表紙へもどる
業績一覧へもどる

・「神話としての「学歴社会」について」『教育・社会・文化』no.2,pp.17-30.京都大学教育学部教育社会学研究室(1995/4/1)


神話としての「学歴社会」について
− 高校生意識調査データからの知見 −
On "Educational Credential Society" as a Myth
石 飛 和 彦
ISHITOBI, Kazuhiko

0:はじめに
正当化理論のテーゼ(Meyer 1977)によれば、教育とは現代の神話であり、学校が生徒に及ぼすと信じられている教育効果は、神話としての教育制度(あるいは、教育制度の全域化によって切り開かれた近代=現代社会の神話としての、合理的意識=制度)の内部において・その文脈の中においてのみ、意味を持つことのできる文脈効果である。特に「ポスト産業社会」では多くの組織がそういった制度的神話としての形式合理性(≒タテマエ)を実践的生産能率(≒ホンネ)以上に追求するとされている(Meyer & Rowan 1977)以上、この議論が現代社会の学歴主義化(身に付けた教育「内容」よりも「学歴」が問われる;ゆえに「学歴」ばかりが優先的に追求される)を説明する為に有効であることは明らかである。本稿のテーマは、この正当化理論のテーゼを念頭に置きつつ、先に実施した高校生意識調査のデータを検討し、学歴社会神話に関する経験的研究を行なう事にある。

1:学歴社会の神話の位置

1−1:学歴社会の存在論
分析に先立って、次のことが確認されねばならない。
第一に、先に言及した「現代社会の学歴主義化」が本当に存在するのかどうか、という問題がある。言う迄もなく、現代の社会で学歴が個人のキャリアの重大な要素であることは常識であり、特に日本が深刻な学歴社会であるという認識は一般通念として広く共有されていると思われる。例えばR.P.ドーアはその学歴社会論の日本語版への序文を次のように語り始める:

タクシーの運転手まで大学を出ていなければならない世の中になって来た。新聞によ ると、京都のあるタクシー会社が今年の春、大学卒を五〇名募集しているそうである。 この「学士ドライバー」は普通の、ありきたりの、野暮な運転手にはならない。一種の コンサルタント − 一番こった和菓子屋、離婚問題専門の弁護士、お経のうまいお坊 さん − 何でも客の注文に応じて、直ぐ連れて行けるような、電話帳の産業編を暗記 したような、新型の運転手になるそうだ。( 1)

しかしながら、実際のところ、統計的・経験的にその通念が支持されているかといえば、かならずしもそうではない。
C.ジェンクスは、アメリカ社会における統計的研究(Jencks,et al. 1972=1978)において、階層などの社会的諸変数の分散全体に比して教育によって説明されうる分散の大きさが「意外と」小さい事を指摘することによって、教育への過度の注目を批判しようと試みた。無論、統計的数値一般の性格からするならば、ジェンクスの提示した教育効果の分散の数値は「じゅうぶんに」大きいと言うことも可能であり、それは要するに「コップが半分みたされているというか、半分空いているというか」( 2)というジェンクス自身の言葉に要約されるような、解釈の相違であるということはできる。しかし、彼の研究がインパクトを持ち得たという事実そのものが、常識的通念と統計的実態との乖離を物語っているということができるだろう。さらに、石田(1989)によれば、学歴と社会経済的地位達成の関係について日米英国際比較を行なった結果、日本において最も学歴の直接的規定力が小さいことが判明している。つまり、日本が特に深刻な学歴社会先進国であるという常識は、統計的な次元では必ずしも正しくはない。ただし、そこで「学歴」変数として用いられているのはいわゆるタテの学歴( 教育年数)であって、現代の日本社会で問題として通常イメージされているヨコの学歴すなわち大学間偏差値序列については語っていない、ということはできるかもしれない。実際、大企業の・しかも採用時点に限って言うならば明らかな大学間格差が存在し、それは社会的常識の次元においても統計的次元においても認められる。ただしそれもまた、統計的数値の常として、「コップの中の水」のような様相を示す。竹内(1985)は、企業内人事に対する学歴効果を検討するにあたって次のように周到な留保を記している:

…巨大企業就職率と大学歴との関連のおおよその傾向をみることはできる。巨大企業就 職率が五〇%を超える大学群と、その割合が一〇%にみたない大学群がある。巨大企業 就職率をめぐって大学間に格差があり、その格差が入試難易度と相関していることを読 みとることができる。/しかしその差が断層的ではなく、傾斜的であることも押さえて おく必要がある。たとえば入学難易度(偏差値)五七前後のP私立大の巨大企業就職率 は二九%(文系)、難易度五二前後のQ私立大も二五%(文系)である。一部の特定有 名大学の巨大企業就職率はたしかに大きいが、それでも残りの何十%かは五〇〇〇人未 満の企業へ就職している訳であり、他方では難易度五二前後の大学からも二五%が巨大 企業に就職している事実を確認したい。表[略…引用者]の数字をおもてだけから読ん で過度な大学歴決定論になるべきではないだろう。( 3)

ここで問題になっているのは大学間格差である。文中に登場する[有名大/P大/Q大]の格差が[大卒/高卒/中卒]の格差に比べてどの程度大きいか、あるいは[大企業/中小企業]の格差に比べてどの程度大きいか、さらには採用時点を通過した後の人事においてどのような効果を持つか、といった様々な要素があるため一概には言えないが、少なくとも、ヨコの学歴の収益率についても、通念のように単純なありかたを統計値は支持していない、とは言えるだろう。言い換えるならば、日本の現代の学歴社会を問題とするならば、統計的次元から乖離してなお存在する学歴社会の「神話」を検討する必要があるということである。

1−2:学歴社会をめぐる言説
確認しておかねばならない第二の点は、学歴社会神話が「存在」する、という場合に、それがどういう次元において「存在」しているか、という点である。ごく常識的に考えるならば、それは人々の「意識」の中に存在している、ということになろう。誰もが神話を信じている、それが神話のもっともナイーブな定義である。例えば、城山三郎の有名な小説『素直な戦士たち』(後にテレビドラマ化された)の登場人物は、次のように言う:

「超一流大学を出ていれば、超一流企業へ入ることも、医者になることも、官僚になる ことも、どんなことでもできるわ。無限に選択チャンスがあるわけよ。そのときこそ、 子供は、『本当の自由人にしてくれた』って、バンザイするわよ」

さて、小説の中にこのような記述があった場合、それをどのように読むべきであろうか。まず、それを、誇張されてはいるがそれだけ現実の一側面を鮮やかに反映してもいる「戯画」と読むことができる。するとこの場合であれば、学歴社会神話は現実の人々によって強く信じられている、ということになる。現実の親は本質的にこのような信念を持っていわゆる「教育ママ」になり、また子供は「素直な戦士」になる、というわけだ。
ところが、また別の読み方も可能である。小説の中でその言葉がエキセントリックな典型的教育ママの発話として提示されているとすれば、作者および読者の意識はその発話に対してむしろ批判的でさえありうるだろう。この場合であれば、学歴社会神話は現実の人々すべてによって必ずしも強く信じられている訳ではない、ということになる。ただし、全員が神話に懐疑的であろう、と全員が信じているならば、このような小説は存在し得ない。このような小説が成立するのは、多くの人々が、自分自身の信念としては学歴社会神話を疑いながら、同時に自分以外の誰かが神話をエキセントリックに盲信しているに違いない、と信じている場合に限られるだろう。実際、このような読みを裏付けるように、最近の別のエッセイや小説にはよりあからさまな書き方がされている:

子育ての理想を問われた人が、勉強なんかにはうるさく言わず、健康でのびのびと育て たいと答えているのを、よく見聞きします。/ところが、実際は小学校高学年から中学 生になると、いつのまにか成績にうるさく口を出し、塾に通わせ、受験勉強に追い立て ています。/でも、はやばやと現実を悟り、教育ママにでも教育パパにでも変身し、そ れに撤することができた人は、良い悪いは別として、少なくとも入試に関しては得をし たようです。/一方、そういう受験とか入試とかにとらわれない確固たる教育の理念を 持ち、それに基づく子育てをやり抜いた親御さんには、その素晴らしさに頭が下がりま す。/どうしようもないのが、私のような親でしょう。教育ママにだけはなりたくない と偉そうに突っ張っているくせに、内心、それでいいのかしら、大丈夫かしらとびくび くしています。教育ママという言葉に反発し過ぎた結果、気持ちが妙に屈折してしまい ふと気がついたら、入試とか受験の報道や情報からなるべく目をそらすという逃げの姿 勢が身についていました。高校受験情報アレルギーにかかってしまったというわけです /それにしても、です。それにしても、高校へ行くという普通のことが、なぜこんなに 大ごとなのでしょう。いやおうなしに親きょうだいまで巻き込んで−。

「大学へ行かない子は、能力がないんだと思うでしょう? やっぱり大学へ行かない人 は、行った人より低く見られる。どこの大学かで差がつけられる。みんなそんなこと、 わかってるのよ。そういう中で生きてるのよ。自分の子だけは大学へ行くと自信を持っ て受験体制を批判する親も、自分の子だけが学校に合わなくて苦しんでいると思う親も 違うんじゃないかな」麗子は自分の母親と私のことを言っているのだった。気まずい沈 黙が流れた。「学校や受験体制を疑わない親もだけどね」と麗子が言い、母親が溜息を つくように聞いた。「それじゃ、親はどうすればいいの」「子供だって、どうしたらい いのかわからないわ。親が学校や受験体制を疑ったり批判して下さっても、それだけじ ゃどうにもならないのよ。私たちには三つの生き方しかないのよね。学校や受験体制に 乗ってエリートになる。学校や受験体制から外れて、非行や落ちこぼれになる悲惨と栄 光の道をたどる。でもエリートにもなれず、悲惨と栄光なんていうことの甘えも知って いる大多数は、疑わないわけじゃない、苦しさや悲しさを感じないわけじゃなくても、 学校や受験体制の中でやっていくしかないのよ」(…)「エリートでもなく、落ちこぼ れでもない、その大多数というのも、麗子が思いを込めて言うほど悲愴でも美しくもな いわよ」大学生の麗子の姉が初めて口をひらき、冷静な声で言った。「受験体制への疑 いなんて、自分が大学生になれたら忘れてしまうし、苦しさや悲しさは、下手すれば自 分を慰める口実になって現状肯定主義者になってしまう。大多数の中の大多数は、就職 までの大学生活を楽しむ無自覚の群れじゃないかと思うわ」「あなたもそうなの?」と 母親が姉娘に聞いた。(…)

前者は村崎芙蓉子によるエッセイ『カイワレ族の偏差値日記』、後者は干刈あがたによる小説『黄色い髪』からの引用である(共に、後にテレビドラマ化された)。これらの文章は、先に引用した『素直な戦士たち』の文章とは構造的な相違を見せている。『素直な戦士たち』において登場人物は即自的に学歴社会神話を語っていた。ところが『カイワレ族の…』と『黄色い髪』においては、学歴社会神話を信じ・乗ってしまった人を対象化した視点がとられている。この相違は、小説技法上の相違であると同時に、小説(エッセイ)が書かれた時期 − 前者と後二者の書かれた時期には約10年の隔たりがある − における学歴社会神話に対する社会的心性の相違である(そうであるが故に、村崎と干刈によって別々に書かれたエッセイと小説に相同な言葉が見出せるのだ)。現代の日本において受験戦争をリアルに描きだすためには、もはや単に即自的学歴社会神話狂信者を登場させるだけでは足りない。むしろそういう戯画的人物を極力登場させずに、ただ、話者の語る[学歴社会に乗ってエリートになる人/普通の大多数の私たち/学歴社会に英雄的に背を向ける人]という図式の一方の極限値として提示するにとどめねばならないのである。
さて、すると、現代の日本で学歴社会神話について議論する場合に重要な点は、誰がどのようにして実際に神話を信じているのか、という点だということがわかるだろう。大多数の人々が「本当には」神話を信じていないとするならば、神話はいかにして維持されているのか。特にこの問題を、学歴社会神話の主人公のひとりである受験生たちについて明らかにしていくのは興味深いことだろう。

1−3:学歴社会神話の内容
第三に確認されねばならない点は、「神話」が何らかの形で信じられ・あるいは疑われていると言う場合、そこで具体的に何が、すなわち「神話」のどの局面が問題にされているか、という点である。ひとくちに「学歴社会神話」と言っても、そこには少なくともふたつの層が含まれるだろう:まず、@教育そのものに関する神話。すなわち、学校で教える知識が卒業後の社会生活・職業生活において実際に有用であり、しかるがゆえに学歴の高い(すなわち質の高い教育を享受した)者ほど能力が高くなり、したがって高い地位につく、という神話;それとは区別される層として、A学歴が地位達成に結びついているという神話。すなわち、学校の教育内容そのものの有用性の有無に関わらず、高い学歴を取得したものがそれだけ高い社会的・職業的地位につく、という神話、である。
本稿冒頭に言及したJ.W.マイヤーの正当化理論において「教育は神話である」と言われるとき、それは第一義的には@の層の「神話」を指している。それは、まさに人々によって「論証抜きで信用されることによって」維持され機能している、という意味において実態から乖離した「神話」である:

学生が「高校卒業者」である、ということは、歴史と英語と数学の必修単位を取得した ということである。それは制度化された教義である。というのも、たいていのばあい人 は学生を、そうした知識を既に獲得したものとして扱わねばならない、しかも、いちい ち直接確かめるわけではなく、しかじかの単位が修得されたというそのことじたいによ って、そう扱わねばならないのだ。( 4)

ところが、Aの「神話」は、マイヤーにとっては、第一義的には、研究に先立って所与として与えられた与件であり、説明されるべき現実である。それはマイヤーの論理構成においては、いわば「神話=現実」といった扱われ方がなされている。すなわち、確かにAもまた「神話」であり、制度としての教育システムによって供給されているいわば幻想なのだが、同時に、現代の社会構造そのものが教育システムを背景とした合理的意識=制度に貫かれている以上、Aの「神話」こそが現実である、という「トートロジー」が成立するというわけである:

教育は現代社会の神話にすぎないとしても、それは強力なものである。神話の効力は、 諸個人がそれを信じているという事実のうちにあるのではない。むしろ彼らが、ほかの 誰もが信じていると「知っている」という事実、そしてそれゆえに「実際的にみる限り for all practical purposes」神話は正しい、という事実のうちにあるのである。我々 は皆、教育の役立たなさについて私的に語ることはいくらでもできる。しかし、人を雇 ったり昇進させたり、現代の魔術師達に意見をたずねたり、自らの人生に現代的な合理 性を持たせようとするとき、我々は教育が権威となるようなドラマの舞台に引き出され ることになるのだ。( 5)

こうしたマイヤーの議論は、それ自体としては説得力を持っている。しかし、本稿の議論は、既に見てきたように、マイヤーにとって所与であった学歴社会の実体的存在そのものについて再検討するところから出発している。マイヤーの議論をくつがえすという事にはならないにせよ、マイヤーの議論に登場する「神話」(@/A)がどの程度信じられているかを確認してみることには一定の意義があると思われる。

2:調査とその結果

ここで用いるデータは、1991年9月に京都大学教育学部教育社会学研究室で実施した質問紙調査「進路に関する高校生の意識調査」によるものである。調査は、ある地方公立進学校2校(以下便宜上A校、B校と呼ぶ。A校はその学区の輪切り選抜トップランク校、B校は同じく二番手ランク校)と、大阪近郊の私立有名進学校1校(X校と呼ぶ)の3年生に対して行なわれた。調査の手続きの詳細および結果は既に調査報告書『現代高校生の「受験生活」についての実証的研究』にまとめられているのでぜひ参照されたい。本稿は上記報告の知見をふまえながら、また別の角度からの分析を試みたものである。

2−1:設問について
調査では、学歴社会神話に関する設問として以下のものを準備した:

問30:学校の勉強や、受験勉強で得られる知識は仕事の役に立つと思いますか。
問31:学校の勉強や、受験勉強で努力することは、どんな仕事をする上でも貴重な経 験になると思いますか。
(以上選択肢 1:思う 2:やや思う 3:思わない)

問32
a:あなたの親(保護者)との会話で、学歴の大切さが話題に登ることがありますか。
b:あなたの友人との会話で、学歴の大切さが話題に登ることがありますか。
(以上選択肢 1:よくある 2:ときどきある 3:あまりない 4:全くない)

問33:「よい就職をするには高い学歴が必要だ」といわれることがあります。
問34:「出世のためには高い学歴が必要だ」といわれることがあります。
問35:「よい結婚相手を見つけるには高い学歴が必要だ」といわれることがあります
(以上各々の設問について、ab2つの下位設問を準備)
a:この考え方について、あなたの意見は次のうちどれに最も近いですか。
1:その通りだと思う
2:違うと思う
3:わからない
b:この考え方は、10年前の日本と今の日本とでは、どちらがよく当てはまると思いますか(想像でお答え下さっても結構です)。
1:今の日本の方がよく当てはまる
2:10年前の日本の方がよく当てはまる
3:変化はない
4:わからない

問38:今の日本社会について次の二つの考え方があります。
A:「一流企業」に入社するのは、ほとんどが「一流大学」の卒業生である。
B:「一流企業」には「一流大学」に限らない様々な大学の卒業生が多数入社している
(以下、abc3つの下位設問を準備)
a:あなたは、この二つの考え方のうち、どちらが正しいと思いますか。
1:Aの考えが正しい
2:Bの考えが正しい
3:わからない
b:この二つの考え方のうち、あなたの親(保護者)はどちらですか。
c:この二つの考え方のうち、世間一般の人々はどちらですか。
1:Aの考え方に近いと思う
2:Bの考え方に近いと思う
3:わからない

以上の設問について、A、BおよびX校の生徒の回答傾向を見ていこう。特にここでは、X校の回答傾向に注目しながら読み進んでいくことにする。なぜなら、共に進学校であるA、B、X各校の中でも、X校こそはまさに「学歴社会に乗ってエリートになる人」たちのイメージに相応しい都市型有名私立進学校だからであり、「学歴社会神話」が受験生を捉えるとするならば、まず第一に捕われるのはまさに彼らのはずだからである。
なお、以下の分析ではA、B校の女子のデータは、男子校であるX校との比較を容易にするという分析の便宜上、排除してあることをあらかじめことわっておく(性別が受験生活において強力な要因である事については、上記報告書の諸論文を参照されたい)。

2−2:結果
表1は、設問30、31の回答結果を学校ごとにクロス集計したものである。両設問ともに、X校で”yes”の回答が多いという傾向が見られる。ただし両設問を比較すれば各校とも設問30の方でより”yes”の回答が少なく、特にA、B校では、半数近くが”no”の回答をしている。設問31の方ではその傾向は穏やかであり、学校差も小さい(表1−1はカイ自乗検定1%水準で有意。表1−2では有意差は得られなかった)

表1−1「学校の勉強や、受験勉強で得られる知識は仕事の役に立つ」

  A校 B校 X校 合計
yes 17.1 14.7 29.0 20.3
  36.3 39.5 36.4 37.3
no 46.7 45.8 34.6 42.4

表1−2「学校の勉強や、受験勉強で努力することはどんな仕事をする上でも貴重な経験になる」

  A校 B校 X校 合計
yes 28.8 33.5 38.5 33.4
  47.1 43.5 41.8 44.3
no 24.2 23.0 19.7 22.4


表2は、設問32a、bについての表である。いずれも回答を再コード化し、「学歴の大切さが話題に登ることがよく/ときどきある=yes;あまり/まったくない=no」として計算した。設問32aでは60−70%、設問32bでも45−55%が何らかの形で日常的に学歴について会話しているということがわかる。しかし、この表で見る限りは、学校間に統計的有意差というほどのものは見られない。しかし、いずれの表でもX校で”yes”の回答がやや多いという傾向を見られない訳ではない。

表2−1:「親(保護者)との会話で、学歴の大切さが話題に登る」

  A校 B校 X校 合計
yes 61.3 58.1 67.0 62.2
no 38.8 41.9 33.0 37.8

表2−2:「友人との会話で、学歴の大切さが話題に登る」

  A校 B校 X校 合計
yes 45.8 48.7 54.9 49.7
no 54.2 51.3 45.1 50.3


表3−1から表3−3までは、設問33〜35の下位設問aについての表である。「学歴社会神話」のような漠然とした対象についての質問であるため、DK回答(「わからない」)の割合が大きいが、DKの割合じたいにも意味があると考えられるため、表に加えてある。設問33a、34aでは、全体的には”yes”と”no”の回答が共に40%前後で拮抗していると見ることができるだろう。その中で、設問33aではX校において”yes”の割合が大きく(カイ自乗検定0.1%水準で有意)、また設問34aではB校でやや”no”の割合が大きくなっている(統計的有意差なし)、と見られる。なお設問35については、設問じたいの唐突さもあってか”yes”の回答がかなり少ない。しかし、ここでもX校での”yes”の割合が大きいという傾向は見られる(カイ自乗検定0.1%水準で有意)

表3−1「よい就職をするには高い学歴が必要」

  A校 B校 X校 合計
yes 39.3 42.4 60.5 47.3
no 41.4 42.9 21.9 35.3
dk 19.2 14.7 17.7 17.4

表3−2「出世のためには高い学歴が必要」

  A校 B校 X校 合計
yes 40.9 34.2 37.9 37.9
no 44.3 52.8 43.9 46.7
dk 14.8 13.0 18.2 15.4

表3−3「よい結婚相手を見つけるには高い学歴が必要」

  A校 B校 X校 合計
yes 12.7 7.8 19.6 13.5
no 73.8 77.2 56.5 69.1
dk 13.5 15.0 23.8 17.4


続く表3−4から表3−6までは、同じく設問33〜35の下位設問bについての表である。この表にはいくつかの要素が重なって含まれているので読み方が難しく、また表全体の統計的有意性を問う事にはさほど意味もないだろう(それでも表3−5では0.1%水準の有意差が算出され、それ以外の表でも計算上それに近い値が算出されてはいる)。まず、「今の方がよく当てはまる」という回答(これを学歴社会「深刻化」感と言うことができる)が、「10年前の方がよく当てはまる」(これを同じく「軽減」感と言うことができる)を概ね上回っている、という全体的傾向を見ることができる。ただし、X校においては相対的に見て「深刻化」感が小さく「軽減」感が大きいという傾向があり、設問34bにおいては両者が逆転している。先に触れた設問35については、ここでもDK回答が4人に1人におよんでいるが、概ね全体的傾向からは外れていない。ただしX校よりはむしろB校に見られる「軽減」感の相対的な大きさの方が目立つとも見える。

表3−4「よい就職をするには高い学歴が必要」10年前と今とどちらがあてはまるか

  A校 B校 X校 合計
48.3 45.0 35.3 43.0
10年前 19.6 24.1 29.3 24.1
同じ 17.9 16.2 22.8 19.0
dk 14.2 14.7 12.6 13.8

表3−5「出世をするには高い学歴が必要」10年前と今とどちらがあてはまるか

  A校 B校 X校 合計
43.6 40.6 25.7 36.8
10年前 15.3 25.5 29.4 23.1
同じ 22.5 17.7 24.8 21.8
dk 18.6 16.1 20.1 18.4

表3−6「よい結婚相手を見つけるには高い学歴が必要」10年前と今とどちらがあてはまるか

  A校 B校 X校 合計
39.1 31.8 33.6 35.1
10年前 12.6 19.8 10.7 14.1
同じ 23.5 22.4 29.9 25.3
dk 24.8 26.0 25.7 25.5

表4−1から表4−3までは、設問38の下位設問a〜cについての表である。この設問については、各表とも、それ自体としては学校間の統計的差異を示していない。ただ、むしろそれぞれ他の設問との比較によって興味深い傾向を見ることができる。まず、設問38aであるが、これは先に見た設問33a(「よい就職をするには高い学歴が必要」と思うか否か:表3−1)と同趣の設問内容になっている。そして、A、B校の回答はここでも先の設問への回答とほぼ同傾向(”yes”と”no”が40%前後で拮抗)になっている。ところが、先にA、B校と異なった傾向(”yes”が60%)を見せていたX校の回答が、ここではA、B校の回答と同傾向か、むしろそれを通り越して先の回答とは反対の傾向(”no”が”yes”を上回る)を見せているのである。次に、設問38bおよび設問38cであるが、これらは設問38の3つの下位設問を相互比較すると興味深い傾向を示している。すなわち、質問の対象を「自分」から「親(保護者)」そして「世間一般の人々」へと移していくごとに”yes”の割合が大きく、”no”の割合が小さくなる。また、設問38bと設問38cのDK回答を比較すると、実際に会うこと会話することもない「世間一般の人々」という曖昧な対象についての方が、たいてい毎日のように顔を突き合わせているだろう「親(保護者)」についてよりも、DKが少ないことがわかる。これもまた、「神話」というものの特徴を示す数値と思われる。

表4−1「「一流企業」に入社するのはほとんどが「一流大学」の卒業生である」と思う

  A校 B校 X校 合計
yes 39.7 44.6 33.2 39.0
no 43.1 42.0 45.8 43.7
dk 17.2 13.5 21.0 17.3

表4−2「「一流企業」に入社するのはほとんどが「一流大学」の卒業生である」と親(保護者)が思っているだろうと思う

  A校 B校 X校 合計
yes 58.6 52.8 63.6 58.5
no 18.8 22.8 18.7 20.0
dk 22.6 24.4 17.8 21.5

表4−3「「一流企業」に入社するのはほとんどが「一流大学」の卒業生である」と世間一般の人々が思っているだろうと思う

  A校 B校 X校 合計
yes 83.8 79.7 82.2 82.0
no 5.0 7.3 5.1 5.7
dk 11.3 13.0 12.6 12.2


2−3:考察
以上のデータから、それでは、本稿の問題意識にとってどのような知見が得られるであろうか。順を逐って検討してみよう。
第一に、学歴社会「神話」がいかなる内実において信じられ・疑われているかという問題(本稿[1−3]節参照)に対しての知見が得られる。表1−1から見て、受験生はこと「知識の有用性」([1−3]節で「神話@」と呼んだもの)に関しては、かなり「疑っている」と見られる。確かに、X校では有用性をより「信じ」てはいる。つまり、相対的にはエリートに対してはいくらか「神話」の効力がある、と言うことはできる。しかしながら、全般的にはむしろ表1−2に見られる「勉強努力の有用性」の方が回答者たちをより強く捉えている以上(そして、言う迄もなく努力信仰は「神話@」とは異なる現象である以上)、「学歴社会神話」がその純粋な教育的内実において受験生たちを捉え引き付けていると考えることはできないと言えるだろう。
無論、学歴社会の「神話@」が疑われることは「学歴社会神話」そのものの維持にとって本質的な危機とはなり得ない。マイヤーが述べたように、まさに「我々は皆、教育の役立たなさについて私的に語ることはいくらでもできる」。問題はむしろ「神話A」、すなわち、学歴と社会的地位配分とが強力にリンクしているという「神話」である。この「神話」が統計的実態からすれば相当程度に脆いということは先に述べた(本稿[1−1]参照)。では、受験生たちはその「神話」をどの程度確かな「現実」と見做しているか。
表3−1および表3−2の結果はいかにも微妙である。これもまた「コップの中の水」であるが、X校のみならずA、B校もまた地域のトップ/二番手という高レベルの進学校である事を考慮に入れるならば、yes/noがほぼ同数というのでは、やはり「神話」が現実感をもって受け入れられているとは思えない。少なくとも、「学歴社会神話」の存在が受験生を駆り立てて受験レースへと導く、という常識的モデルを採用するかぎり、その受験レースの先頭集団であるA、B、X校の生徒たちの半数近くが「神話」を疑っているという事実は説明できない。
無論、表3−1でX校生徒に見られる「学歴信仰」は考察の対象とされねばならない。6割の生徒がyesと回答している以上、X校では部分的にではあれ「神話」が実効性を持っている、と言い得るかに見える。しかし、本分析はその見解を採用しない。ここでのX校生徒の「学歴信仰」の正体は、他の表との比較から明らかになる。そこで問題となるのは、単に「神話」が信じられているか否かではなく、いかにして信じられているか、ということである。
まず、表3−1で見られたX校生徒の「学歴信仰」がなぜ表3−2で消えてしまったかを考えてみよう。彼らは、学歴が「よい就職」とはリンクしているが「出世」とはさしてリンクしていないと感じている。このことを次のように説明してみよう:X校のようなトップエリート校の生徒は、学歴獲得レースにおいて有利な立場にいるぶんだけかえって、「学歴よりも本当に大切なのは実力だ」という言説に取り囲まれることになる。彼らにとって「学歴」とは、確かに有効である反面、「学歴ぬきの”本当の”実力」から自分を永遠に遠ざけるバリアーのようなものでもある。よって、「就職」のように瞬間的な社会的接触機会において「学歴」は有効であるが、社会に本格的に入ってからの「出世」ともなれば「学歴よりも本当に大切な実力」の方が有効である、と感じられるのではないか。
表3−4と表3−5の結果もまた、X校の生徒が「学歴」を脆いものと見ていることを示している。X校の生徒はA、B校生徒に比べて学歴社会「深刻化」感を感じにくく、逆に「軽減」感をより大きく感じている、という傾向は、結局X校の生徒が「もうじきメッキが剥がれる、もう騙しがきかなくなる」と感じていると読めるのである。
さらに、表4−1から表4−3の結果との比較は、「神話」がいかなる次元で信じられているのかを明らかにする。つまり、表3−1とほぼ同内容の質問をより具体的な次元で質問し直すと、表4−1のようにX校の「神話」観はむしろ懐疑的になるのである。また表4−1から表4−2、表4−3へと進むにつれ「神話信仰」感は強固になっていく。つまり、「学歴社会神話」とは、自分が信じるものではなく、まさに他人が信じているだろうと自分が思い込むことによって、具体性・実体性を欠いた形で維持されているものだという事ができるだろう。
要約しよう:「学歴社会神話」は、その教育的内実の次元(=「神話@」)においても社会的職業的地位達成へのリンクという次元(=「神話A」)においても、受験生を十分に把捉しているとはいえない。第一に、それはさほど信じられておらず;第二に、信じられているとしても「脆い」ものとしてに過ぎず;しかも第三に、具体的な次元ではなくまさに他人の信仰としてその存在を抽象的に認められているに過ぎない。以上の知見から、次のように言うことができる。マイヤーは学歴社会の展開のメカニズムとして「神話」による包絡を想定していた。例え「神話@」が信じられていなくても「神話A」さえ客観的存在として相互主観的に信じられてさえいれば学歴社会は自己展開すると考えていた。ところが、データからの知見からは(従ってここに、「現代日本の場合には」という留保を入れることは大いに適切であるが)、「神話@」「神話A」ともに、そのような実効性を期待できにくい。「神話」は、確かに誰もが口にするが、受験戦争のトップエリートでさえ本気で信じていないとすれば、要するに誰も本気で信じていない、ハリボテのようなものに過ぎない、ということになるのである。

3:おわりに

にもかかわらず、誰もが受験に参加するのである。これはとても薄気味悪い事である。ただ、ひとつ言えることは、現在の「受験戦争」が持つ奇妙な明るさである。E.ゴフマンが喝破したように、ゲームの面白さは賭金のレートの適切さに依存している。現在の受験は、まさにその「ゲームの面白さ」を獲得しつつあるかに見える。学歴の追求が将来の社会的職業的地位達成にあまり強固にリンクしていると感じられている場合、「賭金」のレートが高すぎ、ゲームはあまりに深刻なものになってしまう。「暗く悲しい」受験生の姿は、そのような受験ゲームに対応している。ところが、受験ゲームの結果がほどほどに地位達成にリンクしているならば − 例えば、ちょうど就職活動の瞬間だけ役に立つボーナスカードが一枚、賭けられているようなゲーム − 誰もが気軽に明るく参加できるゲームになるだろう。無論、主観的な暗さを個々の受験生が抱くことはありうるだろう。しかしそれは − 報告書所収の諸論文をぜひ参照されたいが − 受験そのものの結果であるよりは、受験システムに各々の学校組織が適応して生徒にうまく充実した受験生活を送らせる事ができるか、それともどこかで組織的な摩擦を生じて不満をいだかせるか、そういった地域差・学校差の方が重大な要因となる。少なくとも、調査回答者が志望校を選択する基準のデータを見る限り、深刻さの印象はかなり後退している。 図1〜3を見られたい。これは、「問8:あなたは志望校を決定する際に以下の基準をどのくらいまで考慮しましたか」という設問の12項目のうち7項目を選び、「1:かなり考慮した」と回答したパーセンテージをグラフ化したものである。全体的傾向として、「将来の就職に有利かどうか」は考慮されにくく「自分の興味・関心」という項目が最も考慮されている。またX校(特に文系)において設問後半の「軽い」基準(「学園生活が楽しいかどうか」「学校についての世間の評判」「学校が大都市にあるかどうか」)が考慮されている。ゴールがこのようなものである以上、競争への没頭を深刻さと取り違えることは多分にミスリーディングでさえあるだろう。学歴社会論に課された課題は、受験戦争の深刻化が児童生徒の健全育成に及ぼす悪影響の研究、ではなく、このような「明るさ」を帯びたゲームとしての受験の奇妙なありかたの社会学的解明でなくてはならない。
(以上)

【註】

1)ドーア(1976=1978)「日本語版への序文」
2)この言葉はKarabel & Halsey(1977=1980)邦訳書p.29.に引かれている。なお、カラベ ル=ハルゼーは同書の中でジェンクスの研究を評して「アメリカ社会の統計的な肖像 を提供している」ものだと言う。本研究もまた、日本の受験生達の意識の「統計的な 肖像」のひとつになれば幸いである。
3)竹内(1985)p.218.
4)Meyer(1977)p.66.
5)ibid.p.75.

【文献】

Dore,Ronald P.(1976=1978) The Diploma Disease -Education,Qualification and Development London:George Allen&Unwin Ltd.=松居訳『学歴社会 新しい文明病』岩波書店
石田 浩 (1989) 「学歴と社会経済的地位の達成−日米英国際比較研究−」『社会学評論』Vol.40,No.3.pp.252-266.
干刈あがた (1987) 『黄色い髪』朝日新聞社
Jencks,Christopher,et al.(1972=1978) Inequality:A Reassessment of the Effect of Family and Schooling in America.New York:Basic Books. =橋爪・高木訳『不平等−学業成績を左右するものは何か』黎明書房
Karabel,Jerome & A.H.Halsey(eds)(1977=1980) Power and Ideology Ideology in Education. New York:Oxford University Press.=潮木・天野・藤田編訳『教育と社会変動−教育社会学のパラダイム展開』東京大学出版会
Meyer,John W.(1977) "The Effects of Education as an Institution"in American Journal of Sociology Vol.83,no.1.pp.55-77.
Meyer,John W & Brian Rowan(1977)"Institutionalized Organizations:Formal Structure as Myth and Ceremony"in American Journal of Sociology Vol.83,No.2.pp.340-363.
村崎芙蓉子 (1987) 『カイワレ族の偏差値日記』鎌倉書房
城山 三郎 (1978) 『素直な戦士たち』新潮社
竹内 洋 (1985) 「企業と学歴−学歴の社会学−」柴野昌山編『教育社会学を学ぶ人のために』世界思想社pp.217-235.
竹内 洋 他 (1993) 『現代高校生の「受験生活」についての実証的研究』京都大学教育学部教育社会学研究室