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・「問題設定装置としての〈帰国子女〉カテゴリー」平成元年度〜3年度科学研究費補助金一般研究B研究成果報告書『国際化社会の中でのナショナル・アイデンティティーの形成過程の研究』(研究代表・柴野昌山)pp.8-26.(1992/3/31)


問題設定装置としての〈帰国子女〉カテゴリー

( 報告:石飛和彦 )

0.はじめに

 現在、帰国子女をめぐって様々な議論が活発に行なわれているが、この議論が行なわれている場はすでに当事者の集団を超えて一般社会的に広がっており、今や彼ら帰国子女たちは、社会的に共有される「問題」意識の焦点のひとつとして注目されるに至っている。このいわゆる「帰国子女問題」の成立は言う迄もなく、本邦企業の海外進出にともなって海外在留邦人が急激に増加する1970年代に端を発しているという意味において経済的−社会的な背景を明確に持っていると言い得るであろう。しかしながら同時に、それを社会問題の形成過程の研究の対象として捉えるという視角もまた可能だと思われる。J.I.キツセ(1980)はその帰国子女研究の方向を次のように設定している:

…まず最初に問題になることは、「帰国子女は果して社会問題か」ということです。誰がそれが問題だといっているのか、どんなことが問題だといっているか、といったことが研究のテーマになっています。どんなかたちでその帰国子女というものが社会問題として認められているかを問題にするのですが、その時私は、まず帰国子女を社会的な条件としてみます。帰国子女というのは、外国に行っていた子どもが再び帰ってきた、そういう子どものことです。外国にいた子どもが自分の国に帰ってくるということが問題と見なされるというのは、これは特別に研究の対象に値すると考えているわけです。
 
 特定の経済的−社会的背景の中で海外体験を持つ子供たちが様々な事態に出会うこと自体は、「帰国子女問題」の成立条件のひとつに過ぎない。「帰国子女問題」は、彼等の出会う多種多様な事態が「〈帰国子女〉に共通する」しかも「〈帰国子女〉に特有な」事態として社会的に同定され、社会的な言説の場においてひとつの「問題」として組織され維持されるに至ってはじめて成立する。だとすれば、すでに「問題」として取り上げられている事象に関して議論するだけにとどまらず、その「問題」そのものが形成され・維持されている過程すなわち「問題」化のプロセスを解明することが重要なのではないか。
 本レポートは、キツセの提起した「社会問題」への視角を受けて、帰国子女の生活経験がどのようにして「帰国子女問題」へと接続され得ているのか、言い換えれば、彼等の生活のどういった側面がどのようにして、〈帰国子女〉というカテゴリーの特性と見做されるにいたっているのか、を明らかにする為に行なった調査の中間報告である。

1.〈帰国子女〉カテゴリーと帰国子女特性

 調査の焦点は、帰国子女およびその周囲の人々が日常生活のなかで〈帰国子女〉カテゴリーを扱う、その様態の記述に当てられた。カテゴリーというものに注目した理由は次の通りである。一般に、個々の生活経験を「社会問題」へと接続するための重要な装置として人々は特定のカテゴリーを使用している。また、人々の日常生活が人々自身によるそのカテゴリーへの参照によって営まれているために、カテゴリーは実際に人々の生活を左右する装置にもなっているのである。カテゴリー化論に先鞭を付けた H.Sacksは〈ホットロッダー〉たちについて述べた文章(1979)の中で次のように論じている:

…次のことに注意しなければならない。まず第一に私たちが扱っているのは、集団ではなくカテゴリーであることだ。(女性、老人、黒人、ユダヤ人、ティーンエイジャー等々の)カテゴリーの大部分は、普通、集団という場合のどの意味をとっても集団とはいえない。けれども、どのカテゴリーについても私たちは豊富な知識を持っている。どのメンバーもこうしたカテゴリーのどれかを代表するものとして見られ、あるカテゴリーにあてはまる人は誰でもそのカテゴリーの一人のメンバーと見なされる。そして、そのカテゴリーについて知られていることはまた、彼らについて知られていることなのである。ということは、一人の人の運命というのは(そのカテゴリーのメンバーである)他の人々の運命に結びつけられており、その結果、内部でもメンバーによって執行されている当のカテゴリーを中心とした社会統制のシステムが規則的につくり出されていくのである。

 〈帰国子女〉カテゴリーは、このようなカテゴリーのひとつと考えられる。それは、人々によって時には明示的に言及され時には言外に参照されるというかたちで、日常生活の中で扱われている。これを「帰国子女だから…」という言葉によって端的に表現することも可能だろう。「帰国子女だから勉強が遅れている」「帰国子女だから性格が勝ち気だ」等々の日常的な認識は、ある子供の成績や性格を(他の可能的な諸カテゴリーを排除しながら優先的に)〈帰国子女〉カテゴリーの諸特性のひとつの事例と見做そうとするものである。それによって彼は(他ならぬ)〈帰国子女〉カテゴリーの一員として認知される。「勉強が遅れ」「性格が勝ち気」なのは彼個人の問題ではなく〈帰国子女〉の問題として解決が図られねばならない、という発想は、こういったカテゴリー運用に基づいているといえるだろう。また「帰国子女だから…」という評価は(彼をスポイルするにせよ、逆に反発・発奮させるにせよ)彼の行動を実際に左右する重要な契機になると思われる。
 ではどのような場合にこういった〈帰国子女〉カテゴリーへの言及が行なわれるのか。言い換えれば、「帰国子女だから」何だというのか。それを、ここでは「帰国子女特性」と呼ぶことにする。ここで用いるタームとしての帰国子女特性とは、したがって、彼らが「実際に」どうなのか、を指すものではない。帰国子女特性というタームは、人々が日常生活のなかで〈帰国子女〉カテゴリーに言及する際にそれについて暗黙のうちに前提としている一連の知識を指すものとする。
 〈帰国子女〉カテゴリーに人々(あるいは帰国子女自身)が言及するときに、帰国子女特性の項目に彼らの生活経験のどの側面が対応しているのか、またその対応がどのように表現されているのか、すなわち帰国子女特性がいかにして構成されているか、それを記述することは、重要な作業となるであろう。
 本レポートでは、上記の作業の準備段階として、〈帰国子女〉カテゴリーの分析にあたって注目されるべきいくつかの点を整理する。

2.事例:〈帰国子女〉カテゴリーの運用と帰国子女特性の構成

 以下は、ここまでに述べてきたテーマを実際の事例に基づいてさらに具体的に展開する試みである。この調査はX市内のある中学校の帰国子女学級(2年生)の協力によって実現した。この中学校は一学年4クラスという編成をとっており、第1・第2学年については、それぞれの1〜3組が普通学級、4組が定員15名の帰国子女学級となっている(第3学年では1〜4組の混合編成を試行中)。普通学級と帰国子女学級の間にはカリキュラム上の差はなく、体育と技術家庭科では混成授業が行なわれている。また、授業以外の活動(生徒会活動・クラブ活動・学校行事等)が生徒の交流の機会になっている。さらに、第2学年の終わり(1月末〜2月初め)には、春からの混合編成に備えて1週間の「体験混入」の期間が設けられており、4組の生徒が4ないし5人ずつに別れてそれぞれ1〜3組に「混入」することになっている。ここで用いるデータは、主に、「体験混入」の直前と直後に一度ずつおこなった帰国子女学級生徒の集団インタヴューと、同じ生徒に対して春休みの直前に行なった個人インタヴュー、そして帰国子女学級で年一回行なわれている「5分間スピーチ」のヴィデオテープから得られたものである。

2-1. 予備的分析:用いられている〈帰国子女〉カテゴリーとその「不確定性」

【例1】 〔以下、P=生徒・I=インタヴュアー。複数の場合は添字を付す〕
  (各クラスの特徴を一言で言うとどうなるか、という話題)
P:1組2組って、だんだんあかるくなってくって感じ(笑)
I:はあーなるほどねえ じゃあ4組は?
P:4組、
I:4組めっちゃ明るい、みたいな?
P:めっちゃ明るいですよ
【例2】
  (普通学級の生徒が4組を特別視する、という話題)
P:英語ができるのも4組だから、とか4組で英語ができないのはアホだとか
I:っていうのを実際聞いたことがあるわけか
P:何度かありますね
I:たいへんだなあ でも4組のコでアメリカとか行ってたら英語が出来るもんなあ
P:まあ一応、でもアメリカでずっと日本人学校にいると、英語できない人のほうが多いんですよね
I:あそっか
【例3】
I:(部活は)バスケ?
PA:バスケです
PB:バレー
PC:(PA・PB・PDを指して)バスケ、バレー、サッカー、(自分を指して)帰宅(笑)
PD:幽霊テニス
PB:この人いちばん入りやすいクラブ入ってるん、なのに出ないんだよ
PA:部長さん4組から居んのに
PC:1年コワイもん

 この学校では、〈帰国子女〉カテゴリーは「4組」という語によって表現されている。ただし「4組」という語はこの学級の学級名であるため、必ずしも帰国という事を直接的に意味するわけではない。それは「普通学級」の対義語としての「4組」というニュアンスと同時に、1・2・3組と同列に置かれる「4組」というニュアンスを持ちうる。すなわち、同じ「4組」という語がどういうニュアンスで用いられているかは話し手/聞き手が各々状況の文脈に照らして行なう解釈にかかっているのである。【例1】の場合には、それは単なる学級名として用いられていると考えられ、【例2】においては(特に前半部の「4組」には)明らかに帰国という含意が意図されていると考えられうる。しかし、語の意味がこのように決定可能な場合はむしろ希であり、話し手/聞き手の解釈の余地が相当程度に大きいことがしばしば起こる。【例3】で用いられている「4組」という語は、単なる学級名を示しているという解釈と帰国という事を積極的に含意しているという解釈との両方を受け入れるものだろう。調査者にとっても会話の(PA以外の)参加者たちにとっても、いずれの解釈をとるかはPAの帰国へのこだわりの程度を推し量る上で極めて重大な課題となるのである。
 このような含意の不確定性にさらに注目していけば、「4組」が明らかに〈帰国子女〉を指す場合でさえもなおそれが重大な不確定性を含んでいることが明らかになる。

【例4】
PA:「4組やねー」とか、ああいうやつ? ですか
IA:うん
PA:実際に聞いてみたらわかるけどなあ 思い出そうと思っても思い出せない
PB:アブナイで
PA:たぶん冗談で言ってるんやと思うけど 面白半分で言ってるんかなあ(呟く)
IB:言われてどんな感じ?
PA:たぶん冗談で言ってるというふうに、ぼくは受けてるから別に気にしてないけど もし本当に言ってるんやったら、それは、そう思ってる人は、悪いって言うか 考え方が良くないな、って思う
IA:ふーん、まあなあー
PA:4組だからって差別、差別って言うか違うふうに見られたらいやや

 一般に、厳密さを要求されていない日常会話はこのような「意味の不確定性」(あるいは H.Garfinkelの術語indexicality)を常に含んでいる。そのために生じる帰結は本レポートの文脈から注目されうるであろう。すなわち、この意味の不確定性がトラブルの回避に積極的に利用されているのである。たとえば【例4】の場合かりにどこまで「冗談」でどこまで「悪意」、という含意がそのつど明確にされていたならば、トラブルは免れ得ないだろう。また、〈帰国子女〉カテゴリーの表現として「4組」というより不確定な語が採用されているという事実に、このようなトラブル回避の機能を見出すことができるであろう。

2-2. 予備的分析:カテゴリー運用における執行者とカテゴリー成員

 例えば日本語における「外人」カテゴリーを想起すれば明らかな通り、カテゴリー運用の分析をする場合、それを用いる執行者とそれが指し示すカテゴリー成員(メンバー)を区別することが重要である。恐らく〈帰国子女〉カテゴリーそのものは「外人」カテゴリーと同じくメンバー自身によっては用いられない、いわば外側から貼り付けられる種類のものと思われる。そして帰国子女自身は、自分の言動が〈帰国子女〉の特性の一例と見做された場合に理不尽な感じを覚えることになる。

【例5】
I:(「4組だから」と)球技大会のときとか言われたとかいってたでしょう
PA,PB:あー、
PC:え、なになに?
PB:ほら、バスケットやった時、最後のとき、あったじゃん バスケットやったとき 反則ばっかり
PA:あーやっぱり4組やから荒いなーとか言われたな
PC:あー
PD:それ女子や それ女子
PA-PC:女子、女子
PC:4組やから荒いとか言うて
PA:やっぱ4組やから荒いなーって 反則多いなーとか言って どこが多いん
PC:じゃかーしー じゃかあしいよ
PB:むこうだって多いじゃんかよー
PA:そうそう
I:4組だから荒いなーとか言ったの?
PA:そう ベつに文の意味がない 4組だから荒いつーのも(笑)なぜかなーと、いま思うと考えてしまうなあ
I:なんかあの、ドラえもんのだなあ、のび太だーとか言って
PA:あ、のび太のくせに生意気だーとか言って(笑)
PC:そーそーそーそー そーいうようなもん  

 また、逆に、帰国子女が普通学級の生徒たちに対して用いるカテゴリーがある。

【例6】
I:いつもそんなこと(普通学級への不満)言ってんのか、クラスでは
PA:言わない
PB,PC:このひと(PD)だけ 
PD:この人たち(PA〜PC)日本人の扱い方に慣れてるんですよ
PB:まあ扱い方やね
PA,I:扱い方!(絶句)
PD:扱い方やん
PA:も、物みたいな
PC:そうやん、PDだって日本人やんか
PB:でもあんなんグループでいられたら物みたいなもんやん
PC:ふーん 
PD:そうや 
PA:そうか 
I:ふーん 
PD:私はまだそういうのになれてへんねん 小人数のクラスで育ったやろ
PA:そうやな

軽い仕返しにも似たこのカテゴリー執行によって彼らが行なっている事は、〈日本人〉が彼らに対して行なっている事と相似的であるかに見える。しかし、「4組」というカテゴリーと〈日本人〉というカテゴリーの間には質的な相違があると考えられる。すなわち、〈日本人〉というカテゴリーの使用においてはいわば理不尽さが露骨に強調されるのに対し、「4組」カテゴリーの使用においてはその不当さが曖昧になりやすいのである。
 ここでもまた、「4組」という語が〈帰国子女〉カテゴリーであり同時に学級名でもあるということが重要になる。そこには執行者の基盤を異にする二つのカテゴリーが共存しているのだ。〈帰国子女〉というカテゴリーはメンバー以外の者によって用いられる種類のものである。一方、学級というカテゴリーはそのメンバー(生徒)自身によっても用いられやすい種類のものなのだ。ここから次のようなカテゴリー配分が起こる:〈日本人〉カテゴリーは、〈日本人〉自身によっては用いられずもっぱら〈帰国子女〉達(彼ら自身もまた日本人であるにもかかわらず)によって一方的に用いられるものである;いっぽう「4組」カテゴリーは、〈日本人〉によって用いられているのみならず〈帰国子女〉自身もこれを用いているという、(少なくとも表面上は)共有化されたカテゴリー装置なのである。

【例7】
  (授業を受けるときの態度が担当の先生によって変わる、という話題)
IA:その、授業によって違うとか先生によって違うっていうのは、1組から4組まで全部同じ? それとも普通学級の子が特にそうなわけ?
PA:4組は、だってなあ、どこでもしゃべるもんなあ なあ
PB:何か相談しなさいっつったらクラスのみんなで相談することになるからうるさくなる
PA:先生も一緒んなって話してる
IA:で、1組から3組まで、ていうか他のクラスだったら例えばどうだったの?
PA:先生が一人で授業やってて 聞いてる子は聞いてて、聞いてない子はみんな遊んでる
IA:ふーん ほいで、先生によって違うのか遊び方とか
PA:いやうるさい先生がいたらピシッとしてんねん教科書もちゃんと開いて(同時)
PB:コワい、怒る先生は もうズーっと何にもしゃべんない
IA:へえー
PB:先生がしゃべっていいっつってもしゃべんないもんな
PA:相談しなさい言ってもシーンとして
IA:じゃ4組だったらコワい先生の時も 結構
PA,PB:関係ないなあ

ここでは「4組」の生徒自身によって「4組」の特性が描き出されている。ところがこれを〈帰国子女〉の特性を描出しているものと解釈することもできれば学級集団の特性を描出しているものと解釈することもできる。前者の解釈が可能であるかぎり、〈帰国子女〉カテゴリーとしての「4組」カテゴリーの使用は「4組」の生徒自身によっても承認されているのだとする主張が通用することになり(あるいは実際に彼ら自身によっても曖昧な形のままで受け入れられ)、〈帰国子女〉カテゴリーの使用の不当さがそれだけ隠蔽されることにもなる。

【例8】
  (【例7】の続き)
IB:その違いはクラスの人数が違うから? それともやっぱりこう帰国子女って言うので考え方とかが少し違うの
PB:人数じゃないかなあやっぱ
PA:うんー 考え方ってどうちがうの
PB:わたし、やっぱ、いっしょやと思う考え方(人数が)少なくなったらやるんちゃう  だってうちらやって多くなったらそれなりに話せなくって、先生とかに
PA:うん
PB:たぶん人数だと
PA:人数、うん

【例7】につづくこの部分で、上述の描写は学級集団としての「4組」の特性を描き出すものだったことが判明する。しかし重要なことは、【例8】のような説明がインタヴューという形式のなかで出現したということだろう。日常の生活のなかではカテゴリーの含意がインタヴューほどには追求されない。そのために、【例7】のようなカテゴリー使用が【例8】のような説明を伴うことはむしろ希だと考え得るのである。

2-3. 問題設定装置としての〈帰国子女〉カテゴリー

 以上のような機構によって普通学級生のみならず帰国子女自身によっても利用可能になっている〈帰国子女〉カテゴリーは、それでは、実際にどういう場面で使用されどういう効果を産み出しているのだろうか。

【例9】
  (体験混入の時に、隣の席の生徒に)
PA:英語の時だけ英和辞典の代わりに使われてしまうんです(笑) 先生が英和辞典使い なさいっちゅうのに
IA:これどういう意味、とかいって?
PA:歩く英和辞典とか言って、使われてしまって

 ここでは、会話を行なうきっかけが〈帰国子女〉カテゴリーへの参照だという点が重要だろう。すなわち隣席の生徒が彼女に英単語の意味を尋ねたのは彼女が〈帰国子女〉だったからであり、さらに言えばそこで隣席の生徒は〈帰国子女は英語が得意だ〉という帰国子女特性を想定しているのである。このカテゴリー使用は、【例9】を見る限り不当なものとは見られ難い。しかし、それが一般的に正当と思われていればいるだけ気まずい思いを引き起こす場合がある。

【例10】
  (【例9】の続き)
PB:隣の子がね 英語の時聞いてきたらな、わたしアメリカじゃないからわかんないっつったら「なんや」ってそれでおわりやで(笑)
PA:淋しいなあ
PC:淋しーなーそれ
PB:いっしょうけんめい辞書引いてん
PA:ほんと淋しい

 非英語圏からの帰国生、あるいは英語圏であっても現地校ではなく日本人学校に通っていた帰国生の場合、必ずしも英語を得意としているわけではないのだ。そして【例10】のような会話(の失敗)を通じて彼らは、隣席の生徒の関心が自分にではなく〈帰国子女〉カテゴリーに対するものだということを知らされ、悲しい思いをする。もっともこのような思いは、毎度毎度英単語の意味ばかり質問される「英語のできる」帰国生にも抱かれており、「歩く英和辞典」という言葉もそのように理解すべきだろう。
 このようなカテゴリー使用は、また帰国生自身によっても行なわれる。

【例11】
IA:行事の時でも何の時でも「4組だから」とか言われたりするとか言うでしょう
PA,PB:あれむかつくなー
PA:うちのクラスでも言うよ自分たちで 「4組だから」
PB:4組だから仕方ない、とかそんなん関係ないやん(笑)
IA:いや、本当にそんなこと言われるの?
PB:言われる、自分たちで言ってるもんなー
PA:自分たちで本人が言ってる 4組ん中で「うちら4組だからなあ」とかなあ
IB:4組だからどうなの?
PA:4組だからちょっとできなくてもしょうがない 人数が少ない
PB:これでもしょうがないな 遅れてもしょうがない 先生たちも言うやん
IB:人数が少ないから?
PA:文化祭とかでもなあ これでもしかたないとか
PB:先生たちが言ってる
IA:ふうん
PA:国語なんか特になあ漢字とかできなくて言うやんなあ
PB:なあ 4組だからがんばれや とか
PA:4組だから、漢字が少しぐらい読めなくても仕方ないとか
IA:でも、ほんとにそんなことないの?
PB:そういうことあるけど 口に出して言われたくない
PA:結果的になあ、 だっていつかは入っていかなきゃいけないんだから

 ここで話題にのぼっているのは4組の生徒自身による〈帰国子女〉カテゴリーの使用である。ここではそれがいわば言い訳のために用いられている。つまり、〈帰国子女〉カテゴリーを使用し〈帰国子女は進度が遅れているものだ〉という帰国子女特性を喚起することによって、思うままにならない勉強の責任の所在を自分自身から逸らすのである。
 言うまでもなく、こういった態度が帰国子女に共通のものだと論じるわけでもなければこの例の中に登場する生徒たちが常に言い訳ばかりしていると指摘しようというわけでもない。ここでの関心は、調査によって得られた帰国生たちの日常生活の断片の中で用いられている〈帰国子女〉カテゴリーが果たしている働きを確定することにある。そして、次の点を指摘することができるだろう。
 〈帰国子女〉カテゴリーが使用されるときには、被適用者の全存在のうちでも特定の帰国子女特性に対応する範囲だけに注意が向けられる。そこで、〈帰国子女〉カテゴリーをひとつの「問題設定装置」と呼ぶことができるだろう。すなわち、それを用いることによって、日常生活のなかで何を「問題」とし何を「問題にならない」とするべきかが設定されるのである。ここで重要なことは、この問題設定が必ずしも最初から正当なわけではないという事だろう。それは、日常生活のなかで一定の結果(例えば説得力のある言い訳)を導くためのいわばストラテジーのひとつである。ところが、ひとたび「問題」が設定されると、人々の注意はその問題の「解決」へと向かい、問題設定それ自体の戦略的な性格は隠蔽されてしまう。【例11】の回答者の苛立ちはそこに起因すると思われる。別の生徒は、次のようにも言っているのである。

【例12】
P:うちのクラス多いんですよ 「日本はなんとか」 仕方ないことに文句ばっか言って

2-4. 相互行為枠組としてのインタヴュー

 日常生活の中での〈帰国子女〉カテゴリーの使用が問題設定的な性格を持っているということは、今回のインタヴュー調査それ自体に大きな影響を与えた。なぜなら、インタヴュー自体がひとつの相互行為だからである。

【例13】
I:アメリカの生活でよかったこととか、
P:アメリカの生活ですか アメリカで良かったこと おやつが安かったかな(笑)

 帰国子女調査という文脈からは、【例13】のような回答は明らかに本題から外れていると判断しなければならない。それは余りに些末的であり個人的であり一般化され得ない体験と判断されるだろう。逆に次のような回答が得られれば、それは重要な資料となる:

【例14】
PA:だから、まず英語がしゃべれるようになったでしょう、
PB:わたしもそう言うた
PA:だから、あとアメリカとか他の国から、日本を見るって形で日本の弱点、じゃないけど悪いところと良いところが客観的に見れたでしょ、
PB:それ言うの忘れた
PA:たまにはsensibleなことも言うねん(笑) あとー、
PB:あれは? 友達とか
PA:そうそうそう いろんな国に友達もできたしアメリカだったらほら日本みたいにほら普通の学校にいろんな国の人がきてるでしょ、だからアメリカに行ってても、フランスの人とかいろんな人がいるしね
PB:そうそう
PA:なんか私が言ってること全然ためになってないみたい(笑)
PB:私もそうやってん だってほとんど同じこといってる本当に
PA:そうなん?(笑)
PB:みんな同じこといってるって

この回答は、個人的な体験ではなく、多くの帰国子女に共通する問題に触れている。しかも同様の証言は実際に多くの回答者から(それぞれ別々のインタヴューの中で)得ることができる。すなわちこの回答は二重の意味で一般的だといえる。ここで、この一般性の原因こそが説明されねばならないであろう。無論、それは彼らが共通の経験を持っているからだ、という説明は正当だと思われる。しかしそれだけでは説明が不十分になるだろう。つまり、彼らがインタヴューの回答として他ならぬその経験を報告したという事じたいが説明されねばならないのである。
 そこで、このインタヴューがそもそも〈帰国子女〉カテゴリーへの参照を前提として成立する相互行為だという点にあらためて注目することが有効だと思われる。つまり、回答者に対して可能な限りの自由を与え、思ったままを回答することができるように設定されたインタヴューであっても、潜在的な〈帰国子女〉カテゴリーの使用によってあらかじめ問題設定がなされている、という事が重要となるのである。回答者は〈帰国子女〉としてインタヴューに参加しているのだから(自分が〈帰国子女〉でなければインタヴューなどは受けなかっただろうから)、調査に協力的であろうとする程度に応じて彼(女)は自分の〈帰国子女〉としての経験に限定した回答をするだろう。そのために【例14】のような回答が優先的に行なわれ、逆に【例13】のような回答はあらかじめ回答者自身によって排除される。そして、回答者によるこういった判断の基準となっているのが〈帰国子女〉カテゴリーであり帰国子女特性なのである。したがってインタヴューによって得られた回答を各々の回答者のありのままの経験の報告と見做すことは困難であろう。むしろそれは、〈帰国子女〉カテゴリーについて各々の回答者が想定している帰国子女特性の描写と考えられるのである。
 もっとも、ここで次の点があらためて強調されねばならない。すなわち、回答者は決していい加減に回答しているわけではなく、むしろ真面目に回答しようとする結果として、一般的な帰国子女特性をそのままなぞるような回答をすることになるのだ。

【例15】
PA:夏の夜とか涼しいときでも自転車とか乗ってたら気持ち良かった 庭の水まいてるときでも気持ち良かったけど 日本に来たらまわりにいっぱいビルとか、家でもなんか二階建の家とか高い家とか建ってて木とかが少ないし緑も少ないからあんまり気持ち良くないけど アメリカんとこは芝生とか多かったから気持ち良かった 広かったし
IA:なるほど
PB:うーん 外国人のものごとの考え方や(笑)常識的な考えや生活様式などを知ることができたのがやっぱりいちばん良かったんやないかと思います(拍手)
PA:書いたのそのまま言ってるやろ
PB:言うことないなあ
IA:そういうふうに書くわけ?
PB:やっぱし、あんまりふざけて書けないからな
PA:今の(気持ち良かった)は書いてませんよ
IA:じゃあ書くのはどんな事書くの?
PA:書くのはそういう(ものの考え方うんぬん)事です
IA:あそっか
PA:今だから言うんですこれ
IB:どれぐらい本音なん、その、
PB:結構ね、本音です
PA:ほとんど本音だけど、それはまじめな目で見てて、自分の気持ち良かったとか遊びが面白かったとかいうのんは、こういうときしか言わない

 本レポートの関心は、インタヴューによって得られた回答の個々の内容にではなく、インタヴューという相互行為場面における暗黙のカテゴリー使用にあるといえる。そこで回答者が行なっているのは、〈帰国子女〉カテゴリーを用いながら自らの全経験に対して反省の光を当て、そこに帰国子女「問題」を設定していく、という作業なのである。

2-5. 〈帰国子女〉アイデンティティー形成枠組としての学校

 言う迄もなく、帰国子女たちが自らの海外経験をあらためて反省するという事は非常に重要なことである。しかしながら本レポートが注目しているのは、各々の帰国生が多様に展開するはずのその反省が、〈帰国子女〉カテゴリーによって規格化され、結果的に社会通念としての帰国子女特性をそのままなぞるような型にはまってしまうという事、そして帰国生自身もその規格化された反省を自分の考えとして信じてしまうという事、である。これを、前節ではインタヴューという相互行為について明らかにしたが、おそらくは帰国子女を受け入れる学校という枠組じたいが、インタヴューと同様の機能を恒常的に果たしているのではないか、と考えることができる。なぜなら、学校という枠組が生徒に対して要求する真面目さは、インタヴューという枠組が回答者に対して要求する真面目さとパラレルなものと考えられるからである。調査を行なった中学校で実施されている帰国子女学級生徒の5分間スピーチは、わかりやすい事例となるだろう。
 このスピーチは、年一回2時間の設定で1・2年の帰国子女学級が合同で実施しているものであり、次の3点をねらいとしている:

 ・多数の前で話す経験をさせ、効果的に話す態度を養わせる。
 ・原稿を練ることを通して、日本語の習熟を進め、文章構成力をつけるとともに、自己や社会、文化についてより深く考えさせる。
 ・友達のスピーチを聞くことを通してお互いを理解し、視野を広めさせる。

これらを見てわかる通り、このスピーチは生徒の海外経験にテーマを限定しているものではない。むしろ、国語科的な指導すなわち態度面や文章構成の面での指導に大きなウエイトが置かれている(スピーチの指導は帰国子女学級部と国語科の教諭が担当している)。にもかかわらず、実際には多くの生徒が海外経験をテーマとする(あるいは海外経験を議論の展開の契機とするような)スピーチを行なっているのであり、これは本レポートの文脈からは非常に興味深い。
 例えば、「中学校と JR.HIGH」というスピーチ(昭和62年度・2年生女子)は、帰国時に感じていた日本の中学校への「イヤダ」という気持ちが時間とともに大きく変わった、という経験について述べ、次のような言葉で締め括っている。

【例16】 それでは4組のみなさん、みなさんも日本の学校、またはこの学校の良い点を多くみつけられましたか。もしまだならもう1度自分を見つめ直すことから始めてみませんか。そして、私達に与えられた帰国子女という特権を生かして、両方の立場にたって両方の良さがわかるという、視野の広い人間に育っていこうではありませんか。

無論、特に出来のいいスピーチだけを資料とすることはさけられるべきだが、本レポートの関心からは、このスピーチは多くのスピーチを代表するものと思われる。すなわち、スピーチの内容そのものにではなく、スピーチの内容が現在の帰国子女問題の内容と類似しているという点に注目するならば、このスピーチは海外経験をテーマとしたスピーチの多くとその特徴を共有しているといえるのである。
 このスピーチを行なった生徒が例えば「メタ・カルチャーの会」の活動についてたまたま知識を持っていたか否かという議論とは別のレヴェルに、すなわち学校という枠の中でのスピーチという相互行為そのものに着目する場合、次のように言うことができるであろう。すなわち、生徒は単に自分の思ったままを話しているわけではなく、常に聞き手に対して説得力をもったスピーチをするように要請されている。そして、海外経験をテーマにして〈帰国子女〉カテゴリーを用いればそこに一定の問題が設定され、スピーチにある種の説得力を持たせることができる以上、多くの生徒がそうするのは当然とも考えられる。ただしそれは、スピーチが生徒の作り話であって本当の彼らの意見を表すものではない、ということを意味しない。インタヴューの場合と同じく、彼らはあくまでも真面目にスピーチに取り組んでいながら、〈帰国子女〉カテゴリーを使用し、かつそこから真面目な結論を導きだそうとすることによって、ある種の規格化を受け入れているのだと考えるべきだろう。彼らは、先に挙げたスピーチのねらい「原稿を練ることを通して…自己や社会、文化についてより深く考えさせる」に忠実にスピーチを作成し、それによって自分の中に〈帰国子女〉としての自分を発見するのである。
 5分間スピーチを例として明らかにしたこのプロセスは、しかし、学校という枠組の中で帰国生が「自己や社会、文化について深く考える」場合には常に起こり得るものと考えられる。なぜならば、学校は生徒に対して(スピーチの場合に限らず)常に反省的思考を要請し・育成しようとするものだからである(それは、科学的態度あるいは熟慮的人格の育成としてあらわれている)。いわば学校は、系統的な反省の要請によって、日常生活の中の些末なカテゴリー使用を組織し、一定の説得力を持った帰国子女問題を構成し、それを生徒たち自身の中に発見させる。この意味において、学校を、〈帰国子女〉アイデンティティーを形成する社会化の枠組と見做すことができるのである。

3.考察:帰国子女問題の検討

 本レポートにおける調査結果の分析は次の点において、現在ひろく議論されているいわゆる「帰国子女問題」に対する含意を持つと思われる。
 第一に、予備的分析として行なった〈帰国子女〉カテゴリーの析出作業は、帰国子女たちの日常生活の現場で起こっていることを再現しながら、普段見逃しているカテゴリー装置が帰国子女差別を産み出し維持している様子を可視的にしようとする試みであった。ここでさらに帰国子女自身から彼らを取り巻く人々へと調査対象を拡大していくことによって、より全体的に差別現象を捉えることができると思われる。
 第二に、帰国子女カテゴリーの問題設定的性格を指摘したことによって、研究の方法論的側面及び理論的側面に対して含意が生じた。
 方法論的側面において本レポートの分析は、帰国子女研究に採用されてきたデータの部分的見直しを要請することになるだろう。帰国子女に対するアンケートやインタヴュー、帰国子女の書いた作文・手記、さらには帰国子女差別をテーマにしたドラマ等々、多くのデータソースからのデータがこれまで用いられている。これらは、彼らが帰国子女として何を考えているのかを探る為には有効である。しかし同時に彼らが日常生活のどれだけの部分を〈帰国子女〉として送っているのか、それを明らかにしない限り、いたずらに「問題」に満ちた帰国子女像が描きだされてしまうと思われる。実際、インタヴューに応じてくれた帰国子女たちの印象は、まず中学生であり、男子や女子であり、小人数クラスの生徒であり、成績のいい子やよくない子であって、特に注意しなければ〈帰国子女〉が直接意識されることはなかっただろう。だとすれば、例えばアイデンティティー問題に関しても、帰国子女研究という枠の中で帰国子女としての「外国剥がし」や「日本人ブリッ子」を取り上げること以外の、なんらかの捉え方があると思われるのである。
 帰国子女問題の理論的側面についての本レポートの含意は、次のようなものである。
 現在の帰国子女教育をめぐる論議の大きなトピックのひとつとして、「適応教育」への批判と「子供達の海外経験を生かす教育」の要請があげられる。この議論は一見帰国子女教育の大きな方向転換であるかに見えるが、本レポートの文脈から言えば、〈帰国子女〉カテゴリーを用いることで帰国子女たちの日常生活の中から帰国子女特性を際立たせる、そのやり方が一方から他方(いくぶんか好意的な方向)に変化するに過ぎないのである。言う迄もなく、それだからその議論が議論のための議論に過ぎない、と言おうとしているわけではない。実際に帰国子女をめぐる活発な議論によってこそ、今日の帰国子女教育の制度的基盤が達成されたのだといえようし、今後もそれは変わらないであろう。ただし、帰国子女問題を差別論の文脈で議論する場合、「適応教育」と「海外経験を生かす教育」をともに成立させている問題化のプロセスにまで立ち戻ることが必要と考えられる。それは、帰国子女たちに(日本の文化を押し付ける代わりに)過大な期待を押し付けるという危険を避けるためにも、重要なことではないだろうか。

4.残された課題

 今回の調査の対象が極めて限定された帰国子女に対するものであるために、本レポートの主張をそのまま一般化することは避けられねばならない。
 調査を行なった中学校は帰国子女教育学級を持っているという意味で、現時点ではまだ平均的とはいえない環境を持っている。スタッフの意識も高く、特に帰国子女問題については十分に意識的な取り組みが行なわれている。また帰国子女たち自身も、4組という学級集団を基盤として学校組織の中に安定した下位文化を成立させえている。こういった諸条件はきわめて恵まれており、そこで深刻な「帰国子女問題」が見出せなかったからといってそれを過度に普遍化することは困難であろう。
 しかし、逆に帰国子女について意識が高くない学校の中に帰国子女がただ一人で投げ込まれる、といったケースが減少しつつあり、今回調査の対象とした中学校のようなケースの比重が増大していくと予想されるならば、帰国子女研究は従来とは異なるパラダイムを準備することが要請される。
 いずれにせよ、帰国子女研究のなかで問題化ないしカテゴリーに関する研究は現在ほとんど見られない。より多様な対象についてより深い調査をすることが必要であろう。
                 ( 以上 )

文献

キツセ、J.I 1980「社会問題としての帰国子女問題(帰国子女問題研究会特別講演)」門脇厚司・原喜美・山村賢明編『変動社会と教育 − 社会化をめぐる国際シンポジウム』(現代のエスプリ別冊)至文堂、p164-189
Sacks,H. 1979 "Hotrodder:a revolutionary category" in Psathas,G.(ed.) Everyday Language:studies in ethnomethodology , Irvington.=「ホットロッダー − 革命的カテゴリー」ガーフィンケル他『エスノメソドロジー』山田他編訳、せりか書房、1987年
佐藤弘毅    1987 「海外子女教育・帰国子女教育をめぐる論議」『異文化間教育』No.1、アカデミア出版会、p118-126.