らいぶらりぃ
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サイトウキネン・フェスティバル/イェヌーファ

●日 時2001年9月5日(水)18時開演
●会 場松本文化会館
●演 目ヤナーチェク/歌劇「イェヌーファ」
●出 演イェヌーファ:エレナ・プロキナ
コステルニチカ:ジェーン・ヘンシェル
ラツァ:ステファン・マルギタ
シュテヴァ:デイヴィッド・キープラー
ブリヤ家の女主人:メナイ・デイヴィース
製粉所の番頭:ラッセル・スマイト
村長:ピート・ヴァンシシェン
村長夫人:ミレイユ・キャベル
カロルカ:アン・カンピエ
小澤征爾指揮サイトウキネン・オーケストラ
東京オペラシンガーズ
演出:ロバート・カーセン

 2年ぶりに「サイトウキネン・フェスティバル」に行ってきました。見てきたのは、オペラ公演で、ヤナーチェクの「イェヌーファ」です。最初、この公演内容を聞いた時は、「イェヌーファ」ってどんなオペラ?って感じだったのですが、なかなかどうして、素晴らしい作品でした。しっかりと予習もしていったので、公演にも集中することができました。

 さて、この作品、簡単に言うてしまえば、浮気男の子供を身籠った女性が、無事に出産をするが、結婚もしていない以上、そのことは隠さないといけない、しかし男は結婚しようとはせずに、他の女性と婚約してしまう、そこへその男の異母弟が出てきて、その女性を愛しているという、それをきいて、女性の母親(継母)は、生まれたばかりの子供を川に投げて殺してしまう、後日、その女性と男の異母弟との2人が結婚をしようという時になって、その子供の遺体が発見され、女性に疑惑がかかるが、最後は、母親が罪を明らかにする、といった内容。現代社会においても、普通に起こりうるような事件ですね。(頻発するのも考えものですが。)しかし、ヤナーチェクはこの作品を通じて、人間の持つ、白黒はっきりしない感情の流れ、うねりというものを表わし、本来的な人間性というものを、はっきりと表現しているかのように見えます。何が善で何が悪、ということははっきりしていないのですね、この作品では。とかく感情に翻弄されていく人間のパワフルさ、或はもろさのようなものが前面に出てくるのです。だから、等身大の人間臭さみたいなものがくっきりと浮かび上がり、それが、何とも言えない感動を呼び起こす、そんなふうに思います。

 そして、そういう人間臭さが一番、はっきりと出ているのが、タイトルになっている”イェヌーファ”ではなくて、実はその継母の”コステルニチカ”なのです。彼女こそが、実際はこのオペラの主人公なのだと言うてもいいと思います。1幕でこそ厳格な性格が強く出ていますが、2幕になると、娘への愛情と男の裏切りへの復讐心、神への怖れと自己愛といった様々な面が顔を覗かせます。それらは決して別々の人格とかではなく、全く1個の人間の中にある性格の全てなのですね。いろんな性格がごちゃ混ぜになって、1人の人間が形成されている、そのことを正面から見据えていると言うていいのでしょう。そして、3幕になり、罪或は罰への怖れと、最後は再び厳格さ(ただし今度は自己に対するもの)とが出てくる、この流れを極めて自然な流れとして演じるというのは、それなりの力量がないといけないと思うのです。でも、このコステルニチカを演じていたヘンシェルさんの演技は、とっても素晴らしいもので、全然違和感とかを感じさせないものでした。その存在感のある声で堂々と歌っていたということもありますが、でも、演技の面でも、1人の女性がどう考えてどう感じて、どう行動するのか、ということをまざまざと見せつけられるような演技でした。彼女に対して、一番大きな拍手が起こるのもうなずけます。

 そんな彼女のシーンで、一番印象的なのは、2幕での決断をする場面です。子供を殺すという一大決心をするシーン、舞台は、彼女の周りだけが白く浮かび上がり、他の所はまっ暗な状態。その白い光の中で、どんどんと思い詰めていく様は、実に緊張感に満ちていて、こちらもつい、引き込まれてしまいます。音楽の方も極めてストレートに盛り上がってくるのですが、それに合せて、ヘンシェルさんの声も、更に強く響き渡って、それはもう、この苦しみから誰も抜け出せない、というような圧迫感を持って、私達の上にかぶさってきます。こんなにも張り詰めた思いで迫ってくる音楽は、他にはないだろうというらいです。いやはや、すさまじいものでした。そして、ここの緊張感があるからこそ、3幕の最後に、自らの罪を告白するシーンが、更に厳かな雰囲気を持ってくるのだとも思うのです。最後、子供の遺体発見の報に騒然としている中に、彼女の凛とした声が響き渡り、自らの罪を告白する、その声は、2幕の時のような、どこか恐怖心のある震えたような声ではなく、決然とした態度で臨もうと、ある種の覚悟をしたものなのですね。ヘンシェルさんの凛とした声は、そのことをはっきりと語っており、人間とは、かくも美しくあるものなのかということを、見せつけてくれるのでした。何とも奥の深い演奏です。

 そう、その奥の深さというのは、ヤナーチェクの音楽自体が奥深いものであるということに他ありません。先にも書いたように、本来の人間性、様々な感情とかが混沌としたカオスの状態としての人間というもの、これをヤナーチェク自身がはっきりと認識して、それを極めてストレートに、そして効果的に表現しようと、様々な工夫が随所にこらされているのです。感情が昂ぶる時は、すっとストレートに曲調が盛り上がってきますし、心が沈み込んでしまう時は、ずっしりと音楽も沈み込む、それらの動きがとっても直線的で、割と短い時間で、さっと動くのです。そのストレートさが、私達の心にもダイレクトに伝わってきて、他では味わえない感動を呼び起こすのですね。また、そういう動きだけでなくて、随所に出てくる総休止、これがまたいいんですね。一瞬、音楽がぴたりと止まり、まさに真空状態、何も音がしない静寂な瞬間があるのです。これがあるから、余計に、直線的な動きが引き立ち、さらに感動を大きくしているのです。また、1幕の終り方が、何か中途半端なのも、そう。次の幕への期待感というものをぷんぷんと匂わせながら終るから、この段階でもう、2幕の感動を呼び起こす準備ができている、と言うてもいいでしょう。ヤナーチェクって、正直なところ、「グラゴル・ミサ」くらいしか、ちゃんと聴いたことがなかったのですが、実に素場らしい曲を書いているのですね。恐るべし、ヤナーチェク、です。(^^; もちろん、そうした音楽の素晴らしさを引き出しているのが、小澤さん指揮のSKOの皆さんであるということも忘れちゃいけませんが。

 さて、コステルニチカ以外の人物ですが、イェヌーファのプロキナさんは見事な演技力が光っていました。2幕での、眠っている間に、コステルニチカに子供を殺され、その子供の死を嘆くシーンなどでは、本当に涙を流して泣いているし(と、オペラグラスで見ていた妻が証言してます。^^;)、一番最後の、愛するラツァと結ばれるシーンでは、ほんまにキスをしてるし、まさに本格的な演技派女優、ってなもんです。1幕でのやんちゃな感じから、2幕での嘆き、3幕で再び希望へ、とドラマティックに揺れ動く彼女の人生そのものを、まさに等身大のままに、すっかり自分のものとして、演じている、その自然な振る舞いが、余計に感動を与えてくれた、そんな気もします。もちろん、彼女は、演技だけでなくて、その声も美しくて、すぅっと響く声は、ほんと素敵なものです。声の表情も豊かで、ダイナミックなまでの歌は、実に聴きごたえがあります。先にも書いた、2幕の泣くシーンでは、涙を流しながら、声も泣いているのです。どうしても、他のオペラなんかだと、どこかに”嘘”っぽいものが感じられることがあるのですが、今日のはそういうものが一切ない、それは、彼女のこういう演技&歌唱があるから、と言えるでしょう。いやはや、すごいものです。

 一方、男声陣は、最初にイェヌーファとつき合っていたシュテヴァと、最後にイェヌーファと結ばれるラツァ、この2人が対称的な性格の人間として出てきます。でも、実際のラツァのマルギタさんと、シュテヴァのキープラーさんとは、割と似た声に聴こえなくもありません。特にマルギタさんは、最初に発表されていたキャストの代役として出てこられたようで、最初の1幕では、ちょっと緊張しているのかなというような固さが見られました。妙に軽々しいのも、むしろ、彼がシュテヴァでもいいんじゃない?と思わせるような感じです。でも、次第に彼のその軽々しい声は、切々とイェヌーファへの想いを歌い上げるものへと変わってくるのです。その朗々とした声は、ラツァの想いを訴えるには十分すぎるほどの説得力を持っていて、聴きほれてしまいます。特に2幕でイェヌーファに告白をするシーンなど、たまらなく素敵でした。

 ところで、今回の舞台は、最初の1幕冒頭では、中央部を囲むように、白い壁板や扉板が立っているのです。地面にはほんまの土を敷き詰めていて、ただそれだけの舞台なのです。実にシンプルだなぁ、と思っていると、実はこれもまた、奥深い意図があっての演出だったのですね。音楽が始まると、村の人々が、壁板の隙間やその窓から、中を覗き込んでいます。そして、すぐに舞台前面部に並ぶ壁板が、取り外されて、私達にも中の様子が見えるようになります。そうして1幕は進行していき、次に2幕。また、人々が中を覗き込んでいるシーンから始まります。そうして、またそれぞれの人が壁板を持ち上げて移動し、コステルニチカの家を作り上げていき、そうして、話が進んでいくのです。そして、3幕、結婚式に集まってきた村人達は、やはり壁板の外から中を覗き込んでいます。が、そこへ、子供の遺体が見つかった、との報が入り、騒然としながら、イェヌーファが、あれは自分の子供だ、と言うと、何も知らぬ人々は、騒ぎ立てて、壁板とかを持ち上げていきます。おいおい、人の家を壊すなっちゅうねん、と思っていると、その壁板を上に持ち上げて、皆でイェヌーファを責めようという姿勢に。事態はその後に、コスタルニチカが自らの罪を告白をして、ひとまず治まるのですが、そうして、皆が退場していくと、後に残ったのは、何もない大地にたたずむイェヌーファとラツァの2人。そして、お互いの愛を確認しあって、幕となるのです。この流れから見えてくるのは、壁板とかが、他人には見せたくないというような、人のプライバシーとか秘密とかいうものを抽象的に表現しているのでは、ということです。周りから見ているだけで、何も分からない、その中では、様々なドラマが展開している、それは誰にも見られてはならないものであり、それを保つことが、或いは世間体よくやっていくということであり、そういう努力をすることが生きていくということである、しかし、周囲はどうしても、何でも好奇の目で見ようとする、ゴシップや根も葉もない噂が絶えないのも、そういう好奇心があるから、そして、秘密というのは決して隠せ通せるものでなく、いつかは暴露されてしまうものでもある、暴露された時に、周囲はそれをどうやって受け入れていけばいいのか…と、普段の私達の生活そのものに非常に密着した事象を、この作品は取り扱っているのだということに気付くのです。そういう人間の根本的な行動心理というものを、カーセンさんの演出は、見事にうまく表現していたと言うていいでしょう。

 さて、一番印象的なシーンは、と言うと、やはりラストの部分でしょうか。残されたイェヌーファとラツァがお互いの愛を確認して、これから困難が続くであろう将来も、2人で力を合わせて切り開いていこうというところ。何もない大地の上に立っているという極めてシンプルなシーンですが、だからこそ、余計にこの2人の愛情というものが引き立っているのですね。そして、突然降り出す雨。ほんまに水を舞台に降らせているのです。その霧雨のような雨を照明が照らして、何か幻想的な雰囲気を出している中、2人は抱き合い、キスを交わして愛しあう、いや、そのシーンの何と美しいこと!…愛情こそが、人間が前向きに明るく生きていこうという力である、ということをまざまざと見せつけられたような気がします。ほんと、素敵でした。

 今回でサイトウキネンのオペラ公演は3回目だったのですが、前に見た「カルメル会の修道女」や「ファウストの劫罰」とは違い、派手な演出とかはありませんが、この「イェヌーファ」はどちらかというと地味な感じながらも、実に深い感動を与えてくれるものだったと思います。そして、この公演を、1Fの前から4列目の右の端の方という、舞台に近い所で見ることができたのは、ほんとにラッキーでした。出演者の皆さんの息とかが直に伝わってくるから、余計に感動が伝わってくるのです。ただ、席の場所の関係か、出演者の声の響きが上の方に抜けてしまって、この席の場所ではちょっと聴こえづらいという部分があったのは、ちょっと残念でもありました。でも、年に1度、わざわざ松本までやってきただけの価値は十二分にある、素晴らしすぎる公演でした。(さて、来年はどうしようかな…?)