シンジは小倉の駅で鈴原を見送った。
 博多から鹿児島線経由で鹿児島港へ向かうのだと言う。

「まだ先は長そうや」

 鈴原はぶつぶつ言いながら、ふてくされたように座席に足を投げ出して、デッキ
に向かうシンジに手を振った。
 シンジは鈴原に酒の礼を言い、落ち着いたら手紙でも書くと約束して列車を降り
る。
 その時デッキで私服警官らしき人物とすれ違い、武蔵の乗員だった生存者には監
視がつくという噂を思い出した。

 連合艦隊にとって武蔵と大和は特別な存在だった。
 その儀装や装備は当時最高のものばかりで、情報が漏れれば日本の技術水準がす
べて明らかになる。
 砲科の士官であれば、監視がつくのも無理はない。

 今の私服が特高だとしたら、先ほどのばか騒ぎは見逃してくれた事になるのか……。

「無駄な労力だな」

 とシンジは思った。
 生き残った大和も、瀬戸内を出ると言う鈴原の言葉が真実なら、沈むのは時間の
問題だ。

「しょせん負ける戦……今さら戦艦を新造できるわけでもないのに」

 そう呟いて、自分もこれから無駄な事をするためにここに来た事を思い出し、一
人苦笑する。

 悪足掻きに過ぎないが、それでも全国民に竹槍を配るようなやり方よりはましだ、
と自分を誤魔化して、いいかげんな地図を頼りに小倉の街を歩き始める。


  

Sky Lover

第六話

  


「戦技研より、碇シンジただいま着任しました」

 飛行場の格納庫が並ぶ区画と、九州飛行機の整備工場の間に、葛城大尉率いる
“18試局地戦闘機開発部隊”のために割り当てられた建物があった。

 大尉の部屋に案内され、シンジは緊張しながら着任の報告に上がった事を告げる。
 見れば、製図台の上一杯に図面が散らばった中にまるでうずまるようにして、大
尉自ら何やら図面を作成している。

「遅かったじゃないか、シンジ君。君の事は父上から良く聞かされている。ここで
 は堅苦しい事は抜きにしよう。くつろいでくれ」

 そう言われても応接用の椅子にもテーブルにも図面がいっぱいで、シンジは腰を
落ち着ける場所さえ確保できないありさまだった。

「とう……大佐は何と?」

「うん?……馬鹿息子を預けるのでよろしく頼む。それがご挨拶だったよ。俺の事
 は覚えてないかな?シンジ君」

 葛城大尉は初めて図面から顔を上げて、シンジと目を合わせた。

「加持さん?」

 伸び放題の髪を無造作に縛り、無精ひげが目立つその顔に、シンジは幼い頃の思
い出を見た。

「今は名字が変ってね。葛城だ、よろしく」

 製図板越しに握手を交わす。

「お久しぶりです」

 幼い頃、まだ日本がのどかだった頃、多摩川の河川敷で父が訓練用のグライダー
に乗せてくれた。
 戦闘機乗りの父は家族の誇りで、近所の少年達の憧れだった。

 父が休日を利用してグライダーを飛ばす時、必ず毎回参加していたうちの一人が、
加地リョウジだ。

「今じゃ見ての通りテストパイロットとして飛ぶ暇が無くてな。優秀なパイロット
 はすぐには見つからんし、こちらからお願いしようと思っていたところだ」

「技術部で活躍されてる事は聞いてました。名字が変った事まで知らなかったもの
 ですから」

「積もる話はまた夜にな。とりあえず、整備場に行って明日から飛ばす機体を見て
 来てくれ」

「もう試作機が出来ているんですか?」

「いや、モーターグライダーみたいなもんだ。今度の機体はちょっと特殊なんでな、
 操縦性を体で覚えてもらう。本物の試作機はようやく図面が八割と言ったところ
 さ」

 シンジは足元に落ちていたスケッチを拾う……そこには今まで見た事も無いよう
な形の飛行機が描かれている。

「……エンテ式……先尾翼の迎撃機ですか?」

「そうだ。極秘事項だから事前に伝える事は出来なかった。世界に誇れる飛行機を
 この手で完成させてみようとは思わないか?」

「もう仕様が煮詰まってるんですか?」

「ああ。排気タービン付きの誉に六翔のペラ。武装は機首に30mmを4門」

「……すごい」

 シンジは自分の血が沸くのを感じた。
 戦闘機乗りの……B29を落とそうとするもの全てが夢に見そうな機体だ。

「今から喜んでいたら疲れちまうぞ」

 言いながらも、葛城の目は笑っている。
 戦場に身を置かずとも、戦う事は出来る。

 シンジはようやく自分の居場所を見つける事が出来た気がした。




「相田と言います。ここでの機体整備の責任者なので以後よろしく」

「碇です。こちらこそよろしく、相田少尉」

 整備場には九州飛行機の技術者や整備士が多く、海軍の士官は彼一人だった。
 とりあえず明日から命を預ける整備班。
 シンジは相田と堅く握手を交わす。

「同じ階級だから官位は省略しちまおう、碇君。俺の事はケンスケでいいよ」

「じゃあ僕も、シンジでいいよ」

 広い格納庫の一角に、先尾翼の小型機があった。
 胴体は木製で、小さなエンジンがむき出しになっている。

「これが試作一号機ってわけ?」

「まあね。大尉のオモチャみたいなもんさ。名目上は空力特性を調べるための試験
 機って事にしてあるけど、見てのとおりただのグライダーだよ」

「ここでは普段なにを?」

「ここがそのまま先行試作機の工場になる。量産試作機からは、多分筑豊あたりの
 炭坑に組み立てラインを作るだろうって噂だけどね。とりあえず試作機用の治具
 を作るための機械が入ったところさ」

「完成はいつごろの予定?」

「早く本物を飛ばしたくてうずうずしてるって顔だな。そうだな……ちゃんと武装
 までして飛ばせるのは、早くて7月ぐらいじゃないかな」

「7月か……それまでもつかな?」

「ここが? それとも日本が?」

「どっちも」

「あんまり言わない方がいいぜ、そういう事」

「お互い様だね」

 どうやらこの相田と言う男は、シニカルな現実主義者のようだ。
 おそらく葛城が自ら集めたスタッフで固められているのだろう。シンジにとって
は居心地の良い空間だった。

「早速明日から飛んでもらうよ。大尉が図面に掛かりっきりになっちまってるから
 な」

「大急ぎで作らないと、間に合わないよ」

「何に?」

「一度は実戦で飛ばしたいからね」

「まあな……あんまり言うなよ、壁に耳有りだから」




 翌日から、シンジは先尾翼機の操縦特性を覚えるために、モーターグライダーを
飛ばす。
 無線もついてないような小型機なので、遠出はできない。
 が、今のところ空襲にあっていない小倉の町は、東京と違ってどことなくのどか
で、シンジは多摩川の河川敷上空から見た風景を思い出す。

 先行試作機の図面が出来上がり、操縦席周りのモックアップが作られ始めた頃、
シンジは沖縄に出撃した連合艦隊最後の艦隊作戦「菊水特攻作戦」が失敗に終わっ
たことを知る。

 あの、鈴原という男はどうなっただろうか……。
 大和さえも沈められ、菊水特攻作戦に出撃した艦船はほとんど全滅の憂き目にあっ
たと聞く。
 結局手紙を出すような暇はなくそれっきり音信不通となってしまったが、あの男
とその家族のことが気にかかる。

 だが、武蔵から生きて帰ってきた男だ。
 なんとなく、死んではいないような気がして、シンジはいつの日かもう一度会っ
てみたいと思った。

 その後、占領された沖縄からの航空攻撃が、日々激しさを増した。
 のどかだった小倉の街も、神経をすり減らす空襲警報の連続で、日夜を問わず市
内は緊張に包まれる。
 飛行場も時として機銃掃射を受け、試作機制作のための工場も、コンクリートの
掩体に守られた半地下の施設に移された。

 もはやモーターグライダーを飛ばす余裕もなくなり、シンジも見よう見まねで図
面工の見習いをさせられる。

 一応機体が組み上がっても、全国各地から届くはずの艤装が揃わない。
 特にひどいのが精密機械である計器類とエンジン周り。
 寸断された鉄道網のせいで発注部品の到着は遅れに遅れ、せっかく届いても不良
品だったり要求した仕様とは違うものだったりすることがざらだった。

 仕方なく、相田が整備中のほかの戦闘機から部品を調達して、現場あわせで計器
板が完成する。
 操縦席周りの最終的な仕様は、テストパイロットであるシンジが決定権を持つ。
 関東で開発が行われていれば、末端のテストパイロットの意見など聞く耳を持つ
ものはいないが、ここは大本営も航空幕僚たちからも目の届かない九州の地だ。
 開発主任の葛城は、大尉から少佐に昇進し、試作機の仕様に関しては全権を任さ
れることとなっていた。

 全国的に空襲の被害は日々増大し、軍需工場だけでなく、普通の生活必需品など
の工場も打撃を受け始め、ついには水田までもが焼夷弾攻撃の目標とされる。

 当然迎撃機を開発している現場には大本営から矢のような催促が来るが、来るの
は電文による進行状況の確認と威勢のいい精神論的号令ばかりで、必要な物資はい
よいよ手に入らない。

「まったく、電文打つ暇があったらプラグの1本でも送ってこいってんだ」

 危機的状況にも関わらず、葛城は決して部下に無理をさせなかった。
 無理をさせようにも資材がないということもあったが、18試局地戦闘機開発部
隊には、葛城を家長とする家族主義的なチームワークがあった。

 そして7月。
 遅れに遅れた18試仕様の「誉」エンジンが到着し、同時に試作機には「震電」
という形式名が与えられた。

 海軍航空隊の最後に切り札と呼ばれながら、先行試作機は一機が組み上がり、よ
うやく二機目が形になりつつあるという状況。
 専用エンジンも、正・副・予備の三機が与えられただけだった。

 しかもそのうちの一機は、試作中の排気タービン付き。

「まともに回るわけがないだろ。試作機なんだから、まずはちゃんと飛ぶことが第
 一だよ」

 と言って、排気タービンを見るなり相田はそのエンジンを組み上げもせず、備品
倉庫にしまい込んだ。

 地上でのエンジン試験は問題続出で、山のように不良プラグを捨て、特別ルート
で手に入れた“本物の”航空燃料が入ってようやく回る始末。
 専用の六翔プロペラのための可変ピッチ装置や、クランクのビッグエンドベアリ
ングに問題が出やすい。

 理由は単に、プル式(牽引式)エンジンである「誉」を、プッシュ式(推進式)
に変更した事に伴うもので、こればかりは専用部品を待たなければ治しようが無い。
 燃料ポンプや潤滑系統にも問題が出て、工作精度の低下はもはや現場の職人芸で
もカバーしきれなかった。

 相田は整備に入った他の機体から、問題なく動いている部品をかき集めて、よう
やく艤装を完成させる。
 燃料ポンプや潤滑油ポンプは、陸軍の疾風から半ば強奪して取り付けられた。




 そして、何とか先行試作初号機がその姿を公にしたのが、7月も終わりのことだっ
た。

「格好だけだよ。機首の30mm機関砲はダミーだからな」

 先行試作機が組み上がったと聞くなり、評価飛行もしていないのに生産準備の号
令がかかる。
 当然、試作機を飛ばしながら量産に入り、改良点はライン上で修正すると言うこ
とだ。

 零戦の時代から実用化されていた20mm機関砲ではなく、スケールアップした
30mm機関砲を搭載する計画は、ほぼ頓挫していた。
 一撃離脱でB29を撃墜するためには30mm砲は魅力的だが、高機動時のGの
もとではまともに作動しない。

 改良されることを期待して仕様は変更せず、とりあえず機首にはダミーのバラス
トを積んで、ようやく飛行試験にこぎ着けたのは、奇しくも日本の敗戦がほぼ決定
した8月6日。広島への原爆投下当日の事だった。

 まずはランディングギアを下ろしたまま、葛城少佐の手で飛行場上空を15分ほ
どの初飛行。
 操縦安定性、視界、艤装、離着陸すべてに問題なしとされ、テストパイロットの
シンジの手で、二回目の飛行試験。

 今度はランディングギアを上げ、エンジンの加減速と、機体の上昇性能。
 問題がなければ最高速度の測定や上昇能力の測定まで一度に済ませるはずだった。
 が、燃料系のトラブルが出てエンジン不調。
 飛行場の上空を一周しただけで降りる羽目になる。

 トラブルの出たエンジンは、相田の必死の整備で完調になるが、今度は空襲警報
であえなく飛行試験は中止。その日はそのまま2度と飛ぶことがなかった。




 そしてその夜、とりあえず試作機完成を祝おうとしていた所に、大本営から試作
弐号機は排気タービン付き「誉」エンジンにて試験せよとの指示が届く。

 ただせさえ回らないエンジンに手を焼いているのに、まともに回らないタービン
まで付けて飛ばせる筈が無い。
 だが、指示は指示である。
 塗装も終わっていない先行試作弐号機に、エンジンを取り付けるための作業が急
遽行われることとなる。
 相田は組上がっていなかったエンジンを仕上げ、機体には20mm機関砲が取り
付けられた。

 開発部隊全員が弐号機の組立にかかりきりとなり、初号機の二度目の評価試験が
行われたのは、8月12日。
 その間、長崎にも原爆が投下され、次は小倉だという噂が流れる。
 また、満州では関東軍がソ連軍の奇襲攻撃を受けて壊滅。
 誰の目にも日本の敗戦は明らかだった。

 それでも試作機を飛ばすのは、軍人としてではなく、航空関係者としての意地で
しかない。
 開発部隊は、誰もが自分たちが作り上げたこの機体の優秀性を信じて疑わない。

 今飛ばなければ、二度と飛べないかもしれない。

 弐号機の組立と排気タービン付きエンジンの整備の合間を縫って、シンジは飛行
試験に飛び立つ。

 上昇性能=高度8500mまで5分。
 最高速度=高度5000mで対気速度・毎時690キロメートル。

 巡航で2時間という短い飛行時間のため、その性能の全貌は明らかにはならなかっ
たが、とりあえず出たこの記録でも、当時の日本が持つどの戦闘機よりも優秀だっ
た(レシプロエンジン機に限る)。

 そして、排気タービン付きの弐号機がようやく完成した8月15日。


 日本はポツダム宣言を受け入れて、無条件降伏する。




「……ようやく終わった、と言うべきか」

 居室に士官を集めて玉音放送を聞いた後の、葛城の第一声である。
 シンジにとっては、早く終わってほしかったのに、まだ終わってしまった事が信
じられない、何とも中途半端な感じだった。

 降伏したと言っても、なにも変わってはいない。
 整備員や九州飛行機の社員たちは整備場に集まっているし、空は快晴で雲一つな
く穏やかだった。

 早朝まで弐号機の最終点検を皆の目に、真夏の太陽が眩しい。
 滑走路には陽炎が揺らめき、空襲警報が鳴らない今日はどこかのどかな感じさえ
する。

「もう一度だけ、飛ばせて下さい」

 まだ終わっていない。シンジにとっては。

「もう、何をしても意味がなくなっちまったんだよ」

「関係ありません。ただ、飛びたいんです」

「気持ちは分かるよ、シンジ君。ここに来てからろくに飛べなかったからな……
 けど、もう終わりにしよう」

「日本は敗戦国です。連合軍が占領しに来たら、何もできなくなります。今しかな
 いんですよ」

「分かる。けどな、もう飛ぶな」

 大本営からの最後の電文は「試作機及び図面をすべて破棄せよ」というものだっ
た。

「解体して埋めるんですか? 燃やしてしまうんですか? そんなことして今更何
 になるんです。見せてやればいいじゃないですか、アメリカに。日本だってこれ
 だけのモノを作ったって、見せてやれば」

「ああ、破棄する気はないよ……俺達の仕事はこれだけしか残ってないからな。あ
 の機体だけが、俺達もここで戦争してた証だ」

「破棄しないなら、もう一度だけ飛ばせて下さい」

「きりがない。試験飛行しても、もう改良はできないんだ。諦めてくれ、シンジ君」

「…………」

「まずは物資の確保だ。配給体制が崩れて、物不足は今より深刻になる。ここも狙
 われるかもしれん。アルミや鉄は手にはいらんからな。食料も、燃料も、自力で
 確保しなけりゃならんくなるぞ」

 葛城は軍の施設だから回されていた物資が途絶えた後の、生活必需品の確保を既
に心配していた。
 各家庭から金属はすべて徴用され、燃料に関してはガソリンどころか灯油すら手
に入らない。
 未曾有の大混乱が訪れる予感があった。

 軍の権威が失墜した今、貴重品であるそれらを大量に保有するこのような施設は、
格好の略奪の標的になりかねない。
 市民感情を逆なでするように、いまさら間に合わなかった試作機を飛ばしたとこ
ろで、良い事など何一つ無いのである。

「軍は、解体されるでしょうか」

 思いつめたようなシンジの眼差し。

「ああ、遅かれ早かれ占領体制に組み込まれて、組織としては解体されてしまうだ
 ろうな」

「だったら、僕を止める権限は誰にもありません。僕は、一人のパイロットとして、
 あの機体を飛ばしたいんです」

「今はまだ、ここの責任者は俺だ」

 葛城が、珍しく声を荒げて一喝する。

「飛びたいから飛ぶんです。許可は要りません」

 言うが早いか、シンジは整備場に向かって走る。
 隣りで聞いてた相田が一緒に走った。

「やる気か? シンジ!」

「手伝って」

「あったりまえだろ。燃料は入ってる。バッテリーも今朝充電したところだ」

「他に必要なものは?」

「パイロットだけだ。俺はエンジンをかける。お前は準備してこい」

「わかった」

 シンジはテストパイロットの為にしつらえられたロッカールームで、飛行服を身
に付ける。
 誰かが止めに来るかと心配していたが、誰一人邪魔しに来ない。

 ハンガーでエンジンが回る音が聞こえる。
 外に出て暖気するのだろう、その音がわずかに遠くなる。

 シンジが飛行服を整え、酸素ボンベとマスクを手に滑走路に駆け出した時、相田
は既に弐号機を誘導路に入れてタキシングさせていた。
 芝生の上を走って滑走路にたどり着く。

 振り返ると、居室の窓に葛城の顔が見えた。
 その顔が苦笑しているように見えたのは気のせいか。

 整備場の扉の前に、九州飛行機の社員達が並んで帽子を振っている。

 シンジはゆっくりと動いている弐号機の、塗装されていないジュラルミンむき出
しの主翼に駆け上がった。

「調子は?」

「完調だ、ばっちりだよ」

 エンジン音に負けないように、二人で怒鳴り合う。
 座席をシンジに譲り、反対側の主翼の上に立ったまま相田が説明を始める。

「初号機からの変更点を確認しとくぞ。この計器が過給圧計だ。赤いところに飛び
 込まないように、その手前の黄色いトコロで最大過給だ。操縦棹の前の引き金で
 機首の20mm砲が撃てる。無線機はここの管制塔にだけ通じるように周波数が合
 わせてあるけど、誰も応答しないだろ。対気速度計は誤差があるかもしれんから、
 これを使え」

 相田はストップウォッチをシンジに手渡す。
 酸素ボンベを固定し、飛行帽をかぶる間も、弐号機はゆっくりと滑走路に向かっ
て動く。

 エンジン音を聞きつけたのだろう、憲兵隊の車が滑走路の向こう側に姿をあらわ
す。滑走路上でセンターラインに前輪をあわせ、弐号機は離陸体勢に入る。

「スロットルはゆっくり動かせ。排気タービンの回転が追いつかないで息つきする。
 戻す時もゆっくりだ」

 言いながら、相田はスロットルを押し込む。
 徐々にエンジンの回転が高まる。

「あの車が邪魔だ、どうする?」

 前方、滑走路の端で憲兵の車が止まる。

「こうしてやれ!」

 相田はいきなり操縦棹を握った。
 機首の20mm砲が火を吹く。
 射軸調整用に曳光弾ばかり装填された20mm砲は、憲兵隊の車の上を超えて飛ん
でいくが、蜘蛛の子を散らすように憲兵達が逃げ惑う姿が見えた。

「よし、邪魔はなくなった。行ってこい」

 エンジン音が一層高まり、相田の声はほとんどシンジに届かない。
 キャノピーを外から閉めた時には、ブレーキがかかっているのにもかかわらず、
弐号機の機体はゆっくりと動き出していた。

 相田は主翼の上を走って、プロペラに巻き込まれないように飛び降りる。
 同時にシンジはスロットルが全開になっている事を確認してブレーキをリリース。
 滑走路上に憲兵隊の車が止まったままだが、多分もっと手前で離陸できるはずだ。

 シンジに迷いはなかった。

 対気速度計が離陸速度に向かってぐんぐん伸びる。
 初号機を飛ばした時よりも、ずっと速度の乗りが良い。
 瞬く間に離陸速度を超えた機体は、滑走路の端に止まったままの車に向かって走
る。

 シンジは「いける」と手応えを感じて操縦棹を引く。
 車の上をかすめるようにして離陸に成功。

 十分高度をとってからランディングギアを上げる。
 更に速度が伸びる。

 シンジはスロットルを僅かに戻し、大きく旋回して滑走路の上空に戻る。
 相田が憲兵に囲まれて、両手を頭の後ろに組まされているのが見えた。

 機体はそのすぐ上を、翼を左右に振りながら通過した。
 相田が親指を上げるのが見えた。
 シンジも手を振ってそれに答えた。

 シンジは酸素マスクを付けるとスロットルをゆっくり全開にし、操縦棹を引く。
 相田の視界から機体の姿が消えた時、エンジン音は快調そのものだった。




 高度9500mまで5分
 高度7000mで対気速度、毎時730km

 その日、シンジが記録した震電の非公式記録。
 それは、全ての項目で国産レシプロ機の限界性能を極めていた。




第七話へ続く

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制作・著作 「よごれに」けんけんZ

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