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・「「生徒コード」を語ること − 「いじめ」のリアリティの反映的達成」『教育・社会・文化』no.9.pp.1-16.京都大学大学院教育学研究科教育社会学講座(2003/7/30)
「生徒コード」を語ること − 「いじめ」のリアリティの反映的達成
'Telling the Pupil Code' as Reflexive Elaboration of 'Ijime'
石飛和彦
Kazuhiko ISHITOBI
0:はじめに
「いじめ」とは、共同体による排除の現象である。しかしその共同体は、具体的な次元においては不在である。例えば「音楽で実技のテストってありますよね・・・そんなときも、私が歌うときになると、みんながいっせいに耳をふさぎます」という訴えは明らかに「いじめ」の訴えだと了解できるが、そこでこの生徒が、実際に耳をふさいでいる人数を一々数え上げ確認したわけでないだろうし、実際に教室内の全員がそのとき耳をふさいでいたわけでもおそらくない。にもかかわらず、そこに「いじめ」が現象していること、また、それをおこなっているのがほかならぬ「みんな」(個別具体的に数え上げられる生徒A,B,C・・・ではなく、まさに「みんな」としか呼びようのないもの)であること、を、了解することはきわめて自然である(石飛(1999)参照)。「いじめ」とは、そういうものであり、「いじめ」が「不在の共同体」による排除の現象である、とは、そういう事態をいみしている(石飛(2001)(2002)参照)。
具体的な次元において不在である共同体を存立させているのは何か? − それは「言語」である、というのが、社会学の提起した解答である。しかしこの解答が、これまで執拗に誤解を生産してきた。すなわち、「いじめ」の基盤が「言語」にあるとするならば、それは「実体」をもたない幻想のようなものではないか、といった。
言うまでもなく、そういった見方は誤解である(この「誤解」は、単なる偶然の産物ではなく、客観主義的な視角とラベリング論/構築主義的な視角が共有しているある種の常識的な認識論が、システマティックに生産するものである(後述;石飛(1999)参照))。「いじめ」が言語的な次元に基盤を持っているとは、「不在の共同体」の現象が、「生徒コード」を語る言語的相互行為のなかに埋め込まれたかたちで存在している、という事態をいみしている(石飛(1999)(2001)(2002)参照)。社会的に流通している「いじめ言説」は、その相互行為のなかにあるやりかたで導入されることによって、具体的な相互行為の状況の中に編み込まれ、現実の一部として織り上げられていくこととなる。本稿は、ある会話データを辿りながら、「いじめ」「生徒コード」「不在の共同体」が相互行為の中でいかに現象しているかを辿ろうとするものである。
1:問題の所在 − 「いじめ言説」の相互行為状況への導入
1−1:「構築主義」的テキストにおける「言説」の位置
本稿の議論に先立って、まず、先行研究における「いじめ言説」の位置づけを見ておこう。例えば、北澤(1999)は「フィクションとしての「いじめ問題」」という論文の中で、ある有名な「いじめ」記述のテキスト、『私のいじめられ日記』(土屋・土屋(1993))を参照し、構築主義的な視点からの注目点を次のように示している:
さて問題は、この少女の「いじめられ経験」は、親しい友人から、あなたはいじめられていると忠告されたことからすべてがはじまっているということにある。そしてそれは、平成4年2月13日のことであったという。つまり少女は、この2月13日の友人の忠告によって、それまでに自分の経験したことを「いじめ」という枠組みのもとで再解釈をし、かつそれ以降の経験をすべて「いじめ」という枠組みによって、まさに現在進行形で経験していったということになる。いいかえれば、友人に忠告されるまでは、自分の経験を「いじめ」という言葉では理解していなかったということでもある。(p.97)
友人からの「あなたはいじめられている」との忠告が、少女の生活世界の中に「いじめ言説」を導入する。それ以降、彼女のあらゆる経験は、過去から現在にわたってすべて「いじめ」という枠組みによって意味づけられ(再)経験される − こうした構築主義的な描き方は、「いじめ」の経験にかんする当事者の記述をそっくり、当事者自身にそのような解釈実践を強いる「いじめ言説」の機能ぶりに関する説明へと読み替えさせる:「少女自身による、自分の経験に対する解釈の実践それ自体が、少女に「苦悩」を強いることになったのではないか」(同上)。こうして、構築主義的な視点は、「いじめ言説」と当事者の解釈実践との結びつきを強調することによって、実際に起こった諸々の出来事の次元と当事者の経験の次元との間に乖離を見出し強調することになる:
たとえば少女は、じぶんが「いじめられている」と気づくことではじめて、それまで信頼していた担任教師に相談をしている(友人とのトラブルで「苦しい」から相談したのではなく、自分の経験を「いじめ」ととらえたから相談したということに注目したい)。そして、自分が「いじめられている」ことの証拠となる生徒手帳や手紙などを教師に見せるのであるが、教師は少女の期待通りには対応しなかったようで、そのことで少女は教師を非難している。これは興味深いエピソードである。というのは、この日記を読む限り、生徒手帳が破られたり落書きされたりしたのは、2月13日「以前」の出来事であったはずである。とすれば、その当時、少女はその出来事を、少なくとも「いじめ」とは受け止めていなかったということになる。もしそうなら、本人でさえ「いじめ」とは思っていなかった出来事について、〈今は〉「いじめ」の証拠であると思うから、先生も私と同じように解釈してほしい(あるいは当然そうすべきである)と要求していることになる。そして、自分と同じ意味づけ方をしない先生は不当であると非難していることになる。(p.98)
ここに見られる北澤の議論は、なるほど論理的に首尾一貫しているように見える。しかし、やはり奇妙だ。確かに、彼女がほかならぬそのときに担任教師に相談に行ったのは、自分の経験を「いじめ」と捉えたためである、というのはその通りかもしれない。しかし、「いじめ」と捉えようが捉えまいが、教師に相談に行こうが行くまいが、私たちは生徒手帳を勝手に破られたくない。『私のいじめられ日記』の記述に挙げられている彼女の受けた行為のどれをとっても、私たちはされたくないし、仮にそんな行為を半年以上にわたって執拗に繰り返されれば、それを「いじめ」と捉えようが捉えまいが、教師に相談に行こうが行くまいが、苦痛に思って不思議はないだろうし、現に彼女は友人に忠告される以前に既に腹痛や疲れを訴えており、「日記」のそうした記述をことさらに疑う理由を私たちが持たないこともいうまでもない。
構築主義的な「いじめ言説」論は、あまりに性急に「いじめ言説」による効果と「いじめ」の成立とを等値していないだろうか? むろんそれによって、「言説」の次元に適切に照準し研究を進めていくことが可能となり、その次元での生産性を確保することが可能となる。そうした研究もまた「いじめ」の社会学にとって不可欠ではあるのだが、しかしそうした構築主義的研究の視点をふたたびそのまま「いじめ」の現象しているローカルな状況にさしもどすとき、現実を強力にアイロナイズするような歪率を帯びた主張を口にすることになってしまいはしないだろうか? 北澤の言う「言説の呪縛」とは、北澤自身の問題の立て方が「言説」の次元に照準しているためにそう見えているようなものなのではないだろうか? そしてそのことによって、不要な「批判」を誘発して不毛な論争に自らの足元をすくわれることになってはいないだろうか?
ごく自然に考えるならば、ある現実を「いじめ」と呼んだからいきなり「いじめ」になる、呼ばなければ「いじめ」にならない、という主張は、それだけでは、私たちの生きる日常的な世界をうまく言い当てるものではないだろう。本稿冒頭に述べたことを繰り返すならば、社会的に流通している「いじめ言説」は、ローカルな日常的相互行為のなかにあるやりかたで導入されることによって、具体的な相互行為の状況の中に編み込まれ、それによってはじめて、私たちの生きる現実の一部として織り上げられていくこととなるのである。以下に実際の会話データの中で辿ってみたいのは、そうしたありさまである。
1−2:「看破問題」と「探索手続き」 − ある会話データから
あるインタビューで、回答者のひとりの口から「いじめられてるもん」という言葉がこぼれる。これが出発点である。そこで何が起こっているか、見てみよう(回答者A、B、C、Dは中学2年生。Iはインタビュアー):
【 会話 1 】
A:イヤなこと言いや 普通学級に入って思ったこと
B:言っちゃえ言っちゃえ
C:あんな あれや 授業のときは耐えてたらいいねん
D:耐えてる・・・
C:クラブがしんどいねんクラブが
A:何で?
C:いじめられてるもん
D:おー
A:もう見捨てられてるの?
C:そんなもんちゃうやんか もう私なんか行ってもいじめられるねんで
I:何言われんの?
C:あの 5対5とかの練習やるときにグッパとかで決めんねんけどそんときに私と一緒になったら「ゲー」とか言ったり「えーCさんと一緒やー」とか言ったりして いやがって なんか 5対5やってるときも 私だけパスもらえなかったり
A:うそ!
B:それわざとっていうかあれなんちゃう?
A:あそびちゃう?
B:親しみを感じて
D:Cさんクラブ行かへんもん
C:だから1年行ってへんやんか 1年遅れてるから私ヘタやねん ヘタやからな結構パスしたらミスるからとかいう理由でパスしてもらえへん
なんのことはない、例えば私たちが誰かに、「私、いじめられてるねん」と言われたら、なによりまず「え、うそ、ほんとに!?」と応じるだろう。上の会話でも同じことが起こっている。Cの「いじめられてるもん」という言葉に対し、まずDが「おー」と相槌を打つことで、Cの言葉をさしあたり肯定も否定もしないでおきながらさらに詳しい説明を促す。そして、AとIの「もう見捨てられてるの?」「何言われんの?」という問いとそれに対するCの返答によって、Cの主張する「いじめ」の輪郭がひとまず描き出され − そこで、Aの「うそ!」という発話が出る。
この「うそ!」という発話は、こうした会話において構造的に出現するものである。H.サックスは、緊急精神治療所の電話相談の会話を分析しながら、自殺志願者の訴えが常に[本気/冗談]の決定不能な曖昧さに構造的にさらされていることに注目し、それを、訴え/聞き取る者に課される「看破問題」[detection problem]と名づけている(サックス(1972=1989))。ここでの「いじめ」の訴えに際してもこの「看破問題」 − その発話は本気なのか、比喩なのか、冗談なのか、勘違いなのか、あるいは・・・ − が問題となっている(この問題が適切に解決されない場合、「いじめ」を訴え/聞き取る両者にとって深刻な事態が発生するだろう)。そこで、「うそ!」である。したがって、この発話は、Cの「いじめられてるもん」という主張を単に否定するために用いられているのではなく、前後の会話の文脈を見てわかるとおり、Cの訴えの曖昧さを縮減するためにCの言う「いじめ」のリアリティを相互行為的に構成していく手続きの一つとして用いられているのである。
さて、ところで、上の会話を見る限りは、Cは結局、本当に「いじめられている」というわけではなかった、という結論をひとまず読み取ることができるだろう。「いじめられてる」とは、さしあたりはある種の比喩的な言い方のようなものだった、というわけである。それでは、ここでは何が起こっていたのか。それを「探索手続き」と呼ぶことにしよう。
「うそ!」というAの発話に続いて、まずBとAが連携して「それわざとっていうかあれなんちゃう?」「あそびちゃう?」「親しみを感じて」という形で解釈を提示し、さらにDは別の解釈、「Cさんクラブ行かへんもん」を提示し、それによってそれぞれ、Cが描き出した「事実」に「合理的説明」を与えようとしている。この会話からCが本当に「いじめられている」というわけではなかったという結論が読み取れるとすればそれは、Cが、そこで与えられた(Dの)解釈を採用しているからである。クラブの練習でパスをもらえないという「事実」に、「ヘタやから結構パスしたらミスるからとかいう理由でパスしてもらえへん」という合理的な説明を与えて自ら語ることによって、その「事実」を「いじめ」とする解釈は後景に退く。たしかにCは、クラブの中で「いやが」られたり、「私だけパスもらえなかったり」しているのだが、それにはそれなりの「合理的」理由があるものだとして、ここで正当化されているのである。逆に考えてみよう。もし仮にここでCが、A、BやDの提示する解釈を退けたらどうなっただろうか − おそらくは、A、B、Dはさらにいくつかの解釈を提示しただろうし、仮にそのすべてをCが退けたとしたら、そこではじめて − いかなる「合理的説明」によっても正当化の不可能な”理不尽さ”を帯びた、不当で不透明な排除の現実として − Cの「いじめられてる」という主張はリアリティをもって成立することになるだろう。そのとき、「いじめ」というリアリティは、単にCが主観的に経験している、という次元を超えて、この会話の参与者すべてにとって観察可能な客体として成立するだろう。そして、C自身にとってもまた、その時点であらためて、自分の主観的な「気のせい」ではないものとして「いじめ」のリアリティが成立しはじめることになるだろう。先に「探索手続き」と呼んだのは、こうした一連の協働的なプロセスのことである。
「いじめ言説」(ないし「いじめ」カテゴリー)が具体的な相互行為の状況の中に編み込まれるとは、さしあたりはまずこうした「探索手続き」のことである。こうした具体的な状況の中で、「いじめ言説」は、一つの、それ自体だけをとりあげれば決定不能な曖昧さを帯びた、断片的要素に過ぎない。相互行為の中に編みこまれることによってこそ、それは受肉されひとつのリアリティを獲得するのである。
さて、上の会話の中で見た「合理的説明」の提示、という手続きは、「いじめ」のリアリティをいわば外側から輪郭づけるものである。こんどは、「いじめ言説」が編み込まれていく相互行為状況のタテ糸の部分、「いじめ」をひとつの図として浮かび上がらせる地の部分、を見ていこう。それは、「生徒コード」を語る、という手続きからなるものである。
2:「生徒コード」と「いじめ」の語り
「生徒コード」については、別の機会に次のように定義した(石飛(2001)(2002)):
「生徒コード」とは、生徒たちが「不在の共同体」の共同体規範を言語的に可視化・定式化したものである
先の【会話1】でCによる「いじめられてるもん」という発話に続いた「探索手続き」は、挨拶の仕方や雰囲気や服装等々についての暗黙の規範の所在を巡る会話として展開した。それは、正当な現象と不当な排除とを見分け、また共同体(=「みんな」)にとっての正当性の基準=共同体規範を、「生徒コード」を語り合うことによって同定する、という手続きだということができる:
【 会話 2 】
C:Dちゃんいちばん(クラブ)出てるんじゃ
A:Dちゃん友達がいるもん
C:なあ Dちゃん友達がいるもん
D:友達つくらへんからわるいねやんか
B:そうそうそう
C:つくれへんもん
A:つくってもケイベツされんだもん
I:(笑)いばることじゃねえだろ
B:(笑)そういう行動するから
C:(笑)誇りに思ってどうすんねん
D:転校した日につくってしまわなあかん すぐつくらな
C:そんなことぜったい
D:うそや それはうそやけど
A:(Bと)試験を受けた日から友達だもんねー(笑)
C:(笑)二人で勝手に友達しやがって!
B:違う だってコワかったんだもん Cが
A:そうだよー
C:私かてこわかった
A:だって入試のときのかっこ見て 鏡で見てみーや
C:私は好きな服を着るのがおしゃれやと思ってんねん
B:聞いてよ 聞いてよ だってね 私ねCの隣にすわってたのにAに声かけられたそのぐらいCがコワかったんだよ
C:私かてこわかった
A:Cコワかったメガネかけて 赤いメガネかけて(笑)
ここでは、友達がいる/いない、なる/ならない、ということをめぐって会話が展開している。友達がいない、ということと、いじめられている、という事は、別の現象である。しかし、上の会話で描かれている出来事は、【会話1】でCが語った出来事にも似ているし、また、仮に「いじめ」というカテゴリーが導入されたとすればその中でエピソードとして語られても違和感のない出来事でもある。A、B、Cが同じ教室で入学試験を受け、Cの隣に座っていたBが、CではなくAと友達になる。そしてAとBは口をそろえてその時の理由を、Cが「コワかった」から、と言う。ここでは、見ようによっては、クラブでパスが回ってこない以上に強い「排除」が現象した、と見えなくもない。「コワかった」という言い方には、単なる偶然以上の感情的負荷と力学とが感じられるだろう。繰り返すならば、友達にならない、ということと、いじめる(シカトする)、という事は、別の現象である。しかし、「いじめ」というカテゴリーが導入され編みこまれる生地となるのは、具体的なローカルな状況の中のこういったエピソードの集積なのである。さらに詳しく見ていこう。
Aが、Bと「試験を受けた日から友達だもんねー」と言い、Cが「二人で勝手に友達しやがって!」と言う。その次のBの「違う」という言葉に注目しよう。何が「違う」というのだろうか? この「違う」が指しているのは、「二人が友達になったこと」ではなく、「勝手に」の部分であろうことは、文脈から読み取れるだろう。だとすれば、Bはここで、Cの発話を、AとBによる不当な(=「勝手」な)排除に対する告発のようなものと理解していることがわかる。それに対してBが「違う だってコワかったんだもん Cが」という発話は、従って、告発に対する説明、という役割をはたしていることがわかるだろう。同時にそれは、【発話1】で見られたような、「合理的説明の提示」という「いじめの探索手続き」と同型の手続きとなっている。では、「だってコワかったんだもん」という説明は、「ヘタやからパスしてもらえへん」という説明ほど合理的な正当化となるだろうか?
ここで、あらためて「コワかった」という言葉の意味を確認しなければならない。例えばCがナイフを振り回していれば、恐くて近寄れなかった、という説明は合理的な正当化となるだろう。しかし、上の会話での「コワかった」は、当然、そういう意味ではない。ここでの「コワかった」は、その時のCを異者として有徴化する表現と理解できるだろう。そのいみにおいて、「コワかった」という言葉は、無徴の(私たちみんな)という共同体からの排除を意味している。ただし、それが単なる排除であったなら、ここでの会話の中でのAやBのこれらの発話の目的 − 「入試のときにCを除けてAとBが友達になったこと」を現在のCに説得的に正当化する、という − は達せられない。この目的を達成するためには、Cが「コワかった」ことが、単にAとBだけの主観的な感覚ではなく「誰もがそう感じる」ものであること、そして、(Cが二度繰り返し「私かてこわかった」と主張しているような、入試のときに誰もが感じるであろう「こわさ」ではなく)まさにCがC自身の属性として(私たちみんな)から見て「コワかった」ということが、会話の中で確認されなければならない。そこで、Cがどういう意味でどのくらいコワかったか、という発話がA、Bによってなされる。「だって入試のときのかっこ見て 鏡で見てみーや」「聞いてよ 聞いてよ だってね 私ねCの隣にすわってたのにAに声かけられたそのぐらいCがコワかったんだよ」「Cコワかったメガネかけて 赤いメガネかけて」という発話がそれである(特に「Cの隣にすわって・・・」の発話は、内容を冷静に読むとあまり証明になっていないように見えながら、発話の形式は「・・・そのぐらいCがコワかったんだよ」となっている)。これらの発話のうち、「入試のときのかっこ」「赤いメガネ」という部分で参照されているのが、先に触れた「生徒コード」である。「赤いメガネ」は逸脱である、Cが「赤いメガネかけて」いた、とさえ言及すればそれによって排除が正当化される、というわけであり、そこで「コード」が語られ、それによって正当化が試みられていると見ることができるのである。
Cが赤いメガネをかけていること、に言及することによって、Cが逸脱していることを表現することができる − それはつまり、「赤いメガネをかけてはいけない」という規範が存在する、ということだろうか?
別の機会(石飛(2002))で用いた比喩を用いなおそう。私たちはふつう、「ふつうの歩き方」で歩いている。「変な歩き方」をしている人は、ひとめ見て、端的に、「変」だとわかる。その歩き方の何が変なのか − 例えばひどく猫背だとか、歩幅が小さすぎるとか、リズムがおかしいとか・・・ − については、その「変」さに言及するときにそのつど事後的に言語化されるのであって、「変」さそれ自体は、それら個々の項目に先立ってひとめ見て、端的に了解されている。私たち自身が歩くときも、「ふつう」に歩くためにそれらの項目の集積を一々念頭においてそれらに”従って”歩いているというわけではなく、端的に「ふつうに」歩いている。つまり、要するに私たちは、端的に、規範に従っているのであって、「猫背」「歩幅」「リズム」等々は、その逸脱とともに可視化され言語化されたものであり、それが、先に定義 −「不在の共同体」の共同体規範を言語的に可視化・定式化したもの − したいみにおける「コード」なのである。
赤いメガネをかけてもコワくならずに似合う子は世の中にたくさんいるだろう。その意味で、「赤いメガネ」に関する生徒コードとは、単純に「赤いメガネをかけてはいけない」というようなものではない。「コード」は状況の中に埋め込まれることによって初めて効力を発するのであり、この場合で言えば、具体的に赤いメガネをかけて(いたことに代表されるような)コワい印象だったそのときのCを見た、という具体的状況の中で、まずもって端的に「コワい」という判断がA、Bによってなされ、そこから遡行的に「赤いメガネ」に関するコードが言及され用いられた、というわけである。Cが「赤いメガネかけて」いた、と語ることは、従って、「コード」を語ることによってまた反映的[reflexive]に、ある共同体規範に言及することであり、その共同体規範が効力を持っている範囲内において − すなわち、赤いメガネをかけたCを一目見て端的にコワいと感じる感覚を持つ「みんな」の範囲内において − 合理性を保証し正当化を可能にするだろう。
ここで、Aの発話「だって入試のときのかっこ見て 鏡で見てみーや」に注目しよう。ここでAは、「入試のとき」のCが「コワかった」ということを、現在のC自身に認めさせようとしている。そしてAはここで、現在のCを「共同体」の内部者と見做し、当時のCの「コワさ」を、誰が見ても端的に了解することのできるようなものとして提示しようとしているのである。これは、ガーフィンケルの有名な実験を想起させる:
友達が私に、「急げよ、遅れるぜ」と言った。私は、遅れるってどういうことだ、何を基準にしてそう言えるんだ、と聞き返した。彼の顔には当惑と冷笑の表情が現れた。「なんでそんなばかばかしいこと聞くんだ? おれの言ったことを説明する必要はないよ。だいたいから、お前、今日、どこかおかしいんじゃない? なんでおれの言ったことをいちいち説明しなきゃいけないんだ? 誰だっておれの言っていることは理解できるし、おまえだってそうだろうが[Everyone understands my statements and you should be no exception]!」
(ガーフィンケル(1967=1989)、邦訳書p.44.)
そして、しかし − ここがおそらくCの持ち味なのだが − Cは、そうしたAやBの「説明」を、ここでは受け入れようとしない。過去のCをスケープゴートとすることによって現在のCをAやBと共通の共同体規範に内属させ、そのことによってさらに過去のAとBがCを除いて友達になったという事実を、「Cがコワかったため」という説明によって正当化しよう、というここでのAとBの会話上の一連の入念な手続きは、Cがそれに乗ってこないことによって、若干の不首尾に終わっているように見える。ここでのCは、ちょうどガーフィンケルの実験を行っている学生のように、共同体成員のありよう − 成員自身が共同体の共同性を、「コードを語ること」によって現象させている、という − を明るみに出しているのである。
3:語りの中に浮かぶ「不在の共同体」
3−1:共同体規範に内属する成員とその観察者
インタビューがさらに進んだところで、Cは、さらに明示的な形で、ある「共同体」に言及する:
【 会話 3 】
I:いつもそんなこと(普通学級への不満)言ってんのかクラスでは
D:言わない
A、B:この人だけ
C:この人たち日本人の扱い方に慣れてんですよ
A:まあ扱い方やね
D、I:扱い方!
A:扱い方やん
D:も、物みたいな
B:そうやん、Cだって日本人やんか
A:でもあんなんグループでいられたら物みたいなもんやん
B、D、I:ふーん
C:私はまだそういうのになれてへんねん 少人数のクラスで育ったやろ
D:そうやな
C:3人、3人やで中1が
I:うそー
A:あ、ばかにしたー(笑)
さて、ここで、若干の”種明かし”をしておこう。ここでインタビューを受けている4人は、ある学校の帰国子女学級のクラスメイトである。ここでCによって用いられている「日本人」というカテゴリーも、従って、そうした文脈で聞き取られるものである。
言うまでもなく、「普通学級」の生徒たちをCが「日本人」とカテゴリー化し、「日本人の扱い方」という表現を用いることは、奇妙であり、上の会話でそうであるように、聞くものを一瞬、たじろがせる。Bが「Cだって日本人やんか」と言うとおり、「日本人の扱い方」という表現は、通常、「日本人」とカテゴリー化される成員が自分で用いることはなく、「日本人」について成員以外が言及するときにこそ用いられるものだろう。そのことは、おそらくCも承知の上であり、上の会話でも結局は、「日本人」といったカテゴリー化を強硬に主張するよりは、「少人数のクラスで育った」という別の「説明」を提起している。
しかし、ここで「日本人」とカテゴリー化された「共同体」 − DやAの発話によって「物みたいなもの」と表現されもした、デュルケーム=ガーフィンケル的ないみで”社会的事実”性をおびた − は、さらにインタビューが進んだ時点で再び話題に取り上げられる。そこで、Cの説明は、Aを巻き込みながら興味深い展開を見せる:
【 会話 4 】
I:さっき(Cが)「日本人の扱い方」って言ったでしょう? あれってどういうこと?
D:そう、扱いってなんや!扱いとは。
C:(笑)なんかカメみたい。
A、B:(笑)え?
C:(笑)ネコの・・・
A:扱い方・・・っていうか、グループでいるのに慣れてない
B:慣れてないから
C:どうしたらさ、友達と仲良くつきあえるとか、何をしたら友達は喜ぶとか、それを知ってるんや
B:そんなんわかんないよねえうちらだってねえ
A:私だってわかんないそんなん
C:知ってるんだっちゅうに 本能 本・・・能的にやってしまうねんそういうこと
B:ないってそんな そんなことないって
C:ほな知るか
A:でも 意外とあっちの友達とやってること日本の友達にやったら軽蔑されるとこあるよ
I:どういうとこ?
A:あっちのやったら「やあ!」とか言ったらみんなさ、言うてくれるのに こっちの学校やったら白い目でジローっと見られるし(笑)
C:Aのやりかたが悪いんちゃうか? 「やあ」くらいやったらええけど「やあーっ!!」とかって思いっきりやるからあかんのやない(笑)
A:なんで、あっちでちゃんと挨拶してくれたで?
B:え、Aんとこって何クラスもあった?
A:4クラス。ふふふ(笑)
D:あんまり知らんからちゃう? あんまり知られてないから違う? ぼく「おー」ってったって 別にだってちゃんとやってくれるよ?
C:挨拶のしかたが違うねん な? いきなり窓あけてな、ピース、ピースしたりな
D:あ、そら(笑)
A:ちゃう、あれ 挨拶しただけやで?
I:ちゃんと知ってる人に挨拶するわけでしょ?
A:うん
B:はい
A:顔知ってる人
D:学校の中で知らん人?
C:それはコワいで?
A:話もしたことない人にね、顔知ってるからね、同じ2年だからね、「やあ」とか言ったら
D:あ、あー、そういう人
A:ちゃんとしてくれるけどね、慣れてきた人は無視すんねん
D:それはもうー んー なんちゅうの もう Aがもうー うっとうしい!と思ったんちゃう?
C:Aさあ、あれ そのへん歩いてても大声で呼び止めて(笑)なにかなーと思って 「バイバイー」とか(笑)するだけで終わりやろ?(笑)そういうとこが嫌なんちゃう?
A:だって人に嫌われるのって怖いやろ?
C:いやじゃないで別に。自分の信念貫き通して嫌われても別に
A:怖い人でもその人に嫌われるよりあいさつして友達のほうがまだましやん だから挨拶したら
C:な、限度があるやんか
A:挨拶に限度なんてない!
C:ある
A:ない(笑)
C:あるでー(笑)
A:じゃあどういう限度よー
C:だから白い目で見られないのと 普通に挨拶してくれる限度があんねん
ここでCは、本稿の文脈で「共同体規範」と呼んできたものに言及しようとしている。「どうしたらさ、友達と仲良くつきあえるとか、何をしたら友達は喜ぶとか、それを知ってるんや」というのは、まさにその共同体規範そのものを指しているだろう。興味深いのは、そうしたCの主張に対して、AとBが「そんなんわかんないよねえうちらだってねえ」と応じていることである。つまり、共同体規範は、共同体に内属している成員にとっては(我々が「ふつうの歩き方の規範」を一々参照することなく、端的に「ふつう」に歩いているのと同様に)、ことさら意識されないまま遂行されているのである。AとBの主張に対し、Cは「知ってるんだっちゅうに 本能 本・・・能的にやってしまうねんそういうこと」と主張しているが、この観察はきわめて正確である。ただし、Cがここで多少躊躇しながら選んだ「本能的に」という言葉を、我々は、「定義上」ないし「ハビトゥス」という表現に置き換えることが許されるだろう。共同体に内属している成員は、共同体規範を端的に、定義上(あたかも将棋の駒が将棋というゲームの世界に内属している限りにおいて定義上、自分がどう動きうるかを知っているのと同じ意味において)知りかつ遂行している、あるいは(どうしても心理学的語彙を用いたいというのであれば)ハビトゥスとして身に付けている、のである。それを、「日本人の扱い方」という、マニュアル的な規則群として把握しようとしているCは、ここで、共同体の外側に立っており、そして、その共同体を一群の共同体規範に内属する成員の集団として、言い当てようとしているわけである。
3−2:共同体規範の自己執行と反映的達成
会話の後半部では、Aが、「日本人の扱い方」という言葉に釣りだされるようなかたちで、自分のトラブルにかんするエピソードを提供している(Aは、【会話2】【会話3】で既に、共同体からの距離を語るCに微妙に同調する態度を見せており、それがここで前面に提起されたと見ていいだろう)。ここでAが用いた、「あっちの友達”と”やってること」という言い方は、Aが共同体に内属していたことを示し、一方、「日本の友達”に”やったら」という言い方は、Aが「日本の友達」の共同体と距離をもって関係していることを示しているだろう。またAはここで、”あっち”と”日本(こっち)”という対比を繰り返し強調することによって、自分のトラブルを、(多くの「帰国子女教育」論者と同様のやり方で)文化的差異の問題として提起しているように見える。しかし、その見方は、少なくともこの会話の中では受け入れられていないように見える。もしAのトラブルがAの提起するように日本文化の閉鎖性等々に起因するものであるとすれば、この会話の参与者たちにとってそれは非合理的で理不尽な排除・差別であり、いわゆる「帰国子女いじめ」の現象として理解されるだろう。そうすれば、同じ「帰国子女」どうしであるB、C、Dと連帯することが可能になるだろう。ところが、ここでは会話はそのような結論には到達していない。ここでもやはり、「探索手続き」が登場している。
ここでC、Dによって提起されるのは、Aの挨拶のやりかたのほうがわるいのではないか、という仮説であり、それが丹念に検討されている。すなわち、先にCの「赤いメガネ」についてA、Bがやっていたのと同じように、ここではAの挨拶のやりかたが、挨拶に関する「生徒コード」に違反している、だからAの挨拶に「みんな」は応えないのだ、というのが、ここで提起される「合理的説明」である。
さて、しかし、ここで言及されている、挨拶に関する「生徒コード」とは、いったいどのようなものだろうか? 例えばCによればそれは「「やあ」くらいやったらええけど「やあーっ!!」とかって思いっきりやるからあかん」といったものである。「コード」は、例えば「やあ」と「やあーっ!!」の間にある。しかし、「やあ」と「やあーっ!!」の間にあるナニモノカを、どうやって語ることができるのだろうか?
ここでCとDがおこなっているのは、Aの行動がどのような場合に「コード」に違反していたかを、具体的な状況の中に差し戻して、描き出し指し示してやることである。Cの提示する具体的な二つのケース「いきなり窓あけて・・・」「そのへん歩いてても大声で呼び止めて・・・」を受けてDが即座に「あ、そら」等々と相槌を打つ、また、Dの提示する「学校の中で知らん人?」に対しCが即座に「それはコワいで?」と相槌を打つ。「赤いメガネかけた」Cの「コワさ」がAとB(の内属する共同体)にとって即座に端的に、誰の目から見ても了解可能なものとして提示されたのと同じく、ここで行われているのは、Aのふるまいが「コード」に違反していることが即座に端的に了解可能であると示してみせる、という手続きである。
また、ここに見られるもう一つの探索手続きがある。Dが提示しているのは、「知ってる人/知らん人」という枠組みである。そこでは、「知らない人」にまで挨拶するのはコード違反なので、返事をされないのは合理的である、という仮説が提示されているだろう。「話もしたことない人にね・・・」というAの説明に「あ、あー、そういう人」とすぐさま割り込むのは、その仮説によってAのケースを解釈しうるという判断の提示だろう。ところがAは「・・・ちゃんとしてくれるけどね、慣れてきた人は無視すんねん」と続ける。このことによって、D主導で周到に積み重ねられ提示されてきた「知ってる人/知らん人」という枠組みは破壊され、「探索手続き」は、そこに排除の事実を見いださざるを得なくなる。
そこで、Dの(冗談めかした)「Aがもうー うっとうしい!と思ったんちゃう?」という発話、またそれを受けたCの発話がなされる。これは、挨拶への無視という排除の現象が、このばあいあながち「不当」なものには見えず、むしろAのコード違反を「うっとうしい」「そういうとこが嫌」と感じる共同体の感覚の方がより共感可能だ、とAに対して示すものであるように見える。「挨拶に限度なんてない!」と主張するAに対し「だから白い目で見られないのと 普通に挨拶してくれる限度があんねん」と応えるCの方が、この会話の中では説得力を獲得しているだろう。【会話4】の前半では、既に見たように「コード」の存在を否定していたAやBに対してむしろCの主張は劣性であったと見えるのだが、ここでAのエピソードを通じて会話が進むことによって、Cの主張 − 「生徒コード」の存在 − のほうにリアリティが出てきたことは興味深い(さきにAとともにCに反論していたBの発話が後半では少なくなっているということにも注目できるだろう)。「やあ」と「やあーっ!!」の間に見いだされた「生徒コード」はここで、Aがそれを逸脱したことをきっかけとして可視化され、Aの逸脱を肉付けるその同じ語りの中においてリアリティあるものとして反映的に受肉されているのである。
そしてこれらの発話は、共同体の感覚を代弁するCとDが、Aに、「コード」を示し説得しようとしているようにも見える。もしそれによってAが、「コード」を習得し(再び心理学的用語をもちいるなら”「ハビトゥス」を身につけ”て)、「ふつう」の挨拶をできるようになったとしたら − あるいは逆に、Aが「コード」を習得することなく完全に排除され共同体から切除されたとしてもそうなのだが − ここに見られるのは、共同体成員自身による、「生徒コード」の自己執行のプロセスであるといえよう。共同体は、このようなやりかたで、相互行為の「語り」の中において、秩序を自己執行的に達成しているのである。
3−3:「不在の共同体」のありか
さて、ここであらためて「共同体」とはどこにあるものなのか、検討してみよう。この一連の会話のきっかけとなった、【会話1】でのCの「いじめられてるもん」という発話が言及していたのは、「クラブ」の集団であった。そして、会話だけを見る限り、Cが用いた「いじめ」という表現は、ある種の比喩のようなものであり、クラブの集団の「共同体」的側面はそこでは問題とされず棄却された。【会話2】ではAとBがCを差し置いて友達になったことを語り合う際に、「赤いメガネ」をめぐる「生徒コード」が言及された。AとBはこの「コード」を、誰が見ても明らかであるものとして語り、”過去のC”を排除することで、”現在のC”を含めた「共同体」を提示しようとしていた。【会話3】では、Cによって「日本人」というカテゴリーへの言及が行われた。「この人たち日本人の扱い方に慣れてんですよ」という言い方は、「この人たち」を自分自身とともに「日本人」の外に置こうとするものである。それに対しB、Dは、そのカテゴリー使用に違和感を表明し、Cを含めたみんなが「日本人」なのだからそれに外側から語るようなやりかたで言及するのはおかしい、と主張し、むしろCを含めた全員を「日本人」の内側に取り込む手続きを行っている。ところがまた、AはむしろCに賛同して、「日本人」を外側から観察する立場に立って、「物みたいな」集団という「日本人」の共同体的側面を強調している。そして【会話4】では、Aは、みずからのエピソードを語りながら、「あっち/日本」という枠組みを提示することによって「日本」の共同体的な閉鎖性を主張し、それに対する「帰国子女」としての自分たち、というもうひとつの連帯との間の文化的葛藤としての「帰国子女いじめ」を描き出そうとした。ところが、CとDによって提示されたのは、A以外の誰の目にも見ることのできている挨拶に関する「コード」であり、Aもまたその「コード」を習得するように、いわば共同体になりかわってCとDが説得している様が見て取れた(言うまでもなく、Aにとってはそのこと自体が「不当」な差別として映るかもしれない − あるいはまた、本稿を書きまた読む筆者や読者の目にはどう映るのだろうか?)。
一連の会話を読むことによってわかるのは、「共同体」が会話の参与者たちによって常に重要な関心を持って参照されているということである。ところが、その「共同体」の具体的な範囲、あるいは誰が「共同体」に内属し誰が成員ではないか、は、一連の会話の中で常に揺れ動いている。まさにそれゆえにこそ、会話の参与者たちはそれぞれの会話場面でそれぞれのやりかたで「コード」や「共同体」に言及し、線引きを可視化することに大きな関心を抱いているのである。
「共同体」が具体的な次元において不在であり、相互行為によって言語的に存立する、というのは、このようないみにおいてである。「いじめ言説」が具体的な状況の中に導入されるのは、このようにして不断に織り上げられている日常的な相互行為の生地の一部として編み込まれていくことによってなのである。
4:おわりに
「構築主義」的テキストの中で北澤が、『私のいじめられ日記』の少女が「じぶんが「いじめられている」と気づくことではじめて、それまで信頼していた担任教師に相談をしている(友人とのトラブルで「苦しい」から相談したのではなく、自分の経験を「いじめ」ととらえたから相談したということに注目したい)」と述べていることは先に触れた。しかし、「いじめ」カテゴリーとは、サックスの研究が自殺志願者の語りの分析をもとに成員カテゴリーについて明らかにしたのと同様に、そもそも、誰に頼ることができ誰に頼ることが許されないかを指示するものであろう。「いじめ」カテゴリーは、もしそれに遭遇した場合に頼ることのできる有力な成員は「教師」である、と指示する内容を含むものであるだろう。そして、少女がそうした「いじめ」カテゴリーの導きに従って「教師」のもとに相談にいくことは、単に相談をするということだけではなく、「いじめの探索手続き」の一部としてでもあるだろう − もしその相談がうまくいかなかったら、そのときこそ、「いじめの探索手続き」が最終的結論として「誰も頼れる人がいない」という「いじめ」の完成を告げることになるのだ。そのとき、「いじめ」を行っている「共同体」は、少女の実践的推論において、「教師」カテゴリーをも含みうる範囲にまで論理的に(そして歯止めなく)拡大していくだろう − 「学校ぐるみ」の、あるいはそれ以上の・・・?
本稿で見てきた会話において、Cによって提起された「いじめ」カテゴリーは、そのようなかたちで受肉することを免れたように見える。しかし同時に、本稿の分析は、ほんの少しの何かのきっかけで「いじめ」カテゴリーが自己組織化を始めうるような、相互行為的な「生地」の織り上げのプロセスをも明らかにしただろう。「いじめ」にかんする言語的研究が具体的な次元において有効なものとなるためには、こうした具体的な相互行為状況の分析を欠くことはできないだろう。「いじめ」の言語的研究は、具体的な次元の中にその課題を再び見いだすことになるだろう。
【 文献 】
ガーフィンケル、H.(1967=1989)「日常活動の基盤」北澤・西阪訳『日常性の解剖学』マルジュ社
石飛和彦(1999)「「いじめ」の実践的行為の形式構造」『教育・社会・文化』no.6
− (2001)「教育問題と逸脱 − 「いじめ」をめぐる言説の布置」柴野編『文化伝達の社会学』世界思想社
− (2002)「生徒コード再考」『教育・社会・文化』no.8
北澤毅(1999)「フィクションとしての「いじめ問題」 − 言説の呪縛からの解放を求めて」古賀編『〈子ども問題〉からみた学校世界』教育出版
サックス、H.(1972=1989)「会話データの利用法」北澤・西阪前掲訳書
土屋怜・土屋守(1993)『私のいじめられ日記 先生、いいかげんにして!』青弓社