05/02
1988年「歌のトップテン」翌日にコンサートを控えた彼ら、この日は金沢市のルネスかなざわと言うところからの中継でした。ここはプールなども見えるのでスポーツセンターなのかな? でも中継してたのは屋外で、V6達成のお祝いに、それぞれメッセージを書いた短冊をつけた風船をひとり6個ずつ飛ばしました。この日の金沢市は西の風が3mとのことで、富山方面に風船は飛んで行ったようですが、誰かファンの人でこの風船を拾った人はいるのでしょうか?
歌はそのままプールサイドで歌い、間奏のアニメの後、着ていたストライプのジャケットとTシャツを脱いでG短パンひとつになっていた彼らは、歌が終わると同時にプールに飛び込みました。プールに飛び込むにはまだ寒いと思うし、屋外だから温水プールではないと思うのだけど風邪なんか引かなかったかなって、ちょっと心配…。
「GENJI GENKI 爆発」オープニング、ちょっとテープが欠けちゃってるので、どういう言い出し方だったかわからないのですが、生まれ変わったら、何になりたいかと言う話。淳くんは鳥になりたいと言ったのかな!? 諸星くんにハゲタカとか言われてますが、その後、諸星くんは「山本はもっと可愛らしい感じで…」と言ってしばらく悩むもピッタリくる鳥が思いつかなかったようで、駄目だ、鳥には向いてないと言ってました。晃くんは足の速い動物。敦くんも鳥になりたいと言ったら、名古屋コーチンと喋りたいんですねなんて言われてました。寛くんは電柱になりたいそうで、いつも同じ場所にいられて落ち着くからと言うのがその理由。諸星くんはこの道一筋で人間。
いきなり電話。すぐ泣いてしまう弟に、泣かないように言ってやってくださいとの葉書をくれた人に電話しました。その女の子の名前が読めないらしくて、電話を掛けて焦る諸星くん…。電話にはその弟くんが出て、諸星くんと結構喋って、11歳だと言うその子はすぐ泣くと自分でも言ってたけれど、ハキハキしてなかなかしっかりした子のようでした。葉書を出したお姉さんの方もいきなりの電話だったのに、ずいぶん冷静でしたね。
葉書紹介。まずは寛くんが肩幅が44cmもあるのを悩んでいる女の子からの葉書を紹介。この人は赤毛でクセ毛の髪にも悩んでいるとのことで、それは赤坂くんがいいですねと諸星くん。晃くんはクセ毛は切らない方がいい、長い方が便利だと思うとのお答えでした。切る切らないは自分の意志で決めてくださいと言いつつ、メンバーは切らない方がいいとの意見が多かったです。肩幅についてはモデルみたいで格好良いんじゃないですかと。
続いて晃くんが読んだのは、鳥を飼うことになったので、可愛い名前を考えてくださいとの葉書。突然、うちは太郎と花子でしたねと言い出す淳くん。「うちは…」って、淳くん、鳥飼ってたっけ? ウサギを飼ってた時も花子と言う名前だったそう。諸星くんはカズミちゃんとか、コウジとか、ミッキーとか、アツヒロ、アキラ、ジュンイチ…ジュン、ヒロユキなどと言って、鳥だからフライドチキンとか、カーネルサンダースとかと言って、諸星くんのお兄さんがカーネルサンダースを持ち出して、返して欲しかったらフライドチキンを3本用意しろと脅迫したけど、相手にされずに、怒ったお兄さんはカーネルサンダースの首を切って、薬局屋の前のゾウさんの首に付け替えたって話が脱線。ま、これは作り話だったようですが…。話戻して鳥の名前のこと。でも諸星くんは今度はジャニーさんとかメリーさんだの言って、結局鳥の顔を見てパッと浮かんだ名前にすれば良いと言うことで、自分で付ければいいと非協力的なお答えでした。
1990年横浜初日。この年は6日まで5日間連続全9公演の横浜アリーナでのコンサートでした。5日、毎日横浜まで通ったのでさすがに疲れました。
これまでと変更になったのは最初の挨拶の後、新曲の「Little Birthday」を歌うようになったこと。この曲は私が好きだったペンキ屋の小僧のようなダボダボのオーバーオールの衣装だったので、「Little Birthday」と言うとこの衣装のイメージが強くて、テレビで歌った時の短パンの重ね着の衣装は好きじゃなかったから、これ着てくれないかなっていつも思ってました。衣装と言えば、この日の諸星くんのソロの衣装が金と黒衣装に変わってて、これは可愛くて好きだったから、ずっとこれ着てて欲しかったけど、以前のピンクのものと半々くらいで着てました。
この日は平日だったので、コンサート前に学校に行っていたと言う淳くん、球技大会だったけど、途中で抜けて来たと言ってました。そんな淳くんに敦くんは最近つけたあだ名が「マクロン」って言ってたけれど、これは「アピアピ」のようにファンにまで流行りませんでしたね。
MCでは晃くんのお誕生日が近いってことで、「Happy Birthday」はもう古い「Little Birthday」を歌わなきゃと言って、音声さんに合図してたんだけど、流れて来たのは「なななのなの時間割」。これをGENJIの5人で踊ってくれました。でも赤坂のだからって「あ」だけでしたけど。寛くんと淳くん、敦くんは後ろを向いて踊ってくれたので、この日、バック側で見ていた私はちょっと嬉しかったです。
後、映画のビデオの宣伝で、予告編を天井のモニターで流したので、メンバーも上を見上げて見ていて、これは毎回見てたので、寝転がって見てる子などもいて、すっかりくつろぎタイムとなってました。「あ、赤ちゃん」ってアフレコしちゃうし…。
1992年春のツアー後半。前半から1ヶ月近く間が開いたし、横浜は3月にもやっているので、プログラムはかなり変更になってました。前半にやっていたVICTORYのメドレーが丸まる変わってて、みんなソロ曲が変わってたのだけど、何故か淳くんだけ変わってなくて、この曲、嫌いではないからいいんですけど、でも山本ファンとしてはちょっと納得のいかないところがありました。
MCが多いって印象もあったかな。MC自体は毎回なかなか楽しかったのでいいんですけど、「課外授業」の後の外周にメンバーが離れて座ってのMCはつまらなかったです。後、今回はTOKIOの変わりにSMAPがバックに入ってたんだけど、何故今更SMAPが…? って思ったし、SMAPと淳くん、敦くんのMCもなんかそこだけ別物のようであんまり好きじゃありませんでした。慎吾くんのものまねとか、面白いことはありましたけどね…。
GWの横浜は全部をまとめての全体を通したレポートとなっていますので、かなり長いレポートですが、こちらをご覧ください。
1993年SAY'Sコンサート名古屋2日目、そしてSAY'S FIRST CONCERTツアーの最終日でした。
最初に比べてどんどん長くなるMC、この日は1部と3部がとても長くて、特に3部は終わったら東京に帰らなきゃいけないと言いつつ、カラオケ大会にまでなってしまって30分くらいやってたんじゃないのかな? 更にWアンコールもありましたしね。でも、ラストに全員揃ってツアー終了おめでとうってことで、お祝いの乾杯のグラスを持って出て来た時のメンバーの顔がみんなとても満足そうで、良かったです。
最終日で書きこぼしていたことなども書いたので、ちょっと長めになっているレポートはこちらです。
ちょっとお詫びと訂正。神戸の2日目で最終回に淳くんも「夢芝居」を歌ってと書きましたが、書きながら自分で疑問には思ってたのですが、これは名古屋の最終回と記憶がごっちゃになったせいでの間違いでした。ごめんなさい!