第76回テーマ館「朝起きたら…」



リフレクション 第一章(3) 夢水龍之空

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 楽しい時間はあっという間で、すぐに目的の駅に到着した。
「ここだよ」
「うん」
 やはり何もかも知っているような足取りで、ミカは渡川について来た。エスカレーター
を上がる時も、ミカは渡川の前に立って、目線が合ったと言って喜んでいた。
 駅を出ても、渡川にはこれといった違和感が無かった。六年間通った道。ずっと変わら
ない光景があった。
 マンションと言っても、築四十年の安物件だ。部屋は狭くないし、鉄筋コンクリートの
建物はちょっとしたサウンドの調整なら夜中でも迷惑にならない。すぐ近くにコンビニも
ある。鉾立には十分な環境だった。
 とはいえ、駅からは二十分ばかり歩くことになる。バスは通っていても、もったいない
からと渡川は歩くことにしていた。今日はミカを連れているが、バス停に見向きもせず歩
き出したので、一緒に歩くことにした。
「渡川さんって、最近鉾立さんちに行ったのはいつ?」
「先月かな。最新作の販売成果について説明があったんだ。販売管理も会計も全部鉾立だ
からね。みんな集まって。それで、今日は鉾立から報酬が支払われる日っていうわけ」
「お金もらえるの?」
「そうだよ。現金でね。領収書は鉾立が用意した紙に、もらった人が書いて印鑑を押すん
だ」
「不満な人とかいなかったの?」
「そりゃね、橋浦と建部は文句言ってたよ。そう考えて、先月は鉾立も金額まで言わな
かった」
「鉾立さんの部屋って、いつもどんな感じ?」
「部屋の中?」
「うん」
 さっきからやけに変な質問をするものだと渡川は気になったが、無邪気な笑顔を見ると
そんな疑問など吹き飛んでしまう。どうせ変な世界にいるのだから、それが普通なのだと
考えることにした。そう考えることが普通じゃないという気もしたが、この時はまだ気楽
に考えることができた。
「そうだなあ、物の出入りが無いっていうか、いつも同じ感じだよ。引っ越しを手伝った
んだけど、その時とあんまり変わらない。スペックのいいパソコンは増えたけどね」
「家具は変わってない?」
「実家からもらったタンスとかね。もう全部同じ。いつ行っても同じ物が同じ場所にある
よ。掃除なんてしてないんじゃないかってくらい、物が動いた気配が無いよ」
「そっか」
 そこからミカが黙ってしまったので、渡川はなんだか不安になり、話しかけようかと
思ったところへ、知らない人から話しかけられた。
「あのう、すみません」
「え、何ですか?」
「この辺で、財布見ませんでしたか? このくらいの、赤いやつなんですけど」
 手で空中に四角を書きながら、スーツ姿の若い女性が困った顔で言った。
 渡川はぞっとした。このシーンには覚えがある。
「いえ、ごめんなさい。見てません」
「はぁ。そうですか。すみません」
 女性はがっかりした様子で、道をほうきで掃いていたコンビニの制服の男に近付き、ま
た同じ仕草で何かを話していた。財布のことを聞いているのだろう。男は首をかしげてい
たから、知らないようだ。
「どうしたの?」
 ミカが聞いてきた。
「これ、前にもあった」
「今日?」
「うん。今日、確かに財布を落としたって言う女の人に、ここで会ったよ。思い出した」
「当たり前だよ。今日なんだもん」
「あ、そうか」
「ヘンなの」
 変なのはこの現実の方だ。女性は八百屋の前掛けをした男にも声をかけていた。こちら
も手応えは無かったらしい。しょんぼりしながら、駅の方へ歩き去った。
 疑う余地が無い。渡川は今日が『今日』なのだという確信を深めた。さっきまでのお気
楽ムードはあっさりと消滅した。
 すると朝からの出来事がよりリアルに思い出されて、細かいことまではっきりしてき
た。その内容をミカに話して聞かせている内に、鉾立のマンションに着いた。
「予定よりちょっと遅かったかな」
「昨日もそうだった?」
「いや、いつも三十分くらい前には着いてるよ。一番乗りだ」
「それはみんな知ってること?」
「そりゃそうだよ。いつものことだから」
「ふうん」
 玄関を入って、エレベーターに乗り込む。どことなく古めかしくて、乗る度に不安にな
るが、階段で八階へ上がる元気も無く、いつも利用していた。
「ガタガタいってるね」
「う、うん。ちょっと怖いよね」
「でも面白い」
「あ、そう」
「ゆっくりだね」
「古いからね」
「高いところ苦手?」
「大丈夫なんだけど、得意な方ではないかな」
「それで一階に住んでるの?」
「うん。その方がいいんだ」
 あれ、と渡川は思った。この子とは外で会ったのに、どうして部屋の場所を知っている
のか?
「ほら、着くよ」
「あ、うん」
 ミカは先に立って廊下を歩き出した。最初の薄気味悪さはもう感じないが、この少女が
何か特別な使命を帯びて自分と共にあるような、強い存在感を感じ始めていた。同じ日を
繰り返している自分の特殊性を考えると、それも当然のような気がしてくるから不思議
だった。
「ここ?」
 ミカが正確に鉾立の部屋の前で立ち止まった時、渡川にはこの出会いが運命だという確
信が芽生えた。巡り会うべくして巡り会ったのだ。例えそれが、恋愛対象としては幼すぎ
る少女であったとしても。そう思うと、渡川はとても心強い味方を得たような気分になっ
た。
 渡川はノブに手をかけると、当たり前のようにドアを開いた。
「あれ」
「どうしたの?」
「鍵が開いてる」
「でも、普通に開けようとしたよ?」
「あ、うん。いつもはかかってないんだ。開いてるもんなんだけど、確か昨日は……」
「かかってた?」
「ような気がする」
「ふうん」
 ミカが無表情になった。それが渡川をやけに緊張させた。とにかく、部屋に入った。
「いつもなら、鍵は?」
「かかってないんだ。不用心だろ?」
「それが普通?」
「そう。でも外出する時はかけるんだよ。寝る時もたまにかかってることあるかな」
「大丈夫なの?」
「怖いよね。見た感じは貧乏臭いから平気だけど、実際は金持ってるからね」
「危ないね」
「うん」
 会話をしていたから玄関では気づかなかったが、中の様子がおかしいことに、上がって
から気がついた。
「どうなってんだよ」
「どうしたの?」
「どうって、見てみなよ」
 部屋は冷え切っていた。温度がというより、空気が。かなりの間、人間がそこに存在し
ていなかったかのような、空虚感が漂っている。
 パソコンは動いていない。音がしない。散らかっているのは同じでも、人の手が入って
いる。
「あれ」
「待って」
 異変を見て歩み出そうとした渡川を、ミカはつかんで引き留めた。
「何?」
「ここから動かないで」
「え?」
「動かないで、中を見て」
 言われたまま、改めて部屋の中を見回した。そして、床にある大きな染みを見た時、渡
川の頭に電撃が走った。
「うわっ!」
 頭を抱えてしゃがみ込んだ渡川に、ミカの冷静な声が降ってきた。ミカはまだ渡川の腕
をつかんだままだ。
「よく考えて。昨日と今日で、何か違うことがあるはず。それを見つけて」
 渡川はそれどころではなかった。得体の知れない恐怖感が全身を襲い、激しい頭痛がし
ている。そして時折、瞬間的な映像が脳裏をよぎる。部屋の床にいるのは、鉾立か? 姿
勢が不自然だ。まるで、死んでいるかのような……。
「渡川さん、落ち着いて。何か気づいたことがあるでしょ? それをわたしに教えて」
「お、おく、ひ、き……」
 歯が噛み合わず、うまく言葉にできない。この恐怖は何だ? この映像は何だ? 怯え
る渡川の背中を、ミカは優しく撫でながら、それでも断固として、同じことを言い続け
た。
「渡川さん、大事なこと。昨日と今日で何が違うか、わたしに教えて。思い出して」
 ミカの手の温かさが、渡川の心を少しだけ落ち着かせた。そしてようやく、言葉を声に
することができた。
「奥の部屋の、引き出しが開いてる」
「昨日は閉まってた?」
「いや、少し開いてた」
 ミカの手が一瞬止まった。指に力が入ったような気もした。ミカはそのまま渡川の体に
腕を回して、背中を抱きしめた。
「それは、どんな状態だった? 思い出して。正確に、どんな風だったか教えて」
「あの、そこに見えてるタンスの引き出しが、昨日は手前しか開いてなかった。でも今
は、全部開いてる」
「手前っていうのは、タンスに向かって左側だけね? 間違い無い?」
「う、うん。でも、それが、なんで?」
「いいの。これでおしまい」
「え?」
「ごめんなさい。こんなに苦しめるつもりは無かったの。許してください」
「あの、君は一体……」
「私は……」
 最後まで聞くことなく、渡川の意識はそこで途切れた。



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