ゲンドウは水面ぎりぎりを全速で飛ぶ。
 2式水戦の本体は、零式艦上戦闘機と同じ……はずだ。
 だが、この機体は「海軍空戦技術研究隊」オリジナル。

 陸軍が次期主力戦闘機に採用しようとしている誉エンジンの、海軍側でのベンチ
テスト用の機体だった。
 表向きは、海軍でも同型エンジンを採用して、生産効率を高めるための評価試験。
 実際は、物好きな整備班が「世界最速のレシプロ水上機」に挑戦するために作り
上げたモンスターマシンだ。
 マーリンの試作エンジンを回していた、スピットファイヤの水上型エンジンベン
チ機に対抗する、赤木博士の兆戦だった。

 事実、この機体は、非公認ながら対気速度660km毎時という桁外れのスピー
ドを記録している。
 だが、その速力を生かすために、全面新設計となった主翼。
 そしてぎりぎりまで舵面の面積を絞り込んだ尾翼。
 水上戦闘機とは名ばかりの、操縦性の悪い機体だった。

 大気の重い海面スレスレは、過給されないエンジン本体には有利だが、同時に抵
抗が大きくスピード自体は最高速度に程遠い。
 だが、敵の目をかいくぐるためにはこの方法しかない。

 ゲンドウはエンジンの油温計を睨みながら、時折キャブにエタノールを噴射する。
 もちろんスロットルは全開のまま固定。
 横風に流される事を計算しつつ、何の目印も無い海面を、一点に向けて矢のよう
に飛ぶ!

「馬鹿が、こんな戦争に命を賭ける必要など無い」

 ゲンドウは、その戦果と表向きの顔からは想像もつかないが、反戦論者だった。
 アメリカと国力を賭けての全面戦争ともなれば、勝ち目はない事ぐらい現場の人
間として痛いほど分かっていた。
 だからこそ、「海軍空戦技術研究隊」設立に参画し、息子をテストパイロットに
採用したのだ。

「どうせ死ぬなら米軍と相打ちになるより、世界一速い飛行機と心中しろ」

 ゲンドウは、生まれながらのパイロットであり、軍人ではなかった。

 圧倒的な勝率は、生き残るための術を身に付けるための、たゆまぬ努力の結果に
過ぎない。事実、ソ連軍のパイロットで、ゲンドウに撃墜されながらも、無事脱出
して命拾いしたものは数多い。
 表向きは弾数を節約するために、的の小さい胴体ではなく、主翼を狙うというの
がゲンドウの空戦理論だったが、実際は、コックピットを打ち抜かないための戦術
だった。

 もしシンジが無事に米軍の捕虜になるならば、それはそれで良いのかも知れない。
 波間に漂っているのなら、懲罰と称してしばらく空を飛ばせなければいい。

 先日、幕僚会議で陸海両軍の特攻が作戦として採用される案が決議された。
 夢を追って死ぬのなら、こんな時代だ、仕方なかろう。
 だが、現場を知らぬ大本営などに義理立てする必要など無い。

 ゲンドウは、自分の息子を犬死にさせる気はなかった。
 そして自分自身はと言えば、飛行機を飛ばす事さえ出来れば、それで良いのだ。


  

Sky Lover

第三話

  


「ちょっと、碇曹長」

「シンジで良いってば、ラングレー少尉」

「だったらあたしもアスカで良いわ、シンジ」

「なんか用?」

 既に日は没し、波頭を青い月が照らし始めていた。
 大洋の真ん中に浮かぶ、小島とも呼べぬようなわずかな砂州で、二人は波の音だ
けに包まれて佇んでいた。

「ちょっと、この砂州狭くなってきてない?」

「あ、そうだね……今日は満月だし、この砂州だったら波かぶるかもね」

「なに呑気に構えてるのよ、寝っ転がってる場合じゃないでしょ」

 アスカは勢いよく立ち上がって、腰に手を当ててシンジを見下ろす。

「あんた、男だったら何とかしなさいよ」

 いきなりこれである。

 二人でCレーションを食べた後、紅茶を飲んで、ターフを広げて星空を見上げて
いたのだ。
 互いに、それほど積極的に自分の身の上を打ち明けたわけではないが、同じ戦闘
機乗りという事からか、それとも似通った生い立ちのせいか、食事をして少し会話
をしただけで、まるで旧知の戦友のような雰囲気になっていた。

 そして冒頭の会話に戻るわけだが・・・

「男だったらって事はないだろ、男女同権派じゃなかったのか?」

「じゃあ言い直すわ。食事は私が上げたの、あんたが何とかしなさい」

「ったく……アメリカの女の子ってのはみんなこうなのかなあ……」

 ぶつぶつ言いながらも、シンジは重い腰を上げる。
 いったん広がったように見えた砂州は、潮が満ちはじめてからは、みるみるその
幅を狭め始めていた。
 さいわい波は穏やかなので、居場所が無くなると言うほどではないが、潮が満ち
れば砂州全体が波に洗われるようだ。

 シンジは周りを見渡して、狭い砂州の中に、特に高い場所がないことを確かめる。
 となると、一番高い場所は、アスカが不時着させたムスタングと言うことになる。

 シンジはムスタングに歩み寄り、その流麗な層流翼の先端から下をのぞき込む。

「何してるの?」

「ん……こっちの方が見込みがありそうだな」

 シンジは両翼の状態を確認すると、右翼のランディングギアのあたりをのぞき込む。

「アスカ、ギヤ出せるかな?」

「エンジンかからないから、無理なんじゃない?」

「手動でなんとかなるだろ」

「完全に胴体着陸してるのに、無理に決まってるじゃない」

「やってみなけりゃ分からないって」

 シンジは胴体後部のアクセスハッチの中に手を突っ込むと、バッテリーや無線機
など、外せるものを全部外し始める。

「ちょっと、人の機体に勝手な事しないでよ」

「手が空いてるなら手伝えよ。右翼の残弾と燃料全部抜いて」

「どうする気?」

「なるべく重心を左に移すんだ、で、右側だけなんとかギヤを下ろしてみるよ」

「どうして?」

「ここの上で寝るしかないだろ?」

 シンジはムスタングの右翼を指し示す。

「なるほどね、納得」

 ムスタングの左翼は、すでに波に洗われはじめている。
 アスカはシンジが取り出した部品や、翼内機銃の弾丸などを左翼のなるべく先端
に運ぶ。

「もういいんじゃない?」

「じゃあ手動でギアを下ろしてみて」

「回るわけがないでしょ!」

「そう、じゃあ僕が持ち上げるから」

 言うが早いか、シンジは右翼の下に潜り込んで、背中で翼を持ち上げるように膝
に力を込める。
 いくら軽量に作られた戦闘機とは言え、全備重量は4トンを超える。
 そうそう簡単に傾くものでもないだろうとアスカは思ったが、波に洗われる砂州
は思ったより柔らかく、ムスタングはみるみる左に傾く。

「まだダメ?」

「や……やってるわよっ」

 アスカは狭いコックピットの中で、緊急時に手動でランディングギアを下ろす為
のハンドルを力一杯回す。
 ギリギリギリと音がして、少しずつランディングギアが下りはじめる。
 はじめは重かったハンドルが、少しずつ軽くなる。

 ある程度まで持ち上がったら、左翼の下側とタイヤの下がどんどん波に削られて、
完全にロック位置までギヤが伸びた。

 ムスタングは胴体で接地していたのが、左翼の先端と、右のランディングギヤと、
尾脚の3点で接地するように姿勢を変える。

 高くなった右翼に、シンジがターフを敷く。
 ランプや紅茶の残りを持って、アスカが翼の上に上るのを、シンジが手を貸して
引っ張り上げて、ようやく一息ついた。

「なんか、信じられない……太平洋の真ん中で、敵対国のパイロットとお茶飲みな
 がら空見上げてるなんて」

 アスカは大きくため息を付くが、その表情はまんざら嫌でもなさそうだ。
 まるで、夏休みに親に内緒でキャンプに来た子供同士といった感じであろうか。

「ランプ……どれくらい持つ?」

「ガソリン使えるから、その気になれば一晩中でも」

「そう、じゃあ火を絶やさないようにね」

「寝る気?」

「僕が先に寝ないと安心して寝られないんじゃない?」

 シンジはターフの端を引き寄せてくるまった。
 もともとは緊急用の救命筏の天幕用のターフだから、どうしても二人では身体を
寄せあうことになる。
 シンジはアスカに背を向けるように、自分の腕を枕にしてすでに寝る体勢である。

「馬鹿言ってんじゃないわよ……変な事する気なら寝てても起きてても同じでしょ。
 助けを呼んだって誰か来てくれるわけじゃなし……って、聞いてんのあんた?」

「疲れたから先に寝るよ、ランプお願い」

「まったく、信じられないぐらいに神経太いわね」

「なんか言った?」

「いいわよ、もう……さっさと寝ちゃえば?」

「あ、なんか期待してた?」

「ば、馬鹿言ってんじゃないわよ!」

 アスカにはこの日本人パイロットの精神構造が分からなかった。
 シュチュエーションとしては太平洋二人ぼっち状態。

 普通の健康な成人男性なら、なんかしようと思うのが普通ではないか?
 それとも単純に純情な男で、心に決めた女でもいるというのだろうか?
 それとも……。

「あんた、あたしがアメリカ人だからって、馬鹿にしてるんでしょう」

 言ってるそばから自分の頭に血が登るのをアスカは感じた。
 怒りで顔が赤くなる。

「なに急に大声出してんだよ……疲れたから寝るの、それだけ」

「疲れたから寝るですってぇ!あんたそれでも男?それともホモ?」

「なんでそうなるんだよ!いいか?遭難したら第一に食糧確保と現在位置の確認、
 あとは体力温存が基本だろう。疲れたから寝るってのは何処もおかしくないね」

「あ、っそう。じゃあ勝手に寝れば」

 アスカはシンジの隣を離れて、傾いたコックピットの中に座る。

 シンジ相手ならいくらでも強気な言葉が吐けるが、実際は不安と緊張感に押しつ
ぶされそうになっていた。

 先ほどの戦闘でこの海域には何機もの自軍機が墜落した。
 なのに、いまだに捜索の飛行機の音を聞いていない。
 東京に向けて進んだ他の機体が無事に帰還していれば、当然この海域には多くの
捜索隊が振り向けられるはずだ。

 しかし、捜索の機影を見ていないと言うことは……。

「思ったより流されてるかしら? それとも、格闘戦中に大きく空域を外れてたっ
 て事?」

 3機のB−29が撃墜された海域と、今自分たちの居る場所がどのくらい離れて
いるのか見当も付かない。
 格闘戦中は、今まで戦ったどの日本軍機のパイロットよりも強いシンジを追うの
に夢中で、高度計以外の計器に目をやる暇はなかった。

 アスカは自機のクロノグラフがまだ無事なのを確かめて、天測をしようと星空を
見上げる。だが、満月が煌々と輝いて、星はあまり見えない。

 目を慣らすために、月とは反対側の、真っ暗な夜空を見上げる……。

 徐々に目が慣れてくる。
 まるでビロードの上にガラスのかけらをちりばめられたような夜空。
 その中で、一際目立つ北極星。

 耳鳴りがするほどの静寂と、潮騒だけに包まれた孤独な空間。
 刹那、シンジがそばにいることを忘れかけた……。

 翼の上を歩いてくる音。

「なんか用?……寝たんじゃなかったの」

「なにしてるのかなあと思って」

「ランプ近付けないでよ。天測しようと思って目を慣らしてるんだから」

「どうやって北極星の高度を測る気?六分儀積んでるの?」

「あったりまえでしょ」

「へー、至れり尽くせりだな、アメリカ軍は」

「防弾装備もない人命軽視のどっかの国とは違うのよ」

「まあね、上層部は馬鹿ばっかりだよ……この戦争は負けだ」

「やけに素直じゃない……あんた、ホントに日本軍のパイロット?」

「なりたくてなったわけじゃないよ……黙っててもどうせ戦争に駆り出されるんな
 ら、せめて飛行機に乗りたかった」

「ふ〜ん……日本人ってみんな国粋主義者かと思ってた」

「なんで?」

「零戦でB29落とすために体当たりするヤツがいるでしょう……信じられないわ。
 精神構造が理解出来ないのよ」

「ああ、B29だけは特別だよ」

「なんで?」

 シンジはしばし言葉を探すために沈黙する。
 散っていった戦友達の思い。

 自分が空で戦う理由。

「立川に、従姉妹が住んでた……勤皇奉仕って言ってね……二十歳前の女学生が軍
 需工場で戦闘機のシリンダー削ってるんだよ……信じられる?」

「アメリカだって、部品工場には女性が多いわよ」

「けど、アメリカの工場には爆弾は落ちないだろ?」

「まあ、ね……それであんなに必死なのね、みんな」

「そうさ。自分が死んでも……落としたB29が殺すかも知れない家族のことを思
 えばね」

「……もうやめて……空しくなるわ」

「もともと戦争が空しいものだから仕方ないじゃないか!」

「いきなり怒鳴らないでよ、ここで怒鳴ってどうなるわけでもないでしょう!」

「分かってる……分かってるけど……レイはもう……」

「……亡くなったの?その従姉妹」

「……」

「泣いてるの?」

「……焼夷弾でね……今はもう薬もないんだよ……怪我人は疎開先で……誰にも相
 手にされずに衰弱するだけだ……国のために働けないヤツは、誰も助けちゃくれ
 ない……」

「帰りたい?……日本に」

「もう……3日前に……」

「そう……ごめん……」

「アスカが謝る事は無いよ……誰かが悪いわけじゃないんだ。……戦争だからね。
 葬式から帰ってきたら、特務艦から入電があった。B29編隊北上中ってさ。
 ……初めてだった。帰れなくても良いやと思って出撃したのは……僕が落とした
 B29のクルー達にも親や兄妹や奥さんがいたんだろう?……死んでいい人なん
 て、この世に一人も居ないんだ……」

 悲痛な沈黙があたりを包む。
 シンジがあまり多くを語らなかった理由の一端を垣間見た気がした。

「もし、先に救助に来たのが友軍だったら……あなたのことは悪いようにしないわ。
 戦争はもうじき終わると思うの……アメリカで、お母さんを捜す気はない?」

「……そうだね、先に助けに来るのが米軍だったら良いなと、思ってた……」

「あんたの国は救助に来ないの?」

「多分来ないと……まって……エンジン音だ」

 赤木博士の誉エンジン改の咆哮が、波間をわたる風に乗ってシンジ達の元に届く。

「友軍機だ……水戦か?」

「……ランプ振りなさいよ……多分気が付くわ。……それと、ガバメント返して」

「なぜ?」

「投降する気はないの、ここで死ぬわ」

「アスカ……何を言って」

「あんたの国に行く気はないわ。どうせさらし者にされて殺されるだけよ……お願
 い、ここで死なせて」

「……アスカ……」

 揺れるランプの炎に照らされて、アスカの瞳が光る。
 シンジがランプを掲げるまでもなく、二式水戦はこちらを見つけて旋回し、着水
姿勢に入る。

「エンジン音が違う……戦技研機か?」

「早く!ガバメントよこしなさいよ!!」

「待ってアスカ、ひょっとしたら知ってる人かも」

「知ってる人だったらどうだって言うのよ」

「どっちにしろアスカのガバメントは海の中だよ……いまさらどうしようも無いじゃ
 ないか」

「だったらさっきのナイフで良いわ」

 アスカの瞳はもう泣いていない。
 正面からシンジを見据える。

 ムスタングに向かって真っ直ぐ二式水戦が進む。
 砂州に乗り上げるぎりぎりの所で向きを変え、ムスタングの横に並ぶように停泊
した。

 そして、風防が開いた。

「と……父さん」




第四話へ続く

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制作・著作 「よごれに」けんけんZ

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