第76回テーマ館「朝起きたら…」
リフレクション 第二章(1) 夢水龍之空
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第二章 リメンバー
それほど複雑な事件だとは思われていなかった。容疑者が現場にいるのだし、ありふれ
た構図であることは明白だった。ただ、容疑者が金を持っていなかったことと、瀕死の状
態で発見されたことだけが、警察を悩ませていた。
被害者は鉾立秀磨。ゲーム制作と株取引で生活し、定職に就いたことは無い。学生時代
から人付き合いは悪く、成績は良かったが友達はいなかったという。
鉾立は自宅マンションの部屋で頭部を滅多打ちにされて死んでいた。床は血の海で、凶
器の鉄パイプは室内に転がっていた。近くでビル工事をしていたので、そこから盗んだ物
と思われた。
そこまではいい。
担当の大下警部を悩ませたのは、現場にいたもう一人の人物だ。それが、渡川功和であ
る。
事件が発覚したのは、鉾立より渡川の関係からだった。
渡川と仕事で打ち合わせるはずだった出版社の人間が、どうしても連絡が付かないため
実家に連絡し、家族に家を見てもらった。すると、三月二日に外出予定があり、その日の
午後の打ち合わせに現れていないことから何かあると考え、外出先の鉾立の家へ向かっ
た。どうしても返事が無いと諦めかけたところ、室内の異様な臭いに気づいて管理人を呼
び、中の状況を知った。臭いの正体は鉾立の死体と血液の腐臭であり、渡川は一歩遅けれ
ば分からなかったという瀕死の状態だった。
「飯泉、しつこくて悪いが、絶対に間違い無いんだな?」
同じ質問を繰り返していることは、大下自身もよく分かっていたが、聞かずにいられな
かった。
「はい。傷は後頭部で、一撃で頭蓋骨にヒビを入れています。自分でどう殴ってもそうは
なりません」
「床にパイプを置いて、勢いよく倒れたとか、そういうんでもないんだよな?」
「はい。後ろ向きに頭から倒れたとしても、それだけの衝撃にはなりません。真後ろか
ら、誰かに渾身の力で殴られたとしか、考えられません」
「うむ……」
マンションの鍵は、鉾立が使っていたはずの机の上に置かれていた。親友だったという
渡川も合い鍵を持っていたが、ポケットの財布に入っていた。ドアは施錠されていて、他
に鍵は無いらしい。知人や家族、恋人などに合い鍵を作っていたという線も普通は考えら
れるが、全く人付き合いの無い鉾立に関しては、可能性としてあり得ない。だが、現場の
中にいた唯一の他者であり鍵の持ち主は、致命傷に近い傷を負って意識不明で倒れてい
た、渡川だったのだ。
「金があったことは確かなんだよな」
「確かです。銀行の履歴と、ATMの防犯カメラの映像で、鉾立本人が引き落としている
ことが分かっています」
「本当に部屋に無かったのか?」
「全部ひっくり返して調べました。パソコンのフタまで開けましたが、どこにもありませ
ん。盗まれたとしか」
「強殺な」
「はい」
「うーん、分からん。じゃあなんで鍵がかかってたんだ」
「分かりません。外からかけたのだろうとしか」
「鍵無しでか?」
「それは何とも」
理系出身だけあって、鑑識の情報にも詳しく、データに強い飯泉だが、大下の質問にす
べて答えるのは難しかった。データは十分あるようでいて、肝心な所が抜けているよう
な、もどかしさがあった。
事件が起きた当初から、それほど署内でも注目されてはいなかった。マスコミも頭を砕
くという手口に最初こそ食いついたが、被害者が特に目立つ人物ではなかったためか、熱
はすぐに冷めた。警察病院で治療中の渡川が証言すれば一気に解決なのだが、そうでなく
ても簡単だろうと誰もが思っていた。
ところが、鉾立の周辺には関係者と呼べる人間がほとんど現れず、渡川の他にはゲーム
制作に関わる橋浦亮二と建部斉太という二人だけしか浮かんでこなかった。そして、この
二人がまた怪しかった。
どちらも金のことで被害者ともめていたことを認めている。だが犯行は否定し、部屋を
訪ねたら鍵がかかっていたので外出したと思い引き返したと言っている。よくあることな
のだそうだ。
とにかく、関係者はこれしかいない。そこを攻めるしかなかった。
「ナナミさんは、まだ外か?」
「はい。戻ってません」
「相変わらず粘るな」
「はい」
長南に指示して、その二人を当たらせている。聞き込みや張り込みをさせたら、長南の
右に出る刑事はいない。見逃す、取り逃がす、という言葉が一番似合わない男だ。大下も
よく組んでいて、強い信頼を置いていた。その長南でも、決定的な手がかりはまだつかめ
ていない。
「戻りました」
「お、ちょうどよかった」
「手ぶらだよ」
「何でもいい。情報がほしいんだ」
「まあ、聞いといてもらいますかね」
「その調子だ」
長南は、その日の収穫を簡単に披露した。話をかいつまんだというより、その程度のネ
タしか無かった。
「今日も橋浦と建部の周辺を洗った。仕事関係はおおかた終わってるから、昔のクラス
メートやら、部活仲間やら、ありそうにない線を地道に手繰ってみたよ。結局何も出な
い」
二人をマークし始めてから一週間ばかり。それでここまで捜査を進めたのは立派だが、
それだけに手詰まり感が強まっていた。
「持ち出した形跡は無いんだな?」
「無い。銀行信用金庫の類は今まで虱潰しに当たったが外れ。だから人に預けたって線で
当たってみてるが、そこまで人を信用する奴らじゃないし、実際に預かった風な奴も見つ
からない」
「動きも無しか」
「無いね。橋浦の方は、元々金回りは良くない。多少の借金もある。その返済のペースは
上がっちゃいないし、目立った買い物もしていない。リッチになった気配は無いね。
金に縁のある建部の方も、暮らしが変わった感じは無い。まとまった買い物をした様子
も無い。
どっちの奴も、大金手にした素振りなんかまるで見えないな」
「となると、やっぱり渡川か」
「渡川の家も、家族の許可を得て調べてあります。金は出ていません」
「分かってる。証言からすれば、渡川に家まで帰って金を隠す時間は無いよ」
「渡川の周辺も当たるかい?」
「そろそろ飽きてきたか?」
「とんでもない。ただどういう奴なのか知りたくてね」
「興味があるの?」
「どうも、渡川はホシじゃないような気がするんでね」
「ほお。まあ状況は不利とも有利とも言える。何か一つ決め手があればいいんだが」
そう言う大下も、捜査方針を絞り兼ねていた。そのうちに捜査本部は縮小され、看板も
下ろされた。継続して大下が事件の担当になり、橋浦と建部の動きは定期的に監視を入れ
ていた。
そんな状況がおよそ一年続いたある日、渡川の意識が戻りそうだという報告が、大下の
耳に入った。そしてもう一つ、気になるニュースが舞い込んできた。
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