「しつけ会話」のエスノメソドロジー
− 社会化論とそのメタ理論 −
石飛和彦
An Ethnomethodological Study on a
Parent-Child-Conversation
-The Socialization Theory and its Metatheory-
ISHITOBI Kazuhiko
* はじめに:社会化論的問題設定について(1) *
社会化論は、社会学の理論的布置の中で今なお特権的な位置付けを主張している。
例えば、子供が大人になる、という現象はごくありふれたものである。あるいは例えば新入社員が一人前の社員へと育っていく、という現象を見てもいい。これらの具体的ないわゆる「社会化現象」の研究は、社会化論のテーマである。しかし、それだけであれば、社会化論は、例えば同様にありふれた諸現象(例えば大人がやがて老いていく現象とか、中堅社員が壁に行き当たって転職を考え懊悩する現象、あるいはよりありふれた、例えば人が歌を唄うとか散歩をするといった諸現象)についての研究の一亜種に過ぎないことになるはずだ。もちろん我々は、社会化論を老化論・転職論・歌唱論・散歩論と同列に見る事はない。言い換えれば、社会化論という問題設定は、我々の属する社会学の理論的布置の中では単なる社会化現象研究にとどまらないものとして特権化されているのである。
では、社会化論的問題設定の特権的課題とは何か。それを例証するために、例えばクローゼン(Clausen(1968))による次のテキストを辿ってみよう:
人間社会は、その成員間のある程度の合意 −
追求されるべき目標あるいは目標達成のための手段に関する合意
−
に依存している。合意はコミュニケーションを通じて生じる。それは共有化されたシンボルや規範によって可能になるが、そのシンボルや規範は社会化のプロセスの一部として獲得されたものである(p.3.)。
このテキストは、社会化論の全盛期である1960年代後半に編まれたリーディングスの一冊から引いたものであり、編者クローゼンによる序文の冒頭部である。クローゼンの筆の運びに注目するならば、ちょうど映画のキャメラが主人公の顔を画面いっぱいにズームアップしていくように、社会化論という問題設定が議論の前面へと浮上してくる様が読み取れるだろう。同時に、社会化論が、単なる社会化現象研究である以上に、社会学理論にとって最も根本的な謎すなわちおよそ「社会なるもの」の存立の謎(いわゆる「秩序問題」:人はなぜ自由でありながら同時にルールに従って行為し社会秩序を成立させ得るのか)を解決する鍵として追求されていた事がわかる。クローゼンのテキストに例証されているように、社会化論的問題設定は、社会化現象へズームアップすることによって、社会の存立の秘密はまさに子供の社会化プロセスの内にある、社会化現象に注目せよ、それを秩序問題への解として読め、と命じる規範的な制度的文脈と相関しているのである。
本稿は大きく二つのパートからなる。A章においては、筆者自身によって採録されたある会話データを紹介し、それを分析する。B章においては、社会化のメタ理論的考察を踏まえて、A章の分析そのものを含む社会化論の再解読を試みることになるだろう。
*
A章:車内空間における親子の「しつけ会話」の分析
*
1:データの呈示(2)
採録日時:'87/ 6/21 (Sun) 4:00pm
採録場所:H電鉄電車車内
K駅〜終点S駅(所用時間約11分)
A:男児、幼稚園就園前? B:その母親、20代?
駅名、人名は仮名。***は聴取不能部分。一行空きは会話のなかった部分を示す。
A:(窓のほうを向いて)見えないよー
B:ん?
A:見えない
B:見えないて これからやもん
はしってから***
A:***この電車
B:今な ちょっとな
待ってくだしゃいって言ってんの もう …
A:***…
B:***したねえ ねむたかったのかあ
A:うん
B:ねむたかったのかあ
A:うん
B:ふんでウエーンウエーンないたのかあ
A:ウーン
B:そうかあ
A:ジューシュ飲む ここ売ってないかなあ
B:うーん ジューシュ買うたる
A:ここ売ってないのん?
B:ジューシュ買うたる
ジューシュはここ売ってないな
A:*** …
(隣席の客がブラインドを閉める)まぶしいー
まぶしいよーここ
B:まぶしないやん おひさん隠れたやん
A:いややー ***
B:これ隠したらカッちゃんおそと見えないよ
いいのかー? 閉めたらお外もう何も見え
ないよ あ あ *** 気にしてはるやん **
何にも見えないよ いいのか?
見えなくてもいいの? (閉める) いいの?
見えないよ いいねやな
A:これでいいの
B:これでいいの? いいの?
A:***… ジューシュ飲むからあ
B:まだジューシュは無いから な
ジューシュ無いもん今は 言うたえしょ(orでしょ)
電車ん中は売ってないて
A:** ゆうたでしょ? えしょ、か
B:えしょ?
A:でしょ?
B:でしょ?
A:(笑) ここは(orぼくは)売ってないもんここは(orぼくは)
B:ジューシュは売ってないの
A:うらんといて
B:(笑)何が?
B:あ 勝也またちゅめ(爪)のびてきた
ちゅめ切らんと … ママねえ** いっしょ
にちゅめ切ろな ぱっちんしよな ちゅめこんなん
***になっちゃった
A:***
B:きれーやな
A:きれー
B:チョキンチョキンしなあかん パチンパチン
(S駅)ちゃんとお座りしててよ
(電車はS駅の手前から地下路線に入っている)
B:はーいいわ 後ろ見てみ **さん出ない…
S(駅名)** Sの次はどこや?
A:カイ?
B:O(駅名)
A:O(駅名) **でー O(駅名繰り返す)
まっくろけ***
B:まっくらけやなー まっくらけー
まっくらけーとー…
まっくらけーのーカーツーヤ
A:ここはジューシュ売ってないのーここはー
ジューシュなかったなー ジューシュ売っ
てないのかなー
B:ちゃーんとしてへんやったらジューシュ買ってあげないよ
ちゃんとおしゅわりしてた
らジューシュ買うたる
A:ここ**
B:***… (バッグからミニカーを取り出す)
A:(ミニカーを自分や母親の膝で走らせる。)**なくなるわー
***たら ウーウー
(ミニカーを動かす) ここ痛いなー
B:痛いか?
A:ママも痛ないか?
B:痛ないよ
A:***…***ないからなー ***… イタ
B:イタ (笑)痛あー
A:ママー? ママー? 何怒ってんのー
B:んー?
A:何怒ってんのー?
B:怒ってないよ ***ったら怒らないよ
A:どこいくのー …いーよっ いーや ***…
B:いいことない ちゃんとし …
A:ウルサイモー ママウルサイノッ
B:そんなこと言うんやったら***…
A:ごめんなさーい
B:なんにも***らない
A:ごめんなさーい … ***ない ***ない
***とちゃう** …わかんない
わかんない ***うまれたからやー
そーして** *なあかんわー
B:そーかー
B:(終点S駅)はい勝也おりるよー
以上が本稿で扱う会話データの全トランスクリプトである。この会話テキストからは、その会話現場で起こったであろう様々な事柄を読み取ることができる。例えば、この会話の録音テープを大学生に聴かせ感想を集めた際に次のような「読み」が報告された:
・母親が子供の話し方に合わせて”ジューシュ”とか”ちゅめ”などと言っているところが、子供と同じ立場に立って話しているように思えてほのぼのとしていた。
・子供を相手にしているせいか、”ウェーンウェーン””チョキンチョキン””パチンパチン”といったように音を2回くりかえして言っているのが多いなと感じた
… 11分の間に、あらゆる物について会話されているけど、親が子供のとる行動をすべて見ているのがわかる。子供を中心としての会話だ!
・このての会話は電車通学している関係もあって毎日のように聞いているが、大まかな内容は違っていても、どの会話も、この資料のように子供のペースで会話が成り立っている。中には母親がめんどくさがって「静かにしなさい!」と手を出して、ギャーギャー泣かしてしまうこともあるが、だいたいが母親の「がまん」で会話を続けているように感じとれる。
・この会話から、コミュニケーションのよくとれた親子だろうなと思いました。母親も比較的おだやかで子供の性格をよく理解している人だと思います。それでいてしっかり言ってきかせないといけない場面では母親らしい態度を示しているし、なかなかしっかり者のような気がします。
・子供はいつも突然直前に話していたこととは関係のないことをしゃべりだす。それを母親はちゃんと優しそうに応答する。次の駅を子供に尋ねたりして子供に「考える」ことの楽しさなどを教えているような気もした。また「歌う」ことについてもそうだと思う。怒ったときには、大人はたいてい「〜だったら…してあげる」「〜しなかったら…してあげる」というほうびなどを与えることによって、子供に約束を守らせることが多いと思う。子供は自分の感情のみで生きている時期だから、このような叱りかたをするのだと思う。
・会話の中で、ブラインドを閉める時の他の客への微妙な心づかいが見うけられる。また、つめを切るとか、ちゃんと座るというしつけを述べている事にも注目すべきことだと思う。
無論、これらの「読み」が全学生の意見を代表しているわけではない。しかし、我々は、多くの学生とともにごく自然に、この会話が何ら特殊なものでない自然な親子の会話であり、しかもその中に様々な次元での「しつけ」ないし「教育」ないし「社会化」のテーマを読み取ることが可能である、ということを了解するだろう。さらにそれだけでなく、具体的にそれがどのようなタイプの「しつけ」であるかも読み取ることが可能である。我々は、感想レポートを書いた学生達とともに、ここに登場する母親の子供に対する働きかけが典型的な「目に見えない」あるいは「児童中心主義的」な(Bernstein(1975=80);King
(1978=84))しつけ発話であるように受け取ることが出来るだろう。繰り返しジュースを欲しがる子供に対して母親は、直接的な統制を極力回避し(すなわち「静かにしなさい!」と「手を出し」たりせず)、「子供中心に」「がまんづよく」「おだやかに」「母親らしく」ジュースが今ここに売られていないという「客観的な状況枠組」を子供に呈示した上で判断を子供自身に委ねようとしている、とごく自然に読めるはずで、またそれが「ほのぼの」という全体的印象を与えているのだと言える。
無論、「イヤ、私にはこの母親が「しつけ」をしてるようにはゼンゼン見えませんね。彼女は周りの乗客の目を気にして「しつけ」のフリをしているだけかもしれない」という意見もあった。しかし、この批判的読者は我々の感想を補強しているに過ぎない。なぜなら、その「読み」自体の中に、この会話場面で、@周りの客が母親に子供への「しつけ」を当然要求し得るししているはずだということ;A母親のこれらの言動が(本心からか否かはともかく外見上は)「しつけ」の印象(フリ)を読者に与え・他の乗客に与え・なおかつ母親もそのことを知っているはずだということ;B母親は周りの客の要求に応え「しつけ」をするべきと感じてはいるということ、そしてそのフリだけとはいえともかく何らかの行為を行なっていること、が「実際におこっている」という印象が含まれているからである。言い換えれば、この種の「批判的読み」は、この会話テキストの中にあらわれている「しつけ」の印象の存在を認めながら、その背後に「母親のしつけ意図(の不在)」を外挿することによって否定的読解の「否定」性を支えようとしているに過ぎない。
いずれにせよ、「しつけ」の印象がそこに存在していることが同定されたならば、この会話テキストは社会化論的分析の対象となり得ると言える。なぜなら、実際的に言って、母親の意図なるものは、それが外面(すなわちここでは会話テキストの文面)に出てこないものである限り、子供の目にも映っていないはずだから社会化現象の成否に影響を与え得ないからである。無論、この会話場面で母親が実は、この会話テキストに文字化されない形で、例えば身振りだの筆談だのを駆使して子供に情報を送っていたと想定することは可能ではある。しかし、我々の多くがこの会話テキストだけ読んでごく自然な「しつけ」の存在を十分に読み取ることができる以上、身振り等のデータをさらに要求する必要はない。我々はこの会話テキストだけから社会化現象を再構成することが可能であるし、社会化論の課題である「社会的秩序の問題」あるいは「社会的ルールの内面化」のプロセスといったものも具体的な例えばこの会話テキストの中に(少なくとも何らかの形で)読み取り得る、と言うことができるのである。
2:会話の社会化論的分析
本稿では以下、会話テキストのなかでも特に「ジュースのテーマ」と呼び得る主題をめぐる4つの部分に注目し分析を進めることにする。その方針は以下の通りである。最初に個々の会話における親から子供への発話が暗黙に用いている「常識的知識」の析出を行なう。先のクローゼンのテキストに主張されていた通り、社会化のコミュニケーションの成立には、コミュニケーション参与者達に(すなわち子供の側にも)「シンボルや規範」が共有されていることが前提となっているはずである。ここではそれを常識的知識と呼びそのいくつかを析出する。実際にこの子供がその常識的知識を所有しているか否かとは別の問題として、この常識的知識の析出には意義があるだろう。その上で、より広い会話コンテクストにおいて親が用いている常識的知識の析出を行なう。結論をあらかじめ述べておくならば、それは〈車内ルール〉と命名され得るものである。このルールへの明示的言及は、会話テキストの中では親の最後の手段として初めてなされる。しかし、このルールはそれ以前の親の働きかけにも暗黙のうちに底流している、という仮説が提示される。その上で、A.V.シクレルの議論を参照しながら、社会化論の根本的主題すなわち社会的ルールの内面化と社会的秩序の維持について論及することになるであろう。
2−1:個々の会話における常識的知識の析出
(会話・1 A:子供 B:母親 )
A:ジュース飲む ここ売ってないかなあ
B:うーん ジューシュ買うたる
A:ここ売ってないのん?
B:ジューシュ買うたる
ジューシュはここ売ってないな
この会話では下線部の発話が問題である。なぜなら、この言葉は字義的には矛盾している(「売ってない」ものを「買うたる」?)。この矛盾が解決されるためには、下線部の前半「ジューシュ買うたる」と後半「ジューシュはここ売ってないな」の間の一般性のレベルの違いが認識されねばならない:後半の言葉はよりここに限定されているのに対して、前半の言葉はより一般的な方針を示すものである。さらにその為には「ここ」=電車車内という指示関係が認識されねばならない:なぜなら、「ここ」と「日本国内」或いは「出口付近のこの座席」との結びつきは、可能であるにもかかわらず、この場合発話の意味をナンセンスなものにしてしまうからである。この発話をそのまま矛盾したものとして捉えている限り、子供はジュースを買ってもらえるという確信(保証)を得られない。
(会話・2)
A:ジューシュ飲むからあ
B:まだジューシュは無いから な
ジューシュ無いもん今は
言うたでしょ電車ん中は売ってないて
この下線部三ヵ所は、先の矛盾の解消への手掛りの明示化と見ることができる。これらの限定が先の発話の「ここ」の背後に常識的知識として含まれていたことは、母親による発話「言うたでしょ」に顕らかである。しかし、先の発話では明示的だった「ジューシュ買うたる」にあたる部分が(自明のものとして)言葉の表面から省略され、その部分は専ら子供の解釈によって補われねばならなくなっている。むしろ言葉の表面上は、「ない」の繰り返しであり、ここでも子供はジュースを買ってもらえるという確信を得られない。
(会話・3)
A:ここは(orぼくは)売ってないもんここは(orぼくは)
B:ジューシュは売ってないの
A:うらんといて
B:(笑)何が?
この下線部では「ジューシュ買うたる」だけでなく「まだ」「今は」「電車ん中は」も言葉の表面から省略され、字義だけから判断する限りすでにジュースは買ってもらえそうにないとさえ言える。
(会話・4)
A:ここはジューシュ売ってないのーここはー
ジューシュなかったなー ジューシュ売ってないのかなー
B:ちゃーんとしてへんやったらジューシュ買ってあげないよ
ちゃんとおしゅわりしてたらジューシュ買うたる
ここにおいて、「ジューシュ買うたる」が言葉の表面に復活すると共に、「ちゃーんとしてへんやったら/ちゃーんとおしゅわりしてたら」という構造化された条件節に対応づけられる事によって先の矛盾が解消される。この発話の背後には、先に予告しておいた〈車内ルール〉が言及されていると思われる:すなわち、我々テキスト読者は、「電車の中ではちゃんと(騒いだり無闇に動き回ったり…せずに)座っていなければいけない」という規範的強制力を帯びた常識的知識=ルールを用いる(想起する)ことによってはじめて、この発話の出現を「自然なもの」として理解することができるのである。
2−2:より広い会話コンテクストにおける常識的知識
前節では(会話・1)〜(会話・4)の各々について、自明視され言葉の表面に現われていない部分を析出した。しかし、4つの会話を通じて底流している常識的知識が、さらに問題化されねばならない。そのためにつぎの二点が注目される:第一には、会話が進むにつれて、母親の発話の表面から「ジューシュ買うたる」のニュアンスが次第に省略されていっていること;第二には、母親のその発話がジュースの話題を途切れさせる効果を見せていることである。
これらの現象は、母親が〈車内ルール〉を会話の最初から一貫して自明なものとして用いているという仮説を立てて見ることで理解可能となる。〈車内ルール〉は(会話・3)のあとに(会話・5)で初めて母親の言葉として明示化され、(会話・4)で取り上げられて以降2回(会話・6)(会話・7)会話に登場しているように見える:
(会話・5)
B:(S駅)ちゃんとお座りしててよ
(会話・4(再掲))
A:ここはジューシュ売ってないのーここはー
ジューシュなかったなー ジューシュ売ってないのかなー
B:ちゃーんとしてへんやったらジューシュ買ってあげないよ
ちゃんとおしゅわりしてたらジューシュ買うたる
(会話・6)
A:ママー? ママー? 何怒ってんのー
B:んー?
A:何怒ってんのー?
B:怒ってないよ ***ったら怒らないよ
(会話・7)
A:どこいくのー …いーよっ いーや ***…
B:いいことない ちゃんとし …
A:ウルサイモー ママウルサイノッ
B:そんなこと言うんやったら***…
A:ごめんなさーい
このうち、(会話・6)の聞き取り不能部分に〈車内ルール〉がその場で実際に母親によって用いられていたかどうかは不明である。しかし重要なことは、我々テキスト読者がこの「***ったら怒らないよ」という発話テキストを「自然なもの」として読もうとすると、この部分には〈車内ルール〉を無意識のうちに補って読んでしまっているはずだ、ということである。我々がこの会話データをデータとして読んでいるのは、それが「自然な会話」である限りにおいてなのである。そしてそのことを確認した上で、あらためて会話の時系列に従ってこれらの発話を辿っていくと、〈車内ルール〉への言及が次第に明示化の度合いを増し規範的強制力のニュアンスを明らかにしていく様が読み取れるのではないか。そして、それを逆に読んでいけば、すなわちこの会話テキストのこれらの発話以前に時間的に遡行して読み進めていくならば、母親の発話には〈車内ルール〉への暗黙の参照があらかじめ潜在して働いていたのではないか、そしてこの会話全体は、〈車内ルール〉への参照が時間をおって次第に明示化されていくプロセスを示しているのではないか、と読むことが出来るのである。
その仮説に従って会話テキストを読み直していくと、この会話場面で、子供が一貫して〈車内ルール〉に抵触し続けていたという姿が可視化されてくるだろう。またそこから、子供のこの「逸脱」を統制するべく発話の表面から「ジューシュ買うたる」を省略し専ら否定的に用いている、という母親の姿も可視化されてくる。その場合子供は、〈車内ルール〉を用いることができない限り、母親によるこの働きかけをうまく解釈できない。結果として子供はこの話題から離れざるを得なくなり、子供がおとなしくなりさえすれば、母親の側からの統制は結果的に達成されることになる。もしそのような事態が起こるとすれば、それは子供の側からは、定義上まさに不条理で暴力的な権力作用そのものとして経験されているはずなのである。
先に我々は(感想を寄せた学生とともに)この会話テキストから「自然な」「ほほえましい」「児童中心の」しつけを読み取っていた。そこでは直接的な統制が回避され・子供に「客観的な状況枠組」を呈示して子供の判断に委ねるという姿勢が読み取られていた。しかし、この「読み」は、あくまで、子供の側が成人と同じ常識的知識を既に共有していることを前提としている。本稿では会話コミュニケーションそのものをより子細に見ていく事で、また別の像が浮かび上がってきた。子供にとっては、諸々の常識的知識を獲得する事それ自体がひとつの課題であるはずだ。その獲得がなされていない程度に応じて、成人の目からは「客観的状況枠組の呈示」であるかに見える働きかけそのものが、権力的統制になるのである。
3:社会化場面における「ルール」と「内面化」と「秩序問題」
ここまでに行なってきた分析は、社会化論という問題設定にとって両義的である。
分析に先立って我々は、ここで扱った会話テキストがごくありふれた自然なものであること、しかしそれが何がしかのしつけなり教育なり社会化なりの場面であるはずだということ、従って「社会的ルールの内面化」なり「秩序問題」といった「社会化論」のテーマの少なくとも糸口のようなものはそこに見出されるはずであること、を確認しておいた。そして我々の分析は実際に、会話データの中からいくつかの常識的知識・わけても重要な〈車内ルール〉、といったものを析出した。それらを我々成人は常識的知識として共有している。それを内面化することは子供にとっての課題であるはずだ。分析は、子供が〈車内ルール〉を逸脱する場面、母親が暗黙の統制的権力行使を行なう姿、といったものを可視化してきた。子供は、この会話場面を暗黙の権力作用の場として受け止める中で、次第にその中から〈車内ルール〉を始め諸々の常識的知識を内面化していくはずである。
しかしながら、同時に、我々は奇妙な地点に立たされたことになる。その奇妙さを明らかにするために、ここでさらに〈車内ルール〉を検討してみよう。
ここで強調されるべきは、この〈車内ルール〉というものが、実は我々の分析の過程の中で浮かび上がってきたひとつの仮説だということである。すなわち、〈車内ルール〉とは、会話テキストのもととなった会話場面に実体として客観的に「存在」していたものではなく、会話を読み(あるいは実際にその場で会話に参加し、あるいは会話を聞き)、それを常識に基づいて推論する解釈作業の経過に伴って、従って実はその作業の内部においてのみ、次第に会話テキストの「背後」に「探り当てられ」、あたかも「以前から恒久不変に客観的に、誰の目にも明らかなように、その場に存在するもの」として扱われ始め客観的事実性を帯びるものなのである。げんに我々は先の会話テキストを読み始めた時点ではその背後に〈車内ルール〉が一貫して作用しているとは見ていなかった。我々の〈車内ルール〉は、我々が随時我々自身の常識的知識を参照しながら行なった解釈作業の中で、まず「ジューシュはここ売ってないな」という発話にこだわり、また母親の発話を辿りながらその表面から次第に「ジューシュ買うたる」のニュアンスが言い落とされていく経過にこだわり、ついに「ちゃーんとしてへんやったらジューシュ買ってあげないよ」以下次第に繰り返し登場し始める「ちゃんと」という言葉の背後に初めて見出し、そこから遡行的に会話の始めにまでさかのぼるという我々の常識的推論=解釈作業の中で初めて、一貫して作用していたものと見做されるに至ったものである。
無論、〈車内ルール〉が仮説に過ぎない事それ自体はいまさら繰り返す迄もないことかもしれない。それをここであらためて強調するのは、その仮説が我々の解釈作業の中で徐々に形を為してくる様にあらためて注意を喚起するためである。そして、それと同様の解釈作業が、この会話テキストの指示している会話場面の内部にいた人々すなわち母親、子供、および他の乗客によってなされているのではないか、あるいはそれがなされなければ彼らは〈車内ルール〉(あるいは同様の何らかの〈ルール〉)を見ることができないしそれを用いることもできないのではないか、ということに注意を喚起しようとしているのである。我々の〈車内ルール〉が仮説であるのと同様に会話場面の当事者それぞれにとっても〈ルール〉が仮説でしかないとすれば、我々は「仮説」というものの存在論的意義そのものを考え直さなければならない
−
つまり、我々の「仮説」の「向こう側」に「本当の事実」が実在してそれとの対応を確認することによって「仮説」を「検証」することが可能である、という主張がもはや意義を失うのである。「本当の事実」、すなわち「その場に実際にあった〈ルール〉」を措定しないならば、「仮説」がすべてである。誰も(すなわち我々会話テキスト読者、母親、子供、他の乗客)がすべて権利的に同列に「仮説」を立て合い、互いに(とくに会話場面の参与者であればなおさら)それを探り合い、それによってさしあたり妥当な「とりあえずの検証」を試み達成し続けねばならない。〈ルール〉とはその場合、常に文字通りの意味で「作業仮説」であり続けている。
無論、こういう反論は予想できる:「そんな難しい事をいちいち言うまでもなく、この母親は最初から子供の行儀の悪さに気付いていた。「ちゃんと」という言葉が出たのはかなり時間がたってからだが、それは我慢していた為で、つまり最初から〈車内ルール〉を気にしてはいたはずだ。現に我々は母親の「暗黙の統制」を発見したではないか」
− ところが、この反論はさして有効ではない。この反論は母親の心理状態を会話テキストの背後に外挿しようとしているのだが、その根拠となるべき「子供の行儀の悪さ」「母親の暗黙の統制」というのが問題である。「この子供は最初から行儀悪かった」「母親は暗黙の統制を行なっていた」と我々の目に見えるという事は、いささかも〈車内ルール〉が最初から母親に意識されていたことの証拠にはならないのである。つまり、我々が読み取っている「「逸脱」している子供」「「統制」する母親」という姿もまた、そうして「見出され」た我々の〈車内ルール〉という仮説に従って会話テキストを遡行的に読み直すことによって初めて可視化されえた
− すなわち、あくまでも我々の常識的な解釈作業の中にあって〈車内ルール〉(というそれじたい我々の仮説であるもの)に相関する限りにおいて初めて「逸脱」「統制」として意味付けられ、それによって初めて、あたかも最初から一貫してそこに〈車内ルール〉が存在していた事の「例証(document)」であるかのように扱われ得るに過ぎない。会話テキストの中の「逸脱」「統制」と〈車内ルール〉は、我々の常識的解釈作業の中にあって初めて相互にその事実性を確認しあって存在し得る、一連の「反映的
(reflexive)」な相関物に過ぎない。とすれば、母親にとっても原理的に同じ事が主張されねばならない(気付いたら「統制」していた等)し、この主張は(会話テキストの外から母親の心理を外挿する主張より)具体的であり切実なはずなのである。
なおも反論がなされるかもしれない:「その難しい「常識的解釈作業」とやらは、要するに先にこの論文の中でやっていた会話分析とかいう特殊なひねくれた見方でしかない。ごく普通の感覚に戻れば誰だって最初から〈車内ルール〉ぐらい知っているわけで、それをことさらに仮説だの反映的だの言い立てる方がどうかしている」
− しかし、この反論もまた成立し得ない。なぜなら、本稿で我々が進めてきた分析はいわゆる「ごく普通の感覚」をいわばスローモーションで実演し直しているに過ぎないからだ。例えば電車の中で会話をしている親子自身にとっても、同乗している他の客にとっても、その場でその瞬間に利用可能なデータは、我々の手にしている会話テキストと同じただのコトバの羅列である(あるいは身振りその他の非言語的情報が付け加わるとしても、原理的には同じ事である
− 以心伝心といった神秘的なコミュニケーションが存在するとでも言い出さない限り原理的には手にする情報量の多寡はあれ同じ事である)。また我々が〈車内ルール〉を電車に乗る前・テキストを読む前から「知って」いたという主張も意味を為さない。なぜなら、第一に、我々は原理的に全く同様に「知って」いるはずの他の無数の諸ルール、例えば〈家族ルール〉〈男女間ルール〉〈日本文化ルール〉〈刑法ルール〉等々の中からこの会話テキストについてはまさに適切に〈車内ルール〉を選択適用しているのだが、その選択がなされるにはそれに先立って会話テキストを読み・解釈する作業がまずあったはずだからである。また第二に、仮に我々が〈車内ルール〉を適用し得たとしても、実際にテキスト中の誰のどの発話/行動が〈車内ルール〉に適合しており・誰のどの発話/行動が〈車内ルール〉から見て「逸脱」なのか、最初にテキストを読んでいる最中にリアルタイムでしかも明瞭に分かっていた、という事が言えるだろうか。つまりこの会話テキストをバラバラに切り刻んで一枚の断片を取り上げ、それが〈車内ルール〉に適合しているか逸脱しているか判定できるだろうか。無論そんな判定はできない。また我々が電車に乗り合わせている場合を考えても同じ事が言えるだろう。我々が〈車内ルール〉を「知る」のは、会話テキストを実際に参照し・〈車内ルール〉が選択されるべきある文脈を反映的に同定し・実際に〈車内ルール〉を用いて会話テキストの中の諸々の発話/行動の適合/逸脱を判定するという、本稿で先に実演したのと原理的に同質の常識的解釈作業の中で、解釈作業そのものとしてでしかありえないし、それはその解釈がさしあたり妥当性を帯びている限りにおいて維持されているに過ぎない仮説的なものでしかありえないのである。
〈ルール〉が我々にとってと同様に会話場面参与者にとっても仮説的である、という指摘は、ネガティブに、すなわち懐疑論的に受け取られてはならない。むしろ、仮説とは解釈作業の中で常に新しい状況に向けて「開かれた」ものである、といういみにおいて、それは我々および会話場面参与者にとり積極的な含意を持つ
− すなわち、我々が先に示された有限個の言葉の羅列である会話テキストから「ほのぼのした」「穏やかな」「やさしそうな」「しっかりした」「微妙な」すなわち「自然な」「生き生きとした」特性を読み取り得たように、場面参与者にとって状況が「固定」されておらず「生き生きとした」ものであるのは、上述のように〈ルール〉が仮説的であるからなのだ。従って、この仮説的性格への注目は、不必要に厳密な懐疑論などではない。むしろ、我々の生きる社会状況秩序経験の本質に関わるその仮説的性格にこそ、注目することが必要なのである。
我々はこうして、まさに奇妙な地点に立たされたことになる。我々は大人として確かに〈車内ルール〉を「知って」いると実感しているし、現に大人はバスの中で騒いだりしない。従って子供が大人になる際には〈車内ルール〉が内面化されているはずだと思える。にもかかわらずこの会話テキストの中でこの子供が内面化すべき〈車内ルール〉が、「そこに実在する」実体的存在であるというより、(成人の我々にとってさえ)仮説的な存在でしかない、とすれば、それを子供はいかにして認識し・同定し・取り入れ・すなわち内面化できるというのか。あるいは一般に、社会的秩序の成立のために子供が社会的ルールを内面化せねばならないと言うとき(すなわち「社会化論」において)、結局のところ、何がいかにして内面化されるといい得るのだろうか?
ここで援用できるのは、エスノメソドロジカルな立場から社会化論を再構成しようとしたA.V.シクレルの議論(Cicourel(1973),chp.2.)(3)
である。シクレルは言う:
…
いかにして社会秩序は可能かを説明するためには、人類学や社会学において一般的に抱かれているような考え方、すなわち、共有化された価値システムが原理的役割を果たすはずだという考え方は、改められねばならないだろう。協働的行為が可能なのは規範や共有化された価値志向が合意を形成するためである、という考え方は、長い間文献に主張されてきたテーゼであった。本論が述べているのは、成員というものは合意がなくても、明白な葛藤状態にあってさえ、あるいは子供のように規範でさえ知られ・理解されているかどうかはっきりしない、いわんや共有化された価値システムの要素などなおさら、という場合であってさえ、協働的行為が十分可能だ、ということである。私はなにも、価値というものが図式の中に入ってこないとか不必要だとか言おうとしている訳ではない。ただ、それら価値というものが行為場面を生成し・維持し・変化するにあたって果たしている役割は、常に解釈手続の諸特性に依存している、という事を言っているのである。(p.72.)
シクレルは、個々の価値規範(例えば本稿で見た〈車内ルール〉のような)を「表層ルール(surface
rule)」と呼ぶ。表層ルールはそれだけでは人間の実際の社会的行為を導き得ない。むしろ重要なのは、実際の個別具体的な状況にそのつど適切な表層ルールを適用しながら反映的に「自然な」感覚(「社会構造感
(sense of social structure)」)を生成する常識的解釈(前節で会話テキストを読み・分析した際に我々自身が行なっていた)の能力、すなわち「解釈手続
(interpretive procedures)」の方である。
シクレルにあっては、社会秩序の成立にとって、社会成員の全員が表層ルールの次元で合意を形成している必要はない。各々の成員の具体的な状況において解釈手続が働きさえすれば、その成員にとっての「自然な秩序」の感覚、すなわち「社会構造感」が生成される、それがすなわち「社会秩序」が成立している状態そのものだ、というのである(例えば落語の「こんにゃく問答」を想起するとよい。こんにゃく屋と高僧が互いの誤解に気付かぬまま身振り手振りで「問答」をおこない、奇妙なコミュニケーションを成立させる。こんにゃく屋は自分の店のこんにゃくにケチを付けにきた野郎に身振りで応戦して追い払ったのだと思っており、一方、高僧は自分よりさらに徳の高い僧が「無言の行」の最中にもかかわらず身振りによって広大無遍な大宇宙の摂理を説いてくれたものと思い恐れ入っている。これは極めてシクレル的な寓話である)。
従って、シクレルにとって社会化の最も本質的な契機は表層ルールの内面化ではなく、解釈手続の獲得こそが社会秩序を可能にする最も本質的な契機となる。
確かに「表層ルール」の獲得は常識的知識のストックの拡大であり、それは成員に状況へのよりフレキシブルな対応の可能性を与えるかもしれない。例えば我々の会話テキストに登場する子供は、我々が抽出した常識的知識や〈車内ルール〉を獲得していない程度に応じて、母親の発話を「自然なもの」として理解する可能性がなくなっていくのであり、彼にとっては電車内の会話状況はそれだけいっそう不条理な権力作用の吹き荒れる場面に変貌するはずである。しかしその場合、彼は、従来の社会理論が描く「逸脱」者のように社会の「中」で葛藤を起こすのではない。彼が直面しているのは、社会の「自然な秩序」そのものからの不条理な疎外にほかならない。従って、そこで彼にとって切実なのは、個々の表層ルールの欠如という事態であるよりは、むしろ「社会構造感」を十全に生成しえない解釈手続の機能不全のほうなのである。シクレルによれば、解釈手続の獲得はすなわち社会構造そのものの獲得である
−
なぜなら、子供が最初の単純な解釈手続を獲得した瞬間から一挙に具体的な状況が、彼にとって自然で秩序的な、生き生きとしていながら同時に完結してもいるひとつの「社会構造」という感覚を帯び始めるはずだからである。表層ルールの獲得と拡大があくまで相対的・技術的な発達をしか意味しないのに比べ、解釈手続の獲得は秩序問題の解決への絶対的なそしてただ一つの契機であって、まさにそれこそがシクレルの社会化論への解答のすべてだといえるのである。
シクレルのこうした議論は、いわば最後の社会化論と呼び得るものであろう。もともと社会的秩序の成立条件を論理的に問うことから始まった社会化論的問題設定は、その論理性を追求し続けた結果、シクレルに至ってその最大の理論的概念である「社会的ルールの内面化」という契機を棄却してしまい、専ら「社会的秩序」概念そのものの吟味・再定義によって当初の問題をとうとう解決してしまったのである:人はいかにしてルールに従った行為によって社会秩序を維持しつつ同時に自由に行為しているのか
− それは、@ルールというものがそもそも解釈作業の中で事後的に自分および他者の行為に結び付けられ解釈に用いられる限りにおいて存在する作業仮説であり;A従って実体的なルールがあらかじめ行為を導いているわけではないのだが;B解釈作業の中において行為とルールは反映的に結び付いている以上行為はルールに従ってなされたものとしてしかありえず;C結局社会秩序は「社会構造感」として維持されることになる、という仕掛けである。
しかし同時にシクレルは、社会化論という問題設定じたいの意義そのものをも解消してしまったのではないだろうか。というのも、シクレルの図式にあっては、極論するならば社会秩序は個々の成員の解釈手続に応じてそれぞれ独立して存在するのであって、しかるがゆえに「合意」を論理的に要請せずに済んだのだが、そのアナキズムの代償として、諸成員の生成する社会構造の間に秩序性の絶対的大小を云々する論理的な資格を放棄してしまっているのだ。解釈手続を獲得している限り成人と子供とは(様式こそ違え)全く同程度に「社会的」である。シクレルは言語学の知見を援用しながら次のように述べる:
小さな子供は神秘的な言語を流暢に語るが、それは成人の文法のカテゴリーで分析されうるような成人言語のただ不十分・不完全な形ではないのだ、というような考え方は、解釈手続の獲得を説明する際には重要である。社会的世界についての子供の最初の把握は、平常な社会構造についての成人的な把握の、ただし未だ未開のものであるという見方を押し付けて研究するべきではない。確かに最初の解釈手続は子供に成人のユーモア・両義語・矛盾・等々を理解させはしないが、しかしそれはまさに神秘的な子供期の社会構造
− その中では博物館に展示された剥製の動物を恐れたり、夜中に魔女たちにかどわかされたり、バットマンやロビンの存在を信じることが可能なのだ
− を生成するのである。(p.49-50.)
我々の会話テキスト分析も、シクレルと同じ立場に立っている。先に紹介した学生の感想の中に「子供は自分の感情のみで生きている時期だから」という見方が提示されていた事を想起されたい。我々の分析はそれに対して、子供の執拗な一見理解不能な「ジュース」へのこだわりの背後に、ある種の論理的な推論の可能性を提起するものだったといえる。我々の分析と同様に子供が、母親の発話の表面的字義からの推論という解釈作業を行なっていたとすれば、それはむしろ過剰なまでに「論理的」な推論であって、むしろ矛盾と不条理に満ちた発話を繰り返しているのは母親の側だとさえ言えるのである。
さて、この理論図式 −
いわば社会学版「モナド」論 −
は、確かに秩序問題を解決した。成人と子供とを問わず誰もが各々の秩序的社会に住み、時としてその亀裂に不条理な権力作用を予感することこそあれ、通常は「こんにゃく問答的に」コミュニケートし合っているという多元的世界がそこに描かれているだろう。確かに、それはあまりに正当なモデルである。「解釈手続の獲得」という発想がその背後に連想させる「解釈手続の獲得されていない状態」までも巧妙に位置付けられ得る
−
なにしろ、極論すれば、自分にさえ解釈手続が獲得されていればそれで社会秩序は成立するのだし、もし仮に自分に解釈手続が獲得されていなければ、という問いの可能性は、定義上ありえないのである。
こうして、社会化論は完成し、終わりを告げる。
* B章:社会化のメタ理論 *
1:社会化の「蓄積モデル」と「関係モデル」
本章では社会化をメタ理論的に考察するが、それに先立って、ここで一対のダイコトミーを設定しておく。それは社会化現象を説明する際に立ち得る二つの基本的立場である。それらをさしあたり「蓄積モデル」と「関係モデル」とそれぞれ名付けておく。
蓄積モデルとは、社会化現象を説明する際に、子供(或いは社会化される者;以下略)の中(内面・意識・前意識・無意識・身体・等々)に社会規範・価値・知識・一般化された他者・レリバンス構造・相互行為能力・身体技法・ハビトゥス・等々の諸特性が徐々に「蓄積」(内面化・内在化・学習・獲得・等々)されていった、とするものである。
一方、関係モデルとは社会化現象をラベリング論の文脈において説明するものである。すなわち、社会ないし特定の他者がある社会的関係において子供に「外から」押し付けるレッテルに注目し、そのラベリングの変化を、社会化現象そのものと見做すのである。もっとも、実際のラベリング論の多くには、レッテルづけされた役割への学習・社会化という蓄積的な契機が含まれ、むしろそれによって議論のある種のリアリティが支えられている事は確かである。しかし論理的には、ラベリングのロジックを厳格に受け止めて個人の中への蓄積を考慮から排除する事は可能である。従ってここでは「関係モデル」を「蓄積モデル」から独立した一個の説明原理として提起しておく。
社会化現象の説明において子供の中の変化に注目する「蓄積モデル」と外の変化に注目する「関係モデル」は一見、社会化現象の説明として同じ次元に対称的な立場として位置付けられるように思われる。しかし実際は「蓄積モデル」と「関係モデル」は非対称的であり、両者を対比する事はそのまま社会化のメタ理論的考察につながると考えられる。
なぜなら、いわゆる「社会化論」は、端的に言って、原理的にこの「蓄積モデル」の方にすべて含まれていると言えるからである
−
というのも、@社会化論的問題設定すなわち「社会秩序の問題」を社会化論によって解こうとする限り、社会化とは「個的存在」が何らかの仕方で「社会的存在」に変化する過程であり、その変化の痕跡が「社会秩序の維持」を保証する程度に個人の中に蓄積される事は、社会化論の根本的な要件とならざるをえないからであり;A他方、「関係モデル」は、我々の目には非常に奇妙に映る
− 子供の成長が我々の単なる「目の錯覚」や「思い込み」に過ぎない、と言うごとき主張は極端な懐疑論に立つ論理の遊びに過ぎないと見える
− しかるがゆえに、他ならぬ社会化論の説明原理としては通常、採用されないからである。
A章で見た通り、我々は「関係モデル」に接近しつつある。シクレルが明らかにしたのは、社会秩序の維持が価値・規範の内面化を要件としないという事であった。ただ、シクレルの議論には「表層ルールおよび解釈手続の獲得」という「蓄積モデル」的社会化把握が残っている。そこで本稿では以下、さらに「関係モデル」的社会化現象把握を明確に描きだし、それを「蓄積モデル」と対比させる事によって、そこに重なりあっている従来の社会化論そのものの諸特性を浮かび上がらせるというメタ理論作業を進めることになるだろう。その際、まず、シクレルの「表層ルール」「解釈手続」両概念のもととなった、ガーフィンケルが最初に提起したエスノメソドロジーにおける「成員性(membership)」概念にあらためて注目し、それを手がかりに議論を進める事する。
2:「成員性」の所在について
シクレルにおいて社会の「成員」とは「表層ルール」及び「解釈手続」を獲得した個人を指しまた「成員性」とは「成員」の持つ属性を指している。「認知社会学」派を名乗る彼は、社会構造感を自ら生成・認知的に先取する事のできる認知主体としての個人に焦点を当てていたのである。個人に焦点を当て・しかも価値・規範の内面化を導入しないという論理構成にあっては、「成員性」という概念は分析的に「表層ルール」と「解釈手続」に分離されねばならないだろう
−
つまり、彼は両者を分離した上で、前者の内面化を要件としない替わりに、いっそう、後者の「獲得」(=蓄積)を強調したのである。
一方、ガーフィンケルにおいて「成員」とは、個々の個人の実体的な属性を指すのではなく、いわば相互行為内の「機能」のようなものとして把握されている。いかに機能するかという次元に焦点が定められている以上、その機能の基に「表層ルール/解釈手続」なる実体を想定しそれを分離して捉える事は意味を失う;要するに問題は、ルールや知識や解釈諸手続きが有効に作動しているという「機能」、常識的推論の解釈作業が行なわれているという「機能」そのものなのである。
例えば成員に「共有化された知識」についての彼の有名な実験がある(Garfinkel(1967)chp.1,2)。彼は学生に、学生自身の話した言葉が「意味」していた「内容」を「精確に」書き上げる事を命じた。会話が参与者どうしの「共有化された知識」を参照し合うことで成立するとして、その「知識」が仮に「磁気メモリーに予め記入された事項の集積」のようなものであれば、学生は会話時に参照した事項のみを書き上げれば済むはずである。しかし少し考えれば分かる通り、学生がどれだけ書いてもガーフィンケルは「より精確」な報告を無限に要求する事ができた。この事からガーフィンケルは言う:
「共有された合意」とは、成員の認識すなわち何かがルールに従って話されたという認識を達成するための様々な社会的な方法の事を指しているのであって、実体的な事柄のデモンストレート可能な合致を指しているのではない。共通理解というもののイメージは、従って、ある種の操作という事であり、何らかの事項のセットが重なり合っている場合のその共通部分、というイメージではないのである。(p.30.)
すなわち、「共有化された知識」については、実際にそれが個人の中に蓄積されているか否かは問題でなく、相互行為に於いて(言語的・非言語的いずれにせよ)それに適切に言及するという手続きが問題なのであり、その限りにおいて参与者は成員性を持っていると自明視され、その自明視が互いになされている限りにおいてその状況は自然であり、参与者は相互行為を営んでいくことができる、というのである。逆に言うならば、そうした自然な相互行為を破壊するような手続きを一貫して行なえば、その参与者は、「解釈手続」を実際に所有しているか否かにかかわらず、解釈能力を含む「成員性」そのものを欠く者として相互行為状況から排除される。やはり有名な実験を参照しよう(p.44.):
犠牲者(被験者)が陽気に手を振った。
(被験者) 調子どう?
(実験者) 俺の何がどうだって?
体調か、金か、勉強か、気分か、…?
(被験者) (真っ赤になり激昂して)いいか!
お愛想で言ったまでだ!
別にお前がどうだろうが知った事か!
「関係モデル」においては、成員性は個人の中に「蓄積」されるものではない、それ自体が達成的な、社会的関係における機能であると考えられる。
3:「成員カテゴリー」と成員性の配分
「成員性」が相互行為内の機能であるとすれば、我々はここで、我々の常識的通念の中に社会的に準備されている「成員カテゴリー」、すなわち様々な程度の成員性を帯びた・或いは様々な成員性に言及する一連のレッテルに注目しておくべきだろう。例えば我々の社会通念では、[親/子]というカテゴリー対においては[親]の方により多く・[子]の方にはより少ない成員性が配分されている。すなわちこの社会では、同じ状況で[親]と[子]が相互行為をしていれば[親]の成員性が[子]の成員性に対してごく自然に優先権を持つものと見做されるのである。また、この社会の常識的通念においては同様の成員性配分が[男性/女性][専門家/素人][正気/狂気]等々の一連のカテゴリー対においてなされており、いずれにおいても前者に対して後者の成員性はより低く見積もられ極論すれば後者は前者との関係にあっては社会的半人前として扱われることになる。
「蓄積モデル」はこれらの成員性配分を所与として(社会的通念と共有する形で)理論の前提としてきた。一方「関係モデル」は、そうして成員性がカテゴリーごとに配分され適宜ラベリングされるという常識通念的現象じたいを固有の研究対象とするのである。
例えば、M.ポルナー(Pollner(1975=87))が「リアリティ分離」と呼ぶ場面で、この問題は切実なものとなる。相互行為参与者間に現実解釈の相違が発生した場合(A氏に神の声が聞こえB氏には聞こえない)、どちらの「現実」が正しいかという「至高の現実」をめぐる根源的な(論理的解決の困難な)闘争が起こる。その場合、相手の現実解釈をアイロナイズ(ironize=無効化)するレトリックを駆使しながら自らの正当性をより有効に主張し得た者の現実解釈が勝利し優先的に受容される、というのがポルナーの議論である。ところで、その際に有効なレトリックとして上述の成員カテゴリーへの言及があるだろう(「Aは神の声を聞いたと言い張るが、それは彼の[狂気]のせいだ、従って彼の主張に耳を貸す必要は無い!」というレトリックが、神の実在をめぐる本質的な検討を抜きにして用いられ・通用してしまう場合)。相手を劣位のカテゴリーでラベリングすれば、それによって(「実際の」現実の状態や相手の「実際の」能力の有無に関係なく)相手の成員性を奪い、成員として合理的な現実認識能力を主張する資格そのものを相手から奪うことに成功する
− 無論、逆に優位のカテゴリーの適用によって成員性が付与されるという事態も同様に考えられる。このような成員カテゴリーの配分による成員性の変化は「関係モデル」から見る社会化現象の重要な局面である。
4:成員性の付与と剥脱 −
ディック的「人格」問題について
成員性が付与/剥脱されるという現象を、身近な具体例から見てみよう:
前期に抱いていた印象は、コンピューターはカタいというものだったが、後期になって実際プログラムの組み方を習い、自分で少し本も買って動かせるようになると、やはり親近感が湧いてきた
… またコンピューターにコンプレックスを持ってしまいそうだが、今度の偏見は以前までとは異なって、「何とかすれば判るのでは。」という期待と楽しみの入り混じったものに変わっているのではと思う。
この文章は、京大情報処理教育センターの広報に掲載された、初級フォートラン実習受講生の感想文の一部である。ここにはいささかこみいった社会化現象が見られる。第一に、情報処理教育センターが学生を「社会化」しているようだ。教えているのはセンター(職員・教官)であり、学生は「実際プログラムの組み方を習い、自分で少し本も買って動かせるようにな」ったのだから、社会化は成功だったようだ。
しかし同時にここには、学生がコンピューター(を端末機として持つセンター)を手懐けるに到った「社会化」が現象している。
コンピューターは@最初、何の作動もしない・触ればいきなり膨大なエラーメッセージを吐き出す・いわば[狂気]の物体に過ぎない。それは学生にとって、恐れ・遠ざけ・排除する対象である。それが、A次第に安心・親近感・そして「何とかすれば判るのでは」という期待の対象へと変化する。当方の意志疎通を受け入れ・言う事を聞くようになり・単純ではあるが役に立つ仕事(カレンダー作成など)ができるようになる。それはコンピューターが徐々に[一人前]の、しかも「親近感」の対象としての[仲間]に近付いていくプロセスと平行しているだろう。やがてBコンピューターは、「今日は機嫌が悪くて動いてくれない」といった擬人化の対象になり・学生の親友になり・挨拶され名前を付けられ愛称で呼ばれるようになり・要するに「マナ」を帯びた「人格」を・あるいはここで言う成員性を獲得するに到るのである。
注意すべきは、この過程の間に、コンピューターの中には何も新たに蓄積されていないということである
− コンピューターにとっては、間違ったプログラムに対して作動しない事もエラーメッセージを表示する事もすべてが、最初から全く正常で合理的な作動の結果に他ならない。変化したのは学生とコンピューターの「関係」のモードなのだ。
コンピューターの獲得する「人格」を偽物と呼び得ない事については、ガーフィンケルの有名な「偽カウンセラー実験」(Garfinkel
op.cit.chp.3)が単なる乱数表に完全な「人格」を帯びさせている例を参照されたい。また人格とその基体としての生物有機体との関係についてはまた、動物実験において神経生理学者たちが「生け贄
(sacrifice)」と呼ぶ成員性剥脱作業についてのM.リンチの研究(Lynch
(1988))を参照されたい。コミュニケーション可能性と成員性をめぐるこれら一連の問題を最も鮮烈に表現しているのは、SF作家のP.K.ディックであろう。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968)に次々と登場するアンドロイドや電気仕掛けの動物ロボット達は、機械であるというまさにその一点以外のあらゆる点において人間あるいは動物に限りなく近い。この小説を読むとき我々は、主人公のリック・デッカードと共に、次のような根本的な疑問
− ディック的「人格」問題 −
に囚われる:機械たちと我々との間に根本的な相違はないのではないか、あるいは逆に、私あるいは私が親しくしている人たちもまた自らの正体を誤認しているアンドロイドでないといえるであろうか?
このSF的に立てられた問いは、しかし、例えばある種の「精神病」の罹患者が実際に苦痛として訴える感覚(離人感)と正確に重なっている。あるいはその同じ問題のヴァリュエーションが「脳死問題」として社会の関心を集めてもいる。「関係モデル」が我々の日常生活の基盤に遍在する切実な問題であるのはまさにこの問いの位相においてに他ならない。
5:メタ理論 −
社会化論テキストにおける成員性剥脱作業(4)
前三節において、「関係モデル」の基本的視角・社会化現象観およびその具体的事例を素描してきた。本節では、「関係モデル」に照らしながら社会化論(「蓄積モデル」)のテキストを読み直してみる。ここではその具体的事例として、先に我々が論じ・読んできたA章の会話分析のテキストを取り上げる。我々は先にそれを、会話テキストの厳密な読解として提示し・読んだはずである。ところが以下に示すように、我々は、A章で、会話テキストの読解にあたって成員性剥脱作業を達成していた。
無論、第一に我々が達成していたのは、成員性の付与作業だった。我々は、単なる文字の羅列に過ぎない会話テキストの背後に生き生きとした自然な親子の姿を浮かび上がらせていた。その次元では明らかに我々は会話テキストに生命を吹き込んだのだ。しかしながら、次に言う意味において我々は一方の話者の成員性を剥脱していたと言える。
@
我々はまず会話を[母親/子供]あるいは[成人/子供]のものとして同定した。これは恣意的な作業である。なぜならこの会話の登場人物は例えば[乗客/乗客]あるいは[女性/男性]とカテゴリー化される事も同様に可能だったはずなのだ:
男:ジュース飲む ここ売ってないかな
女:うーん ジュース買うたる
男:ここ売ってないの?
女:ジュース買うたる
ジュースはここ売ってないな
この会話テキストに、例えば[相手を愛する余り振り回される「尽くすタイプ」の女/相手をからかうのが趣味の男]というカテゴリー(実際にそうでないとも言えない)を振り当てて読んでみよう。すると、錯乱しているのはむしろ[女]の方だと読めるだろう。
A
上の会話テキストでは「ジューシュ」ではなく「ジュース」と表記した。この発音上の特徴をトランスクリプトに示すか否かは、その発話者が[子供]でない場合、かなり微妙な問題である(実際、具体的な音響の次元では誰もが各々の特徴を持っているが、その発音上の逸脱を表記することは往々にして話者をある特定の、しかもしばしば劣位のカテゴリーに結びつけることになる)。A章の会話テキストでの幼児語表記の特徴的使用は会話場面に[母親/子供]カテゴリー対を適用する事の正当化に貢献している。同時にそれによって一方の話者に配分される社会的半人前性を背景として、幼児語表記を恣意的に用いる事を反映的に正当化することに貢献している。
B
以上のカテゴリー対適用によって可能になったことだが、会話の分析の行程においてしばしば、[子供]が成員性を欠き[母親]が成員性を有しているという想定が利用された。確かに本稿A章は、最終的には[子供]と[成人]とが同じ資格で合理的社会秩序を生きているという結論に到るものであり、その点で分析は慎重に進められた。しかし、少なくとも社会化論という形式を維持しながら進められたA章1、2節の行程においてはしばしば、テキスト読者の「エポケー」された視点を[子供]の視点に重ね合わせる形で議論が進んでいる。言い換えれば、A章の分析が会話テキストから社会化論的テーマを読み出すには[子供]が成員性を欠いているという想定が不可欠であり、他方でそのようにして産出された「分析」が再び反映的に会話テキストの[子供]の発話の成員性欠如を描きだす、という循環的リアリティ産出が達成されるのである。
C
その上で、社会化という現象の条件・プロセス・結果・等々が会話テキストの背後に外挿される
− 子供によって〈車内ルール〉がうまく推論されることが条件である・解釈手続が獲得されているはずだ・等々。これは、本稿の分析が電車車内という一場面・一時点の会話を扱った為におこった技術的な問題であるわけではない。いくつの場面・時点の追跡データを採取して比較検討しても、社会化論が「蓄積モデル」に立つ限りはそれは[子供]の「内部」に起こる現象であるがゆえに、表面に現れた会話テキスト等のデータの背後に、外挿される以外に無いのだ。
恐らくこれらのことは、本稿A章以上に、より典型的な社会化論的分析においてより明瞭に読み取れるであろう。ここで重要なのは、個々の社会化論テキストの手続き上の失敗の指摘ではない。社会化論という問題設定そのものが、本来的に、[成人/子供]なるカテゴリー対を前提としており・そこから[成人]と[子供]の間に起こりうるリアリティ分離を敢えて探し出し・その上で改めて[子供]のリアリティをアイロナイズし「我々」という主語のもとに[成人]のリアリティを率先して採用する。それが、各々の社会化論テキストにおいて実践的に達成されている、ということが重要なのである。
「関係モデル」からメタ理論的に再解釈する時、A章の分析テキストを含む社会化論的諸研究は、透明で中立的な科学的言説ではない、むしろある明確な社会的機能を帯びた言説装置の相貌を顕わすことになる
− [成員]の世界からの[子供]の排除、それによる[成員]の世界の成員性・合理性・秩序性・等々の保証、というのが、社会化論の社会的機能である。説得力のある社会化論(例えばパーソンズの内面化論)は実に有効に我々の社会の合理性・秩序性・そして我々自身の成員性そのものを保証してくれる。本稿A章はその点で舞台裏を見せ過ぎ、説得力に欠けたかもしれない:読者は、「この会話場面に内面化の証拠が見られなくても他の場面にあるんじゃないか」「この会話テキストには身振りが見られないが、しつけはボディ・ランゲージで伝わるのだ」「そもそも社会化は心理学的なもののはずで、こんな表面的な会話の分析に内面化の証拠が見られない事を強調するのはナンセンスだ」等々、感想を持たれたかもしれない。だが、それこそが制度としての社会化論的問題設定の罠なのだ。なぜ我々は、目に見える分析を信用せず敢えてデータの背後へ背後へと目を向け、あくまでそこに社会化の存在を確認したがるのか。それは社会化論の機能が我々自身の世界を保証することにあるからにほかならないのである。
*
おわりに:戦略的テキスト産出としてのエスノメソドロジー
*
以上、本稿では、A/B章という、互いに食い違う議論を並立させる事を試みた(5)。
A章における会話テキストの分析は恐らく実際の会話状況の反映的プロセスを相当程度まで再現し得ただろうし、シクレルの議論を「最後の社会化論」と見做す限りにおいては社会的秩序問題の解決という社会化論的問題設定にも有効に解答し得ていると思う。
一方、B章の「関係モデル」による社会化論テキストの分析はA章での分析を含む社会化論的言説を相対化することを目指し、ある程度までそれに成功しているはずである。
ただ、本稿の目論見は、A章の議論を否定し・B章の議論を一義的に主張しようというものではない。社会化論の「関係モデル」を一義的に主張し社会化論を一義的に否定する事は、この論文テキスト自体がいま・ここで書かれ/読まれつつあるという事態そのものを必然的にアイロナイズしてしまう。言い換えれば、社会化論(「蓄積モデル」)の果たしている社会的機能は、それなしには(社会学研究活動を含む)我々の社会的コミュニケーションが成立し得ない基底的な言語ゲームの基盤を成していると思われるのである。
本稿の目論見は、従って、A/B章の並立というある意味で自家撞着的な構成そのものによって、社会化という奇妙な現象の「奇妙さ」そのものを描きだす事にある。「社会化のエスノメソドロジー」というものが可能であるとすれば、それは、このような戦略的テキスト産出によってしかありえないだろう。
【 註 】
(1) 本論文の議論の「理論編」として拙稿(1993)がある。併せて参照されたい。
(2)
授業レポート作成の為に筆者によって採取された会話。
(3) シクレルのグループによる事例研究(Cicourel et
al.(1974))も参照されたい。
(4) D.スミス(1978=87)の、書かれたテキストにおける成員性剥脱作業の分析を参照。
(5)
社会現象と分析言説双方の反映性に対するS.ウールガー他(1988)の戦略を参照。
【 文献 】
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