこわかった
A:Cコワかったメガネかけて 赤いメガネかけて(笑)

(会話3:「生徒コード」の規範的性格と曖昧さ。「日本人」「友達」という集団の反映的同定)

I:さっき(Cが)「日本人の扱い方」って言ったでしょう? あれってどういうこと?
D:そう、扱いってなんや!扱いとは。
C:(笑)なんかカメみたい。
A、B:(笑)え?
C:(笑)ネコの・・・
A:扱い方・・・っていうか、グループでいるのに慣れてない
B:慣れてないから
C:どうしたらさ、友達と仲良くつきあえるとか、何をしたら友達は喜ぶとか、それを知ってるんや
B:そんなんわかんないよねえうちらだってねえ
A:私だってわかんないそんなん
C:知ってるんだっちゅうに 本能 本・・・能的にやってしまうねんそういうこと
B:ないってそんな そんなことないって
C:ほな知るか
A:でも 意外とあっちの友達とやってること日本の友達にやったら軽蔑されるとこあるよ
I:どういうとこ?
A:あっちのやったら「やあ!」とか言ったらみんなさ、言うてくれるのに こっちの学校やったら白い目でジローっと見られるし(笑)
C:Aのやりかたが悪いんちゃうか? 「やあ」くらいやったらええけど「やあーっ!!」とかって思いっきりやるからあかんのやない(笑)
A:なんで、あっちでちゃんと挨拶してくれたで?
B:え、Aんとこって何クラスもあった?
A:4クラス。ふふふ(笑)
D:あんまり知らんからちゃう? あんまり知られてないから違う? ぼく「おー」ってったって 別にだってちゃんとやってくれるよ?
C:挨拶のしかたが違うねん な? いきなり窓あけてな、ピース、ピースしたりな
D:あ、そら(笑)
A:ちゃう、あれ 挨拶しただけやで?
I:ちゃんと知ってる人に挨拶するわけでしょ?
A:うん
B:はい
A:顔知ってる人
D:学校の中で知らん人?
C:それはコワいで?
A:話もしたことない人にね、顔知ってるからね、同じ2年だからね、「やあ」とか言ったらちゃんとしてくれるけどね、
D:あ、あー、そういう人
A:慣れてきた人は無視すんねん
D:それはもうー んー なんちゅうの もう Aがもうー うっとうしい!と思ったんちゃう?
C:Aさあ、あれ そのへん歩いてても大声で呼び止めて(笑)なにかなーと思って 「バイバイー」とか(笑)するだけで終わりやろ?(笑)そういうとこが嫌なんちゃう?
A:だって人に嫌われるのって怖いやろ?
C:いやじゃないで別に。自分の信念貫き通して嫌われても別に
A:怖い人でもその人に嫌われるよりあいさつして友達のほうがまだましやん だから挨拶したら
C:な、限度があるやんか
A:挨拶に限度なんてない!
C:ある
A:ない(笑)
C:あるでー(笑)
A:じゃあどういう限度よー
C:だから白い目で見られないのと 普通に挨拶してくれる限度があんねん



【補注B:「生徒コード」概念の定義について − 石飛(2002)第2章より】


 本稿では、「生徒コード」を次のように定義しよう:「「生徒コード」とは、生徒たちが「不在の共同体」の共同体規範を言語的に可視化・定式化したものである」(前掲拙稿p.255-257.参照)。

生徒集団と規範の拘束性

 なによりもまず、「生徒コード」が、ある集団の規範を表現するものである、ということから出発しよう。集団があるからこそ、その集団の中で守られる規範があるのだ。また、集団の規範を、さしあたりすべて「生徒コード」論の範疇で扱う用意をしておこう。つまり、教師−生徒関係にかんする6項目以外であっても、およそ生徒集団のあいだで規範化されている事項のすべて − たとえば、ふだんの態度、服装や趣味のセンス、挨拶のしかたや喋り方や目つき、身のこなし等々まで含めたすべて − は、さしあたり「生徒コード」論の範疇に入れて考えることにしよう。
 規範であるという以上、「生徒コード」は、生徒の行為を拘束する、とさしあたり考えてかまわないだろう。行為を事前に決定するかどうかという点を強調する必要はないと考えられる(稲垣の議論に登場する生徒たちも、結局のところ、チクリはしないし教師にごまもすらず、ようするにコードに従った行為を行っており、またコードに抵触した教師はサンクションを受けている)。ただし、そのことは、生徒が「コードによって行為を決定している」ということと必ずしも同じではない。例えば、私たちの多くは街を歩くとき、たいてい「ふつうの歩き方」で歩いている。「変な歩き方」をしている人は、すぐにそれとわかるし、白い目で見られる等の社会的サンクションも受けるわけだから、これは一種の社会規範の現象である。しかし、私たちは「ふつうの歩き方で歩け」という規範「によって行為を決定している」とは、言わないし、そもそも「ふつうの歩き方で歩け」などという規範がもしあったところで、それに従ってどう歩けばよいのか、それだけではかいもく見当がつかないだろうし、かといって手足の動かし方の細目を(歩行ロボットのプログラムのように)規定していったところで、私たちが歩きやすくなるわけではないし、私たちの社会生活はそのようなやりかたでなりたっているわけではない。したがって要するに、私たちは規範について、実に奇妙なことを経験的事実として認めざるを得ない。私たちの行為はげんに規範によって拘束されている。しかし、その規範をいちいちすべて細目にわたって指摘することはできない。多くの規範が、まさに氷山の水面下の部分として暗黙の領域に沈んでいる − と想定される − のである。
 そこで「生徒コード」であるが、「生徒コード」とは、生徒集団の規範を、言語的に可視化・定式化したものである、と考えよう。その限りにおいて、「生徒コード」が可視化しているところの規範は、生徒の行為を実定的に拘束しているが、「生徒コード」として可視化された限りのものが行為を決定しているわけではない。結果として、「生徒コード」は、稲垣が指摘しているとおり、集団内の規範的行為や現象を事後的に定式化し説明するものとなるだろう。

不在の共同体

 上述のような暗黙の規範群によって秩序化されている集団を、「共同体」と呼ぶことができるだろう。言語化された成文規則によって形式的合理的に組織されている近代的組織に対し、伝統的社会の村落集団を代表とする共同体は、個々の成員を暗黙の共同体規範の中に包絡し拘束する。「生徒コード」とは、生徒集団をそのような共同体とみなすことと相関して効力をもつ概念装置である。生徒たちは共同体規範に拘束されつつその規範をそのつど「生徒コード」として可視化し語り合う。
 さて、しかし、ここで「生徒コード」論の固有の問題に注目しておかなければならない。それは、生徒集団の「共同体」としての性格が、伝統的な村落共同体などのそれとは本質的にことなる、という点である。すなわち、伝統的な村落共同体であれば、成員の全生活、生産と消費、誕生から生殖、死までのその生のすべてを包絡する具体的な場が、共同体の基盤として存在するし、また、そもそも成員の社会化の段階から共同体的な成形が施されることによって、共同体規範におのずから − いわば具体的な次元で − 従う成員が集団を構成することになる。しかし、生徒にとって、日常生活の場としての学校は、むしろ形式合理的な場であり、学校制度という人工的な枠組みによってそこに集められ、そこで形式合理的に社会化された生徒たちは、自分たちの集団の中に、具体的な次元から微妙にズレた別の次元の共同性を構成していくことになるだろう。
 前掲の拙稿で述べたように、それは例えば「いじめ」を通じて成立するような共同体だろう。すでに多くの論者によって繰り返し言われる所によれば、「いじめ」とは共同体による排除の現象である。スケープゴートを異者として排除することによって、集団は共同体としての統合を生成する。ただし、生活や経済活動や生殖の全体を包絡することのない学校空間において、そのようにして構成される共同体は、いわば表象の次元で観念的に先取りされたものであり、具体的な基盤をもたない。そのいみで、その共同体を「不在の共同体」と呼ぶことができるだろう。生徒たちは学校の中で、この抽象的・観念的な「不在の共同体」を構成しそこに属することによって、抽象的・観念的な仲間意識を見出し、その中で、共同体成員として振る舞うのである。
 不在の、ということは、抽象的であるということと同時に、具体的範囲が不定である、ということもいみする。すなわち、学校の中で構成される共同体は、ある時は友だち仲間、ある時は部活仲間、ある時は学級集団・・・というふうに、さまざまな範囲に画定される。「いじめ」が語られる際にしばしば用いられる「みんな」という言葉が、そのような不定領域の共同体のありようを的確に表現しているだろう。森田=清永が『いじめ 教室の病い』(1994)で示した「いじめの四層構造」モデルは、しばしば誤って、「いじめ」の共同体の範囲を学級集団に限定しているかのように理解され(その上で、「四層ではなく、教師を入れた五層だ」「家族や地域を入れた六層だ」といったふうに、同心円的に概念拡散して)広まったが、ごく単純に経験的に言っても、「いじめ」における「みんな」というのは、学級集団に限らない、むしろ友だち仲間や部活仲間の間での「いじめ」が一般的である。また同時に、「不在の共同体」は、そうした友だち仲間や部活仲間や学級集団といった具体的な成員集団を超えて、その背後のより抽象的・観念的な次元にあるからこそ、「いじめ」を受けた被害者が仮にその範囲を「この世の中全体」にまで広げて画定した場合に、やりばのない絶望ないし憎悪、それに起因する犯罪や自殺がおこる、と考えられるのである。

不在の共同体の不在の規範 − 反映的可視化

 さて、そのように不定であるような「不在の共同体」を、維持してその中に属することによって、生徒たちは学校内の日常生活を送っている。先に、「生徒コード」について、生徒集団の共同体規範を言語的に可視化・定式化したものである、と定義した。しかし、「不在の共同体」が規範をもっているとはどういうことか? また、そのような不在の規範に拘束されているとはどういうことか?
 まさにこの点に、「生徒コード」論の特異性がある。すなわち、生徒たちは、「生徒コード」を互いに語り合うことによって、不在の規範を可視化・定式化し、それを探りながら同時に適用し、それによって反映的に、不在の共同体そのものを可視化・定式化するのである。すなわち、規範もまた共同体そのものも、そのつど「生徒コード」を語り合うことによってはじめて姿を現すのである。例えば、小学生のいじめ行為について繊細な会話分析をしている大辻(2000)の、どちらかといえば傍系的なエピソードの記述:

A子は他の児童から「わがまま、自己中、自分勝手」などと形容されることが多く、問題児扱いされている・・・A子は3年B組において恒常的ないじめられっ子なのである。/そのA子についてやや話題が途切れた後、春子は次のように話をはじめる。春子「前なんかA子なー、教室に唾はいてんでー」、筆者「その時先生はそれ見付けた?、で、拭かせた?」、春子「うん、なんかそれで、A子やってないもんとか言って、他の人のせいにすんねん、自分の近くにいる人のせいにすんねん、ほんで先生がよけい怒んねん」(p.67)

この記述の中で春子は、A子にまつわる単なるエピソードの紹介を行っているというわけではない。春子はここでA子を、規範をことごとく踏み破る逸脱者として構成しようとしている。その構成には春子のみならず、「筆者(=大辻)」の発話も組み込まれている(「教室に唾をはくこと」を、「先生が見付け」「拭かせ」るべき逸脱事象として語っている)が、「筆者」の発話が「先生」をある種の権威者(逸脱を発見し、修復せしめる)として語っているのに対し、春子の発話は、そうした「筆者」の発話を引き取りながらあらためて「先生」をたんなる登場人物のひとりとして組み入れ直し、あくまでA子の規範逸脱に焦点を集中している。A子は、教室に唾をはく「きしょい」奴で、しかもそれを人のせいにする「自己中」な奴だ、それで周りを怒らせる「うざい」奴だ、というふうに。ここで参照されているであろう規範は、それ自体としては通常、不在である。とくに「教室に唾をはいてはいけない」という規範など、いちいち生徒たちがそれによって行動を決定しているということはナンセンスであろう。しかし、にもかかわらずそれは規範である。げんに、誰も教室に唾をはかないし、もしそういうことをすれば「先生」がそれを見付けて「拭かせる」ことが当然のこととして期待されるだろう。その規範の所在と、その規範を守っている(あるいは、規範を逸脱する「自己中」な者によって迷惑させられる)共同体「みんな」とは、ここで春子が「生徒コード」の逸脱例を語ることによって初めて、反映的に − すなわち、逸脱例を描くことによってそれを根拠に規範や共同体の所在が可視化され、同時にまた、「みんな」が守っていることを守れないで「みんな」を怒らせるということを根拠に、逸脱者「うざいA子」が可視化される、というふうに、循環論法的に − 可視化されたのである。
 「「生徒コード」とは、生徒たちが「不在の共同体」の共同体規範を言語的に可視化・定式化したものである」という定義の意味は、さしあたりこのようなものである。