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日本教育社会学会第51回大会(第II-1「理論」部会)1999/10/1/16:00-16:25
『いじめの論理構造(2) − 排除について − 』
発表者:石飛和彦(天理大学)


0:はじめに
 「いじめ」が排除の現象であるという指摘は現在ほぼ自明のものとして受け入れられている。それは学術的な議論の中だけでなく、むしろそれ以前の日常感覚の次元で、「シカト」を特権的な形象とする様々な「いじめ」はまさに排除の現象として実感されているだろう。しかしここであらためて、「排除」とはいったいどのようなやり方で達成されているのか、と問うてみよう。A、B、C、・・・が*それぞれ*Xと口をきかなくても、それは論理的には「排除」とイコールではない。「排除」とは、Xと口をきかないのはA、B、C、・・・の*みんな*である、という状態が達成されていることを指すはずであり、げんにそうした論理構造は、なによりまず人々の日常的な「いじめ」の語りの中で提示されている(以上の議論は石飛(1998)でおこなった)。
 「全員一致」を決議する学級会めいた儀式がそうそう頻繁にもたれるわけでもないにもかかわらず、また、常に有限の機会しか与えられていない日常的相互行為場面の中で、いかにして*それぞれ*でなく*みんな*(=「全体」)が達成されるのだろうか?

1:事例 − 電車の中で
 電車に3人の高校生が乗ってきた。座席に並んで座った3人のうち、まんなかの男を両側の男がからかいはじめる。頭の形の悪さを大声で嘲笑したり、ハンカチを何度も落としては拾わせたり、ネクタイを引っ張って首を絞めたり、腹を何度も思い切り殴ったりする。まんなかの男は「相手にしない」態度を保とうとしている。誰もが嫌な気持ちになるがみてみぬふりをしている。車掌が通りかかるが何も言わない。連中はいよいよ図に乗り出す。
 「四層構造論」をパラフレーズするならば、上のような事態をみてみぬふりした私は「傍観者」として「いじめ」に参与していることになるだろう。逆に言うならば、「いじめ」が学級集団内の「全員一致」の「排除」現象であるのは、もっとも基本的には、電車車内で私達が「排除」を行っていたのと同じ意味に於いてであると言うことができるだろう(無論、「学級集団」の排除はやはり車内の排除とは異なる、となお主張することは可能だろうが、その主張は、観察者による「学級集団」の定義付けの上にはじめて成立するものとなるだろう)。

2:二重の排除と「平常な空間」 − 「みてみぬふり」
 私はいったい何をしていたのだろうか? 車内に居合わせた私達には、一致団結して*彼*に攻撃性を集中させスケープゴートにしなければならない心理的動機はさしあたり見当たらない。しかし、私達はまさに*私達「みんな」*として、「みてみぬふり」をしていた。
 排除の対象は*彼*ではなく、彼ら3人が車内で引き起こした暴力という*異常事態*そのものが、まるごと、その「場」から排除されていたのである。「みてみぬふり」とは、誰かが何かを見たり見なかったりすることではなく、その「場」に「なにもおこっていない」ということを、「場」に居合わせた参与者が互いに表示し合い、その「場」が「平常な空間」でありそこに居合わせる者もまた*みな*「平常な参与者」であることを、相互行為的に達成する、ということに他ならない(例えば私はとても嫌な気持ちになりながら、にもかかわらずその場を立ち去ったり露骨に目を背けたりはしないで、読書に熱中している振りをする)。その時、殴られている*彼*は、二重のいみで、すなわち、救いの手をさしのべられないというだけでなく、そもそもそこに殴られている*彼*などいない、という形で、排除されている。彼は、彼自身もまたその時そのように振る舞おうとして努めていた通りに、他の全員と同じくその「場」にたまたま居合わせた「平常な参与者」の一人として、扱われるのである。(付言するなら、殴られている*彼*が排除されているというという場合、同じ意味に於いて、殴っている*連中*もまた排除されている。彼らがいくらでも「図に乗る」のは、その暴力が既に相互行為的なサンクションを期待し得ないからである)
 言うまでもなく、私は彼らに声をかけ、暴力をやめろと言うことができたかもしれない(実は、殴っている奴をいっしょうけんめいに睨んでいたのだが、自信たっぷりの笑い顔を返されてひるんでしまった)。しかし、当為のもんだいでなく経験的事実のもんだいとして、この社会は彼らに声をかけないことによって*も*成り立っている。これは「モラル」のもんだいであるが、この社会における「モラル」は、ゴフマンの指摘する「回避儀礼」という契機をも含む、デリケートなバランスの上に成り立っている。私達の見た彼もまた、殴られている方ではなく「平常な参与者」の方に、自らをアイデンティファイしていたのだ(あるいは、殴られている方にアイデンティティを置くことはそもそも、論理的に可能なのだろうか?)。

3:「私には頼れる人が誰もいない」
 H・サックスの古典的論文「会話データの利用法」は、緊急精神治療所に電話をかけてくる自殺志願者たちがいかにして「私には頼れる人が誰もいない」という結論に到達するか、を分析するものである。我々は普通、「世の中には大勢人間がいるのだから、”誰も”頼る相手がないなどということはないだろう?」と思うかもしれない。しかし、自殺志願者の常識的推論は、あやまたずに「誰もいない」という結論に到達するのだ。サックスがそこで注目しているのは、自殺志願者達が「成員カテゴリー化装置」を用いているという点である。この装置は、成員間の関係を示すカテゴリー・ペア(「夫−妻」「親−子」「隣人−隣人」・・・「赤の他人−赤の他人」等々)を含んでいる。そして、そのペアごとに、相互の義務と権利が細かく規定されている。自殺志願者は、あらゆる人間について相談の可能性を一から試してみるわけではなく、そうしたカテゴリー化装置を用いることによって、いわば機械的かつデジタルに、自分が相談を持ちかける権利を有する相手とその優先順位を割り出すのである。逆に言うならば、いくつかの可能的な選択肢が閉ざされるという事態が、すなわち、自分には「相談を持ちかける権利を行使できない」相手(=最も一般的な人間関係:ex「赤の他人」)しか存在しない、すなわち、「”誰も”頼る相手がない」という、*全*否定的な結論に帰着するのである。
 サックスの以上の議論を、そのまま「いじめ」の被害者のものとして辿ることができるだろう。車内で殴られていた*彼*がこうむっていた排除もまた、「頼れる人が誰もいない」という形のものであり、しかもそれは自分に対する悪意や攻撃性の集中によって引き起こされたものであるどころか、むしろ、もっとも「平常」で一般的な「場」が成立していることによって、また彼自身もまたその「場」から「平常な参与者」の一人としてのアイデンティティを分かち与えられている限りに於いて、引き起こされているものなのである。
 言うまでもなく、彼は私に敢えて助けを求めることはできたかもしれない。彼があの空間から得ていたアイデンティティなど、殴られ続けることに比べれば取るに足らない欺瞞でしかないだろう。しかし、再び当為のもんだいでなく経験的事実のもんだいとして言うならば、それはとても困難なことであるらしい(多くの自殺志願者達が「赤の他人」に相談するよりも死を選んでしまうのと同様に)。

4:解明されるべき現象 − 「平常空間」としての「いじめ空間」の相互行為的達成
 「いじめ」が被害者の人間としての尊厳や人権を踏みにじるものだ、というのは確かだろう。しかし、「いじめ空間」は同時に「平常空間」として、私達*全員*に、「人間」としての一般的な権利・義務と尊厳とを分かち与えるものだ、とも言えそうである。「いじめ」解決のために手を差し延べる・あるいは被害者が訴え出る、という事こそが、この「空間」の中では、一筋縄ではいかない困難を帯びるのである。
 先に述べたとおり、いじめが傍観され「平常空間」が達成されるのは、その場における相互行為を通じてである。だとすれば、その「平常空間」がその場の参与者達によって具体的にどのようなやりかたで組織され産出されていくかを辿り、それがどのようなテクニカルな(相互行為戦略的な・あるいはより制度的な)条件の下でどのような変異をするかを明らかにすることは、社会学的・教育学的に大きな研究課題となるだろう。

(文献)
石飛和彦(1998)「いじめの論理構造」日本教育社会学会第50回大会発表資料
 − (1999)「「いじめ」の実践的行為の形式構造」『教育・社会・文化』no.6
Sacks,H(1972=1989)「会話データの利用法」北澤・西阪訳『日常性の解剖学』マルジュ社




日本教育社会学会第51回大会 当日配布資料(第II-1「理論」部会)1999/10/1/16:00-16:25
『いじめの論理構造(2) − 排除について − 』
発表者:石飛和彦(天理大学)

補注1:語られる「全員一致」

 「いじめ」の本質を「学級集団による/からの排除」に見出す定式を極めて先鋭に提起したのが、赤坂(1986=1995)の議論である。赤坂は、「いじめ」を「全員一致の暴力によるスケープゴートの排除」と捉える。すなわち、誰か一人(いじめられる者)を「異者」に仕立て上げて全員一致で暴力的に集団から排除・放逐するというスケープゴーティング=供儀のプロセスによって、共同体(=クラス)の秩序が維持される、というメカニズムである。こうした議論は、たしかに、きわめて説得的であるように思われる。特に、学校をめぐる社会的文脈の歴史的な推移を視野に入れた上で「なぜ、今、学校で「いじめ」が起こるのか?」と考えていくとすれば、こうしたスケープゴート論は非常に有効な説明図式となるだろう。ただし、ここでひとつ解決されなければならない問題がある。それは、このスケープゴートのプロセスの生起する次元の実体性の問題である。この実体性の問題は、「全員一致」「排除」というふたつの契機にそれぞれ見出される。
 スケープゴート論の眼目があくまで「全員一致」にある以上、それは、個々のメンバーの個人的な悪意なりフラストレーションなり暴力性なりの圧力が実体として「存在」しそれが単に同時的に高まり噴出する、というだけではないのは言うまでもない。あくまで、「全員」が「一致」する、という契機が決定的に重要である。赤坂はきわめて印象的な「事例」を引いている:

関西のある中学校で、スポーツクラブに所属する少女が、七人のクラブ仲間から十日間にわたって、連日執拗ないじめを受けた。少女は逃げ場のないところへ追いつめられたすえに、手首を切って自殺を企てたが、未遂に終わった。学校側の作成したマル秘報告書によれば、いじめの光景は以下のようなものであった。
一人がAに何か言う。全員「そやそや」
Aが反論する。全員「チガウ、チガウ」
Aが何か言う。全員「ウソばっかり」
Aが弁解する。全員「開き直って・・・・・・」
A、沈黙。全員で唱和「しんきくさい」「ウジウジしてんね」
A「クラブやめます」。全員「逃げるのか」
A、助けを求めようとする。全員「チクったのか」
このいじめは、自殺未遂の翌朝、母親が学校に駆けこむことで、ようやく教師らの知るところとなった。少女は最後まで、学校に知らせることを拒んだ。(朝日新聞1985/7/23)
(赤坂、p.31-32.)

この「事例」は、確かに赤坂の言うとおりに「鮮やかなまでに、一人対全員といういじめの現在に特徴的な構図が見てとれる」ものである。しかし、注意しなければならない。なぜなら、赤坂がここに見て取っている「いじめる側がひたすら全員一致の意志を体現する匿名の存在であるのにたいし、いじめられる側は特定の一人の子供である、という構図」は、「事例」そのものの中にあったのではなく、「学校側の作成したマル秘報告書」という、なにやらいかにも秘密めきそれによって真実めいてもいる、しかし紛れもなく、事実そのものではなく誰かによって構成され記述されたテキストの中に、あったのである。言い換えるならば、赤坂がこの「事例」を引くことによって語っているのは、「いじめ」が語られる際に「一人対全員」という構図が用いられる、あるいは「一人対全員」という構図が用いられることによって「いじめ」が「いじめ」として鮮やかに語られうる、という、言説上のメカニズムについてだ、ということである。しかし、では、ここであらためて当然ながらひとつの疑問が浮かぶだろう。経験的に見て、実際のいじめにおいて、具体的な行為の次元でそのような「一致」の場面を実体として見出すことができるだろうか − 確かに、幾人かの生徒たちが目配せをし、相談をして、いじめの共同戦線を張る、あるいは他の生徒に同調を強いる、ということはあるだろう(むしろ、そうした執行者が存在する方が通例と思われる)。しかし、仮にそれだけだとすれば、それはあくまで幾人かの生徒の具体的な暴力行為に過ぎず、定義上、「全員一致」ではない(仮にそれだけのことであれば、それは「いじめ」ではなくむしろ特定の加害生徒に帰付することのできる「校内暴力」である)。先に見てきた通り、「いじめ」は定義上、常に「みんな」によって為されている(げんにそのように経験されるものとして語られている)ものである、にもかかわらず、具体的な行為の次元では、そのような「一致」の場面を実体として見出すことは困難ではないだろうか。ということは、言い換えるならば、そうした「全員一致」のプロセスは、実体としての具体的行為の次元にではない、別の次元 − 解答を先取りするならば、相互行為の次元 − において為されている、ということにほかならない。
 同じことは、「排除」という契機についても言える。「いじめ」における「排除」は、物理的な意味での集団からの放逐ではない。実体的な物理的空間においては、いじめられている者もクラスの空間の中に留まっている。従って、「いじめ」が「排除」であるとすれば、それは、「排除」のプロセスが成立するひとつの空間が、実体的な物理的空間とは別の次元に成立している、ということにほかならないのだ。


補注2:「頼れる人が誰もいない」 − 「成員カテゴリー化装置」について

 「シカト」のケースを考える場合、さしあたり「友人−友人」「同級生−同級生」というカテゴリー・ペアに注目するのが適当だろう。前者は、情緒的・個別的な関係として規定されている。また、後者は、前者の範囲をより広げ、さほど個別的ではないがやはり情緒的な関係として、規定されている。無論、生徒の日常生活の中には、この二つにとどまらないこまごまと多様なカテゴリーが存在するだろうが、代表的な上の二つを見て想像できるのは、生徒同士の関係の多くは、(濃淡はあるにせよ)情緒的なものとして − すなわち、形式的な権利・義務を超えた「友情」「親密さ」等による結び付きとして − 組織化されているということである。通常の場合、生徒はこれらのカテゴリー化装置を用いることで、お喋りの相手や遊びに誘う仲間・あるいは相談相手、助けてくれる相手、等を探し当てる。逆に言うならば、「シカト」に会った生徒が直面するのは、これらのカテゴリー化装置を用いても、それに該当する対象を見いだせない、という問題だと言い換えることができるだろう。ここでひとつのテキストを見てみよう:

A子 たとえば、こういうことがあったんです。私が誰かに近づいて行くでしょ。すると、周りの人が、”〜さん””〜くん”と、私がそばに行ってることを注意するんです。
 − すると?
A子 注意された人が大げさに慌てて逃げます。
 − 辛いなあ。

ここでA子自身が用いているカテゴリーは、「私」と「誰か」「周りの人」「注意された人」である。これらはいずれも極めて匿名性の高いカテゴリーであり、「友人」に該当しないどころか、ほぼ「赤の他人」と等価な関係を規定するものである。「シカト」が成立している事態とは、すなわち、情緒的なものとして組織化されている生徒集団において、「友人」に代表されるような、声をかけたり遊んだり相談を持ちかけたり、困ったときに助けてくれる相手が見当たらず、「赤の他人」しかいなくなった状態、と言い直すことができる。
 ただし、ひとつ重要な点を看過してはならない。上のテキストで用いられている「誰か」「周りの人」「注意された人」というカテゴリーは、単に「私」との関係の希薄さのみによって(言い換えれば「ネガティヴに」)捉えられるものではない(仮にそれだけならそれは「私」の「孤独」の記述にはなっても「いじめ」の記述とはならないだろう)、ということである。三つのカテゴリーをそれ自体として見れば、それこそ街頭での出来事を記述するときに用い得るほど無限定なカテゴリーである。しかし、上記テキストの文脈の中に配置されることによって、これら三つのカテゴリーは、すべていわば「同じ水準の」もの、いわばひとつのポジティヴな実体をなすものとして、聴き取られるだろう。それは、同じ一つの文脈の中で語られているという理由に加え、「誰か」「周りの人」「注意された人」の間にコミュニケーションが成立しているというエピソードが語られているという理由からも、そうなる(付け加えるならば、「周りの人」は「誰か」を名前で呼んでいる。すなわち、「周りの人」と「誰か」との個別的な関係が表されているのだ)。
 既に示唆したとおり、あるテキストが「いじめ」の記述となりうる条件は、無限定な「全体」が喚起されることである。上記引用テキストにおいては、まず、「誰か」「周りの人」「注意された人」といった匿名的なカテゴリーが用いられることで”無限定性”が表され、かつ、それらカテゴリーがひとつの水準の中で相互関連しているという点において、積極的な集団としての”全体”なるものが示唆されている。すなわち、「私」に対して単に情緒的な関与の埒外にあるというだけではなく、それら相互が「私」を疎外しながらひとつの集団として活動している、ということである。上記テキストの後の部分で用いられている「みんな」という語は、具体的物理的な次元での関与者の総和ではなく、そうした匿名的でありながら実体的であるような、カテゴリカルな構成物としての「全体」を指していると考えられるのである。
 ここで、先に触れた「同級生−同級生」というカテゴリー・ペアに再び注目してみよう。それは、「友人−友人」のように個別的な関係を規定せず、より匿名的である。また、「友人−友人」のような一義的な情緒的関係ではなく、より曖昧な(形式的ではないが、積極的な情緒的内容を含むわけでもない)関係をしか規定しない。そこから、「同級生−同級生」なる関係から組織された「クラス」という集団の両義性が帰結するだろう。ある者がひとたび「シカト」に会うや、彼/女にとっての「同級生」とカテゴリー化されたメンバーは一挙に「クラス」という匿名者の集団 − 不定形で曖昧な情緒が充満した − に変貌するだろう。彼/女はまさに、「頼れる人が誰もいない」状態に転落するのである(無論、個々の「同級生」の中には、相談されてもかまわないと思っている者もいるかもしれない。しかし、ここで問題となっているのは、カテゴリーである。自殺志願者が「赤の他人」に片っ端から相談を持ちかけることがないように、いじめられている者も、「単なる「同級生」」に相当する者に、いきなり相談を持ちかけるかどうかは疑問であろう)。しかも、そうした情緒的集団から排除されることによって、いじめられる者はまさに情緒的な苦痛を覚えることになるだろう。


補注3:「平常空間」の重層性について

 サックスの議論では、「赤の他人」どうしといういわば最も一般的な人間関係に辿り着くことがすなわち自殺への契機を意味している。ここにはある種のペシミズムがある。しかし、あらためて問うならば、私たちは、苦境にある他者を前に、”一般的な「人間」として”、手をさしのべ関与していくことはないのだろうか? − 例えば、我々が「人権」や「人間の尊厳」という一般的な観念のもとに「いじめ」行為の醜さを断罪し善導しようとするとき、その議論の根底にあるのは、この点に関するオプティミスティックな前提であろう。
 E.ゴフマンの一連の議論が示唆するのは、やはりサックス的なペシミズムに与する視点である。
 第一に我々は、日常的な相互行為において、常時、互いに一定の距離を保とうとするものである。仮に相手が苦境にあっても − 例えば、転んだ人を見て見ぬふりするように − 関与を控えるだろう。ゴフマンはこのプロセスを「回避儀礼」と呼び、我々の「面子=人間としての聖性」がこうした回避的な儀礼によって相互行為的に維持されていると示唆している(ゴフマン(1955=1986),(1956=1986))。付言するならば、この「回避儀礼」が組織的に無視される場としてゴフマンが観察しているのが精神病棟という施設であり、その記述の多くは、まさにもう一つの「全制的施設」である「学校」に、符合するように見える − 学校は定義上、生徒を人格の未発達な者(すなわち教育の対象)として扱い、その限りに於いて生徒に対する・あるいは生徒どうしの「回避儀礼」を軽視する傾向があると思われる。
 第二に、ゴフマンが論文「役割距離」(1961=1985)で示したとおり、我々はしばしば、ある状況の中に埋め込まれた「役割」から自らを引き離し、その距離によってはじめて「聖なる自己」の所在を呈示することができる。この指摘を敷衍するならば、我々がしばしば、冗談や悪ふざけや混ぜっ返しによって、人間関係を見かけ上あえて危機に晒す、という経験的事実が説明できるだろう。言い換えるならば、人間関係は、とおりいっぺん以上のものであろうとするならば、その人間関係そのものを危機に晒すような逸脱へのズレを潜在的に常に含み込んでいるものであり、そのズレこそが関係参与者たちの「聖なる自己」を保証しているのである。従って、例えば電車車内で多少のこづきあいが演じられていても、我々傍観者はそれを、むしろ「平常な」友達関係として見るだろう。そこから、私たちが車内で見た、大きな音を立てて殴られて続けていた彼への距離は、論理的にいうならば、ほとんどない。
 いうまでもなく、彼の超然とした態度は今や、彼の「聖なる自己」をまさにごく表面的に示している一方で、彼の人間性そのものを確実に空洞化させていることだろう。にもかかわらず、上述のようなゴフマン的なメカニズムは、ある厚みをもった重層的な「平常な空間」を形成することによって、一般的な他者からの彼への関与を柔らかく阻んでいる − しかも、我々が通常まさにそれによって自らの人間性を受け取ることができているようなメカニズムによって、阻んでいるのである。
「いじめ」によって開示される「絶望」とは、さしあたりこのようなものと思われる。

(文献)
赤坂憲雄 (1986=1995)『排除の現象学』ちくま学芸文庫
Goffman,E.(1955=1986)「面子について」『儀礼としての相互行為』法政大学出版局
  −  (1956=1986)「敬意とふるまいの性質」同上書所収
  −  (1961=1985)「役割距離」『出会い』誠信書房