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・「「生徒コード」再考」『教育・社会・文化』no.8,pp.1-12.京都大学大学院教育学研究科教育社会学・臨床社会学研究室(2002/7/30)


「生徒コード」再考
Reconsidering "the pupil code"

石飛和彦
Ishitobi Kazuhiko

0:はじめに

 本稿では、「生徒コード」概念を再検討する。稲垣によって最初に提起された概念をより一般的に規定しなおすことによって、学校文化研究においてより有効に汎用性をもって利用できる概念装置とすることが本稿の目的である。

1:問題設定

 「生徒コード」という概念装置を提起したのは、「教師−生徒の相互行為と教室秩序の構成 − 「生徒コード」をてがかりとして − 」(稲垣(1989))という論文である。稲垣はそこで、ウィーダーの「受刑者コード」の研究(Wieder(1974=1987))を参照しながら次のように言う:

ここでいう「コード」とは、行為者の行動を一定の方向へ動機づけ、規定するルールをいうのではなく、状況におけるさまざまな行動を一定のパターンにのっとったものとして解釈し、組織だてていくための「言語的行事」を意味する。ウィーダーは、ハーフウェイハウス(中間治療施設)の研究から、受刑者の生活を支配していると説明されるルールや規範(受刑者コード=convict code)が、実は受刑者の行動を実質上説明するものではなく、受刑者と職員が共に互いや自らの行動を納得しうるものとして理解したり、他者を説得するために組織だてていく方法であるとし、そのようにして構成される秩序の生成の瞬間をとらえようとした。/したがって、彼は、コードを抽出することよりも、受刑者や職員が「コードを語る」ことによってどのような現実を創出していくかに焦点をあてる。そして、そこで構成された施設の現実が、その治療目的とは逆の結果を生み出すプロセスを抽出したのである。/本論は、こうした立場から、教室での教師と生徒の行動を実質上、規定しているルールと見えるものが、実はそうした行動や出来事を解釈し、教室の秩序を維持していくための解釈枠組であることに注目し、こうした解釈枠組を「生徒コード」(生徒同士の暗黙の掟)と呼ぶことにする。(p.125)

こうした概念規定の上で、稲垣は、学級調査の具体的なフィールドデータから6項目の「生徒コード」をとりあげて分析している:

(1)チクリは決してしない(特に教師に対して)
(2)教師と行動を共にしたり、ごまをすったりしない。
(3)生徒間で信頼を得ることを大切にする。
(4)他の生徒の邪魔をしたり迷惑をかけない。
(5)こわい教師には逆らわない。
(6)教師への反抗は本気にならない。
(p.126)

例えばコード(1)「チクリは決してしない(特に教師に対して)」は、教師と生徒の相互作用場面で次のように用いられる:

T1:なんで先生の言うことを聞いたらまずいんや。
P1:(沈黙)
T2:もしかしたら先生がまちごうとるかもしれんが、それをいうたらいじめられるのか。
P2:うん。
T3:そうか、ほんならしようがないな。
(p.127)

この相互行為場面についての稲垣の分析は以下の通り:

T1の質問に対して生徒が答えない(P1)時、教師はT2のように、その沈黙の意味をコード(1)によって解釈し、それ以上聞かないことにしている。この時、教師の質問は「チクリの要求」であり、生徒の沈黙はコード(1)に即したものとして定式化されている。/このように教師も生徒も、互いのある行動を、生徒コードによって解釈することによって定式化し、その結果、教師と生徒の間に一定の距離が作られ、ある場面での秩序が形成されるのである。(ibid.)

さて、たしかに、この分析に見られる限りにおいては、ここで「コード」と呼ばれているものを、従来の生徒文化論ふうに「共有化された役割期待」と言い換えても支障がないように思われる。つまり、生徒には生徒「役割」というものがあり、その「役割」には様々な規範化された項目が内包されていて、生徒「役割」を担う者にはそうした規範的役割を演じることが社会的に期待されている、そこで、例えば「生徒はチクリをしない」という規範が存在し、生徒がそれを守ることを生徒自身と教師とが期待・予期してそれを実現していけば、この事例のような会話は成立するだろう、というふうに。しかし、稲垣はさらに、生徒と教師が共に「生徒コードを語ること」によって、互いの当面の目的関心を隠蔽しながら状況を定式化し、互いに説得・正当化し合い、戦略的に相互行為を秩序化しうると分析している。それによって教師−生徒関係は常に不確定な曖昧さを帯びるという点が強調されることになり、その結果として、逆説的にも次のような結論に至るが、それは、さしあたり稲垣の議論が、単純な「規範の共有」モデルを排して「生徒コードの共有」モデルを採用したことによる成果だろう:

教師と生徒のコミュニケーションは、解釈枠組として生徒コードを共有することによって可能になる。しかしそれは、教師と生徒の相互作用を抑制し、ますます距離を拡大する。教室の秩序は、このようにして定式化された教師−生徒関係 − それは「教育学的」教育が理想とする教師−生徒関係から遠ざかることを意味する − によって維持されていくのであり、それが教室を成り立たせている秩序の基盤なのである。(p.133)

さて、こうした稲垣の議論は、それ自体としては示唆に富む指摘を含んでいるが、しかし、本稿の関心からは、次のような問題点があると思われる。
 第一に、稲垣がここで注目した6項目の「生徒コード」は、いずれも教師と生徒の間の人間関係を直接に定義するものに集中しており、そのことが論考全体の議論にも密接に関係している(論考全体が、教師−生徒関係をめぐるものである)ため、もしそれ以外のコードがあるとすればそれら「生徒コード」の全体像とその全体の分析的意義が、掴みにくくなっている、という点である。
 第二の問題点は、より理論内在的なものである。稲垣の議論においては、「生徒コード」が生徒の行為を事前に規定するものではなく事後的な解釈の枠組になるものである、という点が再三に渡って強調され、さらにそうした解釈枠組の装置としての「生徒コード」を、教師と生徒が(稲垣自身はその言葉を用いてはいないが)「戦略的」に用いているという点が重要なポイントになっていると思われる。さて、しかし、「コード」概念の眼目は、はたしてそこにあるのだろうか。たしかに、「コード」が行為を事前に決めるものでないとすれば、「コード」と行為とのすきま、曖昧さに、とうぜん、理論的注目がよせられるだろう。そして、「当面の目的・関心」に沿って行為しながら「コードを語ること」によって戦略的に説得・正当化を行い、その印象操作の結果として「秩序」を達成する、という理論的筋書は、一貫している。しかし、それは、意匠を凝らした主体主義の変奏なのではないだろうか。この点については、ガーフィンケルが「アグネス論文」(Garfinkel(1967=1987))で行っている「戦略分析」批判を参照できるだろう。ガーフィンケルは、ゴフマンの登場人物たちの駆使する「戦略」が、氷山の一角の部分の事柄でしかない、と指摘している。そして、社会を生きる私たちが実際に日常に行っていることの全体は、ゴフマンの描き出すような戦略家たちのワザの応酬を水面下で支える膨大なルーティン的活動のすべてであり、アグネスが常に細心の配慮を強いられているのはまさにこの水面下の膨大な、不断の日常のほうだ、というわけである:

思慮深さや事前の予測や、アグネスのいうところの「自覚」が、ゴッフマン流の成員による印象操作の作業がもつ特性においては、一般的に欠如しているのである。だから、ゴッフマンの考え方を、経験的に適用しようとすると、つねに情報提供者を憤慨させてしまうことになる。つまりこうだ。「いいかげんにしてくれよ。そんなことはあんたのほうがよく知っているに違いないよ。あんたが告白したらどうかね」。(p.277)

あるいは、別の比喩を使おう。「泳ぐ」の反対は、「おぼれる」ではない。「溺死」である。「おぼれる」と「泳ぐ」は一つの連続線上にあり、その差異は(意味論的な次元における)主体性の関与の程度の差異にすぎない。社会を生きる私たちは、たとえて言えば、泳いでいると呼ぼうがおぼれていると呼ぼうが、ようするに水の中に投げ込まれて死ぬまでばたばたと動き続け、動き続けることによって死の瞬間を一瞬ごとにそのつど先へと繰り延べ続けているのである。「戦略分析」とは、「泳ぎ」の側面に焦点を当てるという姿勢以上でも以下でもない − 「彼らは泳いでいる」。したがって、(繰り返すなら稲垣論文そのものの分析においては「戦略分析」的な「生徒コード」論は有効であったのだが、しかし)より一般的に適用可能な概念装置として「生徒コード」概念を組み直すためには、行為を事前に決定するか・事後的に解釈枠組として戦略的に用いられるか、という点に論点をおくことは、有効ではないと思われる。
 では、どうすればいいか。次節では、別の出発点からあらためて「生徒コード」を定義してみよう(この定義については、既に別稿で素描した(拙稿(2001)、第三節)。ぜひ参照されたい)。

2:「生徒コード」 − 不在の共同体の規範

 本稿では、「生徒コード」を次のように定義しよう:「「生徒コード」とは、生徒たちが「不在の共同体」の共同体規範を言語的に可視化・定式化したものである」(前掲拙稿p.255-257.参照)。

2−1:生徒集団と規範の拘束性

 なによりもまず、「生徒コード」が、ある集団の規範を表現するものである、ということから出発しよう。集団があるからこそ、その集団の中で守られる規範があるのだ。また、集団の規範を、さしあたりすべて「生徒コード」論の範疇で扱う用意をしておこう。つまり、教師−生徒関係にかんする6項目以外であっても、およそ生徒集団のあいだで規範化されている事項のすべて − たとえば、ふだんの態度、服装や趣味のセンス、挨拶のしかたや喋り方や目つき、身のこなし等々まで含めたすべて − は、さしあたり「生徒コード」論の範疇に入れて考えることにしよう。
 規範であるという以上、「生徒コード」は、生徒の行為を拘束する、とさしあたり考えてかまわないだろう。行為を事前に決定するかどうかという点を強調する必要はないと考えられる(稲垣の議論に登場する生徒たちも、結局のところ、チクリはしないし教師にごまもすらず、ようするにコードに従った行為を行っており、またコードに抵触した教師はサンクションを受けている)。ただし、そのことは、生徒が「コードによって行為を決定している」ということと必ずしも同じではない。例えば、私たちの多くは街を歩くとき、たいてい「ふつうの歩き方」で歩いている。「変な歩き方」をしている人は、すぐにそれとわかるし、白い目で見られる等の社会的サンクションも受けるわけだから、これは一種の社会規範の現象である。しかし、私たちは「ふつうの歩き方で歩け」という規範「によって行為を決定している」とは、言わないし、そもそも「ふつうの歩き方で歩け」などという規範がもしあったところで、それに従ってどう歩けばよいのか、それだけではかいもく見当がつかないだろうし、かといって手足の動かし方の細目を(歩行ロボットのプログラムのように)規定していったところで、私たちが歩きやすくなるわけではないし、私たちの社会生活はそのようなやりかたでなりたっているわけではない。したがって要するに、私たちは規範について、実に奇妙なことを経験的事実として認めざるを得ない。私たちの行為はげんに規範によって拘束されている。しかし、その規範をいちいちすべて細目にわたって指摘することはできない。多くの規範が、まさに氷山の水面下の部分として暗黙の領域に沈んでいる − と想定される − のである。
 そこで「生徒コード」であるが、「生徒コード」とは、生徒集団の規範を、言語的に可視化・定式化したものである、と考えよう。その限りにおいて、「生徒コード」が可視化しているところの規範は、生徒の行為を実定的に拘束しているが、「生徒コード」として可視化された限りのものが行為を決定しているわけではない。結果として、「生徒コード」は、稲垣が指摘しているとおり、集団内の規範的行為や現象を事後的に定式化し説明するものとなるだろう。

2−2:不在の共同体

 上述のような暗黙の規範群によって秩序化されている集団を、「共同体」と呼ぶことができるだろう。言語化された成文規則によって形式的合理的に組織されている近代的組織に対し、伝統的社会の村落集団を代表とする共同体は、個々の成員を暗黙の共同体規範の中に包絡し拘束する。「生徒コード」とは、生徒集団をそのような共同体とみなすことと相関して効力をもつ概念装置である。生徒たちは共同体規範に拘束されつつその規範をそのつど「生徒コード」として可視化し語り合う。
 さて、しかし、ここで「生徒コード」論の固有の問題に注目しておかなければならない。それは、生徒集団の「共同体」としての性格が、伝統的な村落共同体などのそれとは本質的にことなる、という点である。すなわち、伝統的な村落共同体であれば、成員の全生活、生産と消費、誕生から生殖、死までのその生のすべてを包絡する具体的な場が、共同体の基盤として存在するし、また、そもそも成員の社会化の段階から共同体的な成形が施されることによって、共同体規範におのずから − いわば具体的な次元で − 従う成員が集団を構成することになる。しかし、生徒にとって、日常生活の場としての学校は、むしろ形式合理的な場であり、学校制度という人工的な枠組みによってそこに集められ、そこで形式合理的に社会化された生徒たちは、自分たちの集団の中に、具体的な次元から微妙にズレた別の次元の共同性を構成していくことになるだろう。
 前掲の拙稿で述べたように、それは例えば「いじめ」を通じて成立するような共同体だろう。すでに多くの論者によって繰り返し言われる所によれば、「いじめ」とは共同体による排除の現象である。スケープゴートを異者として排除することによって、集団は共同体としての統合を生成する。ただし、生活や経済活動や生殖の全体を包絡することのない学校空間において、そのようにして構成される共同体は、いわば表象の次元で観念的に先取りされたものであり、具体的な基盤をもたない。そのいみで、その共同体を「不在の共同体」と呼ぶことができるだろう。生徒たちは学校の中で、この抽象的・観念的な「不在の共同体」を構成しそこに属することによって、抽象的・観念的な仲間意識を見出し、その中で、共同体成員として振る舞うのである。
 不在の、ということは、抽象的であるということと同時に、具体的範囲が不定である、ということもいみする。すなわち、学校の中で構成される共同体は、ある時は友だち仲間、ある時は部活仲間、ある時は学級集団・・・というふうに、さまざまな範囲に画定される。「いじめ」が語られる際にしばしば用いられる「みんな」という言葉が、そのような不定領域の共同体のありようを的確に表現しているだろう。森田=清永が『いじめ 教室の病い』(1994)で示した「いじめの四層構造」モデルは、しばしば誤って、「いじめ」の共同体の範囲を学級集団に限定しているかのように理解され(その上で、「四層ではなく、教師を入れた五層だ」「家族や地域を入れた六層だ」といったふうに、同心円的に概念拡散して)広まったが、ごく単純に経験的に言っても、「いじめ」における「みんな」というのは、学級集団に限らない、むしろ友だち仲間や部活仲間の間での「いじめ」が一般的である。また同時に、「不在の共同体」は、そうした友だち仲間や部活仲間や学級集団といった具体的な成員集団を超えて、その背後のより抽象的・観念的な次元にあるからこそ、「いじめ」を受けた被害者が仮にその範囲を「この世の中全体」にまで広げて画定した場合に、やりばのない絶望ないし憎悪、それに起因する犯罪や自殺がおこる、と考えられるのである。

2−3:不在の共同体の不在の規範 − 反映的可視化

 さて、そのように不定であるような「不在の共同体」を、維持してその中に属することによって、生徒たちは学校内の日常生活を送っている。先に、「生徒コード」について、生徒集団の共同体規範を言語的に可視化・定式化したものである、と定義した。しかし、「不在の共同体」が規範をもっているとはどういうことか? また、そのような不在の規範に拘束されているとはどういうことか?
 まさにこの点に、「生徒コード」論の特異性がある。すなわち、生徒たちは、「生徒コード」を互いに語り合うことによって、不在の規範を可視化・定式化し、それを探りながら同時に適用し、それによって反映的に、不在の共同体そのものを可視化・定式化するのである。すなわち、規範もまた共同体そのものも、そのつど「生徒コード」を語り合うことによってはじめて姿を現すのである。例えば、小学生のいじめ行為について繊細な会話分析をしている大辻(2000)の、どちらかといえば傍系的なエピソードの記述:

A子は他の児童から「わがまま、自己中、自分勝手」などと形容されることが多く、問題児扱いされている・・・A子は3年B組において恒常的ないじめられっ子なのである。/そのA子についてやや話題が途切れた後、春子は次のように話をはじめる。春子「前なんかA子なー、教室に唾はいてんでー」、筆者「その時先生はそれ見付けた?、で、拭かせた?」、春子「うん、なんかそれで、A子やってないもんとか言って、他の人のせいにすんねん、自分の近くにいる人のせいにすんねん、ほんで先生がよけい怒んねん」(p.67)

この記述の中で春子は、A子にまつわる単なるエピソードの紹介を行っているというわけではない。春子はここでA子を、規範をことごとく踏み破る逸脱者として構成しようとしている。その構成には春子のみならず、「筆者(=大辻)」の発話も組み込まれている(「教室に唾をはくこと」を、「先生が見付け」「拭かせ」るべき逸脱事象として語っている)が、「筆者」の発話が「先生」をある種の権威者(逸脱を発見し、修復せしめる)として語っているのに対し、春子の発話は、そうした「筆者」の発話を引き取りながらあらためて「先生」をたんなる登場人物のひとりとして組み入れ直し、あくまでA子の規範逸脱に焦点を集中している。A子は、教室に唾をはく「きしょい」奴で、しかもそれを人のせいにする「自己中」な奴だ、それで周りを怒らせる「うざい」奴だ、というふうに。ここで参照されているであろう規範は、それ自体としては通常、不在である。とくに「教室に唾をはいてはいけない」という規範など、いちいち生徒たちがそれによって行動を決定しているということはナンセンスであろう。しかし、にもかかわらずそれは規範である。げんに、誰も教室に唾をはかないし、もしそういうことをすれば「先生」がそれを見付けて「拭かせる」ことが当然のこととして期待されるだろう。その規範の所在と、その規範を守っている(あるいは、規範を逸脱する「自己中」な者によって迷惑させられる)共同体「みんな」とは、ここで春子が「生徒コード」の逸脱例を語ることによって初めて、反映的に − すなわち、逸脱例を描くことによってそれを根拠に規範や共同体の所在が可視化され、同時にまた、「みんな」が守っていることを守れないで「みんな」を怒らせるということを根拠に、逸脱者「うざいA子」が可視化される、というふうに、循環論法的に − 可視化されたのである。
 「「生徒コード」とは、生徒たちが「不在の共同体」の共同体規範を言語的に可視化・定式化したものである」という定義の意味は、さしあたりこのようなものである。

3:「生徒コード」の自己執行 − サブカルチャーの日常的基盤

 「生徒コード」の語りが「不在の共同体」を可視化する、というモデルは、例えばサブカルチャーの観察において、興味深い視角を提起するだろう。「語り」が共同体を可視化するならば、複数のサブカルチャーが競合している際には、それぞれの下位文化共同体の成員性をめぐって、「語り」の次元でのダイナミックスが観察されることが予想されるだろう。この点について、興味深いサブカルチャー研究である宮崎(1998)を読み直すことで素描していこう。宮崎の論考は、自身が以前発表したサブカルチャー研究を、再検討するものである。宮崎は、ある女子高校で参与観察をおこない、宮崎(1993)において、ジェンダー論の視角からそのサブカルチャーを記述分析した:

K女子高校の調査の当初から、生徒たちが決まったグループで多くの行動(移動教室・お弁当・トイレなど)をともにしていることが観察された。生徒たちのグループの形成については、インタビューを通じてさらに明らかになっていった。それによれば、生徒たちは自らをはっきりとした境界をもった「グループ」に区別し、そのグループはおもに「勉強グループ」「オタッキーグループ」「一般グループ」「ヤンキーグループ」という4つのグループに分類されていた。
・・・
それぞれのグループは、はっきりと分化しその分化を強く意識しているだけではなく、お互いに差異化しあいステレオタイプを付して批判し価値付けしあっていた。またグループ同士の対立は、勉強グループが多いTコースと一般グループが多くヤンキーグループのあるAコースとの対立にも結びついていた。
(宮崎(1998),p.283-284)

こうした4つのサブカルチャーの間のダイナミックスを、学校的規範やジェンダー規範との関連において記述し分析した以前の論考について、しかし、宮崎は、次のように再検討に付している:

確かに、グループの特徴は生徒たちにはっきりと意識され、彼女たちがお互いに差異化しあう過程はインタビューでも観察でも繰り返し見られた。そのことは女子生徒の間のサブカルチャーの多様性という重要な知見を提供した。しかし、それぞれのグループは決して全くの一枚岩ではなかった。たとえば、「学校の勉強は役に立つか」という質問に対して、ある一般グループの生徒たちは、いかに学校の勉強が役に立たないかということで盛り上がった。しかし、そのうちの1人がインタビューの後で私に、本当は学校の勉強は将来何らかのかたちで役に立つと思っている、と打ち明けた。この例に見られるように、グループの同一性に注目する分析の仕方は、グループのメンバーの生徒一人一人がどう感じどういうふうに自分の考えを育てていくのか、という問いを無視している。確かに、この例からも分かるように、サブカルチャーの圧力は強く、サブカルチャーを描くことは重要である。しかしそれでもなお、分析はグループの考えに影響を受けたり葛藤を覚えたりしながら価値観や自分観(アイデンティティ)を形成しているのかまでを分析しないことには、どのように階層や人種やジェンダーの不平等が再生産されるのかという問いは完結しない。(p.296)
・・・えみ子は仕事を続けたいと言うが、彼女の説明をそれだけに押し込めてラベルを貼るのは一面的である。グループの同一性に焦点を当て、サブカルチャーが自動的に生徒に内面化すると仮定することが可能であれば、えみ子は、職業志向の強いグループに属し、仕事を続けたいと希望している、ということで説明が済んでしまう。しかし、たとえその単純な図式で大方の傾向が説明できても、サブカルチャーと個々の生徒の性別役割の形成との質的なつながりは説明されない。一人一人の生徒は、実際は仲間集団の文化、学校の中での様々なメッセージや自分の位置、育った家族の価値観、社会の中の女性の地位、メディアの中の女性イメージ、などさまざまなことに強い影響を受けながらも、それらをただ内面化するだけではなく、それらの中を舵取りしながら自分の道を進んでいくのである。(p.298-299)

こうした新たに方向付けられた研究方針が有効かつ生産的であろうことは疑いえないだろう。「一面的」で「自動的」な内面化論よりは、「さまざまなことに強い影響を受けながらも、それらをただ内面化するだけではなく、それらの中を舵取りしながら自分の道を進んでいく」というモデルのほうが、現実に即しているように見える。それはいわば、多面的で戦略的・主体主義的な内面化論、ということになるだろう。しかし、「生徒コード」論は、サブカルチャーの記述にかかわるまた別の研究領域をひらくだろう。
 宮崎の記述は、サブカルチャーの4つの「グループ」が観察された、という点から出発している。この「グループ」は、生徒たちの行動の次元で観察されただけでなく、生徒たち自身がみずからをはっきりとした境界をもった「グループ」へと区別していたという。しかし、「生徒コード」論に即して言うならば、生徒たち自身によるそうした区別の「語り」は、「生徒コード」を語ることによって当該のグループそのものを、共同体として可視化する活動である。グループを異にする生徒たちは、それぞれの規範に照らして互いに互いを逸脱者として描き出す。例えば、つぎの記述は、先に大辻論文から引いた記述の中で春子がA子の行状を描写することによって共同体を可視化したのと同じようなものとして、読まれるべきであろう:

キリコ;生徒会ってさ、ひざ下10センチのスカートでさ、鞄と学生鞄両方の手に持ってたり。
まち子;鞄いまどき厚かったり。
きぬ子;きれいなんだよね、鞄がね。
まち子;で、鞄の中に勉強道具も入ってるけどマンガも入ってるとかね、しかもマンガが目キラキラとかそういうやつ。
ナナエ;髪の毛ベタっぽくて洗ってないんでしょ。かたまりができちゃってんでしょ。わかれちゃってるんだよね。
キリコ;襟元白くなってんの。フケつもって。
きぬ子;1980円ズボンとかね。
(p.287)
ゆり子;ケバイのはいや。近所にケバイひとで同じ学校の人いて、近所の人はコースとか分かれてるの知らないからやだなって思う。共学だったらケバイ人いなくなるんじゃないかな。ケバイ人は自分でいいと思ってる。品がない。やり方がきれいじゃない。(Tコース)
(p.288)

こういった生徒たちによる「語り」は、観察者が安心して採用することのできる中立的な記述ではなく、それ自体がサブカルチャー共同体の規律の自己執行である。だからこそ、ある場合には頼まれも訊かれもしないのに熱心に語られることになる:

・・・「ケバイ」女性性は、グループ同士の批判やレッテル貼りの過程でもっとも激しく攻撃を受ける対象となっていた。Tコースの勉強グループおよびオタッキーグループによるAコースへの批判は、「他のコースとの交流はあるか」と聞いただけで飛び出し、他の質問項目でも度々顔を出す激しいものであった。(p.294)

こうした「語り」は、それ自体が会話内部におけるグループメンバーへの規範の可視化であり、締め付けであり、さらに反映的にグループのメンバーシップそのものの可視化である。こうした会話に参与している者こそがメンバーだ、という反映的な可視化がそこで行われているのである。そうして読み直すならば、先に引用した宮崎のテキストの中に含まれる奇妙な撞着が見えてくるだろう:

ある一般グループの生徒たちは、いかに学校の勉強が役に立たないかということで盛り上がった。しかし、そのうちの1人がインタビューの後で私に、本当は学校の勉強は将来何らかのかたちで役に立つと思っている、と打ち明けた。(p.296;再掲)

この後から打ち明けた1人の生徒は、そもそもいかなる意味において「一般グループ」のメンバーだったのだろうか? あるいは、グループのメンバーシップとは、そもそも何なのか? あるいは、そもそも、グループとは何なのか? 宮崎の記述 − グループのメンバーが、グループの「圧力」の影響を受けながら、実は同時に、「葛藤を覚えたりしながら」「価値観や自分観を形成」するのだ、という − は、じつはそもそも「グループ」というものの観察可能性に依存している。「グループ」というカテゴリーが観察可能である限りにおいて、その「圧力」やそれに対する「葛藤」を観察することが可能になり、さらにそうした構図を「家族の価値観、社会の中の女性の地位、メディアの中の女性イメージ、などさまざまなこと」について多面的に反復重合していくことによって、その間隙において、「それらの中を舵取りしながら自分の道を進んでいく」主体というカテゴリーに理論的な位置を与えることが可能になるのである。
 このことは、宮崎の論考が「グループ」というカテゴリーの恣意的な押しつけという理論的暴力によって成り立っているということを意味してはいない。むしろ逆である。「グループ」というカテゴリーを恣意的かつ暴力的に自らに押しつけているのは生徒たちのグループそれ自身であり、宮崎が指摘するように、生徒たちこそがもっとも「お互いに差異化しあいステレオタイプを付して批判し価値付けしあって」いるのだ。そうであるからこそ、そのグループのカテゴリカルな同一性そのものに注目することには、宮崎が考えている以上の意味があるだろう、というのが本稿の「生徒コード」論からの提案である。宮崎が「サブカルチャーの圧力」の一語で表現した現象は、おそらく、それ自体が注意深い観察と分析に値するものである。そうした「圧力」が行為者の行為に影響を与えるとすれば、それは一面的・自動的であるか多面的・戦略的・主体主義的であるかはともかくとして「内面化」という経路で行われているというより、むしろ、生徒たち自身による「生徒コード」を用いた日常的な相互行為によって、その自己執行的な同一化と排除とのダイナミックスによって、不断に生み出されている。それを一言で「圧力」「内面化」と約言することの上に可能となる社会学的分析がある一方で、そうした分析とは通約不能で非対称的に異なる社会学的分析の領域が存在し、「生徒コード」論はその領域を開くと思われるのである。

4:おわりに

 以上、本稿では、「生徒コード」概念を再検討し、不在の共同体規範という視角からの再定義を提起した上で、その開示するであろう研究領域の素描までを試みた。現在、制度としての学校教育システムが機能不全を起こし、校則をはじめとする制度的・形式的な秩序化装置が十全に機能しえなくなってきているとするならば、生徒集団自体による共同体的な秩序化のメカニズムとして、「生徒コード」が自己執行される領域は重要な役割を果たすことになるだろう。本稿でできるだけ簡潔に描くことを試みた図式を、具体的なデータの分析によって肉付けしていくことが、次の課題になるだろう。

【 文献 】

ガーフィンケル,H.(1967=1987)「アグネス、彼女はいかにして女になり続けたか − ある両性的人間の女性としての通過作業とその社会的地位の操作的達成」山田・好井・山崎編『エスノメソドロジー』せりか書房 所収
稲垣恭子(1989)「教師−生徒の相互行為と教室秩序の構成 − 「生徒コード」をてがかりとして」『教育社会学研究』no.45
石飛和彦(2001)「教育問題と逸脱 − 「いじめ」をめぐる言説の布置」柴野編『文化伝達の社会学』世界思想社 所収
宮崎あゆみ(1993)「ジェンダー・サブカルチャーのダイナミクス − 女子校におけるエスノグラフィーをもとに」『教育社会学研究』no.52
 − (1998)「ジェンダー・サブカルチャー − 研究者の枠組みから生徒の視点へ」志水編『教育のエスノグラフィー 学校現場のいま』嵯峨野書院 所収
森田洋司=清永賢二(1994)『新訂版 いじめ 教室の病い』金子書房
大辻秀樹(2000)「「いじめ」の実践的行為の観察可能性 − 小3女児による「シカト」場面解読の試み」『公民論集』no.9、大阪教育大学公民学会
ウィーダー,D.L.(1974=1987)「受刑者コード − 逸脱行動を説明するもの」山田・好井・山崎編 前掲書 所収