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・「校則現象把握における規範的パラダイムと解釈的パラダイム」『教育・社会・文化』no.1,pp.35-54.京都大学教育学部教育社会学研究室(1994/5/31)


【 校則現象把握における規範的パラダイムと解釈的パラダイム 】
石 飛 和 彦
Normative and interpretive paradigms in sociological modeling of "school regulations phenomena"
ISHITOBI Kazuhiko

0:はじめに

近年、校則をめぐって様々な議論がなされ、「校則問題」という形でひとつの社会的問題関心の焦点を形成している。その議論は、基本的には、校則をめぐる「是」「非」のふたつの立場の対立と捉えることが可能である。
校則を必要だとする立場を選択するなら、典型的には、次のような意見を主張することになる:「学校は、集団生活の場だ。集団生活の秩序を守るためには、誰もが好き勝手をやっていてはいけない。そこにはおのずからルールというものがあって、お互いにそれを守るのが、民主社会の原則ではないか。そうすることではじめて、みんなが心地よく集団生活を営めるのだ」。
逆に、校則はできるだけなくしていくのがいい、という立場を選択するならば、同様に次のような意見を主張することになるだろう:「いま、学校では、生徒たちが校則に縛られて苦しんでいる。教師は生徒を管理する為に、校則を盾に取って生徒の自由をできるだけ奪おうとしているのだ。教師は校則を絶対化している。彼らは、自分の生徒たちを信用できないから、校則に頼ってしまうのだ」。
この対立は、しかしながら、奇妙なものである。すなわち、このふたつの立場は、主観的には対立しているものの、論理的には、「水掛け論」の様相をしめしている。それは、「校則は生徒の行為を縛るものである」という唯一つの校則観をいくぶんか異なる立場から言い表わしているに過ぎないと考えられるのである。この校則観を、本稿では、T.P.ウィルソン( 1)に倣って「校則の〈規範的パラダイム〉」と名付けることにする。
本稿の目的は、校則をめぐる学校内の諸現象を把握するためのモデルを、こうした〈パラダイム〉という観点から検討する事にある。特にここでは、「校則問題」の様々な議論のうちでも、ジャーナリズム等の一般的なの場での議論を問題にするのではなく、アカデミックな議論について検討を試みる。具体的には、現在の校則論議を理論的に指導しているといえる高野の「教育法社会学」的アプローチを検討しながら、@その中に、一般的社会的な場での議論に見られるものと同様の〈規範的パラダイム〉を見出し、Aその問題点を指摘する。その上で、B校則現象把握の新しいパラダイムとして「校則の〈解釈的パラダイム〉」の提起し、その理論的モデルの素描を試みる。

1:校則の〈規範的パラダイム〉

校則に関する研究の蓄積は主にいわゆる「学校経営学」の領域でなされてきているが、その中でも指導的な役割をはたしている高野桂一の一連の研究を検討することが本節の作業となる。高野の校則研究は、高野(1987)を始めとして現在も進行中のものである。そしてその議論は、学校内部規範一般に関する彼のいわゆる「教育法社会学」の議論の一画をなすものであり、高野(1976)で整理された「理論モデル」が、その諸研究の概念枠組となっていると言える。そこで本稿ではまずこのモデルを素描し、次にこのモデルに則った彼の校則研究を検討することにする。

1−1:高野による「理論モデル」の概要
わが国の伝統的学校経営論では、法解釈学中心の議論が支配的位置を占めていた。ところがその議論は、実際の学校における実践を捉えるためには欠陥を持つものであった。まず、実際の学校の日常では、制定法に対する「慣習法」の占める比重が大きい。ところが法解釈学的な枠組の中での「慣習法」の一般的な位置付けは、制定法に準拠している限りにおいて理論枠組に導入されるに過ぎないという周辺的なものである。さらに、この「慣習法」は、実際には、変化する教育現実に対応して動態的なものであると考えられるのだが、法解釈学的な枠組においては、制定法に対応する静態的概念として把握されている。これらの諸問題を解決するために、いわゆる「教育法社会学」が構想された。すなわちそこでは、学内規程を「生ける法」としてより柔軟かつ動態的に、しかも学校教育の現実の中でトータルに把握するという視点が採用されることとなった。そして高野(1976)において、T.パーソンズおよびA.グールドナーの組織理論を引きながら「学内規定に関する理論モデル」が提起されたのである(その全体像は、【図1】のとおり)。そこで高野は、学校を4つのサブ・モデル(すなわち@形成過程モデル;A規範論理モデル;B実施過程モデル;C経営・教育効果モデル)からなるひとつの全体モデルという観点から捉えようとする。学校内の規範現象はそれらサブ・モデルで表される諸システムの間の一連のインプット−アウトプットの流れとして把握される。そしてこの理論モデルから一連の仮説が導出され、その検証が試みられることになるのである(高野(1976))。 【図1挿入】

1−2:校則研究
校則( 2)は、「学校内部規範の一種(一部)をなすものであり、生徒の学校生活上の行為・行動の基本を織りなす規範の総体を意味する(高野(1987))」。高野はその校則研究を、上述の理論モデルの枠組に従って進めている。すなわち、校則をそれに関与する当事者(生徒・教職員・父母・行政等)間の相互作用(「合意」あるいは「妥協」)の産物としての「生ける法」と見做し、その生成/調整の過程に注目しながら、上述理論モデルの各サブ・モデルおよびサブ・サブ・モデル(各サブモデル間の関係に関するモデル)毎に仮説を提出し、それを実証的に検証する、という手続きがとられているのである。

1−3:高野モデルにおける〈規範的パラダイム〉とその問題点
高野の校則研究の全体をフォロウすることは本稿の趣旨を超えるものである。本稿の目的は、「校則問題」の問題意識全般のうちに含まれていると考えられる〈規範的パラダイム〉を、アカデミックな言説の中に発見することであった。本節では、高野による校則研究の「問題関心」が含んでいる〈規範的パラダイム〉を析出するとともに、そうした「問題の立て方」じたいから帰結するいくつかの問題点を示す。
まず、高野モデルにおいて校則がどのように定義されているかを見てみよう。校則の概念規定は、高野(1987)の第1部第1章で行なわれている。そこで高野は、まず「校則」という日常語に代えて「生徒規範」というタームを用いる事を確認する(「生徒規範」とはすでに引用したとおり「学校内部規範の一種(一部)をなすものであり、生徒の学校生活上の行為・行動の基本を織りなす規範の総体」である)。そしてその「生徒規範」をさらに分析的な二類型に区別する:すなわち@(技術規範としての)「生徒規則」と、A(内面的倫理規範としての)「生徒心得」である。現実の校則の中では、一部の学校・項目に倫理規範と見做されるものがある(例:「登下校の際は、校門で感謝の気持ちをこめて礼をする」;「○○中学校の生徒として恥じない行動をしよう」( 3))が、大部分は技術規範的な「生徒規則」である。
(内面的な「生徒心得」から区別された)「生徒規則」を枠組の中心に据えたことによって、「生徒規範の持つ強制性・拘束力についての検討の問題( 4)」が喚起されることとなった。すなわち、@「生徒規則」は定義上、内面的倫理的に絶対化されるものではなく;しかも、A国家権力を背景とする制定法であれば一定の強制性を期待できるが、「生徒規則」にはむしろ学内の「慣習法」としての部分が大きい;さらに、B教育関係という特殊な文脈においては、制裁的な強制規範は最小限に止めることが求められる、といった一連の条件の中で、「生徒規範」の拘束力の根拠を求めねばならないのである。高野はその根拠を、「価値合理的動機づけ」(M.ウェーバー)に求めた。高野によれば「近代法に特有な順法精神の要素としての「内面的自発性」とは、まさにこの価値合理的支配という心理構造を意味するものなのである。」( 5);また「教育法規範としての生徒規範(生徒規則)が法規範としての強制性・拘束性をもつとしても、上述のように、その直接的担い手である生徒の規範意識に根ざす法規範的内面的自発性(教育の論理や学習行動規範のもつ価値合理的動機づけ)を前提とするものであることを深く吟味する必要がある」( 6)。
以上が、高野による「校則」定義にかんする記述の概要である。この議論の中に、本稿で言うところの〈規範的パラダイム〉が見出だされることは、既に明らかであろう。そこでは「校則」は、究極理想的には生徒によって内面的自発的に遵守されるもの(すなわち言い換えれば、完全に生徒の行為を拘束するもの)として定義されているのである。ただし、言う迄もなく、そうした規定じたいは、最初からゾレンのレヴェルの議論としてなされたものである(それに関しては高野自身も注意深く筆を進めている)。従って、上述のような究極理想的な校則の規定だけを取り上げてそれを〈規範的〉であると言おうとすることは無意味であり本稿の意図するところではない。第一、実際の校則がかならずしもそのような形で遵守されていないことは言う迄もないことであり、他ならぬ高野自身がそれを解っているからこそ、このような理論モデルを設定して「教育法社会学」的な実証研究を行なっているのである。むしろ本稿が問題にするのは、高野の理論モデルが実際にザインのレヴェルで実証研究の枠組として用いられる際に校則現象を捉える捉え方が、〈規範的〉だということのほうなのである。
高野モデルのザインのレヴェルでの〈規範〉性を見るために、ここで、高野モデルが準拠しているT.パーソンズの議論の〈規範〉性を復習しておこう。パーソンズは、社会的行為者の主体性と社会的拘束とのパラドックスすなわち「ホッブズ的秩序問題」を解決するために、ウェーバーの行為理論とE.デュルケームの社会秩序理論とを総合し、さらにS.フロイトの同一化論を導入することによって「価値規範の内面化=社会化」という理論を完成させた。そこでパーソンズは、行為者は規範的価値を内面化することによって自律的に社会規範に従った行為をする、という議論を行なった。ところが、その議論に従う限り、@論理的帰結として、「過剰に社会化された人間像」(D.H.ロング)「ホモ・ソシオロジクス」(R.ダーレンドルフ)「判断力の麻痺した中毒患者」(H.ガーフィンケル)といったものを結像してしまい、またそういった秩序維持的な人間を成員とする過度に静態的な社会像を結像してしまう;A現実の世界で規範からの逸脱行為が行なわれた場合に、それを単なる「社会化の失敗」という残余範疇としてしか把握できない、といった問題が生じたのであり、そのために「社会学における規範的パラダイム」(ウィルソン前掲)と名付けられ批判されることとなった。
校則に関する高野の議論はパーソンズの議論と明らかにパラレルであり、従って、その〈規範〉性やその帰結する問題点も同様のものであることがわかるだろう。すなわち、@高野モデル(【図1】参照)に登場する人間像はしかるべき「規範意識」を持って校則現象に「自発的に参加」する参与者、というものであり、特に生徒は、「規範の内面化」が行なわれるべき素材という捉え方がなされている(確かに、校則制定/変更時の主体的な「生徒参加」の重要性は高野の繰り返し強調するところのものである。しかし、規範形成は校則現象のごく限られた一局面に過ぎず、そこでの「生徒参加」の強調はむしろ生徒の主体的校則活動の場を限定し儀式化して捉えることにつながっていると考えられる)。そのために、もともと「動態モデル」として構想されたはずであるにもかかわらず、非常に一面的で静態的な校則現象像を結像する;Aそして、現実に校則が遵守されない場合には「規範の内面化」の不完全さという残余範疇的把握がなされることとなるのである。
高野(1989)は『青少年の規範意識の内面化過程 −法規範意識の発達を中心として−』と題された調査報告であるが、そこでは次のような「基本的視角」のもとに質問紙調査が行なわれている:

本質問紙調査内容において基本的に析出しようとする点は、第一に各質問項目にかか わり中学生1、2、3、高校生1、2、3の各学年進行による規範意識の発達段階の特 質の変化と、その規範論理(価値)的根拠づけの規範意識の類型の違いに関するもので ある。ここでは、青少年の規範意識がより自己の「外部的規制(他律性)」に比重をか けたものか、より「内部的規制(自律性)」に注目したものかの発達を問うことが目ざ される。また第二に、各質問項目相互の関わりにおいて、学校・家庭・社会場面におけ る法規範(法律・生徒規則等)を中心として、道徳規範、宗教規範、仲間規範等の規範 種別の横の関わりの構造における規範意識の特質を見ようとするものである。ここでは 技術規範としての法規範(学校の生徒規則や法律)と他の規範との識別と関連をどこま で内面化しているかに注目する( 7)。

このような視角から、具体的には例えば次のような質問が用意されている( 8):

[問1]あなたが学校のきまりだと思うものは次のどれですか。以下から一つ選び、その番号に○をつけて下さい。

1.それを守らないと先生から怒られたり罰せられたりすること
2.先生から、守るように言いつけられたこと
3.それを守ればいつか自分によいことがあること
4.親しい友達がやっているやりかた
5.みんなが何となくやっているやりかた
6.生徒会、学級会などで決めたみんなの約束ごと
7.みんながそうしなければならないと思っていること
8.自分がそうしなければならないと思っていること
9.その他

調査はこの質問を中学校1年生〜高校3年生まで行ないその変化を分析しているのだが、興味深いのは、選択肢1、2といった他律的意識の項目を選択する回答者が学年を追うごとに増加傾向にあるという結果を受けてこの設問について次のようなまとめが行なわれていることである:

全体的に見て、学年が低いほど、学校のきまりに対する建前意識が表に現れるが、そ れが学年を追って、複雑な問題含みの傾向を帯びるかに見えることが気になるところで ある。また、この基底には、全体的には真の意味での権利義務規範(法規範)意識のい まだ不十分で、弱いことが影響しているのかとも思われる( 9)。

ここに見られるのは、調査結果に対する考察の〈規範的パラダイム〉的なフィルター効果である。すなわち、選択肢1あるいは2の項目に対する回答者の反応を積極的な検討の対象にするのでなく、「規範意識」の「不十分さ」という残余範疇として一面的に把握してしまっているのである。

1−4:〈規範的〉モデルの成立要件
以上、高野による校則研究の特に「問題設定」の部分をやや詳細に検討しながら、そこに〈規範的パラダイム〉が含まれている事を明らかにした。もちろん、そのことによって高野による研究を批判することが本稿の目的であるわけではない。なぜなら、あるパラダイムに則った議論を別のパラダイムに則った議論から批判する事(自分のパラダイムとは別のパラダイムに則っている、と批判すること)は無意味だからである。実際、先に引用した高野による調査研究の結果やその考察は、それだけを見れば「正しい」といってよいだろう。確かに、調査対象の生徒たちの「真の意味での権利義務規範(法規範)意識」は「不十分で、弱い」のであって、その考察に間違いはないのである。本稿の立場が高野モデルに対していくぶんか批判的な評価をなしうるとするならば、それは次のような意味においてである。
すなわち、第一に、本稿冒頭に示した通り、〈規範的パラダイム〉は高野モデルを含む学術的言説のみならず一般社会的ないわゆる「校則問題」の圏内全域に共有されている。そのために、高野モデルの枠組から打ち出された「結論」は、一般社会的な「校則問題」の通念と同質のものとなってしまわざるをえない。例えばいわゆる「パーマ退学事件」の当事者となった校長のコメントを見てみよう:

校長と生徒が争うことは悲しい。民主社会ではルールを守るのが大切だと指導している が、原告の元生徒には方針が理解してもらえなかった(10)。

このコメントの言葉が、発言者どうしの立場や信条の相違を超えた形で、先に引用した調査研究の考察の言葉と同質のものであるのは一見して明らかであろう。とするならば、高野モデルは、一般社会的な「校則問題」の通念を前提し、反復し、弁護する形で校則現象をなぞり、「記述している」に過ぎないことになる。それは既に、校則現象の「説明」としての地位にはないと考えられるのである。
第二に、〈規範的パラダイム〉の言葉による校則現象の「記述」そのものも、現在、リアリティを失いつつあるのではないかと考えられる。なぜなら、〈規範的モデル〉の記述がリアリティを持ち得るのは、校則現象(あるいはより広く学校教育全体)をめぐる社会的な状況がある一定の条件を満たしている場合に限られるのであり、その条件がかつては満たされていたが現在は次第に満たされなくなっている、という事態が考えられるからである。例えば、校則の〈規範的モデル〉による記述がリアリティを持つためには、学校の組織が十分にリジッドでありまた生徒の側も学校のフォーマルな側面に深く主体的に参加していることが必要である。そのためにはまた、社会全体のレヴェルで教育システムに対する信頼(あるいは、教育「神話」)が維持されていることが必要である。仮に、社会あるいは教育システムの変化によってそうした諸条件が充たされなくなれば、〈規範的モデル〉による記述はリアリティを失う(極端な例をあげるならば、大半の生徒が学校に何の積極的な目的もなくただ「単なる社交場」として集まっているだけ、という状況を考えた場合、そこで校則にかんするトラブルが起ったとしてもそれは「生徒の規範意識」を云々する以前の問題である)。そして実際に、教育の脱神話化あるいは不本意入学の増加などの事態の不可逆的な進行は、既に誰の眼にも明らかとなっているのである。このような現状において、〈規範的モデル〉は説明力を失っていくと考えられるのである(11)。

2:校則把握の〈解釈的パラダイム〉

2−1:理論的出発点
本章では、前章で検討した〈規範的パラダイム〉に対するオルターナティブとして、校則研究の〈解釈的パラダイム〉を提起する。まず、〈解釈的パラダイム〉の基本的視角を明らかにするために、A.シュッツによるパーソンズ批判の議論を参照しよう(12)。シュッツによれば、パーソンズの規範論の問題点は、@「科学的合理性」と「日常的合理性」との混同;A客観的・一義的に存在する「規範」に対する行為者の「自律的な志向」というモデルの非現実性、といったところにある。すなわち、@科学者ではないふつうのひとびとは、ものごとの本質を究極にまで追求しながら(すなわち「科学的合理性」に則って)社会生活を送っているわけではない。ふつうの人々が則っている「日常的合理性」はより曖昧でアドホックな性質を持つが、それは単に「科学的合理性」の不完全な形態として残余範疇的に扱われ得るものではなく(パーソンズはそれを混同してしまっているのだ)、むしろまったく独自の原理として研究の対象とされねばならない;A人々の行動原理がそのようなもの(「日常的合理性」)である以上、様々な人々の間で規範が客観的・一義的に確定され自動的に追求される、というパーソンズモデルは妥当ではない。行為者が「自律的」に行為すると言う限りは、規範の多義的特性(曖昧さ)を前提とせねばならない。そしてそこでは人々が規範をいかに解釈・判断しそれを行動に移すか、という局面の研究(すなわち本稿で言う〈解釈的パラダイム〉)が提起されることになるのである。

2−2:校則の「曖昧さ」
以上の発想に立ってあらためて校則現象を見た場合、そこで校則の「曖昧さ」という特性がクリティカルな位置を占めていることに気づくであろう(13)。
坂本(1986)は、この点に注目して事例をあげながら議論を進めている:

事例1 − 大阪府N中の場合
この学校の生徒心得は比較的簡単な本文に極めて詳細な追加説明事項がついているの が特徴である。おそらく追加説明事項は本文の細則であるが、このような形をととのえ るのに年月をかけて蓄積していったのではないかと思われる。一部分のみあげておく。

〈本規定〉
「服装と所持品
(a)服装は正しく質素で清潔なものを着る。
(b)男子の服装は黒の学制服を着用し、帽子を着用する場合は学生帽子のみ可。学生服 の下は白色カッターシャツとする。女子の服装は所定の標準服を着用し、下は白色 カッターシャツまたはブラウスとする。
(c)夏の上衣は純白とし男女共カッターシャツまたはブラウスとする。
(d)名札は決められた位置に正しくつける」

[追加説明]
1 夏服の場合下着は原則として白色で、もようのないものを着ること。
2 授業で使っている体操服は、制服のカッターシャツ、ブラウスと同じに扱う。
3 Tシャツをクラブ活動の時に着ることは可。又カッターシャツのしたに下着として 着ることも可。ただし色は白のみ。胸の一部にワンポイントは可。
4 寒いときはセーターを着てもよいが、制服のなかに着ること。首はV首、ハイネッ クのものを着用すること。トックリ首のものは禁止。ハイネックとは首のところで 折り返しのあるものをいう。上着をぬぎセーター姿で校内生活をしてはいけない。 セーターははでな色、もようのものは禁止。そで口やえりもとで少し見えるのはや むをえない。トレーナーを制服の下に着るときはセーターと同じに扱う。
5 手袋、マフラー……略
6 ジャンパー等……略
7 上着のすその長さやスカート、ズボンの長さは長くしすぎたり短くしすぎたりして はいけない。ズボンのタックは極肥満体の生徒のみやむをえない。ただしワンタッ クとする。
8 レインコート等……略
9 くつ下は男女共白色でかざりのないものを原則とする。線入りはよいが、全体に線 が入っているのははでになるので禁止。
(参考)線は三本ぐらいまでで線の入っている部分がくつ下の半分をこえない。ハイソ ックスは白色のものは可。パンティストッキングははだ色、黒色は可、あみ目 に織ってあるものは不可。
10 バンド……略
11 くつは三足必要……略
12 カバン……略」

この詳密な追加説明を検討すると細かいが選択の余地もあって、他校にもよく見かけ る内容で必ずしも極限までいっているわけではない。しかし、もっと詳しくなる可能性 もある。
本文では寒い時には何も書いていない、というので追加説明でセーターの着用を認め た。しかしセーターの内容をどうきめるのかというのでV首、ハイネックとする。そし てハイネックの定義を加えていく。セーターの色をどうするのか。セーター姿で校内を 歩かれては困るのではないか。それは禁止しよう。少し位見えるのはよいのか。上着や ズボンの長さはどうする。タックは禁止しよう。しかし肥満体はやむをえないだろう。 肥満体といってもいろいろだから極肥満体に限るべきだ。それもワンタックだけだ。こ んな議論が交わされたにちがいない。いささかの疑問の余地もないほどに細かく規制で きないと安心できないのはどうしてなのだろうか。なぜ生徒の良識にまかせよう、教師 の指導があればそこまで規則化しなくともよいのではないか、という意見が通らなかっ たのだろうか。これは考えさせる問題である(14)。

以上やや長めに引用した坂本の記述は、校則の「曖昧さ」をめぐる問題が現在の校則現象の問題点の焦点に位置していることを鮮明に描いている。ただし、この問題は、坂本が言うような「生徒の良識」や「教師の指導」といったレヴェルで解消される種類のものではない。なぜなら、「正しく質素で清潔な」服装、という規定の意味を客観的・一義的に決定し得るような「良識」は論理的にいって存在しえないからである。しかも驚くべきことに、上に示したようなこと細かな[追加説明]や(参考)にもかかわらず、なお、この校則は曖昧さを残しており「いささかの疑問の余地もないほどに細かく」はなっていない(例えば、「はでな色、もようのもの」というのはどのようなものか? スカートが「長すぎる」という基準は?)。要するに、この問題は校則を含むあらゆる(自然言語によって書かれた)規則の規定が本質的に含んでいる「曖昧さ」の問題(H.ガーフィンケルの用語で言うところの「表現のインデックス性」)なのであり、それが根本的に解決されることは不可能なのである。とするならば校則研究は、「曖昧さ」の問題を、批判さるべき現象の一端と捉えるのではなく、研究の出発点に据えねばならないだろう。
そうした視角から「曖昧さ」にさらに注目するとき、ガーフィンケルによる有名な観察を参考にすることができるだろう。ガーフィンケルは、ロサンジェルス自殺防止センターの組織内の活動を研究した。彼はその中で、職員たちが、断片的でつじつまがあったりあわなかったりするようなデータをやりくりしながら死亡ケースを分類していくやりかたについて以下の事を見出だしていた:

死の様態に関するいくつかのタイトルのうちのひとつが各々のケースに割り当てられ ねばならなかった。そのいくつかのタイトルというのは、自然死・事故死・殺人・自殺 という4つの基本的可能性の法的に可能な組合せからなるものであった。それらタイト ルのすべては、単純にその実際の各々の使用に際して発生する多義性・曖昧さ・即興性 といったものを防ぐように管理されていただけではなく、またそういった曖昧さ・多義 性・即興性をあえて招くようにも管理されていたのである。つまり、彼らの作業におい ては、そういった多義性がたぶんトラブルであるような部分があるだけでなく、彼ら専 門家たちが自らの環境にたいして曖昧さ・多義性を招くように・即興性を招くように・ あるいはいちじしのぎなどを招くように対処しているという部分があるのである。(15)

成員の眼から見た場合、言い換えればそれを起らしめた実際の実践に即して見た場合、 日常的問題探求はルールによって・あるいはルールに従って達成されるものではない。 それはむしろ、明らかに何か欠けたものとして認識されており、しかしそれが欠けてい るというまさにそのことによって、それの十分性が認められ、そしてそれゆえにこそ、 誰ひとりとして敢えて詳しく説明を要求するものがいないというわけなのである。(16)
つまり、我々が日常的に規則を用いる際には、「曖昧さ」を必ずしも排除しておらず、むしろ、規則の機械的な適用を回避して「曖昧さ」を積極的に組織的に確保・運用することによってこそ、現実の現実性を生成している、ということである。ガーフィンケルのこの視角は校則現象に適用できる。すなわち、「校則」の「曖昧さ」は、学校組織の成員(生徒および教師)によってむしろ積極的に確保・運用されているのではないか、という視角が考えられるのである。

2−3:生徒による「曖昧さ」の運用
校則の「曖昧さ」が生徒によって運用されている、という点については、多くの指摘によって既に周知のこととなっているだろう。生徒のサブカルチャーの多くは規則に従って産み出されるわけでも規則に最初から違反して生まれてくるものでもなく、規則の隙間、その「曖昧さ」の中にこそ誕生の可能性を見出し、そこから拡大してきたものである:

制服の着用によって、服を中心としたトータルファッションを学校生活で自由に楽し むことのできない女子中学生たちは、制服に規制されないところでおしゃれをします。 その一つは髪型です。 / 髪型への関心は、小学校高学年あたりから始まりますが、 中学生になると美容院を自分できめたり、雑誌やテレビに登場するタレントの髪型をま ねたりするようになります。パーマは禁じられているが、カットのしかたで髪型のバリ エーションを十分つくりだすことができるのを知っている彼女たちは、かわいい髪型、 かっこいい髪型の情報あつめに熱心になります。ヘアーブラシや鏡を持ち歩くようにな り、シャンプーにもこりだすでしょう。このかぎりでは、学校の規則にもひっかかりま せん。 (…)
髪型や身だしなみ用品の使用が、制服や服装の規則などによる規制をまぬがれるかぎ りで、多くの女子中学生のあいだに広がっているように、学校での彼女たちのおしゃれ はかぎられた部分に集中します。規則による規制のおよばない所に、日常の学校生活で の装いの可能性をもとめるのです。 / 学校生活のなかでも比較的自由に楽しめるも のとして、女子中学生のファッションへの関心を誘うのは、小物などの雑貨、いわゆる ファッショングッズです。文房具におけるキャラクター商品などと並んで、ハンカチ、 ティッシュケース、ポーチ(化粧品や洗面道具・生理用品を入れる小さいバッグ)、サ ブバッグ(学校のかばんの他にもつ布製のバッグなど)、ヘアピン、スポーツタオルな どに関心をあらわします。ティッシュペーパーや救急ばんそうこうにもイラスト入りの ものがでるなど、生活必需品としての機能性に遊びの要素を加えたファッショングッズ の増加は、女子中学生の持ち物のおしゃれに拍車をかけました。このようなファッショ ン雑貨の需要の占める割合の大きさも、女子中学生のファッション動向の特徴といえる でしょう(17)。

校則の「曖昧さ」には、このような規則の文言レヴェルの「曖昧さ」に加えて、規則適用レヴェルの「曖昧さ」が存在する。すなわち、すべての生徒が教師によって四六時中監視されているわけではないし、様々なケースが機械的に一律に罰せられることも事実上はありえない以上、いわゆる校則違反に相当しかねない行為であってもある一定の範囲内であれば違反に問われることはないのである:

…もっとも学校に反抗的なのはヤンキーグループである。彼女たちは規則を破っても 結局たいしたことにはならないことを知っている(「おどかしてるだけで赤点はつかな い」「停学の憂き目にあってもめったに退学にはならない」「タバコが見つかってもチ クられなかった」)。 (…)
一般グループは、規則は守らず、学校の行事などにも積極的に参加しない場合が多い が、教師と表立って対立するようなことはしない。規則破りの注意に対しては、注意さ れる前に走って逃げたり、規則違反をその場で直して教師が通りすぎた後でまたもとに 戻すなどの一時的な対策で乗り切っている(18)。

2−4:校則をめぐるゲーム
これらの記述を読む際に、注意しなければならないことがある。すなわち、校則の隙間を縫って教室に大量のファンシーグッズを持ち込んだり教師に隠れてタバコを吸ったりしているからといって、生徒が規則を積極的に逸脱していこうとしていると捉えるべきではない、ということである。なぜなら、そういう捉え方の中には、前提として、校則の客観的一義性という見方が含まれているからである。もし校則が客観的一義的に存在するならば、そしてそれが常に厳格に適用されているのならば、ファンシーグッズやタバコは逸脱的ということになるだろう。しかし実際には、校則のほうが曖昧なのであって、生徒の行動はその隙間に棲みついているに過ぎない。むしろ、生徒のほうでも、各々自分なりに妥当な校則の暗黙のラインを想定しながらそれに従って行動しているという見方の方がより現実を正確に捉えていると考えられる。言う迄もなくそのような暗黙の妥当性のラインは教師の側によっても模索されているのであり、教師と生徒の学校内での相互行為の中で双方の想定がある程度の範囲内の「暗黙の了解」を形成している、というのが校則現象の基本的な実態ではないだろうか(19)。このように、いわゆる「生徒心得」に書いてある「文言」としての校則ではなく、学校の中で実際に運用されている暗黙のラインの方を現実的な規則と見做すならば、その限りにおいては生徒は規則に従おうとしているのだとさえ言えるのである。このことは、次のような比喩を想像すると理解しやすいだろう(20)。
テニスというゲームを考えてみよう。校則とは、テニスコートのラインのようなものである。テニスの選手とは、サーブをラインよりも内側に入れる絶妙のカンを習得している人のことを指す。同様に、学校の生徒は、学校組織の中で校則が実際に運用されている際の「暗黙の了解」を探り当てる独特の「カン」(たとえば、どういう場合に見逃されやすいとか、どういう前例があったとか、どういう言い訳が可能かとか、どういう場合が危険か、といった諸々の学校内常識)を習得している。学校生活は、テニスのゲームのようなものである。ただし、それは通常、審判のいないゲームであって、そのために、ラインぎわの判定は常に「曖昧」で、「暗黙の了解」にかかっている。サーバーは、どこまで突っ込んでギリギリを狙えるか、という点にカンを最高度に働かせるのであって、そのカンが優れているものこそが、優れたプレイヤーである。
この観点からは、「不良」の生徒こそが優れたゲームプレイヤーだということになる。校則違反ギリギリの事をいろいろやりながら、例えば停学は食らっても退学は免れる、といった風に、彼ら自身にとって必要であるアウトプット(例えば卒業証書)はしっかり手にするという真似は、校則ゲームの最も熟達したプレイヤーだけに可能なことである。ここで重要なのは、彼らもまた彼らなりのやり方で学校という規則運用組織を上手に活用しているということである。彼らは決して学校の秩序から途方もなく逸脱していこうとしているわけではない。彼らもまた学校というテニスコート上の選手なのである。
このように〈解釈的パラダイム〉に立つとき、校則は、生徒の行為を縛るものというよりは、それを用いて教師と生徒が活動していく「環境の構成要素」(21)と見做される。

2−5:教師による「曖昧さ」の運用
前二節では、校則の「曖昧さ」が生徒によって運用されている様態を素描した。生徒は校則の「曖昧さ」の中に自由の可能性を見出し、教師との相互行為の中で規則を解釈=運用することによってその可能性の領域を拡張していくことができる。ここで、ひとつの疑問が生じるだろう。すなわち、校則の「曖昧さ」がそのような生徒の活動の潜在的な温床となっているとすれば、そのような「曖昧さ」は教師にとっては厄介なだけではないか。そうだとすれば、教師はそういった「曖昧さ」を(先に述べたように、この「曖昧さ」は本質的には無くなり得ないものなのであるが、少なくとも)できるだけ排除するはずではないだろうか。しかしながら、この疑問に対する答えは、否、である。すなわち、教師もまた、この厄介な「曖昧さ」を、一方では積極的に必要としているのである。次の記述はある小学校教員が学校内の「きまり」を作る際の困難について述べたものである:

抽象的な表現で目指す方向だけを示すなら、子供達の考えや気持ちを尊重することが できます。/子どもたち個々が自分で判断し行動しなければならないのですから、自主 性・自発性を育てるためには有効な示し方と言えるでしょう。/しかし、子どもによっ ては、何をどのようにすれば良いのかが分からないので、結局何もしないという状態に させてしまう心配もあります。/それなら細かく具体的に示せば良いのでしょうか。/ とことん細かく具体的なきまりを作れば、子どもたちが迷うことはありません。きまり どおりに動けば良いのですから、ある意味ではこんなに楽なことはありません。/しか し、何が何でも○○させる、という硬直化した指導=管理になってしまいます(22)。

ここに描かれているのが「規則」の「曖昧さ」をめぐる教師のディレンマであることは明らかである。それは次のようにパラフレーズできる。たしかに教師は、生徒の勝手な解釈=運用の余地が大きくなりすぎるほど「規則」を「曖昧」にしておくことはできない。しかし同時に、「規則」の「曖昧さ」を根絶してしまうことは、教師自身の教育者としてのアイデンティティそのものを脅かすことになる。もし「曖昧さ」がなくなってしまったら教師は生徒に対してただ機械的に杓子定規に校則を押し付けるだけのマシーンになってしまう。教師は、ここで言う「曖昧さ」の中にこそ、自らの教育者としての判断権・裁量権すなわち「教育的配慮」「教育的指導」の余地を見出しているのである。したがって、教師にとっても、「曖昧さ」は、「なければないほうがよい」という種類のものではなく、積極的に必要なものなのである。
以上に示してきたように、〈解釈的パラダイム〉に立つとき、校則現象は、学校組織の中で教師と生徒が規則を解釈=運用し合いながら展開していく交渉の過程、しかも、教師の側も生徒の側も規則があまりに明示化されてしまうことを回避し「曖昧さ」を確保しながら解釈=運用を行なっていかなければならないというディレンマを含んだ、動態的な過程としてモデル化され描きだされることになるであろう。
次章では、このモデルを用いながら、現在の校則現象のトピックである「校則のエスカレート化」について考察する。

3:「管理主義」のパラドックス − 「校則のエスカレート化」現象への視角

ここで「校則のエスカレート化」と呼ぶ現象は、一般には「管理主義教育」という問題の文脈で語られている。教育問題に関するある小辞典の「管理主義教育」の項目には、次のような記述がある:

校内暴力が顕在化した1970年代後半、教師や生徒への管理強化が進展。規律第一の指 導は体罰・いじめ・不登校などの問題を生んだ(23)。

このような捉え方からは、@教師(あるいは学校の体制そのもの)がガチガチの「管理主義」イデオロギーに毒されており;A彼らが推し進める管理のために生徒(あるいは末端の教師を含め)の自由が実際に奪われ、そのストレスが原因でいじめ等の問題が生じる;Bだから、学校内の教師の意識を高め生徒を信頼することによってこの「管理主義教育」という問題を解決しなければならない、といった実態像が浮かび上がってくるだろう。いわゆる「校則見なおし」の運動は、この文脈で実際に展開されているものである。しかしながら、問題を特に「校則のエスカレート化」現象に限定するならば、そういう像はある面でリアリティを欠くものだと思われる。その発想は、本稿で先に示した〈規範的パラダイム〉に基づくものであり、そこから論理的欠点を引き継いでいる。すなわち、@実際の教師がほんとうに「管理主義」イデオロギーの傀儡として行動してばかりいるとは考えられず;Aまた、先にも触れたように、校則がある程度細密化されたとしてもそれによって生徒の活動の自由が実際に狭められるわけではない。生徒の自由というものはもともとが規則と規則との隙間、その「曖昧さ」の解釈=運用可能性の中に育ってきたものであり、しかも校則の「曖昧さ」が原理的に無くならないものであるとするならば、「校則のエスカレート化」が生徒の実際の自由を著しく狭めているとは考えにくい;Bとすれば、仮に生徒がストレスを感じているとしても、それが「管理主義」を原因としているとは考えにくく、従って教師の「管理主義」イデオロギーを糾弾するというやり方では、事態の解明・解決のためには有効ではないと考えられる。また、管理を極小にしてあとは「生徒の良識を信じるべきである」という議論があるが、これも十分にリアルではない。なぜなら、先に触れたように、学校内での生徒の規則把握はあくまでも教師との相互行為の中で産み出されるものであるから、生徒だけを放置してその「良識」にまかせる、ということは論理上不可能である。かりに実際にそのようなことをした場合には、生徒が「自らの良識」に従うというよりは、教師側からの相互行為圧力の欠如に相関するかたちでまさに好き勝手に規則解釈=運用をする危険性が大きいと考えられる。これらの理由から、現在広く論じられている「管理主義教育」批判の議論には、まさに〈規範的パラダイム〉そのものの限界性に基づく限界があると考えられるのである。
〈解釈的パラダイム〉に立つとき、「管理主義教育」と呼ばれ批判されている現象はひとつのパラドックスである。いま、生徒管理の様態(緩やかな管理/厳しい管理)と実際の生徒の行動(秩序的/逸脱的)の組合せで4つのパターンを想定してみよう。すると、@管理が緩やかで生徒が秩序的;A管理が厳しく生徒が秩序的;B管理が緩やかで生徒が逸脱的;C管理が厳しく生徒が逸脱的、というパターンが考えられるであろう。このうちAのケースが、いわゆる「管理主義教育」の理念型であろう(Cのケースでは、管理が機能していないわけだから、つまり生徒の自由が確保されているという意味においては、いわゆる「管理主義教育」の問題性を共有しているわけではないと考えられる)。そして、「管理主義教育」批判の議論において目指されている理想ケースの理念型は、@であろう(いわゆる「管理主義教育批判」論者も、例えば生徒が毎日だらだらと遅刻をしてくるとか制服を好き勝手に変形するとかといった状態を「理想」としているわけではない)。ここであらためてA(「管理主義」)と@(理想状態)とを比較すると、前者に比べて後者のほうでより生徒が自由である、というわけではないことが分かる。結局のところ、生徒が遅刻をしなかったり制服を変形しなかったり華美な服装で校内を歩かなかったりパーマをかけなかったりするという点については、両者において相違はない。両者を分かつのは教師の側からの「管理」的な働きかけの存在の有無という点だけ、あるいは「校則のエスカレート化」という主題に即して言うならば、規則の事項が校則の中に明示化されているか否かという点だけ、である。とすれば、「管理主義教育」批判は、まさに「管理主義は管理的だからいけない」というトートロジーに帰結し、また「校則のエスカレート化」批判は、まさに「規則が明示化されているからいけない」という奇妙な命題に帰結してしまうのである。
ここで、先に引用した坂本の文章をもう一度想起されたい:

いささかの疑問の余地もないほどに細かく規制できないと安心できないのはどうしてな のだろうか。なぜ生徒の良識にまかせよう、教師の指導があればそこまで規則化しなく ともよいのではないか、という意見が通らなかったのだろうか。

ここに見られる発想が、前節で指摘した教師の問題とパラレルであることは明らかであろう。すなわち、いわゆる「管理主義教育」批判の発想は、それじたい、教師の「曖昧さ」への性向と関連がある、ということである。管理的な働きかけの強化や規則の明示化によって学校内での教師による「管理」・「規則化」があからさまなものとなることは、ほかならぬ教師自身の(あるいはより一般的な「教育」そのものの)神秘性を喪失させる。それは、「生徒の良識」「教師の指導」といった教育的・神秘的語彙の成立の基盤そのものを危険に陥れるものなのである。この文脈において、「管理主義教育」批判の言説の存在理由が理解可能なものとなる。それはたしかに、先に見たように、現実の教育問題の解決に必ずしも寄与し得るとは限らない。にもかかわらず、それは、教師自身、あるいは教育そのものの「神秘性」を守るために有効に機能しているのである。

4:今後の展望

校則現象を解明・解決していくための方針として、本稿の立場からは、大きくふたつの方向性が考えられる。一つは、マクロ的なアプローチである。いわゆる「管理主義教育」批判の言説は、現在の学校の問題状況を、学校内部の要因すなわちいわば教師の管理主義的イデオロギーに見出すものであった。その発想からは、教師のイデオロギーさえ修正すれば(すなわち学校の内部要因を改善すれば)、事態が解決に向かうはずだ、という解決策が提起されることになる(いわゆる「校則の見なおし」)。ところが、本稿の視角からは、そういった見方は(〈規範的パラダイム〉に立つがゆえの論理的欠陥から)事態を的確に把握しうるとは考えられなかった。真の問題を言いあてるためには、本稿で先に〈規範的モデルの成立要件〉として指摘したような諸条件を考慮に入れる必要がある。すなわち、学校内部にだけではなく学校と外部社会との関係、すなわち学校外部の社会的コンテクストの中での学校の(あるいは「教育」の)位置付け・具体的にはその価値低下、あるいは進学率の上昇にともなう不本意就学者の増加、あるいはまた塾や予備校といった教育産業の拡大による教育の脱=神話化、といった諸々の要因に眼を向けねばならないということになるのである。
校則現象解明・解決への第二の方向性は、よりミクロなものである。すなわち、マクロ社会的なコンテクストそのものを所与とした上で、その中で現実の学校内の相互行為がいかに行なわれているかに注目し、個々の校則現象を解明し、また(相対的な)改善策を提起することが、可能だと考えられる。例えば:

先生のクラスには、上ばきのかかとを踏んでいる子はいませんか? シャツが出てい る子はいませんか? /日常の生活指導の中で、これらのことについて指導をします。 ですが、そのような時は、往々にして”注意”が目立ち、あまり良い感じがしません。 私は、授業中に、ちょこっと指導をします。 / たとえば、算数の授業中です。「5×6=」と板書をし、誰かに答えてもらいます。 / やさしい問題ですので、あ ちこちから手が上がります。 / 「はい、川口さん。」 / 川口君が席を立とうと した時、くつのかかとをふみつぶしているのが見えました。 / こんな時に、”くつ のかかと”の指導をします。 / 川口君は席を立ち、答えようとします。その瞬間、 次のように言います。 / 「おっと、残念。 くつのかかとをふんでます。答える権 利がありません。」 / このように言うと、川口君はあわててくつをはきます。くつ をはいてから、答えようとします。 / 「なあんだ。大したことないな。」と思った 方もおられるでしょう。 / しかし、このフェイント的なやり方には、大切な指導の ポイントが含まれています。(…)(24)

すなわちここでは、教師は故意に規則適用を「曖昧」化することによって、逆に指導の効果を高めようとしている。このように、校則現象の相互行為分析では、規則の「曖昧さ」巧みに管理する教師/生徒の日常的ストラテジーの析出が重要な問題となる。
本稿で「校則現象の〈解釈的パラダイム〉」と呼び整理を試みたような立場からは、すでにいくつかの実証的研究がなされている。
北沢(1983);(1987) は、小・中学校を対象に、学校内部の諸活動をビデオ収録するという方法によって調査を実施した。そこから、規則の「曖昧さ」をめぐって教師側が自らの(原理上は恣意的な)解釈を生徒側に押し付けることによって統制を行ない秩序を維持している、という側面を描きだしている。
山本(1989)は、ある高校に対するやはり質的な調査から、その学校で行なわれた「遅刻追放運動」の進行過程を再構成する。そして、いわゆる「不本意就学者」を多く含むがゆえに困難なその学校の秩序形成のダイナミズムを、「異人」とその「排除」という視角から描き、また、「教育」という理念じたいがそういった秩序形成の完遂を妨げもするというパラドックスを指摘している。
稲垣(1989)は、ある中学校への観察およびインタヴューによる調査から、教師と生徒とのコミュニケーションを規定する日常的な解釈枠組に注目し、それを「生徒コード」と名付ける。「生徒コード」は、具体的には「チクリの禁止」等むしろ教師と生徒の距離を拡大するものであるが、また教師と生徒はそのコードを各々適宜援用することによって教室秩序を構成している、という指摘がなされている。
吉川(1993)は、「3ない運動見直し」に関して行なったある高校の生徒へのヒアリングをもとに、オートバイには「隠れて乗る」という、生徒による「普通の子」演技の意識を描きだす。そして、学校の「実質的な「秩序」」が、文字通りの規則遵守によるよりは、「暗黙の合意」をめぐる教師と生徒のストラテジックな相互行為、あるいは「交渉的取り引き」によって達成されていると指摘する。
本稿は、これらの成果に加え、校則現象一般を「曖昧さ」をめぐるゲームという視角から整理した上で、その「曖昧さ」の確保・運用ストラテジーの析出という研究課題を提起し得たと思われる。この視角からの具体的な実証研究が、今後の課題となるであろう。
(以上)

【 註 】

1) Wilson(1971)参照。なお、ウィルソンの議論は社会学理論の基底に見出されるもの としての「パラダイム」を問題としているが、本稿では、より広い一般社会的な議 論の基底に見出されるものとして「パラダイム」概念を用いる。このような「パラ ダイム」概念の用法は、ある意味で、本稿が依拠するエスノメソドロジーの科学理 論観に由来している。すなわち、エスノメソドロジーでは、アカデミックな言説空 間で行なわれる議論とより広い一般社会的な言説空間で行なわれる議論とを、本質 的には区別しない、という立場を取るのである。 Garfinkel(1967)参照。
2) 高野は「校則」という曖昧な語を用いず、厳密な概念整理のうえで「生徒規範」な る語を用いているが、本稿ではむしろ慣用に倣って「校則」を用いる。
3) この例は高野(1987),332頁より引用した。
4) 同書21頁
5) 同上24頁
6) 同上25頁
7) 高野(1989),21-22頁
8) 同上30頁
9) 同上32頁
10) 1991年6月21日付朝日新聞夕刊掲載の記事より。
11) もっとも、筆者の調べた限り、校則をめぐる学術的あるいは非学術的議論は80年代 半ば以降に急増したものである。だとすれば、短期的に見れば現在ほど〈規範的モ デル〉が語られている時期は無い、という言い方もまた可能だということになるの である。これは、一見、パラドックスであるかのようにも見える。しかし、この現 象には社会学的な説明が可能である。すなわち、「教育の神話」が完全に機能して いる時期がかつてあったとしても、その時期には、「校則」が「問題」として浮か び上がってくることはありえないのである。「教育神話」が綻び始めたときに、我 々ははじめて「校則」をひとつの「問題」として認識し、語り始める。〈規範的モ デル〉はその場合、「教育神話」の破綻を隠蔽し、神話を延命させる機能を持って いるのではないかと考えられる。この問題については、一般社会的な「校則」論議 の言説を資料とする「メタ理論」的分析として、いずれ改めて考察したい。
12) 樫村による紹介が簡便である。スプロンデル(1977=1980);樫村(1989)参照。
13) 校則の「曖昧さ」については北沢(1987)が有効な指摘を行なっている(後述)。
14) 坂本(1986)、210-212頁、ただし省略は坂本。
15) Garfinkel op.cit.p.14.;ただし強調はガーフィンケル
16) ibid.p.15
17) 片岡(1986)、141-142頁
18) 宮崎(1993)、163頁
19) 「暗黙の合意」については吉川(1993)が有効な指摘を行なっている(後述)。
20) ゲームの比喩については、法社会学者ハートの議論(1961=1976)を参照されたい。
なお、橋爪(1985)による紹介が簡便である。
21) ガーフィンケルは、このような規則を「ゲームの基礎的規則」と定義している。
Garfinkel(1963)を参照されたい。
22) 原(1991)、38頁
23) 『教育問題情報事典』紀伊國屋書店、1993、57頁
24) 横山(1991)、85頁

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