日本教育社会学会(U−1「理論研究」部会)
発表レジュメ 1994/10/8/15:35〜
社会問題の存在論と政治的言説
発表者:石飛和彦(京都大学研修員)
0:はじめに
価値中立性の問題は、現代社会学の出発点以来つねに問われ続けている最重要問題である。それは、社会学者が社会現象について思考する際に特定の社会集団の価値観に由来するバイアスが分析枠組を歪める危険性をめぐる問題として提起されてきた。本発表は、この問題をめぐる最近の(すなわちいわゆる「解釈的パラダイム以降」に位置付けうる)議論として「構築主義的社会問題論」の動向を参照しながら、従来「価値」の問題として捉えられてきたものをむしろ「言説の機能」の問題として捉え直しその解決を探ることを目的としている。
1:「構築主義」
キツセ=スペクターの提唱した「構築主義」的アプローチは、今や、社会問題に対する有効な社会学的研究プログラムとしての評価を確立している。「構築主義」が従来のアプローチと異なるのは、研究対象として社会問題のどういった側面に焦点を当てるか、という点につきる。すなわち、ある社会問題(例えば「帰国子女問題」「校則問題」など)が研究される場合、従来のアプローチが注目するのが「問題と見做されている実態」そのもの(例えば「帰国子女の抱える困難の様態」「校則を押し付ける学校の体制」など)であるのに対し、「構築主義」が焦点を当てるのは、誰がどのようなやりかたでその問題を問題と見做し「クレイム申し立て」を遂行しているか、という次元に限定される事になる。キツセ=スペクターは言う:
われわれは、社会問題を定義するにあたって、社会のメンバーが、ある想定された状
態を社会問題と定義する過程に焦点をあわせる。したがって、社会問題は、なんらかの
想定された状態について苦情を述べ、クレイムを申し立てる個人やグループの活動であ
ると定義される。 …
社会問題の理論の中心課題は、クレイム申し立て活動とそれに
反応する活動の発生や性質、持続について説明することである。
われわれは、状態の理論ではなく、クレイム申し立て活動の理論を築き上げることに
関心があるのだ。したがって、われわれにとっての客観的状態の意義は、その状態につ
いて主張がなされているという点にあるのであって、たとえば科学者の場合のように、
ある独自の見地から、その主張についての妥当性を判断することにあるのではない。状
態の考察への後戻りを防ぐために、状態そのものの存在さえも、社会問題の分析にとっ
ては関わりのない、外的なものであると考えたい。想定された状態が存在するかどうか
については、関知しない。
このような「実態」分析への禁欲(=エポケー)と「クレイム申し立て」の組織的活動の分析への焦点づけという認識論的転換の根底には、冒頭に述べたいわゆる「価値中立性」の問題があるといえる。というのも、キツセらによる「構築主義」の提起は従来の「社会病理学」的あるいは「機能主義」的アプローチへの批判すなわちそれらが常に「実態」にかんする暗黙の「価値」を分析枠組の中に密輸しながら語っており特に多くの場合「クレイム申し立て集団」の「価値」に引きずられてしまっている事への批判を通して行なわれてきたからである。
2:「存在論的な恣意的領域画定」
以上のようなやり方で「構築主義」は多くの経験的研究を蓄積しているが、エスノメソドロジストのウールガー=ポーラッチは、それら「構築主義」の諸論文を収集・分析し、そこから「構築主義」に特徴的な言語運用(要するに「話のもっていきかた」)のパターンを抽出し問題提起を行なった。「構築主義者」は、社会問題の@「実態」とA「その実態を定義する人々の組織的活動」、というふたつの次元のうちAだけに分析の焦点を絞り込み@をエポケーしている、と主張している。ところが実際に社会問題からAの部分だけを抽出して議論の俎上に乗せる為には「構築主義者」は、@の部分の方は議論の俎上に乗せるに値しないとあらかじめ宣言しておく必要がある。ウールガー=ポーラッチがパターンとして抽出したのは、そうした宣言を「構築主義者」が達成しているその方法ということになる。具体的にはその方法とは、社会問題の「実態の不変性」と「人々による定義の変化」の対比、というものである。ウールガー=ポーラッチは言う:
例えばスペクター=キツセは次のように述べる。1930年代にはマリファナは危険なだ
けでなく嗜癖性があるものとして公式に定義されていた。しかし、1960年代にはマリフ
ァナはもはや嗜癖性を持つものと分類されなくなった。そこから彼らは、この定義の変
化によってある一連の社会学的な問いへと導こうとする。「マリファナそのものの性質
からは、この定義の変化は説明できない。マリファナの性質にはこの30年のあいだに変
化はなく、したがって、定義の変化の説明要因は他に求められなくてはならない。実際
このマリファナの「性質」は、その嗜癖性非嗜癖性のいずれの定義をも充分に説明でき
ない。ふたつの定義を説明するためには、さまざまなグループがもった考え方、彼らが
用いた嗜癖性の概念、彼らがそうした見方を裏付けるために用いた証拠の種類、彼らが
自分たちの定義を受け入れさせるために使った政治的戦略と戦術、そしてこれらの定義
を制度化するために政府機関が与えた支持などに目を向ける必要がある」
プフォールは、次のように述べることによって、状態の性質を固定する:
「子供の殴 打が昔から行なわれていたという証拠が記録として残っているにもかかわらず、逸脱と
しての児童虐待の「発見」・またそれを犯罪と見做す見方は最近の現象である」。彼は
また、児童虐待問題の規模を固定するために、『スタンフォード・ロー・レヴュー』誌
の記事を傍証としながら「虐待行動が実際に増大したという証拠は全くなかった」と論
じるのである。いずれにおいても、そうした証拠の性質や適切性それじたいは論じられ
ていない。 …
それは信じられるべきものとされ、[「状態」と「定義」との]対比
を言うための客観的な試金石とだけ見做されるべきものとされているのだ。
すなわち、「構築主義者」は、@の分析を避けようとするまさにその瞬間に、逆に、@への「客観主義的」な言及を(しかもしばしば暗黙のうちに)行なっている。これがウールガー=ポーラッチの着眼点であり、彼らはそれを「存在論的な恣意的領域画定」と呼んだのである。先に確認したように、従来のアプローチから「構築主義」へのパラダイム展開は、「社会問題の「実態」を、客観的に実在するものと見做すか否か」という「存在論的問題」についての態度変更、まさにこの一点にかかっていたといえる。ところがウールガー=ポーラッチは、「構築主義」がクリアしたと思われていたこの「存在論的問題」をあらためて視界に浮上させることとなったのである。
3:社会問題の存在論と政治的言説
ここで浮上しつつある課題は、社会問題の存在論をいかに扱うか、という問題である。「構築主義」は、それを「エポケー」というやりかたで処理しうると考えていた;すなわち、「問題」(例えば「帰国子女問題」「校則問題」)は本当のところ、存在するのか、それとも幻に過ぎないのか、という問いに対しては、「存在するかもしれないし幻かもしれない」という形で態度を保留した上で、その「実態」とは別の次元に研究領域を設定することによって解決しうると考えていたのである。ところがじっさいにそうして研究を実践していくと、そのような「エポケー」だけでは対処が困難であるような現象が起こることになる。事例を見てみよう。
日本の「帰国子女問題」に関する「構築主義」的研究の論文の中でキツセ=村瀬=山村は(「構築主義」のパターンを反復しつつ)次のように語り始め、議論を進めていく:
アメリカ人の視点からは、帰国子女を特別なカテゴリーの生徒と見做す教育的差異化
は不思議に思われる。 …
どのようにして、それらの子供達が、その育った国の言語
・文化・歴史の相違にかかわらず、「過度に攻撃的」で・個人主義的で・奇妙な振舞い
を堂々と行なう、といったふうに特徴づけられるようになったのだろう?
そしてどう
やってまたその同じ子供達が、海外滞在中に身に付けた新しい視点や志向を伝え教育シ
ステムひいては社会全体を「国際化」する可能性を持つ者として特徴づけられるという
ようなことが起きるのか? …
アン・村瀬による前述の研究は、「帰国子女」が経験すると想像されていた「適応問
題」を体系的に検討しようとする唯一の調査であった。厳密な調査デザインによって、
「帰国」生と海外体験を持たない生徒との間の比較をしたところ、そのデータからは、
「帰国子女」が一般に言われるような困難・不安を抱えた生徒ではないということがわ
かった。逆に、修正版「一般不安テスト」への回答は、両群間に有意差がないことを示
した。
ここに見られるのが典型的な「恣意的領域画定」であることは言う迄もない。引用文中の「アメリカ人の視点からは」という部分は、いわば、未開人に対する人類学者の位置に視点を設定する働きを示している。そして、「その同じ子供達が」という語を挿んでふたつの「帰国子女」定義を併置するというレトリックは「状態の不変性に対する定義の可変性という対立の強調」という働きを示す。さらに、「状態」の客観的無根拠性を証拠だてるためにひとつの調査研究を参照し、それを「唯一の」「厳密な調査デザイン」による調査として権威づけた上で、「一般に言われるような…ではない」「両群間に有意差がない」という客観的言明を導きだしているのである(言う迄もなく、ただ一回の・しかも限定された調査や心理テストの結果が「帰国子女」の状態に関する通念の全体を覆しうるという印象はそれ自体としては錯覚に過ぎないのだが)。
むろん、こうした「恣意的領域画定」そのものは、「構築主義」論文を成立させるためには避けることのできない言語運用の一形式であって、それじたいが誤っているというわけでは決してない。しかしながらその「恣意的領域画定」は、ある種の「価値」を帯びた言説を引き寄せる危険性を抱えている:
[在外勤務者子女対策懇談会の]議長は、二人の子供を連れて最近ワシントンのポスト
から帰国した外交高官W氏だった。彼は、ミルズ流のやり方で、[日本の]学校職員と
の衝突のフラストレーションという個人的な経験を公的な問題へと変換した。
この印象的な記述の内容の真偽を問うことはさしあたりの課題ではない。ただ、このような認識論的に素朴な(あたかもW氏が私情のままに「帰国子女問題」を捏造した、あるいは捏造し得た、と読みうるような)断定が、他ならぬ「構築主義者」によってなされているということが重要である。そして、このような専断は次第にひとり歩きを始めその輪を広げていく。キツセ=村瀬=山村論文を下敷きに帰国子女研究を行なった人類学者のグッドマンは次のように主張することになるだろう:
受け入れ校や大学入学の特別枠 …
の設置は、こうした子どもたちに何か特別のこと
をしてやらなければならないという感情から自然にできてきたものではなかった。
…
そもそも親たちが支配層に働きかけることができたということは
… 一つの要素に依
っていた。すなわちそれはその親たちの階級的な地位であった。
さらに、グッドマンの著書を邦訳した訳者は「訳者あとがき」でこう書くことになる:
訳し終えて、帰国子女の大学入学特別枠は改めて過剰な優遇措置であると考えこんでし
まった。「帰国子女の問題」について根拠の無い大前提が一人歩きをしてしまい、それ
が受け入れ校や特別枠、海外の日本人学校や補習校の無批判な増殖を招いていく過程は
まことに恐ろしいものである。
このようにして、「構築主義」的研究は、当初の理論的自己規定を裏切る形で、しだいに社会問題内部の政治的言説の中に巻き込まれていく。「帰国子女問題」は、本当のところ存在するのか・しないのか。ここでいう「社会問題の存在論」は、このように単純で日常的な(しかし当事者にとっては最も本質的で切実なすなわち「政治的な」)問いに集約される。「構築主義」はこの問いを単に議論の表面から排除=エポケーすることだけで満足し、そのために欠陥を抱えることとなった。すなわち、価値中立的であるはずの「構築主義」の議論が、あたかも一定の社会集団の見解(「帰国子女問題は本当には存在しない幻で、エリート集団の利己的なクレイム申し立てが帰国子女に対する過剰な優遇政策を引き出している現状は恐ろしいかぎりである」といった見解)に与するものであるかに受け取られ、そうした政治的言説の内部に引き込まれていくのである。この現象が先に指摘した「存在論的な恣意的領域画定」の働きによるものである事は言う迄もない。
もう一つ事例を挙げよう。次に引用するのは、中河=永井によって編まれた、子供をめぐる様々な社会問題に関する「構築主義」的著作、に対する書評(徳岡(1994))である:
…構築主義の「レトリック」の切れ味を納得させるためにこそ、厳然たる「実態」を想
定しにくい「有害性」という領域が俎上にあがったのであろう。…しかし、やはり規制
・対策を論じる場合には、レトリックだけではなく、子どもの「実態」をも視野に入れ
ざるを得なくなるのではないか。
叩く側だけの変化に注目する場合には、モグラの行動のみに注意してきた伝統的視点と
同様の過ちを冒す危険を孕む。構築主義の立場からは、ターゲットや言説の変遷は、…
いずれにしても子どもの「実態」以外の社会的背景要因で説明されることになろう。と
すれば、不可知論を前提に、「実態」に迫る努力を回避しているかの印象を与えかねな
い。大袈裟なワニ捕獲作戦を皮肉ることは簡単だが、ワニが本当に逃げ込んでいるのか
否かを見極める努力を笑うこともできまい。
続いて、編著者らによる「書評に応えて」から引用してみよう:
…コンストラクショニストは、社会問題の過程を理解するにあたって「実態」を考慮す
る必要がない、などとはいいません。ただ、「実態」の捉え方が評者と違うのです。
わたしたちは、ワニ探しはもちろんのこと、「子どもの実態」を見極める努力について
も、皮肉ったり笑ったりしません。そうした営為は、構築主義者にとって大切な研究対
象だからです。
構築主義者は「学会内部での本領安堵」に安住したがっている、と評者はいわれます。
しかし、 … 性急な政策的関心から距離をおいて、学会内部でしかできない営為をち
ゃんと積み重ねようという提言は、こと社会問題研究についていえば、かなり妥当だと
思います。もちろん、そうした営為もまた、社会での「子ども」をめぐる言説のポリテ
ィクスの「循環構造・循環過程」の外に位置するものでないことは、重々承知していま
す。 … しかし…「客観性」というオールマイティ・カードを片手に、社会問題のポ
リティクスのプレイヤーになるという従来の研究者の立場に、もう戻れないことだけは
明らかです。
この「論争」は、一見、「構築主義」側に分があるように見える。確かに、「解釈的パラダイム」以降の理論的風土の中にあっては、「実態を見ろ」という言葉より「客観的実態は存在しない」という言葉のほうがより正しいからである。しかし、注意しなければならない。編著者の応答は「構築主義」のもっとも基本的な方針の説明を繰り返しているに過ぎず、おそらくそのすべてを評者はあらかじめわかった上で、敢えてこのような形で批判をしているのだ(評者は、「「周回遅れ」の無自覚な「実態」主義を正当化しようと意図したものでない」と断っている)。これは、どういうことか。
結論をいうならば、この「論争」は、正確に言えば、論争ではない。評者が巧妙なやり方で指摘しているのは、「構築主義」が論理的「正しさ」を追求する際に周囲に発散している奇妙に価値づけられた「印象」についてである:「不可知論を前提に、「実態」に迫る努力を回避しているかの印象を与えかねない。大袈裟なワニ捕獲作戦を皮肉ることは簡単だが、ワニが本当に逃げ込んでいるのか否かを見極める努力を笑うこともできまい」。「皮肉る」「努力を笑う」という表現が評者によって選択されているということに注目せねばならない。評者が本当に問題としているのはこの「印象」なのだが、この「印象」というやつは、当の本人を問いつめてみても埒があかないのである:「わたしたちは、ワニ探しはもちろんのこと、「子どもの実態」を見極める努力についても、皮肉ったり笑ったりしません」と言われれば、論理的には、それ以上追求することはできない。
にもかかわらず、もし誰もがそのような「印象」を受け取ってしまうとするならば(そして、それだからこそ、評者が敢えて「周回遅れ」を模倣しようとすることにもなるのだが)、それは「構築主義」じたいの問題と言うほかはない。現に、ここで引用したような「批判」は、じつは「構築主義」が話題になるとき必ず口にされるものなのだが、それに対する有効で生産的な「応答」を「構築主義者」は準備できておらず、だからこそいつまでたっても同じ「批判」を誘いつづけている、というわけなのである。
問題は、従って、今や、社会学者自身の思考に巣食う内面的な「価値観」をめぐるものではなく、社会学者が流通させる「言説」が社会問題の政治的言説空間全体の中で果たす「機能」をめぐるものとなっているといえる。それは、いわゆる「解釈的パラダイム」以降の理論的文脈の中で一元的な「客観的世界」の「存在」を否定するという立場に立ちながら同時に「現実世界」に向かって
−
つまり、「リアリティの多元性」など簡単に認めてくれる訳ではない頑迷な常識的聴衆に向かって
−
言説を産出し流通させねばならない現在の社会学の抱える困難に由来している。
では、どうすればいいのか。事態は既に、社会学者が個人的に価値自由の理念を堅持しているだけでは解決しない。構築主義のように「エポケー」を強調しても解決しない。グールドナーのように(あるいは「ブルデューのように」)自らの社会的地位に由来する価値観を自己分析することによっても解決しない。ではゴフマンのように日常的些事の分析に自己限定し「社会的問題」に背を向けるか。あるいはバーガーの「覗き趣味」のように韜晦によって自らの言説の責任を回避するか。あるいはベッカーのように「負け犬の側に立つ」と宣言してしまうか。
ウールガー=ポーラッチによって指し示されたエスノメソドロジカルな戦略は、いまひとつの解決策を指し示している。すなわち、社会問題の政治的言説空間の只中にあって発話しつつある成員(あるいは社会学者自身)の言説の様態そのものの自己分析、特に、社会問題の政治性の最大の争点である「存在論」をめぐる言説(ガーフィンケルの術語で言うところの「ワーク」)の分析が、その戦略の内容である。「ワーク」の分析によって、「リアリティの多元性」そのものを「現実世界」に向けて産出し流通させる事が、そこでの課題となるだろう。これが本発表の提案である。
【 文献 】
石飛和彦 (1994)
「社会問題の存在論とエスノメソドロジー的アプローチ
− 帰国子女問題研究を事例として」『ソシオロジ』vol.39,no.1.
J.I.キツセ/M.B.スペクター (1977=1990)
『社会問題の構築』
Woolgar,S. & Pawluch,D (1985) "Ontological
gerrymandering:The Anatomy of Social Problems Explanations"
in Social Problems vol.32.
Kitsuse,J.I.,Murase,A.E.,& Yamamura ,Y. (1984)
"Kikokushijo:The emergence and institutionalization of an
education problem in Japan" in Shneider &
Kitsuse(eds.),Studies in the Social Problems.
R.グッドマン (1990=1992) 『帰国子女 −
新しい特権層の出現』
徳岡秀雄 (1994)
〈書評〉中河・永井編著『子どもというレトリック−無垢の誘惑−』『ソシオロジ』vol.38,no,3.
なお、引用文中の[]内は引用者。強調は原著者によるものと引用者によるものがある