シンジが九州へ出向を命じられたのは、懲罰の営倉が開け少尉に昇進したその日。
 それは悪夢のような“東京大空襲”の僅か二日前だった。

 兵員移送用の特別列車も、通るべき鉄路が寸断されていては、いかにダイヤを無
視した運行が許されていても遅々として進まない。
 あちこちの路線を乗り継いでようやく広島までたどり着いたが、丸二日も閉じこ
められていては、いかに一等客車とは言え辛い。

 そんなイライラばかりが募る車内で、シンジは乗り合わせた同じ海軍の将校から、
東京が焼け野原になった事を聞かされた。

「かぁー日本中が全部焼けてまうで、ホンマに。飛行機乗りどもは何をしとるんや。
 もう飛ばす戦闘機が無いんとちゃうか?」

 呉から同じコンパートメントに乗ってきた鈴原は、海軍砲科の少尉だった。

 他にいくらでも席は空いているのに向かいの席に座り、同じ海軍少尉とは言え当
の飛行機乗りを目の前にして平気でそのようなことを言う。

 鈴原はそんな男だった。


  

Sky Lover

第五話

  


 シンジはそんな鈴原の言葉には反応せず、ただじっと初春の穏やかな瀬戸内の海
を眺めていた。
 車窓を流れていく木立の向こうで陽光を受けてきらめく水面は、戦争も、すさん
だ人の心も関係なく、ただいつもと同じようにきらめいている。

「ま、砲兵も動かす大砲が無けりゃ、おんなじように役立たずやけどな」

 その言葉に、シンジはわずかに笑った。

「重巡より大きく無けりゃあ“軍艦”とは言えんで。燃料ばっかし喰うから動かせ
 へんけどな」

「……前は何に乗って?」

「聞いて驚け“武蔵”や」

 誇らしげにその名を口にする鈴原の顔は、輝いて見えた。
 ならば彼も、九死に一生を得てここに居るという事になる。

 官姓名以外に互いの素性を明らかにはしなかったが、ようやく会話の糸口が見え
た気がして鈴原は一気にまくし立てる。

「ものごっつぅでっかいで、大和と武蔵はな。あーゆーのを軍艦っちゅうんじゃ」

「大和……か。配転希望は出さなかったの?」

「出したに決まっとるやないけ。けど、あかんかったわ。今度はちぃいいっこい駆
 逐艦や。豆鉄砲みたいな砲塔で働いて何がおもろいっちゅうねん」

「九州は、何処まで?」

「鹿児島や。……ここだけの話やけどな、今度大和が瀬戸内を出るんや。その露払
 いが今鹿児島に集められとる」

 連合艦隊は今や死に体で、戦艦や重巡は瀬戸内の各所に散らばって、海岸砲座と
して対空砲しか撃てないような日々が続いている。

 たとえ瀬戸内を出ても、帰ってこれるほど燃料は積めない。
 とうとう戦艦に特攻をさせるような日が来たかと、シンジは暗澹たる思いがした。

「おまえ、東京もんか?」

「そう……知り合いはみんな青梅に疎開してたから大丈夫だったとは思うけど」

「ふーん、おまえこそ九州へなにしに行くんや?」

「悪いけど、言えないんだ」

「防諜義務か?なんやけちくさいなあ、ワイは言うたで。こっちかてまだ発表され
 てへん任務や」

 シンジは鈴原の目を見る。
 初めて目を合わせたような気がするが、悪い男ではなさそうだ。

「試作機の試験飛行に呼ばれたんだ。人手が足らないらしくて」

「テストパイロットちゅうヤツか? かぁー、かっこええなあ」

「こないだまで横須賀にいた。……東京にB29の編隊が来たのなら、夜間でも迎
 撃に飛んだはずだ……多分、また仲間が死んだんだろうな」

「それでさっきからくらーい顔しとったんかいな……っと、また止まりよったで」

 広島からしばらく順調に進んでいた列車は、集落も駅もないような所で止まった。
 掩体壕も無いようなこんな場所で機銃掃射でもうければひとたまりもない。

「またどっかでアメさんが仕事してるんやろ……いっぺん止まったら当分動かれへ
 んで」

「そうだね……こんなに時間がかかると思ってなかった」

「おまえ、案外いける口と違うか?」

「なにが?」

 鈴原は自分の鞄から官給品の水筒を取り出す。

「焼酎や。5合しかないけどな。ここにグラマンでも飛んでくりゃ一緒に死ぬんや。
 酒も飲んだこと無いヤツと死にとう無いで」

 言うが早いかシンジの手に水筒のコップを握らせるとなみなみと酒を注ぐ。

「ぐっといけぐっと。焼けちまった故郷への弔い酒や」

 シンジの返事を待たずにトウジは水筒から直にあおる。
 注がれた酒を返すわけにもいかず、シンジもコップを空ける。

「くぅ……はっ」

 思ったより強い酒で喉が焼ける。
 が、不思議と後味は悪くない。

「お、いけるやないか。どや?旨いやろ。実家に隠してあったヤツやからな。その
 辺に出まわっとる安酒と違うで」

 言いつつ二杯目を注ぐ。
 黙って飲み干すシンジ。
 鈴原もまた直に水筒に口を付ける。

「けっこう匂うよ、この酒……誰か来たら言い訳できないな」

「そんときゃそいつにも注いでやるわい」

 士官以上の乗る客車には自分たちしか居ない。
 二等以下の客車には新兵や学徒動員の者たちで満員だったが、おそらくこちらに
は来ないだろう。
 来るとしたら車掌だが、海軍士官に注意するような車掌は居ない。

 酔いも回ってどんどん愉快になり、気が付けば水筒は空になり、二人はまるで旧
知のように打ち解ける。
 黙っていると鈴原が下手な歌をがなり立てるので、シンジは仕方なく喋ることに
した。互いにこれから赴く任地について知ってることや、今まで経験してきた戦闘
のこと。まだ生きている家族のこと。死んでしまった仲間や焼けてしまった家のこ
と。

 語り出せば、話題は尽きない。

「なあ、話は変わるけどな、お前、女知っとるか?」

「へ?」

「あ、商売女はだめやで。素人限定や」

「なんだよいきなり」

「なんだとはなんや、酒返せ!」

 思わずシンジは大笑いしてしまう。
 こんなに愉快な気分になったのは何ヶ月ぶりか分からない。

「はぁ……おかしいよ、お前。腹が痛いくなる」

「なぁ、いまさら隠し事はよくないでぇ。言っちまえ言っちまえ」

「だったらお前が先に話せよ」

 トウジは一瞬シンジを睨み付けたが、唾を飲み込むと観念したように喋り出す。

「実はな、南方から帰ってきて、一週間だけの休暇やったんや。久しぶりに実家に
 帰ったらなぁ、知らんうちに結納がすんどった」

「なんだよそれ」

「うん?……まあ、前から好いとった女やからな、文句言わんと祝言上げてきたん
 や」

「じゃあ新婚じゃないか、おめでとう!」

 シンジは自分の鞄を探る。たいした物は無かったが、任地への土産のつもりで大
阪で買った菓子折があった。

「これ、もうここで食べよう。このままじゃあ向こうに着くのがいつになるか分か
 らない」

「アホッ!つまみがあるならなんで先に出さんねん。やっぱり東京もんはけちやで
 あかん」

「聞かせてよ、お嫁さんのこと」

「アホッ!んなこと喋れるかっ」

 菓子折を巡る攻防の末、とうとう鈴原が折れた。

「近所に住んどった気のつよーい女でな、小学校まで一緒やったんや。俺は中学出
 てすぐ士官学校やったから、ずっと手紙でしか付き合いは無かったけどな……親
 が気ぃ効かしてくれたんやろな」

 似たような話をシンジはあちこちで聞いた気がする。

 もし本人にその気があっても、いつ未亡人になるかも知れない縁組みなど断るの
が女親の心情だ。
 鈴原の親がどんな苦労をしたが知らないが、息子が死ぬ前にせめて、という気が
あったに違いない。

「一緒にいられたのはどのくらい?」

「いろいろ準備に駆けずり回ってなぁ……親戚も集めなならんし、いろいろ届け出
 なならんもんがあったし……結局三日だけや」

「そうか……」

「ワイは絶対玉砕なんかせんで。もう一回帰る」

「そりゃそうだよ、新婚のお嫁さんが悲しむようなことはしちゃいけない」

「乗っとる船が沈んでも、泳いで帰って来ちゃるわい」

「帰ってきたら今度は知らないうちに子供が居たりしてな」

「アホッ!そんな簡単にいくかいっ!」

「分からないよ。だって砲科だろ?」

「あっはっはっは、百発百中ってか? おとなしそうな顔してえげつないこと言い
 よるなぁ」

 停滞したままの車内で、二人は馬鹿みたいに転げ回って笑った。

「はぁはぁ……あーおかしぃ……こんなに笑ったのは久しぶりだよ」

「なんや、いけ好かんやっちゃと思うとったが、案外ええヤツやのう。今度はお前
 が喋れや」

「ん? 別に、喋るようなこと無いよ」

「せんせっ、わしだけに喋らして卑怯や無いか」

「先生じゃないよ」

「んな事どうでもええねん。たっぷり聞かせてもらおやないか」

「だからなんにも無いってば」

「なんやと!本気のパチキかますぞ」

「まっちょっと待った、グーで殴るなグーでっ」

「痛い目にあいとう無かったら喋れや。不公平やで、ホンマ」

「分かったよ……似たようなもんでさ、休暇で家に帰ったら、親戚が来てた」

「いきなり祝言かいっ!」

「ちがうよ。学徒動員で、家のそばの工場に従姉妹が勤めに行ってたんだ。同い年
 だったし、僕が軍に入る前はよく一緒に遊んでた子で……」

「食っちまったのか?」

「そんな言い方するなよっ!」

「やっぱりお前えげつないわ」

「違うよ……違うんだ」

「なんや、急にしんみりして」

「家開けてたからさ……父さんも軍にいて、母さんはもう居ないから……勝手に使っ
 てもらってたって感じで。家にいる間はなんだか奥さんみたいにいろいろ世話し
 てくれて」

「……ほんで夜までってか?」

「違うってば、ちゃんと別の部屋で寝てたよ。けど、休暇が終わる日に……」

 シンジはその夜のことを、まるで昨日のことのように思い出すことが出来た。




 休暇の打ち上げに、無理をして豪華な夕食をしつらえてくれたレイの顔。
 何日分の配給切符と引き替えにしたか分からないが、滅多に食べられなくなって
いた肉や刺身が並んだ食卓の向こうで、いつになく食欲旺盛なシンジを見つめて嬉
しそうに微笑む顔が瞼に焼き付いている。

「もったいつけんなっ」

「うん……夜、寝ようとしてたら急に来て……」

 風呂上がりの濡れた髪のまま、シンジの部屋の襖を開けたレイ。
 その瞳は、決意でも情熱でもなく、ただ静かに深い悲しみを湛えていた。

「ふんふん」

「もう……会えない気がするからって」

 虫の知らせというのか、悲しい予感は当たる物だ。
 まして、シンジが明日も生きている保証はない。

 ……もう会うことは無いかもしれない。
 そう覚悟したレイの決意を翻すことは、誰にも出来なかっただろう。

 その時はシンジも、レイの予感が当たるとしたら自分が生きて帰らない時だ、と
感じていた。そして、昔からレイが口にした悪い予感がことごとく的中していた事
を思い出す。

 レイがそうしたように、シンジも覚悟を決めた。
“もし生きて帰ったら、その時は”と言いかけたシンジの口を、レイが塞いだ。

 従兄妹同士の結婚を禁じるきまり等無いが、歓迎されるわけでもない。
 ただシンジはその夜のレイを、忘れる事など出来ない。
 誰が反対しようと、かまうものかと思った。

「ふーん……そうか、そういう事もあるんやな。んで、その子は今、疎開先か?」

「違う……実家があったのは立川なんだ」

 立川と言えば、言わずと知れた軍需工場地域。
 主に中島飛行機の工場があった一帯で、B29による本土空襲の最初の標的になっ
た地域だ。

 東京がほとんど焼け野原になった今となってはもう関係のない話だが、その頃は
まだ疎開や防空訓練など、自分達の生活には関係ないと思っていた市民が大多数だっ
た。
 そして工場が夜間に空襲を受けたとき、24時間体制で動員されていた学生達の
多くが犠牲になった事は、おおやけにはされずとも誰でも知っている事だった。

「!…………すまん、悪いこと聞いた」

 鈴原はいきなりシンジに向かって、膝に額が着かんばかりに頭を下げた。

「このとおりやっ」

 その夜、シンジは当直ではなかったが、B29の編隊が立川を目指すと聞いて、
紫電改に飛び乗った。
 夜間迎撃の装備は乏しい。後から追って、B29を落とす事など出来ない。
 分かっていても、飛ばずには居られなかったのだ。

 だが目にしたのは、B29の編隊ではなく、すでに空襲を受けて燃え上がる、軍
需工場の変わり果てた姿だった。

「いいよ……久しぶりに楽しかったし……鈴原に聞いてもらって、少しほっとした」

「誰にも言うてへんかったのか?」

「言えるわけ無いじゃないか」

「そうか……そうやな」

 レイの素肌を知るのは、結局シンジ一人。
 そして、それを知っているのもやはり、シンジだけなのだ。
 人に喋るような、喋れるような事では無かったが、一人で抱え込むには大きすぎ
た。


 なんだか急に酔いが醒めたように、二人して静かになった。

 眺める瀬戸内の水面は何事もなく穏やかで、汽笛を一つ鳴らすと、ゆっくりと列
車が動き出す。

「アメさんも見逃してくれたようやな……」

 言わずとも父ゲンドウは察していただろう、と思う。
 だからこそ、迎撃に飛ぶことが出来ないテストパイロットとしての出向を命じた
のだ。

 だがシンジには密かに胸に秘めた思いがあった。

 アスカとの約束通り、死ぬ気は無い。
 が、死なずとも、確実にB29を落とすことの出来る戦闘機を完成させたい。
 とおの昔に戦局は決し、いまさら新型機が量産された所で大勢に何ら影響を与え
る事はないだろう。

 だが、まだレイの魂を弔っていない。

 そんな気持ちがシンジの心に、重くのしかかっていた。


第六話へ続く

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制作・著作 「よごれに」けんけんZ

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