前編Bパート |
廊下をリビングに向かって歩く・・・いつも歩いてる廊下がなんだか長い気がする。 シンジは私の格好を見てなんて言うんだろう? やだ・・・なんか緊張してきた・・・どきどきする。 リビングからはずっと調律の音が聞こえてる。 ずいぶん念入りに調律してるなぁ・・・シンジもチェロの事になると割と本気になるのね。 扉の前でもう一度気合いを入れる。 シンジにいい顔見せなきゃね。 そうでもしないとあの鈍感は服のことなんか誉めてくれないに決まってるんだから。 |
こんなに念入りに調律したのは久しぶりかも。 いつもは練習だったけど、今は人に聴かせるために準備している。 僕の演奏を聴いてくれる人がいる。 僕の演奏を待ってる人がいるんだ。 自然と気合いが入ってくる・・・聴衆が多くても少なくても関係ない。 調律がようやく終わった。 「これでよし・・・と」 いつも使っている方のチェロをケースにしまって、持ってきた楽譜を確認する。 よく考えたら演奏中は譜面をめくってくれる人なんかいないんだっけ。 暗譜には自信があるから、譜面をざっと確認するだけ。 不思議と緊張感はない。 良い格好をしようと思うから緊張するんだよな。 アスカにいまさらカッコつけたってしょうがないんだから。 まだ来ないのかな?と思って扉の方を向いたら、ちょうど扉が開いてアスカが入ってきた。 |
「お待たせ、準備できた?」 わざとらしくならない程度に最高の笑顔を作って部屋に入った・・・・つもり。 「う・・・うん」 なのにシンジはこんな気のない返事。 ちょっと、それはないんじゃない? 「なによ、待たせたかしら?」 「ううん、ちょうど良かったんだけど・・・」 「なにか文句がありそうな顔ね」 まったく気のきかない男ね、なんとか言ったらぁ? 「ずいぶん時間がかかるなと思ってたら、わざわざ着替えてたんだ」 「文句ある?家の中とはいえ、これはれっきとしたリサイタルなんだから ちゃんとフォーマルな格好するのがたしなみってもんでしょ」 「いや・・・そうじゃなくって・・・ありがと」 「それだけ?」 「あの・・・なんて言ったらいいかな・・・よく似合うね、その服」 「ふんっ。シンジのことだからそれだけ言えれば合格にしといてあげる」 よく似合うね・・・・それだけで嬉しかったんだけど、嬉しそうな顔見られるのもなんか 恥ずかしいからさっさとソファに座る。 「あ、ちょっと待って」 「なに?」 「立ち上がってもう少し前に来て」 「こう?」 「うん、どこが一番良く聴こえるかな?」 そんなに変わるもんかしら?と思いながら、少しずつ動いてみる シンジは一定の音を鳴らしながら、私の顔を見てる。 「ここ」 私はちょっと前に出て立ち止まる。 少し動いたぐらいじゃ変わらない・・・そんなに耳が良いわけでもないし。 壁際のソファーより、壁から離れてた方がはっきり聴こえるのは当たり前。 音よりシンジの顔がそばで見れることの方が重要かな。 「わかった」 シンジはチェロをおいてソファーを前に出してくれた。 「ありがと」 私が座ると、シンジがカーテンを閉める。 「この壁、吸音材が使ってあるから、ガラスと壁じゃあ響きがいびつになるんだ」 なんだか言い訳がましくきこえるけど、別に私はかまわない。 閉ざされた、二人のためだけの空間が出来上がる。 シンジが私の正面のイスに座る。 パチパチパチパチ 「なに?」 「アーティストが舞台に上がったら拍手をするのが礼儀でしょ」 「そ・・そうだね」 なんだか照れ笑いを浮かべるシンジ・・・まんざらでもない様子。 「あ・・口紅付けたんだ」 「なによ、今頃気付いたの?」 「ごめん・・なんだかかわいく見えるなぁって思ってたんだけど、今まで気付かなかった」 「・・・ありがと」 もうっ、タイミングはずした上になんて事言うのよ! 思わず顔が赤くなっちゃったじゃない。 「じゃあ、はじめるよ。 ヨハン・セバスチャアン・バッハの無伴奏チェロ組曲、第1番ト短調」 シンジが一つ深呼吸をして、弓を構える。 さっきまでの照れ笑いが消えて真剣な表情・・・ちょっと、カッコ良いかも。 |
深呼吸して構える・・・大丈夫、不安も緊張感もない。 弦に弓をあてて、目を閉じる・・・最初のフレーズがうまく行けば全部いける。 慎重に、少しスローなテンポで僕は曲に入った。 プレリュードは流れるように繰り返される旋律。 微妙な音の変化が連続し、あせるといつも落ち着かない感じになってしまうけど、今日は 大丈夫だ。 一度も止まることなく2分半のプレリュードを奏で終わる。 最後に余韻を残すようにゆっくり弓を止め、ちらっとアスカの方を見る。 目を閉じて、集中して聴いてくれてる。 僕には聴衆がいる・・・たしかな手応えを改めて感じ、次へ進む。 |
周りの壁からの残響が、私の身体をシンジの音で満たす。 いつの間にか目を閉じて、チェロの奏でる柔らかい響きの中に沈んでいく。 プレリュードが終わるとき、シンジが一時手を止めて私を見たのが気配で分かった。 間をおいて第1楽節が始まる・・・ 旋律と和音を織り交ぜながら繰り返される、語りかけてくるような柔らかいフレーズ。 時折余韻だけの間がある・・・投げかけた言葉が相手の心に届くのを待つ会話の間と同じ。 なんだかシンジに囁かれているみたい・・・心が落ち着く・・・ |
第2楽節は少しテンポを切り替えて。 短い中で変化するフレーズはまるでアスカ・・・歯切れの良い音を心がける。 低音から一気に高音、そしてまた低音。 使う弦が広くて難しいけど、テンポさえよければ大丈夫だ。 このチェロは音の表情に変化が付けやすい・・・・良いチェロだ、今まで使わなかったのが もったいなかった。 |
第3楽節・・・ゆったりしたセレナーデ。 さっきとは違って低く流れるような旋律が響く。 フレーズの中で特に印象的な低音・・・まさに子守歌・・・でもちがう・・・ 母が子を見守る感情とは違うわね、これは。 愛する人の寝顔を見ている・・・そんな気分に浸れるフレーズ。 私は一番ここが好き。 |
第4楽節は二つの主題を持つメヌエット。 ゆったりと踊る、そんなテンポを心がける。 幅の広い旋律と繰り返される連続した音の変化。 そして終節。 まるで腕を試されているような譜面。 ここは速いテンポで短く変化に富んだフレーズが繰り返す。 今日の僕は一つのミスもしない。 そして譜面の再現にとどまらない・・・自分の音を、心を、チェロに乗せてアスカに送る。 最後の音が部屋の中から薄れていく・・・ 無伴奏チェロ組曲を、自分としては最高の出来でアスカに聴かせてあげることが出来た。 時間にすればわずかに20分・・・短い曲だけど、こんなに充実した演奏が出来たのは 初めてだ。 最後の音の余韻を、身じろぎせずにアスカは受け取る・・・そして静寂。 ゆっくりとアスカが目を開く。 そしてにっこり微笑んだ。 アスカに会えて良かった・・・今は素直にそう思える。 |
目を開けたらシンジが真剣にこっちを見ていた。 その顔を見れば今の演奏がシンジとしても満足できたものだったとはっきりわかる。 自然と笑顔になっていた。 そしたらつられてシンジも微笑んだ。 パチパチパチパチパチパチ・・・・ 私が拍手をすると、シンジはさっと立ち上がってお辞儀をした。 「ありがとう、ちゃんと聴いてくれて」 私はそれに応えずに拍手を続ける。 シンジは立ったまま首を傾げてる。 まったく鈍感なんだから 「アンコールに決まってるでしょ」 「ええっ?」 「ええっ、じゃないわよ、ほら、お客がまだ手をたたいてんのよ」 シンジは笑いながらもう一度座る。 「なんにしようか?」 「なんでもいい、まだ弾いてないのを一つ聴かせて。それか、さっきのセレナーデのとこ」 「セレナーデが気に入ったの?」 「そうよ」 「じゃあ」 といってシンジは譜面を机の上に広げる。 「きっとどっかで聴いたことあるよ、ホントはピアノがつくんだけどね」 そういってシンジはチェロを構える。 流れてきたのは、切ないぐらいに優しいフレーズ。 |
サン=サーンスの「白鳥」 演奏会のアンコール用としてはちょっと地味だけど、一番好きな曲。 3分ぐらいで、作品として短すぎるからこれだけで演奏することはないけど、バッハの次に 良く練習したと思う。 優しく、優しく・・・柔らかい音が良く響くチェロに助けられて、なんだか自分の腕が 上がったように思えるほどに弾ける。 狭い空間が伴奏のないハンデを消す・・・快心の出来だった。 |
なんて曲だったかな・・・良く聴くんだけど・・・ 今度はシンジを真っ直ぐ見つめて曲を聴いた。 シンジのチェロが奏でるのは切ないぐらいの優しさ・・・優しすぎて涙が出そうになる。 ・・・これがシンジの気持ちだったらいいのに・・・ 曲が終わる前に、私は立ち上がってシンジのそばに行った。 |
最後の音が消えてしまうのと同時に、アスカが背中から抱きついてきた。 「どうしたの?」 「すごく良かったから、ごほうびよ」 耳のすぐ後ろで響くアスカの声がくすぐったい。 「・・・・ありがとう、アスカのおかげだと思うよ」 「ほんと?」 「うん・・・人のためにチェロを弾くのは初めてだったから・・・自分でも驚いた」 そう、自分がここまで弾けるなんて思ってなかった |
私はシンジが愛おしくって思いっきり抱きしめて 「・・・ねえ」 「なに?」 「キスして・・・」 って頼んだ。 シンジはなにも言わずにチェロを置いて立ち上がる。 私が手を緩めると振り返って。 「いいの?」 「私の頼みが聞けないって言うの?」 言葉はいつもと同じ・・・けど囁いてる。 シンジの手が私の前髪を掻き上げる。 私が顔を上げるとシンジも私の背中に手を回してくれた。 |
僕の目はアスカの唇に吸い寄せられる。 ルージュの引かれたきれいな口元がわずかに開いて・・・ アスカは黙って目を閉じる。 唇が触れ合ってから僕も目を閉じた・・・アスカの軟らかい唇の感触がする。 |
なんだか私から誘っちゃったけど、私が待ってるとちゃんとシンジの方からキスしてくれた。 唇が触れ合うだけのキスをして、シンジは離れてしまう・・・それだけじゃ足りないって わかってるのに! 私は目を閉じたままで待った。 シンジが今度は力を込めて背中を抱いて、もう一度キスしてくれた 唇が開いて、シンジの舌が私の舌を探って唇をこじ開ける・・・ あんまりきつく抱きしめられてたから、唇を開いたとき 「んっ」 って、のどの奥でかすかに声が漏れた。 先端が触れ合うと、すぐにシンジのほうから舌を絡めてくる。 溶け合うような口の中の感触に、ひざが崩れそうになってシンジにしがみつく。 シンジらしくないほど切なく私を求めてくれるキス・・・ さっきの声、シンジにも聞こえちゃったかな。 |