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日本教育社会学会(W−6「理論 」部会) 発表レジュメ 1996/10/5/15:55〜
神話と言説 − 高校生受験意識調査データからの知見
発表者:石飛和彦(京都大学研修員)
0:はじめに
社会学者は「神話」という概念を用いる。しかし、「神話」とは、奇妙な概念ではないだろうか。それが「神話」であるという限り、いわゆる「客観的な」実態との乖離という事態の指摘がごく自然に含意されており、そこでは神話の内容のネガティヴな虚構性が問題とされている。しかし同時に、それがある社会を遥かに覆う象徴世界に属しているという限りにおいて、「神話」はきわめてポジティヴな実体性を帯びるはずである。本発表の目的は、虚構性と実体性をめぐるこうした「神話」の奇妙なあり方にあらためて注目することである。ここでは特に「学歴社会神話」に関する意識調査アンケートのデータを出発点とし、「語られるものとしての神話」を辿っていくことにしたい。

1:「正統化理論」
「学歴社会神話」については、J.W.マイヤーの「正統化理論」を参照できる(Meyer1977)。マイヤーは現代の学歴社会に対するいわゆる技術機能主義的な説明、すなわち学校で教える知識が卒業後の社会生活・職業生活において実際に有用であり・しかるがゆえに高学歴者ほど有能であり・しかるがゆえに高い地位につく、という説明そのものを、論証抜きで信用される事によって維持される「神話」と見做す:

学生が「高校卒業者」である、ということは、歴史と英語と数学の必修単位を取得した ということである。それは制度化された教義である。というのも、たいていのばあい人 は学生を、そうした知識をすでに獲得したものとして扱わねばならないからだ。しかも いちいち直接たしかめるわけではなく、しかじかの単位が修得されたというそのことじ たいによって、そう扱わねばならないのだ。(p.66)

そして、現代の社会構造そのものが教育システムを背景とした合理的意識=制度に貫かれている以上、実際の高学歴者が有能であるか否かにかかわらず我々は学歴と社会的地位を同語反復的に結びつけざるをえないが、それを「正統化」するのが教育の「神話」だというのである。ところでマイヤーはここで極めて微妙な言い回しを用いている:

教育は現代社会の神話に過ぎないとしても、それは強力なものである。神話の効力は、 諸個人がそれを信じているという事実のうちにあるのではない。むしろ彼らが、他の誰 もが信じていると「知っている」という事実、そしてそれゆえに「実際的に見る限り」 神話は正しい、という事実のうちにあるのである。我々は皆、教育の役立たなさについ て私的に語ることはいくらでもできる。しかし、人を雇ったり昇進させたり、現代の魔 術師たちに意見をたずねたり、自らの人生に現代的な合理性を持たせようとする時、我 々は教育が権威となるようなドラマの舞台に引き出されることになるのだ。(p.75)
結局、誰が「神話」を信じているとマイヤーは言いたいのだろうか? 或いは、「神話」を信じていない我々がここぞという場面に限ってどうやって当の「神話」にころりと言いくるめられてしまうというのだろうか?

2:「信頼と誠意の論理」
マイヤーが恐らくコンストラクショニズムの模範としているであろうP.L.バーガーであれば、上の問題に対して、「内在化のメカニズム」という解答を与えるだろう:

正当化には客観的と主観的との両方の局面がある。正当化は客観的に確実で有効な現実 規定として存在する。これは社会の客体化された〈知識〉の一部をなしている。しかし ながら、それが社会的秩序を支持するのに有効なものであれば、それはまた内在化され て主観的現実をも規定するのに役立たねばならない。いいかえれば、効果的な正当化と は、現実の客観的と主観的との両規定のあいだに対照的調和を確立する事なのである。 (Berger 1967)

しかし、少なくともこの解答だけを見るならば、その主張はかの「過剰社会化論」に直ちに滑り落ちかねないものであるかに見える。そこで、マイヤーは、あくまでも「現実の客観的と主観的との両規定のあいだ」の齟齬にこそ注目し、制度化された組織における必然的な齟齬の発生を「脱連結」なる概念を用いて強調している。かくして、マイヤーにおいては、学歴社会のシステムの中で学校卒業者は実質的な能力を身につけている必要はなくまた世間の人々も教育の神話を信じている必要もない( 「内面化」の否定)、という点が強調される事になり、先に提起された問題 − 「神話」はいかにして作動しているのか − があらためて先鋭に提起され直すことになるのである。
さて、マイヤーが準備した解答は、「信用と誠意の論理」ということになっている:

整合化とコントロールを欠きながらも、脱連結された組織は混乱に陥る訳ではない。… 制度化された組織を正統化しているもの、すなわち組織が技術的な確認ぬきでなお有用 という外観を可能にしているもの、それは、諸組織の内・外部参与者双方の、信用と誠 意である。 (…) 効果的に不確実性を吸収し信用を維持するためには、人々は、誰 もが誠意を持って行為するという想定を持たねばならない。物事はその見かけどおりの ものである、という想定、雇用者もマネージャーも彼等の役割を全うしているという想 定、これらがあることによって、組織はその日常的ルーティンを、脱連結的な構造によ ってもやっていくことができるのである。(Meyer&Rowan 1977,p.357-8)

マイヤー(と共著者ロワン)によるこの解答は、一見したところ、「現実の客観的と主観的との両規定のあいだ」の齟齬の危ういバランスを的確に描いているようにおもわれる。@「脱連結」によって組織の実態はコントロールを欠いており、その限りでは技術的な意味での有用性の保証はない;Aしかし、人々は「信用と誠意の論理」によって、組織の外観(有用性の見かけ)を、さしあたり(「儀礼的に」)、信用する、というのである。
ところがそこにはトリックが含まれている。マイヤーの議論は@〈技術的=実態的〉次元;A〈外観〉の次元;B〈信用〉の次元、という3つの次元をめぐって行なわれているが、この3者の関係が奇妙なのである。もし「信用と誠意の論理」が貫徹されるならば、A〈外観〉とB〈信用〉とは完全に重なってしまい(例:人材登用の不確実性を吸収するために学校卒業という「外観」が、「実態的な」意味での教育効果いかんにかかわらず、学校および外部全体社会によって「信用」される;企業経営者がいかなる「実体的な」失敗をおかそうとも、投資家や顧客は、経営戦略がエコノミストの分析に従って合理的になされ最善が尽くされたという「外観」を「信用」する)、両者を分析的に分かつ意義が失われその結果として、「儀礼的」という概念が無効になるのだ。
「私が交差点にとびださないのは車にひかれたら死ぬからである」という言い方を「私が交差点にとびださないのは車にひかれたら死ぬと私が信じているからである」と言い換えることは、冗長でありナンセンスである。それは、結局かの「過剰社会化論」に(信念の次元で)再び帰着することであるばかりでなく、ごくごく常識的な神話言説を反復することでもある。例えば、「学歴社会はなぜ起こるか」というテーマで学歴社会論の授業に先立って小レポートを課された学生(学部1回生、5月)は次のように書いている:

いい大学を出ている人がいい行いをし、いい仕事ができると、会社や社会がかんちがい をしていて、大卒者ばかりを社員として採用しようとするので、外の人もその会社に入 りたいがために一生懸命に勉強するから学歴社会がおこると思う。いい大学を出てる人 がいい人だという風潮が日本の中に浸透しているから学歴社会が直らないんだと思う。

マイヤーが陥ろうとしているのはそうした論理上の困難であるが、むろんマイヤー自身その点について自覚的である。正統化理論の中で「神話の効力は、諸個人がそれを信じているという事実のうちにあるのではない。(…)我々は皆、教育の役立たなさについて私的に語ることはいくらでもできる」(前出引用文)と強調されるのはそのためである。しかし、ここで我々は、まさに本発表冒頭の問いに三たび、つれもどされるのである。
マイヤーの「正統化理論」を詳細に辿った薬師院(1996)は、次のように言う:

教育システムがもつのは、正当化効果などではなく、脱=正当化効果なのである。正当 化理論に忠実であるならば、制度としての教育は、全域的な現実性そのものを作り上げ るのであり、その外側に[「実体的な技術的有効性」「行為者の合理性」といった]何 らかの審級をもつわけではないのである。わかりやすくたとえるなら、正当化理論の真 に重要な発見は、われわれが生きる社会において権威と正当性をもっているのはエコノ ミストの分析なのであり、間違ってるのは実際の出来事のほうなのだということなので ある。 (…) 正当化理論は、常識に反する発見をした。しかし、「合理的行為者」 という制度化された知の構成要素によって自らの発見を語ったがために、解決不能な陥 穽に足を突っ込んでしまったのである。 (…) 信じてもいないしコミットメントも していないようなルールを当然の事として受け入れるという過程には、少なくとも”合 理的”な行為者の居場所などないのである。(p.68)

3:学歴社会をめぐる言説
ここで問題となっている点は、学歴社会神話が「存在」する、という場合に、それがどういう次元において「存在」しているか、という点である。ごく常識的に考えるならば、それは人々の「意識」の中に存在している、ということになろう。誰もが神話を信じている、それが神話のもっともナイーブな定義である。例えば、城山三郎の有名な小説『素直な戦士たち』(後にテレビドラマ化された)の登場人物は、次のように言う:

「超一流大学を出ていれば、超一流企業へ入ることも、医者になることも、官僚になる ことも、どんなことでもできるわ。無限に選択チャンスがあるわけよ。そのときこそ、 子供は、『本当の自由人にしてくれた』って、バンザイするわよ」

さて、小説の中にこのような記述があった場合、それをどのように読むべきであろうか。まず、それを、誇張されてはいるがそれだけ現実の一側面を鮮やかに反映してもいる「戯画」と読むことができる。するとこの場合であれば、学歴社会神話は現実の人々によって強く信じられている、ということになる。現実の親は本質的にこのような信念を持っていわゆる「教育ママ」になり、また子供は「素直な戦士」になる、というわけだ。
ところが、また別の読み方も可能である。小説の中でその言葉がエキセントリックな典型的教育ママの発話として提示されているとすれば、作者および読者の意識はその発話に対してむしろ批判的でさえありうるだろう。この場合であれば、学歴社会神話は現実の人々すべてによって必ずしも強く信じられている訳ではない、ということになる。ただし、全員が神話に懐疑的であろう、と全員が信じているならば、このような小説は存在し得ない。このような小説が成立するのは、多くの人々が、自分自身の信念としては学歴社会神話を疑いながら、同時に自分以外の誰かが神話をエキセントリックに盲信しているに違いない、と信じている場合に限られるだろう。実際、このような読みを裏付けるように、最近の別のエッセイや小説にはよりあからさまな書き方がされている:

子育ての理想を問われた人が、勉強なんかにはうるさく言わず、健康でのびのびと育て たいと答えているのを、よく見聞きします。/ところが、実際は小学校高学年から中学 生になると、いつのまにか成績にうるさく口を出し、塾に通わせ、受験勉強に追い立て ています。/でも、はやばやと現実を悟り、教育ママにでも教育パパにでも変身し、そ れに撤することができた人は、良い悪いは別として、少なくとも入試に関しては得をし たようです。/一方、そういう受験とか入試とかにとらわれない確固たる教育の理念を 持ち、それに基づく子育てをやり抜いた親御さんには、その素晴らしさに頭が下がりま す。/どうしようもないのが、私のような親でしょう。教育ママにだけはなりたくない と偉そうに突っ張っているくせに、内心、それでいいのかしら、大丈夫かしらとびくび くしています。教育ママという言葉に反発し過ぎた結果、気持ちが妙に屈折してしまい ふと気がついたら、入試とか受験の報道や情報からなるべく目をそらすという逃げの姿 勢が身についていました。(…)

「大学へ行かない子は、能力がないんだと思うでしょう? やっぱり大学へ行かない人 は、行った人より低く見られる。どこの大学かで差がつけられる。みんなそんなこと、 わかってるのよ。そういう中で生きてるのよ。自分の子だけは大学へ行くと自信を持っ て受験体制を批判する親も、自分の子だけが学校に合わなくて苦しんでいると思う親も 違うんじゃないかな」麗子は自分の母親と私のことを言っているのだった。気まずい沈 黙が流れた。「学校や受験体制を疑わない親もだけどね」と麗子が言い、母親が溜息を つくように聞いた。「それじゃ、親はどうすればいいの」「子供だって、どうしたらい いのかわからないわ。親が学校や受験体制を疑ったり批判して下さっても、それだけじ ゃどうにもならないのよ。私たちには三つの生き方しかないのよね。学校や受験体制に 乗ってエリートになる。学校や受験体制から外れて、非行や落ちこぼれになる悲惨と栄 光の道をたどる。でもエリートにもなれず、悲惨と栄光なんていうことの甘えも知って いる大多数は、疑わないわけじゃない、苦しさや悲しさを感じないわけじゃなくても、 学校や受験体制の中でやっていくしかないのよ」(…)「エリートでもなく、落ちこぼ れでもない、その大多数というのも、麗子が思いを込めて言うほど悲愴でも美しくもな いわよ」大学生の麗子の姉が初めて口をひらき、冷静な声で言った。「受験体制への疑 いなんて、自分が大学生になれたら忘れてしまうし、苦しさや悲しさは、下手すれば自 分を慰める口実になって現状肯定主義者になってしまう。大多数の中の大多数は、就職 までの大学生活を楽しむ無自覚の群れじゃないかと思うわ」「あなたもそうなの?」と 母親が姉娘に聞いた。(…)
前者は村崎芙蓉子によるエッセイ『カイワレ族の偏差値日記』、後者は干刈あがたによる小説『黄色い髪』からの引用である(共に、後にテレビドラマ化された)。これらの文章は、先に引用した『素直な戦士たち』の文章とは構造的な相違を見せている。『素直な戦士たち』において登場人物は即自的に学歴社会神話を語っていた。ところが『カイワレ族の…』と『黄色い髪』においては、学歴社会神話を信じ・乗ってしまった人を対象化した視点がとられている。この相違は、小説技法上の相違であると同時に、小説(エッセイ)が書かれた時期 − 前者と後二者の書かれた時期には約10年の隔たりがある − における学歴社会神話に対する社会的心性の相違である(そうであるが故に、村崎と干刈によって別々に書かれたエッセイと小説に相同な言葉が見出せるのだ)。現代の日本において受験戦争をリアルに描きだすためには、もはや単に即自的学歴社会神話狂信者を登場させるだけでは足りない。むしろそういう戯画的人物を極力登場させずに、ただ、話者の語る[学歴社会に乗ってエリートになる人/普通の大多数の私たち/学歴社会に英雄的に背を向ける人]という図式の一方の極限値として提示するにとどめねばならないのである。ここでは、「学歴社会神話」は、具体的な誰によっても担われることなく、ただ言説の中においてのみ、「存在」しているのだ。

4:調査とその結果
この点を現代の「学歴社会」の実際の登場人物である受験生たちについて確認するために、あるデータを参照しよう。ここで用いるデータは、1991年 9月に京都大学教育学部教育社会学研究室で実施した質問紙調査「進路に関する高校生の意識調査」によるものである。調査はある地方公立進学校2校と大阪近郊の私立有名進学校1校の3年生に対して行なわれた。調査では「学歴社会神話」についての受験生(ある意味で彼らこそは学歴社会の最前線に位置する主役である)の意識を問う設問をいくつか用意した。その結果、本発表の文脈に関連して以下の知見が得られた(詳しくは資料参照):
@設問「学校の勉強や受験勉強で得られる知識は仕事の役に立つ」に対しyes=20.3% という数字は、受験生の受験行動が「技術機能主義的神話」によって導かれている訳ではないと予測させる。A設問「出世のためには高い学歴が必要」に対しyes=37.9% という数字は、調査対象がいずれも進学校である事を考慮すれば決して高い数値とは考えられない。B設問「「一流企業」に入社するのはほとんどが「一流大学」の卒業生である、と思う」に対しyes=39.0% だが、同内容で、「親(保護者)が思っているだろうと思う」に対してはyes=58.5% 、また「世間一般の人々が思っているだろうと思う」に対してはyes=82.0% と高い数値が得られている。「神話」は、さしあたりマイヤーが言う通り、他人の信仰として間接的に信じられているに過ぎない − 「神話の効力は、諸個人がそれを信じているという事実のうちにあるのではない。むしろ彼らが、他の誰もが信じていると「知っている」という事実、そしてそれゆえに「実際的に見る限り」神話は正しい、という事実のうちにあるのである」(前出引用文)。

5:大学生によるデータ解釈
言う迄もなく上記の「データ」だけから現代日本の「学歴社会」の具体的なメカニズムを解明する事は困難であろう。しかし本発表の関心は「神話」そのものにある。「神話」のありかたを辿るために、ここで新たに補助線として、上記の調査結果のデータを大学生(発表者の担当する講義「教育社会学」受講者)が解釈するやりかたに注目する。
授業の一環として十数枚の数表(資料参照)の解釈を求められた学生のうち相当数が、次のような特徴的な「解釈」に到達した:@このデータから、私立有名進学校の生徒達が特に「神話」を信じている事がわかる。A受験生本人よりも親や世間の方が「神話」を信じている事がわかる。B従って、受験生が「神話」を信じるのは親や世間がそう教え込んだためだという事がわかる − これらの「解釈」を含む例は以下の通り;

・ X校はA・B校と比べて、ほとんどの質問でYESと答えている割合が多く、逆に NOが少ない。全体的にA・Bの2つは割合が似ていて、XはA・Bとは違うといっ てもいいのではと思う。高い学歴が就職に必要という考えが3校とも現在まで残って いることはいるのだが、10年前と比べてという質問に対してはA・BとXはそれぞ れ違う結果がでている。しかし、僕の印象ではX校が強く高い学歴を意識しているの では?と思っています。
・ @X校は有名私立進学校だけあって、幼少から親にうるさく言われ、塾に通い、難 関を突破してきたからなのか、「勉強や努力は仕事にも役立つ」という回答がA・B 校に比べて多かった。又、親とだけでなく友人間でも学歴が話題に登るのも、常に競 争意識を持って勉強しているという感じがでている。A気になるのは、X校に於いて 「よい就職に学歴は必要」という回答(60.5%) と、「出世に学歴は必要」という回答 (37.9%) の差である。A・B校は両回答にあまり差がないのだが。思うに、X校では 就職してしまえば後はストレートに実力で出世すると思う人間が多いのではないか? B10年前と今とを比較する問にもA・B校は「今」、X校は「昔」と対照的だが、こ れも、A・B校に比べX校の生徒は自分が今できているから、そんなに深刻に学歴社 会の影響を感じないのではないか?
・ 統計を見ると、ただいい所に就職するだけのための高学歴だと思う。表2−1、表 2−2を比べると、学歴の話を友達より親と話すほうが多いということは、表4−2 で一流大学を卒業するといい所に就職できるという考えを思っている親からその時せ んのうされていると思う。
・ 学生は、一流企業に入社するのは一流大学の人であるとは多くは思っていないが、 保護者、世間一般の人ではそのように思っている。その部分の考え方はわかれてしま うが、よい就職をするためには、高い学歴が必要であると思うのは学生にもある程度 ある。保護者、世間一般の人が学歴重視するために、親との間で、学歴は大切である とか、実際、就職難である現在会社側はすぐに使える人材を求めるから学歴が大切に なるという話が出てくるのだと言える。私立高校は高校の時から学歴重視という考え 方があるから、学歴が必要であるという考えが多くなる。(…)
・ ”生徒は学歴社会を、親・学校・地域(社会)から押し付けられ、刷り込まれてい る”という事が全体から分かる。中高一貫で6年間も進学について厳しく指導を受け たX校は、さすがに”学歴神話”が続いているようだ。親が子供に高学歴を望むのは (どの学校のデータを見ても)同じである。又、出世は自分の努力次第と思っている 傾向があるのか、”出世に高学歴が必要”と答えた人は予想より少なかった。しかし 出世をして甲斐のあるような所に就職できるかどうかは、努力よりむしろ学歴で決ま ると、とらえている(→特にX校)。一番頑張って勉強していそうなX校で10年前よ り今の方が学歴社会は薄くなっていると感じているのは、意外だった。

これらの「解釈」は、端的に誤っている(当然ながら、回答者の親や世間が実際に「神話」を信じているかどうかをこのデータだけから判断することはできない。また、数表の中にはむしろ私立有名進学校生の「神話」懐疑的態度を示すものもある)。にもかかわらず多くの学生がまさにこの「解釈」に到達し得たとすれば、我々はそこに何らかの力学を読み取ることができるだろう。すなわち、自分の信じていない「神話」を他人が信じているだろうと信じる、という形式がここでもまた反復されているのである。

6:神話と言説 − スケープゴート・モデル
ここで確認しておくならば、意識調査の回答者はいずれも進学校の受験生であり、その意味では学歴社会に最も適合的に受験行動を行なっているはずである。また、データ「解釈」を行なった大学生は当然ながらしかるべき進路選択とそれに見合う受験行動の結果として大学に在籍しているはずである。にもかかわらず彼等は一様に「神話」への不信を表明する。さらに付け加えよう。彼等が「神話」の信奉者と見做した「親や世間一般」は果たして本当に「神話」を信じているのだろうか。受験を題材にしたドラマや小説、新聞や雑誌の記事や投書もまた、自らの「神話」への不信を訴えてはいないか。
要するに、現代の明らかな学歴社会の中で、その成員は皆、口を開けば「神話」への不信を訴えているのである。それは、それぞれが他人を「神話信奉者」に仕立て上げる事によって事態を納得しようとしていたためなのではないか、と考えられる。だとすれば、極端に言えば、この社会の誰ひとりとして自分では「神話」を信じていなくても、むしろその不信を互いに表明し合う為に、こうした「スケープゴーティング」が言説の次元で行なわれることによって「神話」の実体性は維持され得ていると言えるのである。

7:おわりに
冒頭で指摘した「神話」の奇妙なあり方について、その虚構性と実体性を結び付けるものとして、例えば「イデオロギー」概念があり、その「内面化」を論じる「知識社会学」的枠組がある(先に引用したバーガーの論理)。ところで、本発表で辿ってきた「神話」言説は、「神話」の虚構性と実体性をいわば逆倒したかたちで結び付けるだろう。それが「正統化効果」と呼ぶに値するか否かはともかくとして、消極的なかたちであれ「神話」の実体性が維持される限り、「神話」は我々の現実の自明性を希薄に・そしてその希薄さに見合う執拗さで構成することになる。それがマイヤー自身の本意にどこまで合致しているかはともかくとして、このように「内面化」をあくまでも排除して成立するという点は「正統化理論」の魅力のひとつとなっているだろう。
【文献】
バーガー、P.L.(1967=1979) 『聖なる天蓋』新曜社
石飛 和彦 (1995) 「神話としての「学歴社会」について」『教育・社会・文化』no.2.
Meyer,J.W.(1977) 'The Effects of Education as an Institution', AJSvol.83.
Meyer,J.W.&B.Rowan.(1977) 'Institutionalized Organization',AJS.vol.83.
竹内洋他(1993)『現代高校生の「受験生活」についての実証的研究』京都大学教育学部
薬師院仁志(1996)「正当化理論の陥穽」『教育・社会・文化』no.3.