年代記断章

猫の爪、約定の時



はここで待つ。汝の時が至るのを。

 世界を南北に繋ぐ神代街道がひとつ、《大地の街道》が貫く門の都アラゾフ。今ここに、運命の舞台に上る三人の男女がいた‥‥

 伝書使、“鬼札”のギィ。愛妾の子とはいえ名家ロードン家に連なる身分なるも、彼は賭博と賭博と危険のもたらす興奮を愛し、気ままに生きてきた。携えるは謎の魔剣“猫”。黒き鞘には幾筋かの銀が走り、秘められた力を思わせる。しかしギィは鍛治屋に頼んで猫の彫刻を柄頭に刻むと、ただ“猫”と呼び伝書の旅の連れとしてきた。
 今度の手紙の宛先は、アラゾフが西、ラボーラ辺境に住むというメイス伯。厳重に封をなされた巻き物に差出人の名は無し。ギィは謎の手紙を懐にしまい、故郷アラゾフへ戻ってきた。

 馬車に揺られ、北から《大地の街道》を通ってやってきたは二人。
薬商人と名乗る女エルノア。黒い髪に白い肌、静かな口調は硬質の美しさを思わせる。
 さりとて商人は仮の姿。北原に悪名高き暗殺集団、ギュラニン党の“黒薔薇”のエルノアは指令を受けてここまでやってきた。目標はやはりラボーラ辺境のメイス伯。生否もしれぬこの一族の調査、及び生きていた場合は全員の抹殺‥‥
 エルノアと馬車で友人となったは若き海王のまじない師、“三つ目”のナタン。その目は泉の如き青、水盤占いの一族の血を引く者、代々女に受け継がれし幻視の力持つ唯一の男。ナタン誕生直後に自害し、死霊となって孫を導いてきた“真語りの巫女”サリネアと共に、田舎の川から旅してきた。携える魔法水晶は、ラボーラのある街のまじない師に渡す手はずになっていたが‥‥

人旅は危険な世、辺境に向かうには隊商と共に行くが定石。聞けば明後日に出発する商人クレイズの一隊が目的地も同じとのこと。酒場で手はずを決めた時、三人は偶然に邂逅を果たした‥‥
「アラゾフはオレの庭だ」と豪語するギィに連れられ、ナタンは共に歓楽街へ。ギィが銀貨を少し分け、馴染みの娼舘へと二人は入った。
 田舎者のナタンは街の女に舞い上がり、浮かれて一夜を過ごす。夢の中で、ナタンを育ててきた水盤占い一族の女たちが警告する‥‥
 ギィは前より知り合いの娼婦ミレを抱く。一瞬の幻視の中に、浮かび上がるのは見事な長剣が砕け散り、破片のひとつが飛び散る光景。目を覚ますと、寝台に立てかけた魔剣“猫”が目に入った。剣のせいで痩せたギィの脇腹を撫で、あのような剣は手放してと頼むミレ。だがギィは何も答えなかった。

 一方、一人宿に残ったエルノアは男共の行き先は詮索せずに静かに部屋へ。荷物の中は薬草、飲み薬の類。だが二重底の鞄の奥には、鉄爪やトートの毒も整然と並んでいるのだ‥‥。

けといえば、九十とひとつの札賭博。翌日、路銀の残り少ないナタンの背を押すように、ギィは賭博場へと赴いた。相手を負かして上機嫌のギィに、飢えた“猫”が「血が足りぬ」と囁く。人通りの多い往来、どぶ鼠もいない。ギィは鯉口をずらすと、自分の手を切って血を刀身に這わせた。
「今は我慢してやろう、主よ。今は‥‥」“猫”は震えるのをやめる。ナタンは前より不思議に思っていたギィの剣を改めて見遣った。柄頭に刻まれたおかしな猫の彫刻。幻視の力を持つナタンは、剣の持つ強い魔力を感じ取った‥‥。
 エルノアはアラゾフの街に潜むギュラニン党の繋ぎと連絡を取る。メイス伯爵という人物はこの街の誰も知らないという。既に死んでいる可能性もあると。党のためにただ真偽だけでも確かめてきてほしいという。暗殺依頼は、ある魔道師の遺言だというのだが‥‥
 その夜には商隊のクレイズもやってきた。彼に妻がいるかどうかで賭けていたギィとナタンの勝負はまたもギィが勝つ。

立の朝。関門領の辺りには、人を食らう馬の民チェタリも出る。ナタンは旅の安全を水盤で占うことにした。
 澄んだ水の中に現れては消える千々の情景。鏡の前に倒れる女、湖畔の城砦で招く女の幻――その顔はエルノアと同じ。何者かに呟く白き衣の魔道師。誰かの手から離れていく“猫”。波紋の中に全ては消えてしまった。道中の安全を宣言し、ナタンはエルノアに行かないようにと、ギィには娼婦ミレを大切にするようにと忠告する。
 エルノアは、自分の暗殺を目撃するであろう彼らも始末せねばならないのか‥‥と考えを巡らすのであった。

たして、さしたる騒ぎもなく旅はつつがなく進んだ。
 ナタンはギィに、母違いの兄ロードンのことを尋ねるが、ギィは正当な血を引く兄など気にしていない模様。やがて話は独り者のエルノアの相手のことになった。
 彼女が結婚するかの賭けにナタンは「あなたが落とすんじゃないですか?」と答える。結局掛金は銀貨一枚となった。

は鷹鍋、翌日に、大地の街道を外れてラドーラのある街へと入る。クライズの商隊とはこの街で別れる。ナタンが魔法水晶を渡すはずだった魔道師は、この街には住んでいなかった。

 ここより二、三日の距離というにメイス伯を知る者はまったくおらず。領地を治める伯爵ではなく、隠棲していることも考えられる。
 メイス伯の家来の数は奇数か偶数か、今度はこの賭けに乗り出すギイを見遣り、エルノアは「ギィのような人なら長生きするわ。ナタン、あなたはそうではない。気をつけて」と答えつつも落ち着かぬ。近日より、自分と同じ顔をした女が朽ち果てた城塞へと誘う夢を何度も見ていたのだ。
 ギィの様子は変わらず、アラゾフに戻りし時、三人が何人になっているか当った方に食事を奢る賭けをする。ギィはエルノアがいない方に掛け、ナタンは三人に賭けた。
 自分の賭けが当たるよう、この旅で知り合った友人たちが無事でいるよう、ナタンは今後も二人に同行するのを決意する‥‥

つては賑やかであったであろう、斜陽の村が道の途中に。村の住人たちもメイス伯のところへは何十年も行っていないという。一番年寄りの老婆が一行の問いに答えてくれた。自分が若い頃、家来と大きな鏡を携えてやってきた伯爵がいたと。だがその後、後魔道師らしき一団が村を通り城塞へ赴き、そして帰ってきたと。城跡へは二度と近づくなと告げたと。
 老婆の記憶にある魔道師は白と青の紋章、羽根のついた白い仮面。ナタンは気がついた。恐らくは、異端の魔道師たちと戦うグラム魔道師学院の典礼監視団。そして、一行が夢に度々見た姿も同じ‥‥

 ナタンは、エルノアの目的――人の住んでいない地域の薬草を取りに行くというのは嘘であろうことを見破る。さりとてここまで来て引き返すわけにもゆかぬ。そして、その夜、またしても様々な幻が三人を悩ました。
「エルノア、我が一族最後の生き残り、さあ我が元へ、我らが遺志を‥‥」
 城塞を背景に、またしてもエルノアを導く女性。その姿は透き通り、翼人座の魔力すら感じさせる。
 十二とひとつの塔聳ゆるる壮麗なる都。宮殿の一室にて、居並ぶ配下の前で微笑む美しい太守の姿。その側に控える銀髪の青年。その腰に光るのは、黒き鞘に銀の筋が紋章刻む美しき剣――ギィの魔剣“猫”と同じもの。
 そしてナタンは、自らが“猫”に貫かれる不吉な夢を見た‥‥
 今朝出立すれば伯爵領に着こうという時。ナタンは死霊となった祖母サリネアを呼び、水盤占いを始める。「ナタン、なにがあろうともそなたは我が一族の大切な末裔。ゆめゆめそれを忘れるでない‥‥」

車の王の務めも終わり、日も沈もうという夕刻。三人は朽ち果てた城塞へと到着した。
「我が名はギーグルス・ダルタンティラス、妖精王国の伝書使。文を届けにここまで来た」
 ギィの声も空しく響く。生きた住人は動物だけ。
 門を開けると一行は中へ踏み込んだ。大広間の奥には、鏡を象った大きな一枚絵。そこでまたしてもエルノアを導く声がはっきりと聞こえた。地下への階段へ、暗い廊下へ、大扉へ。松明に火を点け、三人は扉を開く。

の場所こそ我が故郷。これだけは決して忘れない。

「エルノア、よく来た‥‥我がメイス一族の最後のひとり、古鏡団の遺志を継ぐひとり。我が名はリシャール・メイス、そなたの母の妹にあたる。そなたの双子の姉ジーナは志半ばで果てた」
 台のみ残る砕け散った鏡の残骸。ふわりと浮かぶ女性の幻影。エルノアとよく似た顔、ただ貴族の衣装と気品ある姿。たびたび一行を導いた死霊はエルノアのまことの血筋を語った。
 北原の慣例により双子の妹であったエルノアは川に流され、今の暗殺者となった。だが姉ジーナはメイス一族、美しき太守イルティスを敬う魔族教団『古鏡団』の数少ない生き残りとして育ち、かつて妖精騎士団に滅ぼされた教団の再建のために各地を旅した。だが志し半ばで魔道師学院に屠られ、今や残ったのはエルノアだけだという‥‥
「我らが遺志を継ぎ、一族再興の為に尽くしておくれ。そなたの本当の身分は金で人を殺める殺し屋などではない。メイス家の正当な後継者なのだ」
 リシャールは続ける。
「そなたには強い味方がおる。その剣がそなたをイルティス様の元へと導き、同志を探す旅路にて王者の威厳を与えよう。そう、そこな魔剣『鏡の爪』が汝を助けるのじゃ‥‥」

「手紙は確かに渡した。オレは帰るぞ」
 メイス伯への手紙を亡霊の元へ投げつけ、下がろうとしたギィは体が動かぬのを感じる。主の体を縛りしは魔剣“猫”であった。
「そうはゆかぬ。今こそ約定の時」
“猫”と呼ばれた魔剣の声が広間に響く。
「鬼札のギィ、ここまで私を運んでくれた事には礼を言おう」

 ギィは常にありし“猫”の強力な魔力が全身から突如消えていくのを感じた。長年共に旅してきた魔剣が、今や彼を主と見なさなくなったのだ。
「そなたの使いようには辟易していたがそれもここまで。鬼札のギィ、そなたは我が爪にかける価値なし。一人で生き、そして死ぬがよい」
 ギィは愕然としながらも心を決めると、エルノアに剣を渡した。「じゃあな」短く告げると彼は地下の広間を後にする。

「我が真の名は『鏡の爪』」
 エルノアの手に握られた魔剣が語る。
「かつて美しき太守イルティス殿下に仕えし忠実なる家臣、鏡の狩人ケテアドール様の携えた剣がこの名を持っていた。鏡の長剣が破壊されし時、その破片から生まれた我に宿りしこそその魂」
「その剣のまことの力は封じられておる」死霊となったリシャールが続ける。
「強い魔力を持った人の子を贄に捧げることで解放される。たとえばそこの‥‥溢れる海王の座の魔力を持つ‥‥若い男じゃ」
 エルノアは今までの暗殺者としての人生を思い出し、剣の意志に抗う。魔剣『鏡の爪』は震えるのをやめた。
「それは我が流儀にあらず」
 そして、エルノアは刃を死霊のリシャールに向けた。
「我が名は黒薔薇のエルノア。メイス家のエルノアではない」
 叙事詩もかくやと思わせる一撃。死霊すら切り裂く湾曲した刃が、怨念に縛られた死霊を両断する。
「なぜ‥‥このわたしを斬ると言うのか‥‥!」
 無念の思いで言い残し、死霊は葦原の国へと消えていった。
 今やエルノアが踏み込んだは人ならぬ道。旅路で知り合ったよき友が変わってしまったことを悟ると、ナタンは地下広間を急ぎ後にした‥‥

ちたる時は来た。今宵こそは故郷に戻るとしよう。

 遥か中原で自分の身に降りかかった災厄。ナタンは故郷の川の大切さ、常々反発していた祖母と一族の大切さを思い出し、北へ帰る事を決心する。アラゾフの門をくぐりしはギィとナタンの二人、賭けはナタンの負けであった。
「賭けは当たった。あなたのことは忘れないよ」
 夕食を奢りながら、ナタンはギィと握手を交わす。

葉より行動が全てを現す。例え多少遅れても、現実は力強い。

 エルノアと一年後、ナタンとはいつかまた会う約束は未だ忘れず。だが魔剣“猫”のことは全て忘れ、“鬼札”のギィはアラゾフの街へ。
 いつもの如く賭けをしないかとの問いに、伝書使の元締めは「あんたがその賭け好きをやめないことに賭けるよ」と笑う。
 そして娼婦ミレは、自分の元には戻らぬあの伝書使の男が、不思議な剣を手放したことを噂で聞いた・・・・

りは終わった。今はひとたびの休息を楽しむとしよう。

 アラゾフに戻る二人を丘の上から眺めるエルノア。魔剣を手に彼女は今後のことに考えを巡らせた。志半ばで果てた双子の姉、翼人座の魔道師らと魔道師学院へは復讐せねばならぬ。とはいえ未だ彼女もギュラニン党に属する身、毒匠ドゥレーヒに率いられた暗殺団も排除せねばならぬ。
 想いに耽ける彼女の腰に光るのは、銀の筋光る黒き魔剣『鏡の爪』であった。

 何処よりか光射しこむ城砦跡。この地に縛られた死霊も消えた。誰もいない広間にあるは、ギィが死人に届けた一通の手紙。
 封が解け、巻物が開く。
 そに書かれしはただ一文。

はここで待つ。汝の時が至るのを。

 

銀の仕切り線なり。
.........『ア・ルア・イーの魔道書』《物語の書》年代記断章 猫の爪 約定の時.........

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